「アブラハムは『神の友』と称された。」(イザ四一、八、ヤコ二・二三)
アブラハムは「すべての信者の父」(ロマ四・一)である。そのような者として彼はすべての信仰経験の初めであるだけでなく、原型でもある。とりわけ四つの主要な原則があり、それらが彼との関連で、初めて救済史の中に明確に導入されている。
一.救いは無代価であるという特徴――義認及び栄化において。 二.救いの中心的基礎――神の復活の力。 三.救いの仲保者――来たるべき裔。 四.救いの目標――天の都。
一.救いは無代価であるという特徴
カルデヤのウルからの移住(創一二章)は実際のところアブラハムの人生で最も意義深い出来事ではなかった。むしろ、その約十年後の、星空の下での啓示が彼の人生で最も意義深い出来事だった。その時、神はこの族長と信仰の契約を結ばれたのだった(創一五・五、一八)。その時、アブラハムは神から義であるとの宣告を受けたのであり、そこで救済史の中で罪人を「義とすること」が初めて明確に表明されたのである(創一五・六、ロマ四・二〜四)。
1.義認。しかしここで、それが起きたのはいつか、ということが明らかに主要な決定的問題である。なぜなら、「信仰がアブラハムに対して義と認められたのはいつだったのか。割礼の前か、それとも後か?」(ロマ四・一〇)。その答は、彼が割礼を受けるより少なくとも十三年前である、というものである。なぜなら、割礼の契約が最初に導入されたのはアブラハムがすでに九十九歳の時だったが(創一七・一〜一四)、信仰の契約と義認がなされたのはまだイシマエルが生まれる前であり、したがって八十六歳以前のことだったからである(創一六章、特に一六節。一七・一参照)。したがって、アブラハムは割礼を受ける十三年前にはすでに義とされていたのである。
この順序に基づいて、パウロはローマ四章で、義認はただ信仰のみによることの有名な完全証明を行っている。アブラハム当人にとっては、人間的に言えば、義認が割礼の前でも後でもどうでもよかったかもしれない。しかし神にとっては、まさにこの順番には預言的目的があったのである。なぜならそれにより、アブラハムは「割礼を受けずにただ信仰のみによって義とされる者たちの父」となるべきだったからである。しかしこれが可能になる唯一の道は、彼自身無割礼の者として義とされることだった。したがって、彼の人生におけるこの二つの契約の順番はどうでもいい問題ではなく、救いの進展に関する預言的意味があったのである。他ならぬこの事実により、割礼は信仰による義認に先行する条件ではなくその「証印」にすぎないことが明らかになった(ロマ四・一一)。しかし、人が証印を押すのは完成された文書に対してである。したがって、アブラハムの義認は予め完成・完結していたにちがいない。
さて、これから次のことが導かれる。すなわち、それ以降の時代、無割礼の異邦人は義とされるために、まず割礼を受ける必要はなく、むしろ、割礼者はまだ割礼を受けていなかった頃のアブラハムの信仰を持たなければならないのである。救いという宮に達するために、異邦人はまずユダヤ人の控の間――すなわち律法――を通る必要はない。むしろ、アブラハムが言わばまだ「異教徒」だった頃にすでに持っていたあの信仰という控の間を、ユダヤ人はまず通らなければならない。
