「アブラハムの場合――神の恵み深い創造的な支配。神は無いものをすでに存在しているかのように呼び出される。 イサクの場合――死者の中から生き返る(ロマ四・一九〜二四、ヘブ一一・一九)。 ヤコブの場合――身に余る無代価の恵みとその最終的な輝かしい結果。策略家から神のための英雄となる神の人が現れる。1――これがイスラエルの起源である。」
1 創三二・二八〜三〇。ヤコブは「かかとをつかむ者」、出し抜く者を意味する。イスラエルは神と格闘する者を意味する。
イスラエルの歴史の中のすべての事柄は、その召命と任務を目的としており、それと関係している。
一.イスラエルの任務
イスラエルには二重の任務がある。それは神の啓示の受け手、世の贖い主が宿られる所、したがってキリスト教会のための出生地となることになっていた(ヨハ四・二二、ロマ一一・一六〜二四参照)。しかしそれはまた世の諸国民の間に道を備えなければならず、そして、神の証し人また宣教士として、諸国民に対して救いの啓示の経路となって、世界の福音化のために備えなければならなかった。
「一見、この二つの任務は互いに矛盾するように見えるし、相いれないように見える。それでも、イスラエルの場合、この二つは完全に両立する。メシヤの祖国となり、また、キリスト教の出生地となるために、イスラエルは自立した民でなければならない。すべての異邦人から分離されて、生ける神を知る唯一の民として異邦人とは鋭い対照をなさなければならない。なぜなら、彼らに対して神は御自身の御旨を律法によって知らされたからである。他方、この民は異邦人の間に広がり、彼らの間に宿って、彼らと常に交流を持たなければならない。それはキリスト教のための道を備えるためである」。
分離と世界大の接触、集中と拡張、求心力と遠心力、これらの二重の調和的対照を理解することが、イスラエルの歴史を理解する唯一の鍵である。これは言い換えると、選民主義と普遍主義、排他主義と包括主義との間の両極性と言える。この鍵がなければ、すべてがぼやけてしまう。この対照が最も鮮明に際立つのは、イスラエルの召命の頂点である贖い主の約束においてである。
二.イスラエルのメシヤ待望
ここに絶対的拡張、全ての制限と制約の突破がある。すなわち、メシヤは世の救い主なのである(マラ一・二、ヨハ四・四)。人類は一つの起源と一つの目標を持つ一つの家族である。創世記十章の家系図を考えてみよ。歴史家のJ.フォン・ミュラーは「普遍的歴史は全面的にこの章から始まらなければならない」と述べているがそれは正しい。またミカエル・バウムガルテンは「その終局的結果であるこの章をもって、それは終わるだろう」と付け加えているが、これもまた同じように正しい。地のすべての民族は、イスラエルと共に、贖いに与る者となる。そしてイスラエルが啓示の歴史において神の「長」子であるように(出四・二二)、最終的に彼らはみな神の「子ら」となる(詩八七・四〜六、イザ二五・六〜八、一九・二五)。これらの思想によりイスラエルの預言は、古代人が知る限り、世界の最も広い領域を網羅するものとなったのである。
しかしまさにこの点において、極めて絶対的な一極性が現れる。なぜなら、この世界の贖い主は一人の人であり(一テモ二・五)、ダビデの一人の子孫であり、一人の救い主だからである(使四・一二)。(この節の最後の注記を見よ。)そして最も重要な事実は、世界史がこの待望に対して「然り」と述べてきたことである!ナザレのイエス、この唯一の御方、神の御子は、数百万の人々によって、主また贖い主として讃えられてきた。またその霊的豊かさを、人類文化の導き手たちは、性格や道徳観の指導的理想として認めてきた。しかしなぜこの待望はローマ人やギリシャ人の間には見出されず、諸民族の中で「最も小さな」民族に対する啓示の中にのみ見出されるのか?(申七・七)。この待望は高度な政治的直観の偶然の産物にすぎなかったのだろうか、それとも、病的に発達した国粋主義の偶然の産物にすぎなかったのだろうか?それならなぜ、彼は事実、この預言通りにまさに現れてそれを成就されたのか?また、なぜ彼は現実に、世界の救い主として、「諸民族の旗」(模範、集結点、指導者)となったのか?(イザ一一・一〇、ロマ一五・一二)。偶然だろうか?否、合理的な答えは一つしかない。すなわち、聖書は正しい、ということである。世界史がその証人である。成就は預言の確証である。不信仰は信仰が受け入れることよりもさらに信じがたいことを信じなければならない。しかし、われわれは懐疑的になるほど信じやすくはない。
