第一 幕屋の歎き――来世の欲求

藤井武

我等は知る、我等の幕屋なる地上の家やぶるれば、神の賜う建造物たてもの、すなわち天にある、手にて造らぬ、永遠とこしえの家あることを。このゆえに我等は歎き、天より賜う住所すみかをこの上に着んことを切に望む。これを着るときは裸にてある事なからん。我等この幕屋にありて重荷を負えるごとくに歎く。これを脱がんとにあらでこの上に着んことを欲すればなり。これ死ぬべき者の生命いのちに呑まれんためなり。我等をこの事に適うものとなしたまいし神は、またそのしょうとして聖霊を賜いし者なり。このゆえに我等は常に心強し、かつ身にるうちは主より離れるを知る、見ゆる所によらず、信仰によりて歩めばなり。かく心強し、願うところはむしろ身を離れて主と共にらんことなり。されば身にるも身を離るるも、ただみこころにかなわんことをつとむ。我等はみな必ずキリストの審判さばきの座の前に現われ、善にもあれ、悪にもあれ、各人おのおのその身によりてなしたる事にしたがいて報いを受くべければなり。(後コリント五の一~一〇)

一 死は万事の終局なるか

我等の「幕屋なる地上の家」、建造物たてものにあらざるテント張りの家、ただしばしの地上の住所すみか、すなわち肉体である。我等の肉体もしやぶれなば、死が我等を襲い来たらば、如何いかん。その時万事が終るのであるか。

古き古き問題である。しかして今なお新しき問題である。何人か幾度いくたびもこの問題を抱いて独り静思しないであろうか。ああ死、遠かれ近かれ我等を待ち設けつつある死、すべての生命を呑み込んでやまざる渺茫びょうぼうたる暗黒の大海、彼処の岸を限りとして我が生涯がことごとく尽きるのであるか。我なる者が彼処に消えてしまうのであるか。あるいは知らず、海の彼岸にまた新しき陸が続くのではないか。

今なお新しき問題である。今なお万人がこの大いなる秘密の解かれんことを願って居る。しかしながらもしいわゆる来世問題に関する興味又は熱心の程度に時代的消長があるとするならば、現代は疑いもなくこの方面に著るしく冷淡なる時代に属する。少数者を例外として、世の多くの人は来世の有無を計算の中に入れない。来世はらばし、無くもまた不可ならずとの立場において、遺漏なき生活を営もうと彼等はつとめつつある。しかして多分死が万事の終局であろうとは大体において彼等の厭々いやいやながらも予期する所である。ただ先般の世界戦争は幾百万の家庭をして急劇に死の悲哀を痛感せしめ、従って再会の欲求を刺激すること切であったため、一時欧米の天地に来世の希望勃然ぼつぜんとして復興するかの観があったが、戦乱一度ひとたび収まりてより我等にもたらさるる報告は、僅かに交霊術スピリチュアリズムその他の迷信の流行のほか、前にも勝る現世的思想の旺盛を語るに過ぎない。我国にありてはことに来世の観念が稀薄である。何故に来世問題はしかく現代において軽んぜらるるのであるか。思うにその主要なる原因は、一方においてはこれを近世の唯物主義の思想に帰すべく、他方においては「永生」を時の問題として認めずただ質の問題としてのみ扱う所の一種の哲学思想にこれを求むべきであろう(我国民の現世主義はこれらの原因のほかになお儒教、武士道及び一派の仏教の感化と、又ある他の一派の仏教の伝えし浅薄なる来世観に対する反動とによって醸成せられし、旧来の国民的性格に基づく所が多いと思う)。近世の唯物的思想は主として自然科学の産物である。なかんづく急速なる発達を遂げし生物学は、すでにその領域を人にまで推し拡めたるのみならず、さらに進んで人のすべての生活を生物学的に説明し去らんと企てつつある。しかして生物学的説明はすなわち物質的説明である。人生の活動をことごとく物質的に説明せんとする、これ確かに現代の大いなる風潮ではないか。科学者を始めとして経済学者、文学者、その他の社会的指導者また一般民衆は多少の差こそあれ、ひとしくこの思想の感化の下にあるのではないか。かくのごとくにして彼等は現在の肉体の解消後における人の生活を信ずるあたわざるのみならず、宗教そのものに対する興味をも失いつつあるのである。又ある真摯しんしなる一派の人々は言う、永生とは時において永続する生活ではない、質において充実せる生活である、現在の刹那毎に真と善と美とをもって充実したる生活こそ真の永生である、そはたとい如何に短くして終るとも、これによって実現せられたる貴き性質は神に在りて永遠に保存せらるるのであると。かくのごとくにして彼等は個人の生命の不朽を必要とせざるのみならず、かえって時をもって永生の観念の要素たらしむる思想を卑しめつつある、これらの理由に加うるに、地上生活における享楽手段の増加や、また各種の文化的運動の好況等が、相率いて現代人の心を強く現世にき付け、もって彼等の来世観をはなはだしく凋落ちょうらくせしめたのであろう。