こうして、救いは人の功績によらないこと、そして、贖いは恵みから出ており、ただ信仰に対してのみ与えられる無代値の賜物であることが明らかに示されている。教会時代の福音がアブラハムとの契約の中に予表されていたことがその証拠である。こういうわけで「新契約」はアブラハムとの契約の続きであり、輝かしい完成である(ガラ三・九、一四、ロマ四章)。したがって、その性質上、モーセと共に始まったあの「旧」契約よりも古い(ヘブ八・八、九)。「族長時代は律法よりも福音的である。律法前のこの時代は律法後の時代の原型だからである」。
2.栄化。しかし同時に、義認と共に、嗣業の保証が加わった。「私はあなたをカルデヤのウルから移住させた主である。それはあなたにこの土地を嗣業として与えるためである」(創一五・七)。義の宣言――この新しい命の始まり――と共に、この族長はこうして同時に、この新しい命の嗣業、その目標を受けた――これは同じく神の無代価の恵みの賜物でもあった(ヘブ一一・八〜一〇)。
この事実にパウロは、ローマ四・一三〜一七で、第一のものとまさに同じ価値を置いている。なぜならこの事実は、歴史的・預言的救いに関して、次のことを意味したからである。すなわち、義認がいかなる種類の律法とも無関係だったように(信仰の律法は除く、ロマ三・二七)、この嗣業、その完成と栄化についても同じなのである。したがって律法は義認の手段ではないし(ローマ書を見よ)、聖化の手段でもなく(ガラテヤ書を見よ)、何ものも贖われた者がこの輝かしい嗣業に対して持つ権利に疑義を差し挟むことはできない。この新しい命の始まりと共に、完成へと至る権利が保証されているのである。なぜなら、すべては神の恵みの無代価の賜物だからである(ヨハ一〇・二八、二九、一ペテ一・四、五、ロマ八・三〇)。
3.契約のしるし。こういうわけでアブラハムの生涯における二つの契約の結論を区別することが、救済史を理解する上で最高に重要である。この二つの契約とは、創世記一五章の信仰の基本契約と、創世記一七章の割礼の追加契約である。両方とも「契約」(創一五・一八、一七・九〜一一)として述べられており、この二つは少なくとも十三年隔たっている。第一の契約は永遠に有効な恵みの契約であり、「異教徒」のアブラムに与えられた。他方は確認の契約であり(創一七・七)、すでに「義とされていた」アブラハムに対する「印」として定められ、永遠に存続するものではなく、予備的なものであって、ただキリストが来られるまでのあいだ存続するにすぎなかった(ガラ四・二)。第一の契約が決定的契約であり、恵みが最初である。そして創世記一五章はこういうわけで旧約聖書の中で最も基本的な章なのである。
この約束の契約には二つの約束が含まれていた。どちらにも二重の目的があり、各々契約のしるしを伴っている。一方は子孫の約束であり、発展して義認へと至る。その契約のしるしは星空である(創一五・一〜六)。他方は土地の保証であり、栄化に目を向ける。そのしるしは契約のいけにえである(七〜二一節)。一方は壮大で崇高であり、他方は神秘的で隠されている。
供え物は裂かれた。太陽は沈み、深い眠りがアブラムに臨んだ。恐怖、濃い暗闇、不安が彼の魂を満たす。猛禽類がその供え物の上に舞い降りる。しかし、アブラムはそれらを追い払う。遂に主が、煙るかまどと燃えるたいまつに扮して、その供え物の断片の間を通られる。そして、契約が結ばれる。救済史の観点から見ると、これは旧約聖書で最も意義深い契約締結である(創一五・九〜一八)。
しかしどうして恵みの契約にこれほどの暗さが伴い、光の約束にこのような暗闇と恐怖が伴うのか?猛禽類、煙るかまど、燃えるたいまつはなぜか?
