イスラエルは神の契約の民であり(アモ三・二、詩一四七・一九、二〇)、救いの知らせを世界の諸民族に伝える目的のために取り分けられた。その使命の偉大な二重の目的に応じて、神はその歴史を全て導かれた。
一.イスラエルの教育
1.分離するための神の訓練(紀元前一九〇〇〜五八六年)。「あなたの父祖の地とあなたの親族の中から出よ」――イスラエルの歴史はアブラムに対する神のこの命令と共に始まる。「こうしてそれは分離と共に始まる。そして数世紀にわたって、イスラエルを取り扱う神の方法はすべて、この民を分離・隔絶する方向に進んだ。それは一民族としてのその性格を強めるためだった」。
「律法という『垣根』(エペ二・一四、詩一四七・一九、二〇)、パレスチナのユダヤ教、ヘブル語の旧約聖書、エルサレムの宮、これらはこの民に対するこの教育の四つの主な証しである」。
しかし千五百年後、変化が訪れる。そしてそれ以降、またもや何世紀にもわたって、すべてはイスラエルを諸国民の間に散らす方向に進む。その転換点がバビロン捕囚である(紀元前六〇六〜五三六年)。
2.世界大の奉仕のための神の訓練。バビロン捕囚後(紀元前六〇六または五八六年)、以下のものが登場した。
パレスチナのユダヤ教と並行して、離散のユダヤ教、ディアスポラが登場した(ヤコ一・一、使二・五〜一一を見よ)。 宮と並行して、いけにえよりも教えに努める会堂(シナゴーグ)が登場した。この会堂は全ての都市や国々でユダヤ人生活の新たな中心を作り出した。 ヘブル語の旧約聖書と並行して、ギリシャ語訳の七十人訳(LXX)が登場した。この七十人訳の目的は、律法と預言書とダビデの美しい旋律の詩篇とを、離散しているユダヤ人だけでなく異邦人にも伝えることだった。 宮とヘブル語の旧約聖書とを伴うパレスチナのユダヤ教は、極めて中央集権的な勢力だった。また、異教世界に住むユダヤ人の無数の共同体においてもこれがその重心だった。他方、会堂と七十人訳とを伴うディアスポラは、遠方まで広がる勢力であり、絶えず広がろうと奮闘していた。これらを通してイスラエルは神の使者、異教世界における宣教者となった。
しかるに――何が起きたのか?あらゆることでイスラエルは神の計画に逆らったのである
二.イスラエルの失敗
1.律法の授与からバビロン捕囚までの間(紀元前一五〇〇〜五八六年)、イスラエルの主な罪は偶像崇拝だった(出三二、士二・一七、一〇・六、一列一一・五、二列一六・三、四、エゼ八等)。これは次のことを意味する。すなわち、世の諸民族からの隔絶と分離とを目的として神が教育しておられたこの期間のあいだ、イスラエルは彼らとの偶像崇拝的な交流や交わりだけでなく、政治的合一をも維持したのである(イザ三九、ホセ七・一一)。また、彼らは神の排他主義に逆らって肉的な包括主義を打ち立て、求心力に逆らって遠心力を、聖なる愛に逆らって不信の背徳を打ち立てた(エゼ一六、二三、ホセ一〜三、イザ一・二一)。それゆえ、何世紀にも及ぶ忍耐の末に、神の判決が咎あるエルサレムの上に下された。「この都はそれが建った日から今日まで、私の怒りと憤りとを引き起こしてきたので、私の前からこれを捨て去るのである」(エレ三二・三一)。
ネブカデネザルがやって来た。エルサレムは破壊され、ユダ王国は捕囚に連れて行かれた(紀元前五八六年)。しかしその後、ユダヤ人の奇跡が起きた。バビロンの中でイスラエルはバビロンという病を癒された。「すべての姦淫と偶像崇拝との母」(黙一七・五)であるバビロンが、この姦通の民の癒しの場所となった。この「地の全ての忌むべきもの」(黙一七・五)の中心的都の中で、ユダヤ国民はバビロンの偶像崇拝から解放された。そして新たな任務と目的とをもって、イスラエルの信じるレムナントは捕囚から帰還したのである(紀元前五三八年)。
2.バビロン捕囚(紀元前五三八年)以降、イスラエルに対する神の取り扱いは、諸国民の間における世界大の奉仕のためにそれを整えることにことごとく向けられた。しかしこの民は今度は何をしたのか?自らを隔絶させ、誇らしげに自分を高く上げて異邦人を汚れた「犬」として蔑んだのである。特に「分離された」1者であるパリサイ人の指導の下で、自分たちの特権的立場をこのように肉的に強調することが極みに達した。