しかしながらかくのごときはもとより変態たるに相違ない。来世が果たしてるにもせよ又は無いにもせよ、少くともこれを欲求するの心は人の遂になげうつあたわざる情性である。誰か死の海の彼岸における葉蔭涼しき永遠の園の存在を願わないであろうか。誰か愛する者との再会を切に望まないであろうか。我等は予想する、現代人が唯物的思想の冷たさに堪えずして、これに対する謀叛を企つる日の必ずしも遠くないであろうことを。すでに教授チンダルさえ言うて居る、「私は多年の自己観察の結果、唯物論が私に訴うるは私の心が曇りなくかつ勇気につる時ではない事に気付いた。強固にして健全なる思想の前にありては、唯物論は我等を取り囲める神秘について何の解決をも提供することなく、常にただ雲散霧消するのみである」と。けだし人生を唯物的に説明せんとして、その最も貴きものを逸し去るは当然である。また永生は質にあると言うて個人の生命の不朽を必要ならずとする観念のごとき、一見はなはだ高尚のようではあるが、実は不徹底のそしりを免れない。およそ虚しく消滅して無に帰すべからざるは、貴きものの通性である。ゆえに永生は時の問題でないと主張する論者も、個人の生活において実現せられたる貴き性質が何等かの方法により永存すべきを認めざるをえない。すなわち彼等は曰う「神にりて」と。しかしながらこは果たして意義ある陳述であるか。河が河としての存在を終ると共にその流水を大洋に委ねるように、個人は個人としての存在を終ると共にその貴き性質を神に委ね得るものであるか。我等はここに明白なる汎神論的思想を見る。人格と人格との接触より成る関係にありては、個性を離れて他の人格に移りて存在し得べき性質なるものは無い。永生の価値を認めながら、個人の生命の不朽を必要ならずとするがごときは、畢竟ひっきょう自家撞着である。我等は現代の智者等がこの過誤を発見して、再び清新なる希望を来世につなぐに至る日の近からんことを祈る。

来世の生活は人の自然の欲求である。ゆえにその希望はひとりキリスト教の専有物ではない。いな、宗教という宗教にして来世の希望を人に提供しないものはない。しかのみならず、純粋なる宗教の範囲を超えてすら、来世の希望のみは何等かの態において早くよりすでに存在したのである。博士スイート曰う「人の霊魂が死後にも存続する事は、エジプトにおいてはヤコブとその子等とが彼処に下りし前より説かれ、バビロンにおいてはアブラハムがウルを出で立ちし前より教えられた。太古の二大文明がひとしくこの真理を認めたのである。実に今より四千年又は五千年前のエジプト人等は死後の生活について想うこと今日の我等キリスト者の多数よりも遥かに多くあった」と。西方日の没するあたりに死者の生くべき国あり、其処には自ら一度ひとたび死を経験して復活したるオシリス(Osiris)なる神が四十二の他の神等を率いてすべての死者の霊魂を支配し審判するというが彼等の来世観であった。バビロン人に至っては、死者の住所すみかをもって地下の大いなる洞穴のごとき世界にりとなし、其処に住む者は日の光を見ず、また塵を食ろうて生活するというごとき、著るしく陰鬱なる観念を抱いたとはいうものの、しかもなお死が万事の終局であるとは彼等もこれを認めなかったのである。ひるがえってギリシャ半島をうかがわんか、その詩人文学者等が来世を歌うの声は意外に低かったといえども、哲人ソクラテスはひとり高らかに叫んで曰うた、「霊魂は不朽不滅である。そは確かに他界において存続するであろう」と。しかして彼の弟子プラトーはさらに明白なる語調をもって説いて曰く「死は霊魂と肉体との分離に過ぎない。清き霊魂はこれによって禁錮きんこより解放せられ、いよいよ高き純化のみちを辿り、遂にその淵源たる神の懐に帰るであろう」と。かくて彼に取って現世生活は明らかに来世の準備であったのである。又古き悲劇詩人ソフォクレスの傑作『アンチゴネ』中にも死を歌いし言として左のごときものがあるという(この一項スイート博士遺稿『来世の生活』に負う所多し)、

されどうるわしき希望を我れ抱く、すなわち彼処に至らんか、
我が父は愛をもて我を迎えん、しかり、汝の父も、
また我が母も汝の親しきいとおしき兄弟も。

霊魂の不滅、又は死後の再会、その他何等かの態における来世生活の希望あるいは少くともその欲求は、ほとんど人類の本能である。死が万事を終るとの冷たき観念は、いやしくも霊的生活を営む者に取ってえがたき苦痛である。この一事は、ナイルの河畔にピラミッドの姿なお若かりし頃より、唯物的思想の旺盛なる今日に至るまで、程度の差こそあれ、その実質において少しも変わらない。人は今も昔と同じくその心の深き所において矢張やはり来世を慕いつつあるのである。されば近世の有名なる思想家にしてキリスト教に冷淡なる又は明白にこれを否定し攻撃したる者の口よりすら、我等はしばしば来世に関する希望又は欲求の声を聞く。R・ニコル氏はその近著『永遠の世における再会』においてこの問題に関する二三の興味ある実例を掲げて居る。その一は詩人スインバーンである。彼は英国のニーチェとさえ呼ばれ、イエスの名を挙げてこれを誹誇したる人であった。この人の筆に時として次のごとき文字の上りたる事あるは少しく意外とせざるを得ない。

現世に勝る来世の生活に関する彼(ヴィクトル・ユーゴー)の信仰の著るしき熱心を思い、又マッヂニが常に己を愛するすべての人に対してこの信仰の必要とその確実とを如何いかに強く力説せしかをおもう時、私は 彼等が正しくあったに相違ないと深く感ずる――たとい霊にたされたる彼等の心に透明にして一点の疑いもなかりしこの秘義が、私のごとき者には余りに深遠にして困難なるがごとく見ゆるとはいえども。しかしてもし彼等が正しくあったならば彼等を心より愛したる、また到底値せざるの親切をもって彼等よりむくいられたる私は、必ずや再び彼等と相見あいまみゆるであろう。