このいけにえはイスラエルだった。このいけにえに起きたことは、この民の国家的運命の型だった。そしてこれは暗く、恐怖と暗闇に満ちている(申二八・一五〜六八)。それゆえ契約は煙るかまどと燃えるたいまつを通して結ばれるのである。猛禽類は諸国民であり、特にエジプト人である(創一五・一三〜一六)。しかし、アブラムはそれらを追い払う。というのは「聖なる根」のゆえにイスラエルは保たれ維持されるからである(ロマ一一・一六、二四)。「あなたは私たちを祝福することができない――呪いが私たちの上にあるからである。あなたは私たちを呪うことはできない。祝福が私たちの上にあるからである」。
互いに向き合っている二列の供え物の断片の間を通ることは、契約の双方の当事者の間の「隔たり」を埋めること、二者を溶融・鍛造して一つにし、こうしてこの契約を完成させることを意味した。しかし主だけがその間を通られたこと(創一五・一七、一八)、そしてアブラムは主の後に続かなかったことは、この契約は全く神の賜物であること、人はこれについて全く働くことも協力することもしないこと、神だけが全てを行うこと、人は受け手にすぎないことを意味する(ロマ三・二四、ピリ二・一三)。
二.救いの中心的基礎
いけにえだけでなく、いけにえの勝利もまた、贖いの成就に必要である。「もしキリストがよみがえらされていなければ、あなたたちの信仰は空しい」(一コリ一五・一七)。したがって、神の復活の力は救いの決定的基盤の一部である。
特にこの点に、今の時代とアブラハム契約との間の霊的関係が再び啓示されている。なぜなら両者とも究極的には、神は死の中から命を創造することができるという信仰に達するからである。確かに両者の間には一つの本質的違いが存在する。アブラハムの信仰はこれから成就されることを仰ぎ見たが、他方、われわれの信仰はすでに成就されていることを振り返る。また、アブラハムの信仰は、被造物の領域の中で、普通の死すべき人間に関して神の奇跡を期待したが、他方、われわれの信仰は、そのようなことはすでに贖いの領域の中で、われわれの復活した救い主であり主である神御自身の御子に関してすでに生起したことを告白する。
イサクの誕生の時と、イサクを献げた時の二回、これがアブラハムの生涯で特に前面に出ている。その際、二番目の事例は一番目の事例の強化・栄化となっている。
1.イサクの誕生。アブラハムの信仰はこの頂点に向かって絶えず訓練されて行った。これが彼がこれほど長く――百歳になるまで――跡継ぎを待たなければならなかった真の理由である(創一七・一七)。新しい命が誕生可能になる前に、「死」(ロマ四・一九)と「消滅」(ヘブ一一・一二)がまず入り込んでいなければならない。ただこの基礎の上でのみ、アブラハムの信仰は「復活」の信仰となりえたのである。ただそうすることによってのみ、「死者を生かし、存在しないものをそれがあたかもすでに存在しているかのように呼び出す」(ロマ四・一七)御方を信じることを、彼は学びえたのである。ここに彼は達しなければならなかった。なぜなら彼は「全ての信者の父」として、全ての信者の原型ともならなければならなかったからである。また、あらゆる時代にわたって、救いの信仰はイエス・キリストの復活と共に立ちもすれば倒れもするからである(一コリ一五・一七〜一九)。
このようにこの族長の生涯の物語には、聖書がわれわれに告げているように、預言的たらざるをえない何かが常にある――裔なる御方を待ち望むことが彼の生涯の最重要問題だったのである。これは「私たちのために」そうでなければならなかった。「死者の中から復活したわれらの主であるイエスを信じる」(ロマ四・一七〜二五、特に二四節)われわれのためにそうでなければならなかったのである。
この信仰は彼の息子を献げた出来事にさらにはっきりと表れている(創二二章)。