1 パリサイという言葉は、「隔絶された」「分離された」を意味するヘブル語のパラシュ(parash)に由来する。この精神により、パリサイ人は改宗者をつくる働きを遂行したのである(マタ二三・一五)。
それで今イスラエルは――以前とは打って変わって――神の普遍主義に逆らって自己を義とする国家主義を打ち立て、世界的連合に逆らって世からの宗教的隠遁主義を打ち立て、また、諸民族への宣教に逆らって自民族の中央集権主義を打ち立てた。そして前に神が分離を望んでおられた時には連合したのと全く同じように、今度は、神が連合を望んでおられる時に分離した。こういうわけで常に彼らはうなじのこわい逆らう民(使七・五一)、「誤った道を常に好む民」(詩九五・一〇)だった。
しかし、イスラエルはキリストの時に、その罪の絶頂に達した。三つの段階により――天の王国の知らせを拒むことにより(マタ二三・三七)、メシヤをゴルゴタで殺すことにより(使七・五二)、そして復活の証しを拒むことにより(使四・二、三、二一、七・五一、五八、一三・四六、二八・二五〜二八)――イスラエルは全ての罪の中で最大の罪である、神の御子を拒むという罪を犯した。そしてそれ以降、神の裁きの下にある。
今やその性格のこの二つの「極」は不調和の中にある。そしてイスラエルの歴史は、かなり規則正しく揺れ動いている。すなわち、散らされた先の諸国民への公然たる順応と、その民族的個性に対する毅然とした強調との間で揺れ動いているのである。
三.イスラエルの没落の行程
イスラエルの行程は下降線を辿った。この没落は三つの大きな段階によって完成された。最初この民には
1.神の直接的統治があった。これはモーセからサムエルまでの期間である(紀元前一五〇〇〜一一〇〇年)。シナイ山で一国家として誕生したとき、アブラハムの子孫たちには「王」としての神があった。「あなたたちは私に対して祭司の王国となり、聖なる国民となるべきである」(出一九・五、六、一五・一八)。「モーセは私たちに律法を与えた(中略)それで彼(神)はエシュルンで王となった」(エシュルンは「まっすぐ」な者、「正しい」者、すなわち、その理想的天命の状態にあるイスラエルを意味する)(申三三・五。三二・一五を見よ)。モーセ、ヨシュア、サムエルまでの十四人の士師は、当面の間の主の受任者に他ならず、その目的は期間の長短を問わず、各自に割り当てられた任務を果たすことだった。それが済むと、再び個人生活に戻ることもあった(士八・二九〜三二を見よ)。地的王国は何もなかった。ギデオンはきっぱりとそれを拒否した(士八・二三)。そして一人だけ――彼の子であるアビメレクだけ――が神に逆らって地的王国を設立し、無残な滅びに至った(士九)。
天的王国の地的手段は預言者たち(申一八・一五)、祭司たち(申三三・八〜一一)、英雄たち(「士師たち」、「救済者たち」、「救いをもたらす者たち」、士三・九)だった。この人たちの指導権は、いかなる外面的な法的肩書――例えば出生(士一一・一)、選挙、地位――にもよらず、ただ神の内なる召命のみに基づいていた(士二・一六、三・一五等)。永続的な形式上の中央政府は全く無く、中心としての一つの祭壇があるだけだった。なぜなら、この民はその出自と信仰によって一つにまとまっていたからである。そしてシロの幕屋が、公的な神礼拝の共通の中心として、この合一を目に見える形で表していた(ヨシ一八・一、一〇、一九・五一、一サム一・三、四・三)。
しかしこの政体は全体として、良すぎるがゆえに「悪」すぎた。神に献げきった民だけが実を結ぶことができた。逆の場合、この政体はある程度、「王なき」時代として機能せざるをえなかった。まさにイスラエルの場合がそうだった(士一八・一、一九・一、二一・二五)。それゆえ遂に目に見える王が望まれるようになった(一サム八)。
そこで第二の期間が始まった。
2.神の非直接的統治。これはサウルからゼデキヤまでの期間である(紀元前一〇〇〇〜五八六年)。しぶしぶ神はこの要求を承認された。なぜなら神の王国という観点から見ると、地的王国は退歩であり、エホバを退けることだったからである(一サム八・七)。それにもかかわらず、神は御自身の王権を堅く保たれた。数世紀たっても、神はなおも預言者たちや詩篇作者たちによってイスラエルの真の王として賛美された。「主はわれらを裁く方である。主はわれらに律法を与えて下さった方である。主はわれらの王である」(イザ三三・二二、六・五、四三・一五、エレ一〇・一〇、詩二・六)。