その二はカーライルである。彼のごとき霊的炯眼けいがんを具備したる天才が、明白なる言語をもって来世をうたうはえて怪しむに足らぬかのごとく見ゆるも、しかしながら彼が果たして福音的の意義においてキリスト者と称し得べき人であったかどうかは確かに大いなる問題である(ゲーテに対する彼の異常なる尊敬のごときは少なからず私を躓かせる)。しかるにもかかわらず、カーライルは終始変わらざる来世信者であった。一八二三年、彼は後に己が妻となりしジャンニー・ウエルシに書き送りて曰く「私は未来の輝く国における再会の希望を抱くがゆえに、死をもって人の至上の特権となす者である。もし我等彼処にて相会うのでないならば、もし我等を去りし者が消えて跡なき永遠の無に帰したるに過ぎぬならば、ああ神よ、汝はそもそも何のために我等を造ったのであるか」と。爾来じらい春秋を重ねること幾十度び、彼の心労多き生涯もようやくその晩年に入りし頃、妻は彼に先だちて眠った。その時彼の切なる悲痛を慰めしものはただ「我等が遂に再び愛する者等と共に在るべき、かの静けき国」の希望のみであったのである。彼の父の死せし時にもまた次のごとくに彼は書き記した。

さらば愛する父よ、この影のごとき世にありて今は最後のお別れなり。されどやがて実在の世界にありて神願わくは我等を完き聖さと完き愛とにおいて再び会わしめたまわんことを。

その三はヘンリー・トマス・バックルである。彼の名はその著『文明史』と共に世界に喧伝けんでんせられる。社会の進歩を道徳的方面より見ずしてもっぱら知的方面より捉えたる彼は、キリスト教に対する積極的の反対者であった。しかし彼もある時は己が衷心の最も深き声を表わさんと欲して、自ら嫌いしキリスト教の信条中死者の復活と来世の生命とに関する一句を借用せざるを得なかったという。正直なる史家の苦衷くちゅうまた同情するに足る

スインバーンといいカーライルといいバックルといい、彼等は多数の代表者に過ぎない。幾多の人が彼等と同じくあるいは純なる福音の外に立ち、あるいは正面よりこれを呪いながら、なおその目を来世に向かって注いだのである。これもとより来世の生活が人のおさうべからざる本能的欲求たるに基づくとはいえ、もしその事にして明白なる背理又は疑いもなき迷妄ならんには、決してかくまでに人を動かすことが出来なかったであろう。来世の希望が時に唯物論その他の思想界の大波におおわるる事あるにかかわらず、遂にその葬り去る所とならないのは、それがただに人の深き欲求に根ざすがゆえのみならず、理論上においてもまた何等かって立つべき根拠を有するからである。もちろん来世問題は科学的問題のごとく実験室においてこれを実験することは出来ない、また社会的問題のごとく人の上にこれを実施してその結果を証明することは出来ない。誠に来世問題の実験又は証明は困難である。しかしながら我等は問う、何人が来世の生命の虚無を立証し得たかと。もし弁護論が困難ならば、否定論は絶対に不可能ではないか。我等はいま如何いかなる哲学者科学者又は心理学者といえども動かすべからざる論拠をもって来世観念を倒壊し去りたる者あるを聞かない。むしろ彼等の中の大いなる権威者にしてかえって不朽生命の合理性を認むる者多きは見逃すべからざる顕著なる事実である。哲学者としてのヘルマン・ロッツエ、心理学者としてのウィリアム・ジェームス、医学者としてのウィリアム・オスラー、これらの巨頭によって擁護せらるる来世の希望は果たして人の理性に適合しないものであるか。もしかの近世科学の泰斗たいとマイケル・ファラデーにして次の言あるに至ってはこれを如何いかに説明すべきであろうか。

私は思う、永別は死の兄弟なりというがごときは、少なくともキリスト者にありては、死をいるものである。永別ならば再会があり得ない。しかるに死はキリスト者には再会の思想中に含まるるすべての希望を提供する。あたかも罪の観念より救いのうるわしき希望のづるがごとく、死の観念より墓の向側における新しき生活の希望が来たるのである。(その姪デーコン夫人に送りし書の一節)

一人が科学者たり信仰家たるによって互いに矛盾する二箇の人格を保有し得べくばすなわちむ。しからざる限り、ファラデーをしてこの言あらしめたる来世の希望は、いまだ軽々しく不合理又は迷妄の名をもってこれをしりぞくることが出来ない。

これに反して、死が万事の終局であるとは果たして不合理なる観念ではないか。人のすべての生活が死の床にて全く無に帰するとは果たして首肯し得べき思想であるか。無に帰するに適するものあり、またこれに適せざるものがある。前者は本来その性質上虚しきものでなくてはならぬ。完きもの欠くる所なきものはもとより理由なくして消滅すべきでない。また今は完からずといえども完全を目指して進みに進みその停止する所を知らざるものも、ひとしく永遠の存在を要求せざるを得ない。限りなき潜勢力せんせいりょくを蓄えながら中途にして挫折し滅失するがごときは、特殊の説明なくしては人の理性の承認するあたわざる現象である。しからば如何、人は死と共に無に帰するという。こはむなしき者の運命として当然の事であろうか。誠に虚しきは人である。偽り多くして愛に乏しく各々己がみちのみを求めて迷い往く者、かくのごとき者が昆虫魚介の類と共に相追うて虚無と化し去るは当然の運命であると言わば言い得るかも知れない。しかしながらかく言いつつもなおその中に何等かの物足りなさを感じないか。誰がこの冷ややかなる断定に対して満腔まんくうの賛成を表し得るか。虚しき人の内にも滅びんには余りに惜しき何ものかがるではないか。もし彼の霊性はすでに中心まで腐蝕しおわれるがゆえに取るに足らずというならば、少なくとも彼の知性は如何いかん。知性は光明を求めて峰より峰へとよじ渡り、何処に至るも決して足れりとしない。誠にフォスデック氏の言うように、「知識は一峰を超ゆる毎に次の峰の彼方なるまだ見ぬ国よりの呼び声を聞いて進む開拓者である。しかして人の知性自らこの限りなき潜勢力せんせいりょくを覚知するがゆえに、その遂に臨終に際するや、かのゲーテのごとく『さらに多くの光を』と叫びつつ去り往くのである」(『不滅確認論』中の一節)。光明また光明、飽くなきの慾望をもってこれを摂取し、遂に無限の空間も無窮の時間もことごとくこれをわが小さき頭脳中に収めずんばまざらんとする。その野心の大きさとこれにふさわしき潜勢力せんせいりょくとは確かに宇宙の一偉観である。かくのごときものが死と共に忽焉こつえんとして虚無に帰せんか、知性存在の理由た何処にあるか。その前途に対する限りなき可能力はいたずらに消滅せんがために賦与せられたのであるか。不朽生命の非認論者はまずこの大いなる疑問を明解するを要する。