2.イサクの奉献。信仰は成長して神へと至るものである。したがって、それには漸進的教育が必要である。ますますそれは地のものから解かれて、天のものに結ばれなければならない。この意味においてアブラハムの生涯には四つの進級試験がある。その最高峰はモリヤ山上でのものだった。
第一は、父の家と親族から分かれてウルを発つことだった。しかし、アブラハムの家は偶像崇拝者だったので(ヨシ二四・二)、これは世からの分離を意味した(創一二章)。
次に臨んだのはロト――ロトは確かに「義しい」者だったが(二ペテ二・七、八)しかし世的な心の持ち主だった(創一三・一〇〜一三、一九・一以降)――との別れだった。これは二心となまぬるさからの解放を意味し、したがってこの世に倣うことからの完全な訣別を意味した(創一三章)。
三番目の段階は、自分自身の人間的力から出た息子であるイシマエルを追放することだった。こうして魂と霊は分離され(ヘブ四・一二)、敬虔な自助努力によるあらゆる考えや計画と手を切ったのである(創二一章)。
最後はイサクのいけにえだった。イサクは約束された裔として彼に与えられた神ご自身の賜物だった。いと高き方が彼に与えた諸々の祝福ですら、信仰は与え主に返す。こうして神聖な諸々の賜物からさえも分離される(創二一章)。この礼拝者は王から受けた冠を取って、それを彼に明け渡し、その王座の前に置く(黙四・一〇、一一)。そして、「小羊に祝福がありますように」(黙七・一二参照)と言うのである。
これから次のことが明らかになる。イサクのいけにえの物語は大いに非難されているが、ある人が考えているように、場合によっては削除しても構わない旧約聖書中のただの章ではおそらくなくて、この族長自身の生涯の最高峰なのである。そして彼は贖いの啓示の「根幹」であるがゆえに、イサクのいけにえは預言的象徴と見なす必要があるだけでなく、福音全般の基盤であるその約束の頂点とも見なすべきなのである。
事実、この箇所が教えるいけにえの観念は独特である。それは決してカナンのフェニキア人、セム人、インド人、アステカ人、人間の他のいかなるいけにえとも同列に置くことはできない。モリヤのこのいけにえはこれらすべてのものと異なっている。それは少なくとも三つの対照的点によってである。
(a)第一にいけにえの魂によって。形式ではなく心が重要な問題である。アブラハムはイサクを神に「いけにえとして献げた」(ヘブ一一・一七)が、しかし彼を殺さなかった。その行為の外面的遂行は神ご自身によって突如阻止された(創二二・一二、一三)。こうして次の原則が宣言された。いけにえをいけにえたらしめるのは外面的行為ではなく心の意図なのである。供え物を献げることではなく、魂の信仰心なのである。これは全く内面的で霊的ないけにえの観念であり、ここで初めて救いの記録の中で前面に現れる。いけにえのこの霊的観念のために、後の旧約聖書の預言者たちは、ユダヤ人の形式主義との戦いの中で、絶えず霊的力をもって奮闘した(イザ一・一〇〜一五、六六・三、エレ六・二〇、ホセ六・六、アモ五・二一、二二、ミカ六・六〜八、詩四〇・六〜八)。
(b)第二にいけにえの勝利によって。死ではなく命が真のいけにえの最終目標である。確かに、その人を通して約束が成就されるべき一人子をいけにえにせよというこの命令は、最初この族長にとって、矛盾に満ちているように思われたに違いない。というのは、神のもろもろの約束はこの同じ他ならぬイサクにかかっていたのであり、しかもこのいけにえの時点でイサクには子孫がいなかったのであるから(創一七・二一、二一・一二)、神の約束はいったいどうやって成就されうるというのか?ここには神の命令と神の信実さとの間に、許容できない葛藤があるように思われる。