極度の集中と世界大の拡張という、この二つの中心を持つ状態に達することが、イスラエルの歴史全体の意義だった。それゆえ、この民に関するすべてのことは、これら二つの互いに関連してはいるが対立する要求に照らして計画されてきたのである。
注記
イエスがアーリア人だったというのは、歴史学が少しでも存在する限り、純粋に人間的観点から見ても、幻想にすぎないと考えられる。なぜなら、
(1)イエスがイスラエル民族の血統であることは、聖書の歴史的記録の中で明白かつ完全に確立されているからである(例えばルカ一・三二、ロマ一・三、二テモ二・八等)。そして、歴史的知識は歴史的記録と共に始まらなければならないからである。
(2)イエスの肉による兄弟であるヤコブは、エルサレムにある教会の指導的クリスチャンの一人であり、この教会は確かにユダヤ人クリスチャンから成っていたからである。
(3)イエスがイスラエル民族の血統であることに、彼のユダヤ人の敵たちは決して疑いを差し挟まなかった。それどころか彼らこそ、極めて乱暴なやり方で、支配者たちや民の前で、そのメシヤとしての身分に異議を唱えようとした者たちなのである。イエスが半ユダヤ人であるとか、あるいは完全に異邦人の出であるとか憶測する根拠が少しでもあったなら、これは彼らにとって、イエスは預言されたメシヤではありえないことを、法廷で全ての同時代人の前に示す極めて明白な証拠となっていただろう。彼らがそうしなかったことは、彼らにはそうできなかったことを証明する。また、後世のユダヤ人の歴史家で、極めて野蛮な憎しみをもって極めて野卑な仕方でイエスを罵ってきた者たちですら、イエスが生まれながらイスラエル民族と関係していることに異議を唱えたことは決してない。こうして主の敵自身が、彼がイスラエル民族の血統であることを証しする最も確かな証人となっているのである。
しかし他方において、イエスは純粋なユダヤ人ではなかった。これはこの言葉の一般的意味においてである。というのは、「肉によれば」マリヤを通して生まれ、「ダビデの裔」であるが(ロマ一・三、二テモ二・八)、超自然的誕生により、彼はその地上の民の人間的可能性の極致・開花を無限に上回っていたからである。なぜなら、民族生活においては人の活動と力が民族・政府・国家を形成する真の力だが、これがイエスの誕生においては排除されているからである(マタ一・二〇)。したがって彼は確かにユダヤ民族の中に生まれたのだが、純粋な人間的意味においては「ユダヤ人」ではなかった。「肉において現れた神」(一テモ三・一六)として彼は民族や国家を超えており、性質上すべての罪人と異なっている。また、それと同時に、世の贖い主として、すべての民族のための救い主であり主である。こういうわけで彼の処女降誕(イザ七・一四)は彼の聖潔(遺伝的罪がないこと)と関係しているだけでなく、救い主としての彼の御業(民族的制約がないこと)とも関係している。処女降誕は彼のパースンと御業に欠かせない前提であり、また、聖なる者また救い主である彼を巡る円の中心また円周である。
三.イスラエルの適性
ユダヤ人ほど分離を保ちつつ、それでも広がることのできる民族は無い。これほど国家的であると同時に、これほど普遍的な民族は無い。「これほどその個性を粘り強く維持しつつ、しかもまた他民族の中にあって独立・隔絶している民族は無い。しかしまた、ユダヤ人ほどあらゆる場所に居ついて、あらゆる環境に順応する民族は無い。ユダヤ人はあらゆる場所に住み着いて、至る所に自分自身のための場所を設けることができる。しかしそれでも、どこにいてもユダヤ人であり続けるのである!」