しかしながら知性貴しといえどもと人の性格中の最も重き地位を占むるものではない。人の人たる所以ゆえんはその霊性においてある。しかして霊性すでに罪をはらみ、罪はさらに死を生んだ以上、知性のごときはたとい如何いかに大いなる潜勢力せんせいりょくを蓄えるというともこれが犠牲に供せられざるを得ない。死が道徳的理由により罪のあたいとして人に臨んだ以上、この種の犠牲は実にやむをえない。すなわち罪の存在がすべての不合理を説明するのである――かくのごとくに解釈し来たれば、来世非認論はここに遺憾なく弁護せられたかの観がある。罪のゆえの死である。従ってその結果の不合理なるは当然である。この根本的説明に対して我等は一言の答うべきものあるを知らない。誠に罪という事実をその背後に横たえて死に面する時、死がたとい如何いかに不合理にして如何いかに冷たき意義を有するともこれをなじるの理由少しも無い事を感ぜざるを得ない。何となれば罪そのものがすべてこれらの禍いに値してなお余りあるものであるからである。

しからば我等は罪のゆえに一切の希望をなげうちてただ悄然しょうぜんとして墓に下らねばならぬか。死は万事の終局なりとの戦慄せんりつすべき観念は罪のゆえに遂に事実であるか。あるいはそうであるかも知れない。さりながらもししからんには少なくとも罪を贖われし者に取っては問題はさらに大いに困難である。死の原因たる罪の力よりすでに解放せられし者が如何いかにして虚しく墓の中に朽ち果つることが出来ようか。彼にありては、知性はさておき、霊性そのものが神によって更新せられ、無限の発達能力を賦与せられて、日々に強くかつうるわしく、力より力へ栄光より栄光へと絶えず進歩しつつあるのである。もし光明を慕うてまざる知性の存在だに人の生命の不朽を合理的たらしむる所以ゆえんならば、ましてすでに神の子たりかつついに全く神にんとしつつある霊性の存在においてをや。かの信仰の善き戦いをたたかうこと幾十年、「患難なやみ苦難くるしみも迫害も飢えも裸も危険あやうきも」彼を神の愛より離れしむるあたわざりしタルソのパウロ、しかして一人の筆をもって新約聖書の半をつづりこれを我等にのこし往きしかの大使徒パウロが、今はただ何処かの土と水とに化して居るに過ぎぬのであろうか。かの三十年の貴き半生を、喜びてアフリカ土人のために献げ、ついには死の床にひざまずきて彼等のために祈りつつ世を去りし霊魂の熱愛者デビッド・リビングストーンが、その心臓はアフリカ内地バングエオロ湖畔の樹下に腐り、その骨はウェストミンスター僧院の土中に朽ちたるまま、宇宙何処にも今は彼の生命を留めないのであろうか。ああ我等をしてかくのごとき背理を信ぜしむる前に、まず宇宙の合理的存在そのものを否定せしめよ。宇宙の合理的存在は宗教よりもむしろ科学の提唱である、「宇宙の秩序が合理的であるとの強き確信、及び何時の世にも通じて破れざる秩序が宇宙を支配するとの信仰に至っては、私自らこれを受け入るるのみでない、すべての真理中の最も重要なるものは多分これであろうと私は思う」とは信仰家ならぬハックスレーの言であった。「人もし全宇宙を考察せば、その存在を偶然の結果と見ることは不可能である」とはチャールス・ダーウィンの主張である。しかして一切の科学はこの偉大なる仮説を基礎とすればこそ成立するのである。誠に宇宙の存在もし合理的ならずんば、人生には何の意義があろうか。しかるに死の原因たる罪の問題はすでに解決せられ、新たに起こりししき霊性をもって愛と勇気とにちたる活動を続け、さらに神の完きがごとく完き生活に達せんと欲して驚くべき力をもて日々に成長進歩しつつある者が、一朝その肉体の生理的作用を停止するや、あたかも花火の消ゆるがごとくに全然生命を喪失して永遠の虚無に帰するというがごときは、如何いかにしても思惟すべからざる最大の不合理である。死は今なお罪の奴隷たる者、腐蝕したる霊性そのままの者に取ってはあるいは万事の終局であるかも知れない。しかしながら少なくとも罪の羈絆きはんより脱したる者、新たなる霊性を獲得したる者に取っては、死はその生命発展の途中における一階梯かいていたるより以外の意義を持つことは出来ない。

もし又さらに一歩を信仰の領域に進めんか、宇宙の存在が合理的であるばかりでない。その上に神は愛である。しかり、神は実に愛である。彼が己に依り頼む者を如何いかにして塵に化せしめ得るであろうか。たとい人自らはこれを忍ぶとも、神は堪えたまわない。しかのみならず、神はその子等の生命完成の日を見るまでは決して安んじたまわないのである。キリスト者の生命の不朽と完成とは彼等自身の願いたるよりも、むしろ父なる神のみがたき要求である。