それにもかかわらず、神は決して嘘をつくことができないのであるから、省察的信仰には一つの解決しか残っていなかった――神はイサクの代わりに御自身で一匹のいけにえの動物を備えてくださるという解決か(創二二・七、八)、あるいは、この長子が本当に死に渡されたとしても、神は彼を約束の保持者として生き返らせて下さるという解決である(ヘブ一一・一九)。神は燔祭を要求された(創二二・二、三、六〜八)。アブラハムの場合に神が要求されたのは、イサクをナイフで屠り(一〇節)、燃やして灰にすることだった。しかし、神の信実さと約束のゆえに、焼かれて灰になってしまったイサクを神は死から命に生き返らせて下さるに違いない!そしてこの最終的最高峰に、モリヤ山では実際に達したように思われる(創二二・九〜一〇)。
これがアブラハムの信仰の大胆さである。それゆえ聖書は証しする。自分の息子を献げるというこの行為において、神は「死者の中から彼をよみがえらせることができる」(ヘブ一一・一九)と彼は見なしたのである。それゆえ彼は自分の僕たちと別れた時、「礼拝を終えたら、私たちは(「私は」ではない)あなたたちのところに戻ってきます」と言ったのである。
「信仰は諸々の矛盾を解消する」1。そしてこの試練により、アブラハムの信仰は高められて、復活を信じる新約の信仰の型となった。イサク誕生の時、それはまず、不能で「死んでいる」天然の力を新たに生き返らせるという意味の「復活を信じる信仰」だった(ロマ四・一七〜二〇)。しかし、イサクをいけにえとして捧げた時、それはその状況により、文字通り死んでいる体が文字通り復活するという意味の復活信仰となった。こうしてこの族長は「その信仰の漸進的活動を通して復活の観念を獲得したのであり、また、このいけにえの物語の実際的結末――イサクの身代わりの雄羊のいけにえ――により、真のいけにえ、すなわち身代わりの観念を得たのである」(J.P.ランゲ)。この点において彼はわれわれの信仰の一つの新しい型である。なぜなら主の犠牲の場合、復活は十字架と不可分に結びついており、命は死に勝利するからである(ロマ八・三四、五・一〇、一コリ一五・一七〜一九)。
1 "Fides conciliat contraria"(ルターは創世記二二章を前述のように説明している)。
(c)第三。しかしモリヤの目標はゴルゴタである。現在ではなく未来が、このいけにえに最高の価値を与えた。それゆえ、これは他ならぬモリヤで行われたのである。そこは「神が見える」(創二二・一四)山であり、後に宮が立った所であり(二歴三・一)、全焼の供え物の祭壇の上にキリストを指し示す全てのいけにえがもたらされた所であり、ゴルゴタでキリストが死なれた時、聖所と至聖所の間の幕が裂けた所である(マコ一五・三八)。これによりイサクはキリストの型となり、アブラハムは父なる神の型となった。そして、旧約聖書全体の中で最も決定的で根本的な契約のこの最高峰は、神の全ての遺言と契約の中心であるゴルゴタの十字架に関する一つの象徴的預言となった。
こういうわけでこのモリヤのいけにえは、いけにえに関する聖書的観念について、三つの偉大な救いの真理を告げる。
(1)いけにえの霊的性質。 (2)ささげられたいけにえの復活。 (3)キリストによるこのいけにえの個人的成就。
そしてこの最後の点が、これらすべての点の中で最も偉大なものである。
三.救いの仲保者
1.アブラハムとキリスト。一七五年というアブラハムの長い生涯について(創二五・七)われわれはごく僅かしか知らない。ほとんどすべてが来るべき裔についてである。しかし、これこそ最高に価値があるものなのである。アブラハム以前にも、来るべき贖い主についての知らせは確かにあった。蛇を砕く者(創三・一五)、安息をもたらす者(創五・二九)、セムの神であるエホバ(創九・二六)についての知らせはあった。しかしこれらはみな不明瞭な形で臨み、しかも極めて稀だった――聖書の年代史によると、約二十五世紀に及ぶ歴史の中でたったこの三回のみである!