これからイスラエルの「王」という特別な地位が生じた。エホバが実際の王であるがゆえに、地上の王たちは総督にすぎず、王の肩書を持つ世襲の統治者階級にすぎない。それゆえまた、その選出は民による民主的選挙にはよらず、全く神の御手により(申一七・一五)、神が預言者たちの口を通してそれを宣言された(一サム一〇・一、一六・一)。人々が持つ権利は、王を「任命すること」だけだった。つまり、公に認めることだけだった(一サム一一・一五、二サム二・四、五・一以下)。王は「エホバの嗣業を治める君主」以上のものではなく(一サム一〇・一)、したがって、王たる身分は全く「神の恵み」によった。さらに、イスラエルでは霊的職務の方が通常の職務よりも天の王に近かったため、神の王国の歴史においては、イスラエルの預言者たちが王たちの上に立ち、王たちの相談役、良心、目、耳、護衛、監督となった。
しかし、神の支配がすでに著しく低下していたこの時期においても、イスラエルは下降線を辿り、この下降は再び三つの段階でなされた。
最初彼らは サウル、ダビデ、ソロモンの下で統一王国を持っていた(紀元前一〇五〇〜九五〇年)。 その後、王国分裂(紀元前九七五または九四〇年)の後 イスラエル―ユダに分かれた二つの王国になって、 アッシリア捕囚に至った(紀元前七二二年)。そして最終的に 南方二部族の「ユダ」のレムナント王国だけになった。
その最後の王であるゼデキヤと共に、この可視的王国はとうとう全く崩壊してしまった。そしてそれ以降、イスラエルにはこの最後のもの、すなわち、停止された神の統治しかなかった。
3.停止された神の統治、すなわち、正式な法的協定を伴わない神の統治。これは紀元前五八六年からメシヤ王国の確立まで存続する。ネブカデネザルと共に「異邦人の時」(ルカ二一・二四)が始まった。エルサレム滅亡以降、イスラエルは世界の国々の支配下に置かれた。1自由を求めるマカバイ兄弟の戦いも、これを変えられなかった(紀元前一六八〜一四一(六三)年)。まるで試合の中のボールのように、パレスチナは手から手へとパスされた。バビロニア人、ペルシャ人、ギリシャ人(マケドニア人)、プトレマイオス王朝人(エジプト人)、セレウコス王朝人(シリヤ人)、それから、マカバイ兄弟の後は、ローマ人がこの地の君主だった。
1 現在、一九四八年のユダヤ人国家の設立により、これは終わっている。しかし、彼らは最後の異邦人支配者である反キリストによって支配・抑圧されることになる。ダニ九・二七、ルカ二一・二〇〜二四、二テサ二・四、黙一三。(英訳者注)
遂に、イスラエルはこの地の外に追放されるまでになった(特に、偽物のメシヤであるバル・コクバの下で蜂起した後―― 一三二〜一三五年)。それ以降、神の裁きの結果、旧約聖書そのものが証しするところにしたがって、この民は軽蔑された異国人として諸国民の間をさまよってきた。彼らは「すべての場所で非難と軽蔑の的になり、諺と呪いになった」(エレ二四・九、二五・一八、二六・六、二九・一八、四二・一八)。それだけでなく、モーセも特にこう述べている。「あなたたちはこれらの諸国民の間にあって何の安寧も見出さず、またあなたたちの足の裏を休ませる場所も見出さない。エホバはその所であなたたちに、おののく心と、切望でやつれた目と、苦しい魂とを絶えず与えられる。(中略)朝あなたたちは『もう夜なら良かったのに!』と言い、夜あなたたちは『もう朝なら良かったのに!』と願う。それは、あなたたちが感じるあなたたちの心の不安のためであり、また、あなたたちの目の前にある恐ろしい光景のためである」(申二八・六五、六七)。