エホバ我が右にいませば、我れ動かさるることなかるべし。このゆえにわが心は楽しみ、わがさかえは喜ぶ、わが身もまた平安やすきらん。そは汝わがたましいを陰府よみに棄て置きたまわず、汝の聖者を墓の中に朽ちしめたまわざるべければなり。汝生命いのちの道を我に示したまわん。(詩一六の八~一一)
我は汝等の内に善き業を始めたまいし者の、キリスト・イエスの日までにこれを全うしたもうべきことを確信す。(ピリピ一の六)

このゆえに来世問題はこれをキリスト者の問題として見る時は極めて明白である。人の霊魂が本来不滅なるといなとに論なく、キリスト者はイエス・キリストを信じて神の子とせられしその時以来、朽つべからざる生命に入ったのである。しかして日々確実にその完成に向かって進みつつあるのである。宇宙の合理的存在と神の愛とがこの事を証明する。死はあるいは来たって彼の肉体をうち砕くであろう。しかしながら彼の生命は滅びない。かえって死の海の彼岸にうるわしき永遠の国が彼の生命の最も自由なる活動を見んとて待っている、確かに待っている。たとい人の自然性としての不朽は疑うべしとするも、キリスト者の生命の永存と完成とは誤まらない。何となれば彼の場合にありては永生は本来の所有ではなくして、その新生の日に愛の父より賦与せられし特殊の恩恵であるからである。従ってそは本来の所有よりも遥かに優れたるものでなくてはならぬ。霊魂の不滅もしすべての人の運命ならんか、キリスト者の場合にありては、さらに彼の全生活の限りなき進展とその完成である。キリスト者の来世の希望はただに不滅という消極的方面に止まらずして、飽くまでも光輝にちたる積極的のものである。其処にはかの古代バビロン人の抱きたる陰鬱いんうつにして呪われたる観念のごときは片影をだに宿すことが出来ない。哲人プラトーンの深遠なる未来観さえ、これを聖書が提供する所のキリスト者の来世生活に対比する時は、ほとんど言うに足らぬのを覚ゆるのである。

二 キリスト者の来世生活

しからばキリスト者の来世生活とは如何いかなるものであるか。曰う「我等は知る、我等の幕屋なる地上の家やぶるれば、神の賜う建造物たてもの、すなわち天にある、手にて造らぬ、永遠とこしえの家あることを」と(一節)。霊魂の不滅については一言も触れない事に注意せよ。けだしこれに触るるの必要がないからである。キリスト者の霊魂が死後なお不滅なるは言をたない。聖書が特に明白ならしめんと欲するはかえって身体の問題である、霊魂の積極的活動の機関たる身体の問題である。我等が現在の肉体もしやぶれんか、おそるるなかれ、さらに勝れる身体が我等のために備えらるるのであるという。すなわち一時的の幕屋に対して永遠の建造物たてものである。人の手のわざに似たる不完全なる家に対して、手にて造らぬ、神より賜う所の家である。地上にありてすべての地的性質を備うる住所すみかに対して、今は天上神のもとに蓄えられ後に我等の上に降るべき住所すみかである。ひとしく家である、身体である。しかしながらその性質において現在の肉体と全然対照をなすべきもの、かくのごとき一種の特殊なる身体がキリスト者の未来に備えらるるのであって、この身体をまとうての活動が彼の永遠の生活であるという。あたかもキリスト者の来世生活の特徴がこのしき未来の身体をもって代表せられるというかのごとき語調である。ゆえに我等は今少しく詳細に、いわゆる完全にして永遠なる身体の何であるかを探らねばならぬ。

思うにこの問題に関する最も良き註解はコリント前書第十五章三十五節以下においてこれを求むることが出来る。ここにパウロはキリスト者の受くべき未来の身体が現在の肉体と全く性質を異にするものである事を明らかにせんと欲して、まずその博大にして精緻せいちなる天然観察に訴え、植物と動物と天体すなわち大自然の全部をしてこれが豊かなる類例を提供せしめ、しかる後に力強き結語を下して曰うた「血気の体あるごとく、また霊の体あるなり」と。霊の体!それである。それがいわゆる「神の賜う建造物たてものすなわち天にある、手にて造らぬ、永遠とこしえの家」である。しかしてこの短き一語が如何いかなる語にも勝りてよくその性質を説明するのである。霊の体というて、物質的の体に対する霊的の体の意味ではない。もししからば体はもはや体ではない。前の語の示すがごとく、血気にふさわしき体に対する、霊にふさわしき体である。人の生命のうち神と交通するものを霊といい、それより以下なる思索感性情慾等をつかさどるものを血気という。しかして我等が現在の肉体は疑いもなく血気の体である。何となればそは思索や感性や情慾やの機関としてこそふさわしいが、キリスト者の神より賦与せられたる聖き霊の活動に応ぜんがためには余りに不自由にして薄弱にして醜穢しゅうわいなるものであるからである。誠に霊は翼を張りて高く広く天翔らんと欲するも、体はこれを地につなぎて放たない。我等キリストの愛に励まされて人類的熱愛を実行せんとするに当り、弱き身のこれを妨ぐること如何いかに多いかな。あるいは心ゆくばかり神に祈らんとして、疲れたる肉体のために十分に果たし得ざりし悲しき経験を君はたないか。内なる人は日々に新たなれども、外なる人は次第にやぶれ往いて、内外益々ますます相副あいそわざるのうらみがある。これすなわち幕屋なる地上の家である。すなわち血気の体である。しかるにこの体にしてもしやぶれんか、何ぞ憂えん、かえってさらに勝れる体がある、「血気の体あるごとくまた霊の体あるなり」。霊がその主人として最もふさわしき体、霊が思うままにこれを動かしこれを用いるの体、人の霊的生活のすべての高き理想を遺憾なく実現し得る機関としての身体、従って「朽ちざるもの、光栄あるもの、強きもの」(前コリント一五の四二、四三)、かくのごときものがキリスト者の来世生活を代表する特殊の生活機関である。かくのごときものが神の賜う建造物たてもの、天にある手にて造らぬ永遠とこしえの家である(別項「終わりのラッパ鳴らんとき」参照)。