しかし今、アブラハムと共に、この「裔」を待望することが全てに優る主要な考えとなった(ガラ三・一六)。そして初めて、これが聖なる歴史の中であらゆる出来事の前面に立った。この「裔」がこの族長の生涯の中心だったため、聖書に記録されている彼の歴史は彼自身のことを滅多に扱わず、もっぱら、ほとんどすべての章で、約束された世継ぎに対する彼の待望を扱っている。これは次の事例を考えてみさえすれば分かる。例えば、裔に関する最初の約束(一五章)、契約の締結(一五章)、偽物の裔であるイシマエルの誕生(一六章)、割礼の契約と九九歳のこの人に対する約束(一七章)、三人の人の訪問(一八章)、イシマエル追放(二一章)、イサクのいけにえ(二二章)、息子のためにイサクを嫁に迎えること(二四章)である。
このようにこの族長の生涯の目標は自分自身にはなく、来るべき救いの仲保者にあった。アブラハムはキリストのために存在するのである。
キリストは彼以前に生きておられた(ヨハ八・五八)。 キリストは彼の内に生きておられた(一ペテ一・一一、創二〇・七参照)。 キリストは彼の後にも生きておられ、その活動を彼は仰ぎ見た(ヨハ八・五六)。
こういうわけで、メシヤの日を見ることが彼の生涯の頂点だった。旧約聖書のどこにもアブラハムが「喜んだ」とは書かれていないが、新約聖書で主イエスはそれについて述べておられる。族長のこの大歓声の根拠は何だったのか?主は言われる、「あなたたちの父であるアブラハムは、私の日を見ようとして喜んでいた。そしてそれを見て喜んだのである」(ヨハ八・五六)。このように来るべき贖い主を見ることによって、アブラハムの信仰は高められて歓喜に至った。そして、同様の喜びがアブラハムのすべての真の子らにも与えられるのである(一ペテ一・八)。
しかしアブラハム自身にとって、贖い主には様々な意味があった。
彼の存在の源(ヨハ八・五八) 彼の人生の目的(ガラ三・一六) 彼の諸々の努力の隠れた目的(創一五・三) 彼の奉仕の力(一ペテ一・一一、創二〇・七参照) 彼の祝福の経路(ガラ三・一四) 彼の望みの目標(ヨハ八・五六) 彼の喜びの対象(ヨハ八・五六)
2.「主の御使い」。アブラハムとの契約の霊的意義はまた、なぜまさにこの時(創一六・七)、贖いの歴史において初めて、「主の御使い」が前面に現れるのかの理由である。教父たちがすでに認めていたように、1これは神御自身の御子、御言葉(ヨハ一・一、黙一九・一三、箴八・二二、二三)、後にキリストとして現れた御方に他ならない(ヨハ一・一四)。
1 後代の学者たちの中では、カルバン、ヘングステンベルク、カイル、エブラール、ランゲ、シュティアーがいる。
それゆえ、この御方は御自身のことをはっきりと「神」(出三・二。六を参照)と称しておられ、聖書史家たちもそう呼んでいる(創一・二二、一一、一参照、出三・二、四・七参照。士一三・二二、一五参照)。
それゆえ、神の諸々の特徴がこの御方に帰されている(士一三・一八、イザ九・六参照。ヨハ一二・四一、イザ六・一〜四参照)。そしてまた神の諸々の行いもこの御方に帰されている(創一六・一〇、一八・一〇、一三節と一四節参照。四八・一五、一六。出二三・二〇、二一、一四・一九、一三・二一参照。士二・一、一歴一〇・四)。
それゆえまた神の栄誉もまたこの御方に与えられており(創一六・一三、七参照。士六・二二〜二四)、それをこの御方も受け入れている(ヨシ五・一四、それとは反対の黙一九・一〇、二二・八、九を参照)。
そしてこの「主の御使い」がアブラハムに現れる前にまずハガルに現れたのは(創一六・七)、後に復活した御方がまず御自身を現わされたのがマグダラのマリヤであって、御自分の母や弟子のヨハネではなかったのと同じ原理に基づく(ヨハ二〇・一〜一八、マコ一六・九)。彼はまず最も苦しんで落胆している者に御自身を現わされるからである。彼は貧しい者の救い主である(マタ五・三、一一・五)。