パレスチナの地もまた、世からの分離と世とのつながりという相反するものを二重に橋渡しする役割を持っている。
四.イスラエルの地
パレスチナは隔絶された地である。島のような位置を占め、園のように、山々や荒野や水で囲まれている(イザ五・一、二)。その海岸に(自然の)港はない。その内地に至る川は無い。他の場所ならどこでも諸民族を結び合わせる海が、この地では分離壁となっている。敵対する隣人たちがそれを取り囲んで、四方を遮断しており、世界文化の中心からは遠い。
しかしそれでもパレスチナは「地の中心」(エゼ三八・一二)であり、古代オリエント世界の支配的諸国家を結ぶ橋であって、三大陸が最も接近している場所に位置する。ここは、古代史の二大国家群である西洋国家群と東洋国家群とが最も接近している所である。ここから道があらゆる方向に伸びていて、主要な異邦の地に容易に行くことができる。それゆえ、バビロニア・アッシリア人とエジプト人がこの橋を獲得するために何度も戦ったのも不思議ではない。イスラエルの子らがこの地を所有する前、以下の勢力がそれを所有したりそこで主権を行使したりした。
紀元前二一〇〇年以前:カナン人以前の原住民 紀元前二〇〇〇年以前:ハム人のカナン族(創一〇・一五〜二〇) 紀元前二〇〇〇年頃:エラム人(創一四・一〜四) 紀元前一九〇〇年頃:バビロニア人(ハムラビ) 紀元前一五〇〇年頃:エジプト人(モーセとアマルナの期間)。
キリスト紀元前二世紀及び三世紀の、パレスチナを巡るエジプトのプトレマイオス朝(「南の王」)とシリアのセレウコス朝(「北の王」)との間の戦いを参照せよ。ダニ二章。
とりわけ、福音を全世界に届けるという問題が生じた時、この状況が極めて有利だったのも不思議ではない。「これがエルサレムである。私はこれを諸民族の間に置き、その周囲に国々を置いた」(エゼ五・五)。こういうわけで、この地はその住人の使命に全く適していた。分離と普遍性との間の対比は、この場合、地理的隔絶と中心的位置として現れる。国々の間におけるイスラエルの位置は、その歴史に対する神の啓示によると、「諸民族から分離してはいるが、諸民族のためのものだった」。
注記
「ヘブル」という名は「エベル」(反対側、向こう側、創一〇・二一、二四、一一・一四、一五)という名から派生している。そして、われわれの知らないアブラハムの祖先の家族が、ヨルダンの「向こう」から移住したことに基づくことは明らかである。そして、アブラハムの七代前であるエベルは、他のセム族の祖先でもあったので(例えばオフィルとハビラ。創一〇・二五〜三〇)、「ヘブル」という語は第一義的にはアブラハム以前のセム族の家族群を示す(創一四・一三、三九・一四、一七、四三・三二を見よ)。バラムの預言(民二四・二四)では、エベルの名がアシュルと同じ文章中に挙がっている。後になって初めて、この名は政治的・民族的一団としての旧契約の民の国家名となったのであり、他の血縁関係にある民族と区別するために用いられたのである(出五・三、一サム四・六、一三・一九、ヨナ一・九)。
ユダという名はヤコブの四番目の息子の名に由来する(創二九・三五、ユダは賛美を意味する)。そして、一民族の名として、最初はユダ族のみを指していた。王国分裂後初めて(紀元前九五〇年頃)、この名はベニヤミン・ユダ族の南王朝全体を示すようになった(二列一六・六、エレ三二・一二)。そして最終的に、バビロン捕囚からの帰還後(紀元前五三八年)、国家全体、十二部族全体を一般的に示すようになった(例えばマタ二七・二九、三七)。
「イスラエル人」という名は、族長ヤコブの二番目の名であるイスラエルから派生しており、彼がペニエルで神と格闘した後に彼に与えられたもので(創三二・二八、「神と格闘する者」)、この族長の神政上の名にふさわしいものである。