我等はもちろん生理学上それが如何いかに説明せらるべきかを知らない。いな、元来血気の体に適用せらるべく起こりし今日の生理学が霊の体を説明し得るはずがない。霊の体の実質については我等はただ新約聖書中の僅少なる暗示を握るのみ。「第一の人(アダム)は地よりでて土に属し、第二の人(キリスト)は天よりづる者なり。この土に属する者にすべて土に属する者は似、この天に属する者にすべて天に属する者は似るなり。我等土に属する者の形をてるごとく、天に属する者の形をもつべし」(前コリント一五の四七~四九)とあれば、我等の現在の肉体がアダムの肉体に似たると同じ程度において、我等の未来の形はまた復活のキリストに似たる者であるに相違ない。ゆえにキリストの復活体に関する聖書の記事はキリスト者の霊体の実質を説明すべき最上の資料である。ただしキリストの場合において、その昇天以前四十日の間は、彼が人類の救主としての特別の使命に基づき、しばらく使徒等の目と耳と手とに訴えて自己の復活及び彼等の将来に関する啓示を与うるの必要あったがため、いまだ十分なる霊体に化せられていなかったのであるかも知れない。そのために彼はなお肉と骨とを備え、パンをき魚を食し、また手にて触れ得べき状態においてったのであるかも知れない。もししからば昇天後のイエス、すなわちステパノが死に臨みてその神の右に立ちたもうを見たる、パウロがダマスコの近郊にてひるの日よりも強き光として見たる、あるいはヨハネがパトモスの島にて七つの金の燈台の間に歩みたもうを見たるその形こそ、我等が未来の姿の典型であろう。要するに霊体の実質如何について我等の示さるる所ははなはだ乏しくある。しかしながら問題は実質の如何ではない、その職能である、その地位である。実質をして時到るまで不明のままにてあらしめよ。ただそれが神の前にありて如何いかなる使命を果たさんとするかを明らかならしめよ。しかして霊の体は永遠の世におけるキリスト者の霊的生活を最も完全に実現せしむべき不朽にして強健にして光栄ある機関であるという。霊体そのものにつき我等が現在において知るを要する事はこれをもって尽きるであろう。我等は続いて問う、この霊体をもって代表せらるるキリスト者の来世生活の性質は如何いかんと。

何よりも明白なるはそれが溌剌はつらつたる活動の生活である事である。霊体の必要――不朽にして強健にして光栄ある機関の必要その事がこれを語る。もしただ霊魂の休息のみの生活ならば、何とてかくのごとき機関を必要としようか。睡眠中は現在の肉体すらその必要の大なる部分を失うのである。すべての活動は適当なる機関を使用するによって最も完全にしてかつ有効なるものたることが出来る。キリスト教の来世問題が単なる霊魂不滅の問題として終るあたわずして他の宗教又は哲学に類例なき特殊の身体問題を伴う所以ゆえんは何処にあるか。他なし、キリスト者の永遠の生活は最も完全にしてかつ有効なる活動的生活でなくてはならぬからである。

多くの人は来世をもって休息の生活であると思う。彼等は曰う、活動は安息をんがための手段に過ぎない、活動そのものに価値があるのではない、貴きはその結果なる安息である、これを目的とすればこそ疲労をもいとわずして活動を続けるのである、現世はもちろんはげしき活動を要する時であろう、しかし来世は楽しくして静かなる永遠の安息の世でなくてはならぬと。かくて彼等は天国の生活としいえば、清き岸辺に親しき者と声を合わせて讃美歌をうたい続けるような生活をのみ想像するのである。彼等の言う所に真理が無いではない。天国はもちろん安息の場所である。其処にありて讃美歌は多分しばしば歌わるるであろう。しかしながら彼等の思想に二個の重大なる誤解あるを見逃すことは出来ない。彼等は真の活動の何たるを知らず、また真の安息の如何いかなるものなるかを解しないのである。活動は果たしてあるものをんがための手段であるか。果たしてそれ自身に価値なきものであるか。人が愛のためにその身を献げて他の人につかうる時、彼の活動そのものが目的であり歓喜であり満足であるのではないか。その時彼はある目的を達せんがための手段として働かない。手段は他のものをもって代用せしむることが出来る。愛のための活動はしからず。彼はパウロのごとく「我れもしこれをなさずんば禍いなるかな」と言うてその事に当るのである。誠にこれをなさざるが禍いであって、これをなす事すなわち活動そのものがさいわいなのである。すべて自己の利益のためならざる活動はみなこの性質を有する。すなわち活動それ自身に意義があり価値があり福祉さいわいがある。いわんや直接に神に奉仕する活動においてをや。この場合にありては普通の活動に伴う疲労さえもはなはだ少なく、ことに心的疲労に至ってはこれがためにかえって癒されこそすれ決して増し加わらない。心的活力の逓増ていぞう――力より力に進むこと――は直接に神につかうる純粋なる活動の特色である。しかして人の安息の正しき観念は実に此処から出る。安息と休息とは同一でない。休息の消極的なるに対して安息は積極的である。休息は活動の停止による疲労困憊こんぱいの治癒であって、安息の一部たるに相違なしといえども、安息はこれをもって尽きない。いな、安息の主たる要素はむしろ力より力に進む純なる活動においてある。この世的の活動については休息、しかしながら神への奉仕としての活動については没頭、かくのごときが真の安息であると私は信ずる。この観念をもって安息日を解すべく、またこの観念をもって来世生活を解すべきである(安息日は現世における一週一回づつの来世生活の予習である)。来世において我等はすべてこの世的の活動より休息するであろう。しかしながら来世生活の主たる要素は休息ではない、活動である。神のためにする没頭的活動、わが思想と行動との全部を名残りもなく直接に神に献げて行う不断の活動、親しく神に接してその声のままに彼の尽きざる意思を新しき実行に現わしゆく所の永遠の活動、それが来世における我等の生活である。「神とこひつじとの聖座みくらは都の中にあり、その僕らはこれにつかえ、かつその聖顔みかおを見ん……彼等は世々限りなく王たるべし」(黙示録二二の三~五)。しかしてかかる活動を最も完全にかつ有効ならしめんがため、疲れず傷つかずやぶれざる、強健にして自由にして光栄ある身体が我等に賦与せらるるのであるという。人の歓びにして何ものか神の意思を直接に実行する活動に勝るものがあろうか。いわんやその全く聖められたる霊はあふるる力をもって動き、新たに賦与せられたる体はあたかも優秀なる楽器の名楽に応ずるがごとく遺憾なくこれに応じて、神の好みたもう所ことごとくこれを如実に実現せしむる完全なる活動においてをや。来世は誠に最大歓喜の生活である。ただしそれは休息の歓喜ではない、溌刺はつらつたる活動の歓喜である。聖められたる霊と化せられたる体とは無為むいなる休息の生活に置かるべく余りに活力に富んでいる。彼等は神のためにする間断なきしかも常に新たなる活動をもって何よりの安息又は歓喜となすのである。