しかし族長時代のまさにこの時、彼が初めてこの名の下で、またこの顕現の形体で現れたのは次の事実に基づく。すなわち、この族長時代は救いの啓示のまさに基礎であり、この時代に彼御自身の受肉をいっそう確実に準備することが実際上始まった、という事実である。
それゆえ、まさにここで、この受肉の真の目標である神の御子御自身が初めて現れて、それと同時に御自身が神と一つであること、そしてまたある意味において神とは異なることを示されることほど、時宜に適うことはない。「裔」の父に(ガラ三・一六)「裔」御自身が「使者」1、「主の御使い」として現れ(創二二・一一、一五)、そして今から後、旧約聖書全体を通じて、御子のこのベールで隠された自己啓示が有機的に明らかにされて行く。「主の御使い」から(創一六・七)、「御前の御使い」へと至り(イザ六三・九、出三三・一四、二三・二〇、二一)、さらに進んで「契約の使者」に至って(マラ三・一)、遂には突然その宮に臨むエホバ御自身にまで至るのである(マラ三・一)。
1 新約聖書においてもキリストはわれわれが告白する信仰の「使者」(使徒)と一回称されている(ヘブ三・一)。
四.救いの目標
キリストにおいて信仰はようやくその目標である、天と天の都に達する。アブラハムもそうである。彼は約束の地によそ者として生活し、「同じ約束の共同相続人であるイサクやヤコブと共に天幕に住んだ。なぜなら彼は土台のある都を待ち望んでいたからである。その設計者と建設者は神である」(ヘブ一一・九、一〇)。
この下界では異国人――天上では市民 この下界では天幕(創一二・八、一三・一八)――天上では都 この下界では祭壇(創一二・八、二一・三三)――天上には神の御顔があり、神の王国で飲み食いする(マタ八・一一)
これがアブラハム契約の天的召しである。
五.族長たちの時代
アブラハムとの契約は驚くべき方法で発展した。まずこの族長自身の生涯において、次にまた彼の肉の子孫と霊の子孫において発展した。
1.アブラハムの生涯における発展段階。アブラハムの信仰の生涯では、五つの段階が明確に区別されている。各々の段階は常に、画期的意義を持つ神の啓示によって明示されている。
第一段階(創一二〜一四章)はカルデヤのウルからの出発と約束の地への移住と共に始まる。この段階は特に彼の召しと関係している。
第二段階(創一五と一六章)は信仰の契約と共に始まる。その時、彼は義と宣言された。この段階はまた契約のいけにえによる信仰の印と共に始まる。この段階の特別な意義は義認である。
それから、十三年間の待つ期間の後に(創一六・一六、一七・一参照)――この期間はハガルとイシマエルに関するアブラハムの早まった行動に対する神の応答だった――第三段階が臨む(創一七〜二一章)。この段階は彼の名前をアブラム(「高く上げられた父」)からアブラハム(「群衆の父」)に変更すること、それに合わせて割礼の契約の導入と、この族長の信心と聖潔への献身と共に始まる。
割礼は確かに義認の手段ではないし(ロマ四・九〜一二)、聖化の手段でもない(ガラ五・二〜一二)。しかしそれにもかかわらず割礼は象徴である。もっと正確に言うと型である。聖化の型であり、特に罪深い自己の性質を明け渡して、神から遠ざかろうとする命とその全ての衝動とを「断ち切る」という原理の型である。それゆえ「手によらない割礼」は「肉の体を脱ぐこと」である。すなわち、キリストと共に十字架に付けられて死ぬことである(コロ二・一一、ロマ六・二〜四参照)。
この献身と関連しているのが第四段階、すなわちモリヤ山上で自分の息子を献げるという最大の試練である(創二二章)。こうして遂に、彼の信仰を試すこの最高の試練の後、第五段階に達することが可能になる。この段階は穏やかさと働きからの休息の期間であり、人生の黄昏と完成の期間である(創二三章〜二五・一〇)。