そして、旧約聖書の神であるエホバ御自身こう仰せられる。「敵として私はあなたたちを厳しく懲らしめて打った。それは、あなたたちの咎が大きいからである。(中略)あなたたちの罪がおびただしいため、私はこの大きな悲しみをあなたたちに負わせた」(エレ三〇・一四、一五)。またエレミヤはこう嘆いている。「容赦せずにエホバはイスラエルの全ての住まいを荒らされた。(中略)エホバは敵のようになり、イスラエルを滅ぼされた」(哀二・一〜五。イザ六三・一〇参照)。そしてこうして、神御自身の怒りの裁きにより、ユダヤ人は長い間「非難」と「恥」を負っている(エレ二三・三九、四〇)。実に、地のすべての民族に対して、恐るべき不幸の実例となっているのである(エレ二四・九)。
にもかかわらず、「神の恵みの賜物と召しを(神は)後悔されない」(ロマ一一・二九)。この「敵は」、敵であるにもかかわらず、「愛され」続けている(ロマ一一・二八)。その「根」は聖なるものであり(ロマ一一・一六)、神の「友」であるアブラハムのゆえに(イザ四一・八、申七・八)、裁きの中でも神は御自身の約束を堅く守られる。「彼らが敵どもの土地にいる時でも、私は彼らを拒んだり忌み嫌ったりして、彼らを絶滅させ、彼らとの私の契約を破ることはしない。なぜなら、私は彼らの神であるエホバだからである、とエホバは仰せられる」(レビ二六・四四、四五)。
四.イスラエルの維持
苦難の主な三つの時代に、イスラエルは神によって維持された。すなわち、エジプトにおける苦難、アッシリア・バビロン人による苦難、ローマ人による苦難の時代である。
1.エジプトにおける苦難(紀元前一五〇〇年頃)は「キリストに因る誹り」(ヘブ一一・二六)だった。パロのしたことは、パロ自身分かっていなかったのだが、1「女の裔」に対する「蛇」の戦いだった(創三・一五)。なぜなら、ユダヤ人が全滅していたら、贖い主の来臨は不可能になっていただろうからである。というのは、アブラハム以降、女の裔と蛇を踏み砕く者とに関する約束は、確かにこの民と関係していたからである(創一二・一〜三、ヨハ四・二二、ガラ三・一六)。こういうわけでユダヤ人の発展の開始の時から、この国家と民の歴史全体の背後には、「王国」の歴史があるのである。イスラエルがエジプトで苦しんだのはメシヤのためだった。そして「キリストに因る誹り」という表現でヘブル人への手紙は、当時すでに預言者モーセはこの超自然的背景をおそらく予感していたことを証ししている(申一八・一五、三四・一〇)。
1 ルターの言葉 "Non agunt, sed aguntur" 「彼らは押すつもりで、押されているのである」を参照せよ。
しかし神は、高く上げられた手と伸ばされた腕とをもって、この民をエジプトの「溶鉱炉」から導き出された(申四・二〇、出六・六、エゼ二〇・五)。
2.アッシリア・バビロン人による苦難(紀元前七二二年以降と六〇六〜五三六年)は罪による恥辱だった(二列一七・七)。捕囚が起きたのはイスラエルの子らが偶像礼拝を通して「姦淫」を犯し(ホセ一〜三、エゼ一六と二三)、「憎むべきもの」で自分たちを満たし(エゼ八・一三)、「地を暴虐で満たし」(エゼ八・一七)、こうして「全く無益」な者になったからである(エレ一三・七)。捕囚がちょうど七十年続いたのは、それ以前の諸世紀のあいだ無視されてきた安息の年に対応していた(二歴三六・二一。レビ二六・三四、三五参照)。その後、バビロンにおいて、神は――ダニエル以外に――「捕囚のモーセ」である預言者エゼキエルを召された。また、力強い戦士であり、ペルシャ帝国の創設者であるクロスを、神は彼らに長らく待ち望んだ解放者として与えられた(イザ四五・一〜七、エズ一・一〜四)。
3.ローマ人による苦難は、今も昔も、罪の中の罪である、メシヤを拒むことによる恥辱である。したがって、これは最も長く厳しい(申二八・四九〜六八)。それは紀元七十年のエルサレム滅亡と共に始まり、キリスト帰還時のメシヤ王国設立で終わる。というのは、預言的に言って、ダニエル書の四つの帝国はこの時代の終わりまで続くからである(ダニ二、七)。「その血はわれわれと、われわれの子らの上に降りかかれ」(マタ二七・二五)。彼ら自身が語ったこの言葉は、数千年にわたるこの歴史の上に、燃える裁きのしるしとして立っている
