「永遠者について尋ね求める人が幸いなのではない。永遠者を尋ね求める者が幸いなのである。」
世界の創造、贖い、究極的完成――さながら三つの際立った壮大な象形文字のように、この三つの問題は人類の霊的歴史の中に屹立している。いまだかつてこれらの問題を無頓着に通り過ぎた民族は一つもない。むしろ、あらゆる時代の最も偉大な知性の持ち主たちが、これらの問題を解き明かそうと努めてきたのである。
それに対する答は多様な相反するものだった。全く不可解なこともしばしばあった。相次いで思想体系が考案され、一つの宇宙創生論に別の宇宙創生論が続いた。一人の人の廃墟の上に、別の人が自分の思想体系を築いている。依然として今日、人は全知力を傾けてこれらの問題と格闘している。
しかし、常に答は存在していたのである!神御自身がそれを明らかにして下さっていたのである。神の永遠の御思いは、地上のあらゆる出来事の成り行きの遙か上に浮かぶ単なる「想念」では決してなく、創造的行為である。この創造的行為は同時に、自らを歴史全体の中に直接組み込み、密接に深く織り込んで、歴史全体の「中に、共に、下に」効果的に自らを現す。「諸々の時代の歴史は人類の歴史であり、人類の歴史は神の歴史である」。
しかし、神が与えるこの答とは神御自身である。御子のパースンにおける神御自身である。永遠の「御言葉」として御子は全宇宙におけるすべての神聖な啓示の中心であり、太陽である。
万物は神から発する。ここに過去の初源的基礎、すなわち世界の創造の性質が明らかになる(コロ一・一六、ヨハ一・三)。
万物は神によって完成される。これは現在の問題、すなわち世界の贖いの過程を解き明かす(ロマ一一・三六)。
万物は神に戻る。ここに未来全体の目標、すなわち世界の究極的完成全体の本質的性格全体が明らかになる(一コリ一五・二八)。
このように神は主であり、キリストにあって示されている。神は常世の岩であり、あらゆる存在の人格的な生ける第一の基盤である。
しかし、永遠の御言葉は語られた御言葉を通して自らを明らかにし、語られた御言葉は書き記された御言葉となり、書き記された御言葉は聖書となった。したがって、聖書は世界の出来事の鍵であり、人類の書であり、歴史の書である。
したがって、すべては聖書を理解することにかかっている。聖書がなければ、われわれは地下牢の中を全く光を持たずに手探りで模索する被造物にすぎない。しかし、聖書が昇る人の上には太陽が昇り、それと共に天とそのあらゆる輝きが昇る。その人の道は光で照らされ、その生活は光となり、時は一変し、神のものが勝利する。そして、
「今は永遠である」
という偉大な言葉をますます理解するようになるのである。