かくのごとくにして我等は知る、聖書がギリシャ哲学のごとく霊魂の不滅について語らずして、しき未来の身体を説くは、さらに大いなる恩恵を意味する事を。身体問題は霊魂の完全なる活動の問題である、すなわち霊的生活完成の問題である。この一事の確かめらるるありてキリスト者の前途にたぐいなくさいわいなる希望が輝き渡る。死よ、何時にても襲い来たれ、私は汝の背後に私の最も慕う所のものを見るがゆえに、すべて汝のとげに耐えることが出来る。しかしながら聖書が我等にもたらす嘉信はここに止まらない。もし歓喜につる来世生活が死なる出来事を抜きにして、直ちに現世生活に接続することあらば如何。これを笑うべき空想というものは誰か。聖書はその事の可能を教えるのである。死は必ずしも人の必然の運命ではない、キリスト者は何人も死を経過せずして光栄ある来世生活に移り得べき可能性を有すると聖書は此処彼処ここかしこにおいて明言するのである。そは如何いかなる次第であるか。我等が霊体を賦与せらるるは、何時ともはかられざるキリスト再臨の時であって、その時現に生存せるキリスト者はこの新しき体を着せられんがために必ずしも古き肉の体を脱ぐ(すなわち死する)に及ばず、いわば古き体をまとえるままその上に新しき体を着せらるれば足りる。しからば死すべきものが死するの暇なくしてそのまま生命に呑まれ、死せざるものと化するのであるという。これまた信ずるにはなはだ骨の折るる啓示である。誰か今日の科学をもってかかる事実を説明することが出来よう。しかしもし現象の不思議を争うならば生体が瞬時のうちに死体に変化する事と、不完全なる生体がたちまち完全なる生体に変化する事と、二者いずれが果たしてより多く不思議であろうか。まして原理よりすれば、罪を贖われし者は死の束縛より解放せられた者であるがゆえに、死を経過せずして永遠の生活に入るこそむしろ当然であると言わねばならぬ。ただ救贖きゅうしょくに関する神の大いなる経綸には自ら順序あり、朽ちざる霊体を賦与する事は再臨のキリストの事業として委ねられたのである。従ってその時に至るまでは死は依然としてすべての人を襲うといえども、キリスト者に取ってはこれは最早もはや例外的出来事たるに過ぎない。しかしてキリストの再臨は全く何時起るやもはかりがたき出来事であるがゆえに、すべていまだ死せざるキリスト者はその生存中に霊体を享受すべき可能性を有するのである。もしこの事にして実現せんか、彼等はすなわち遂に死のにがさを経験せずして、あたかも変貌のキリストのごとく、この身このまま朽ちざる栄光の態に化せらるるであろう。かくのごとき事実は今はキリスト者の多数さえもさながら迷信のごとくにしてこれを嘲笑する。しかしそは偶々たまたま彼等の来世観の不徹底と不熱心とを表明するのみ。来世を慕うて已まざりし初代キリスト者にありては、歓喜に溢るる未来の生活が死を飛び超えて直ちに現在の生活に接続し得べき事を少しも疑わなかったばかりでなく、彼等がこれを慕い求むるこころは、あたかも重荷を負えるがごとき切なる歎きとして現われたのである。すなわち曰う、「このゆえに我等は歎き、天より賜う住所すみかをこの上に着んことを切に望む。これを着る時は裸にてある事なからん。我等この幕屋にありて重荷を負えるごとくに歎く。これを脱がんとにあらで、この上に着んことを欲すればなり。これ死ぬべき者の生命いのちに呑まれんためなり」と(二~四節)。来たらんとする天よりの住所すみかを望んで心焦がれたる者の衷心ちゅうしんの声を聴け。今のキリスト者たるもの、身は「旅人、寄寓者やどれるもの」にてありながら、天にある聖き住所すみかを忘れ、俗人と共に現世の幸福を争うて余念なきがごときは彼等に対して忸怩じくじたらざるを得るか。