2.契約の継承。アブラハムとの神の契約は、続く二人の族長のための基礎として継続した。なぜなら、後にイサクやヤコブとの契約について述べられているが、それは別の新しい契約ではなく、同じアブラハム契約が新しい族長たちに対して確認され、維持され、継承されただけだったからである(創二六・三、二八・一三〜一五、三五・一二)。それゆえ神はイサクに言われた、「私があなたの父アブラハムに誓った誓いを私は維持する(確立する、成就する)」(創二六・三)。またヤコブに対して神は御自身をベテルではっきりと「アブラハムの神」「イサクの神」として啓示された(創三五・一二)。それに加えて、神はこの諸々の約束に対して別の新しい契約規定を加えることをなさらなかった。
このような契約の継承が必要だった。なぜなら、イサクにはイシマエルやケトラの子らという兄弟たちがいたし(創二五・一〜四)、ヤコブにもエサウという兄弟がいたからである。それゆえ、これら全員の中で誰がアブラハム契約の継承者となるべきかを告げるために、特別な神の約束が常に必要だったのである。しかしヤコブ以降、これはもはや必要なくなった。彼の子たちの誰もこの祝福から除外されなかったからである。その結果、この時から契約の継承はやんだのである。
全体として、アブラハムには三種類の子孫がいた。
(a)純粋に肉的な子孫。イシマエルとケトラの子たち(特にミデアン、創二五・一〜四)、それからエサウ(エドム)。 (b)肉的また霊的な子孫。イサク、ヤコブ、イスラエル。 (c)純粋に霊的な子孫。すべての諸国民からの信者たち(ロマ四・一一、一二、ガラ三・一四)。
こうして、彼の子孫は「地の塵」(創一三・一六)「海の砂」(ヘブ一一・一二)「天の星」(創一五・五)のように多くなる、という彼に与えられた約束は、三重に成就する。そして、アブラハムは「多くの国民の父」(創一七・五)となり、これは肉的子孫と肉的・霊的子孫とによって成就した。またアブラハムは地の全ての家族のための祝福の経路にもなった(創一二・三)――これはキリストと贖いの霊的祝福とによって成就された(ガラ三・一四)。
3.契約の所有者。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフが、この族長らに対する信仰の約束の期間の主要人物である。信仰が彼ら全員に共通しており、そしてその基礎として契約の約束がある。それにもかかわらず、この共通のものが、どの場合も、異なる明るさで輝く。
アブラハムは探求して発見する信仰である。彼はまず土地を求め、次に跡継ぎを求め、最後に天の都を求めた(創一二・一、一五・三、ヘブ一一・一〇)。
イサクは耐え忍んで安息する信仰である。彼はモリヤ山上で耐え忍び(創二二章)、敵との争いを避けるために自分の井戸を放棄し(創二六・一五〜一七、二〇、二二)、アブラハム、ヤコブ、ヨセフほどの長旅をしなかった。
ヤコブの信仰は仕えて実を結ぶ信仰である。彼は人間的にはその兄弟エサウよりも魅力に乏しかったが、それでも約束を信じる信仰のゆえに、不信仰な兄弟よりも好ましかった(マラ一・二、ロマ九・一二、一三)。そして遂に、長年に及ぶ奉仕の後、彼は大いに増えて豊かな実を結んだ(創二九、三〇章)。
最後に、ヨセフは苦しんで勝利する信仰である。その謙卑のときも、また高揚のときも、彼はキリストの預言的型である。
しかし、この四人をこの順序でまとめると、信仰の成長の法則が明らかになる。信仰は探求と発見から始まる。そして勝利して栄化される。しかしその間には忍耐と奉仕があり、そして奉仕の中には実りがある。
こういうわけでこの四人の族長の系列には極めて深い意義がある。われわれはアブラハムから始めて、次にイサクとヤコブの経験を通り抜け、ヨセフの苦難と勝利に達しなければならない。この意味で族長の信仰の歴史は、一般的にすべての経験的信仰の歴史となる。そして前者がキリストの型であるヨセフにおいて頂点に達したように、後者もまたキリスト、生ける御方、主御自身において完成される。
この救済史を先に進ませて直接キリストへと至らせることが、次に続く時代すなわち律法の時代の役割である。