「今日、もし人がイスラエルにこう尋ねたら、イスラエルはきっと黙らざるをえない。すなわち、私に答えてほしい。永遠なる御方が父祖たちを彼らの地から追い出して、バビロンで捕囚としたのはたった七十年のことで、それは彼らが何世紀にもわたってあらゆる忌むべきものや偶像崇拝で聖地を汚したためだった――ところが今、イスラエルは十八世紀以上もの間、すべての民族の間に散らされており、偉大な王の都であるエルサレムは今日に至るまで諸国民によって踏みにじられている。どうしてこんなことがありえるのか?それでは一体、あなたたちが父祖たちの地に安らかに住むのを常に妨げている、大いなる恐るべき流血の咎とは何か?――しかし、イスラエルは知りたがらないのである!」
しかし、イスラエルの不幸の根源は、まさにメシヤに対する罪なのである。十字架に対する憎しみが、ユダヤ人の魂を「世界を苦しめるとげ」にしてきたのである。ユダヤ人はそれ以降、「十字架からの逃避行という呪い」の下にある。「それゆえ、永遠なるユダヤ人に安息はなく、平安にも欠けている。イエス・キリストの御姿を内的に処理したことがないからである。十字架からの逃避行により、ユダヤ人はこの世界で故郷なき放浪者となった。十字架に対する反逆により、ユダヤ人は地上における神に対するおびただしい反逆の指導者となったのである」。
しかしまたまさにこの点において、歴史の最大の謎が生じる。すなわち、神が不信のイスラエルを何度も何度もその中に投げ込んだおびただしい裁きの期間にもかかわらず、ユダヤ民族が存続してきたことである。1他の多くの民族の存在を支配する諸法則は、歴史哲学によって部分的に説明可能である。しかし、イスラエルの発展にはどんな説明も通用しない。なぜなら、何があったとしても、イスラエルはエホバの民であり、その神である主は御自身を隠される神だからである(イザ四五・一五)。ユダヤ人はみな、歩く神秘なのである。
1 紀元七〇年八月――エルサレム滅亡。一、一〇〇、〇〇〇人のユダヤ人が殺された。紀元一三二〜一三五年――バル・コクバ敗北。五〇〇、〇〇〇人のユダヤ人が殺された。一〇九六年三月から六月――ドイツのラインランドで一二、〇〇〇人のユダヤ人が殺された。一二九〇年一一月一日――絞首刑に処すとの脅迫の下、すべてのユダヤ人(一六、〇〇〇人以上)がイギリスから追放された。三七〇年たって初めて、帰還が許可された。一二九八年四月二〇日から秋まで―― 一〇〇、〇〇〇人のユダヤ人がフランコニア、ババリヤ、オーストリアで殺された。一三〇六年九月――死刑に処すとの脅迫の下、一〇〇、〇〇〇人のユダヤ人がフランスから追放された。一四九二年八月二日――死刑に処すとの脅迫の下、宗教裁判により、三〇〇、〇〇〇人のユダヤ人がスペインから追放された。一六四八年一一月――ポーランドのナロルで一二、〇〇〇人のユダヤ人がコサック人に虐殺された。一六四八〜一六五八年――約四〇〇、〇〇〇人のポーランド系ユダヤ人がロシア・ポーランド・スェーデン戦争で死んだ。一九三九〜一九四五年――第二次世界大戦の間、数十万人のユダヤ人が殺害された。
五.イスラエルの希望
確かに、「預言者たちの証しにしたがって(イザ五三、ルカ二四・二六、二七)、『私こそ真のメシヤである』というイエスの主張は、まず苦難と拒絶によって証印を押されなければならなかった。そうである以上、このメシヤに対するイスラエルの職分は、このような拒絶によって無に帰したり取り消されたりすることはありえない」。むしろ主はアブラハムとダビデに対する御自分の諸々の約束を果たされる。その後、「ヤコブ」はイスラエルに変えられ、「茨藪」(出三・二)は実を結ぶ「イチジクの木」に変えられる(ホセ九・一〇)。イザ五五・一三参照。そして今、イスラエルが諸国民の間で呪いであるように、最後には豊かな祝福となる(ゼカ八・一三)。「罪が満ち溢れたところには、恵みがさらに満ち溢れた」(ロマ五・二〇)。そして歴史の行程の中で、すべての人種――エジプトではハム人、アッシリアとバビロンではセム人、全般的追放ではヤペテ人――がイスラエルを裁くのに協力したように、彼らはいつの日か栄光の王国の中で皆共に、イスラエルと一緒に、祝福される(イザ二・二〜四、一九・二四、二五)。「ああ、神の知恵と知識との富の深さよ。その裁きは何と測り難く、その諸々の道は何と尋ね難いことか!この御方に永遠に栄光がありますように。アーメン」(ロマ一一・三三、三六)。