三 来世の確信とその現世生活に及ぼす影響

来世は人の自然の欲求である。しかしてその存在は何人も決定的にこれを非認することが出来ない。理論はかえって来世の必要を弁護する。すべての科学の基礎たる宇宙の合理的存在の原則は、来世なき世界をもって畢竟ひっきょう無意義たらしめる。加うるに神は愛なりとの観念をもってせんか、キリスト者の生命が肉体と共に墓の中にて腐朽すべしというがごときは想像にだもえざる所であるのみならず、その未来において必ず生命完成の日あるべきを予想せざるを得ない。すなわちキリスト者の現在の弱き肉体やぶれなば、さらに勝れる霊体の賦与せらるるありて、彼等は最も聖くしてかつ溌刺はつらつたる永遠の霊的活動を続くることが出来る。しかのみならず、あるいは死を経ずして直ちにこの恩恵にあずかり得べき可能性さえ彼等に附帯しているのである。

かくのごとくにして来世の希望はすべてのキリスト者のいだくところ、少なくともこれをいだかざるべからざるはずのものである。しかしながら希望必ずしも絶対に確実でない。キリスト者の未来の希望が確かに実現すべしとの客観的の証拠は何処にあるか。来世観念は如何いかにして誤まらざる確信となり得るか。推論又は伝説はたとえいかなる権威を帯ぶるといえども遂に人の心の根抵に一つの確信を喚び起すに至らない。確信は想像や理論や盲従の産物ではない。ただ事実のみよく人の全心を捉うるに足る。大哲ソクラテスさえその深遠なる知性の叫びとして霊魂の不滅を高唱しながら、なおこれをもって自己全心の確信たらしむることが出来なかったのである。彼は死があるいは人の絶滅なるやも知れずとの可能性を全くは拒まなかった。しかして我等の運命が二途のいずれなるかを確知する者はただ神あるのみと言うてこの問題を結んだ。「かくて彼もまたいまだ確かならざる未来へと去り往いたのである」。もって知るべし、理知は確信の代用をなさないことを。しからば我が未来の光輝ある生活が必ず実現すべき事を立証する事実又は実物は何処に存するか。

「我等をこの事にかなうものとなしたまいし神は、またそのしょうとして聖霊を賜いし者なり」(五節)。聖霊!すべてのキリスト者に賜わりたる神の霊、キリストを主と仰ぎし日より我等の心に臨みて我等を支配しつつある大いなる霊、それが我等の未来生活に関する唯一の確実なる証拠であるという。これあるによって初めて来世の希望は推理的断定の程度を超えて確信の域に入るのであるという。これあるによってたとえ不朽生命に関する哲学的又は科学的思想は如何いかに変化するとも、たとえ人の興味と熱心とは如何いかに衰退するとも、たとえ万人が来世を否定して寂しく暗き墓に下るとも、私はひとり目を挙げてかがやく未来を望み続くることが出来るのであるという。聖霊と来世との間に如何いかにしてかくも密接なる客観的の関係があるか。聖霊に如何いかなる性質の存するによりてそれが不朽生命の保証たる地位に立つのであるか。

パウロの筆はここにはその解釈に触れずして過ぎゆく。しかし彼は他の書翰において幾度いくたびか同じ問題を扱っている。なかんずく最も明白なるはロマ書第八章である。その十一節に曰く「もしイエスを死人のうちより甦らせたまいし者の聖霊汝等のうちに宿りたまわば、キリスト・イエスを死人のうちより甦らせたまいし者は、汝等のうちに宿りたもう聖霊によりて、汝等の死ぬべき体をも活かしたまわん」と。聖霊はただに貴き霊たるがゆえに我等の不朽生命を保証するのではない。それはかつて一度ひとたびある大いなる歴史的事実と縁を結んだのである。すなわちイエス・キリストの復活これである。彼の復活は如何いかにして起ったか。彼の身体は全く我等と同じ性質のものにてありながら、その葬られし墓の中に朽ちずして三日目に甦らしめられたる所以ゆえんは何処にあるか。曰く聖霊がその中に宿っておったからである。聖霊は彼を復活せしめたる父なる神の霊であると同時に、また復活せしめられたる子たる彼自身の霊である。この霊を宿せしがゆえに彼の身体の復活が行われたのである。しかしてれイエスの復活したというこの一個の歴史的事実が、人類の来世問題に関して有する所の意義は如何いかに大なるよ。この歴史的事実の一度ひとたび実現して以来、来世問題はもはや論議の問題以上事実の問題となったのである。少なくともある条件の下に人は復活し得る事、又はその身体が不朽のものに化せられ得る事が、事実によって証明せられたのである。「彼は死を滅ぼし、福音をもて生命いのちと朽ちざる事とを明らかにしたまえり」(後テモテ一の一〇)。従ってイエスの復活は単に彼一人に独特たる、我等自身とは何等の交渉なき事実として終ることが出来ない。神が彼を復活せしめたまいし根拠たるある条件がもし我等にも備わるあらば、我等もまた彼とひとしく復活又は栄化せしめらるるに相違ない。しからばその条件とは何か。聖霊である、聖霊がわが中に宿る事である。ゆえに曰う「もしイエスを甦らせし者の霊汝等のうちに宿らば、彼を甦らせし者は汝等のうちに宿る霊によりて汝等の死ぬべき体をも活かしたまわん」と。誠にイエスは人類の復活又は栄化の「初穂」となったのである(前コリント一五の二〇)。彼に属して彼の霊を受けたる者、すなわちある意味において彼とひとしく神の霊を内に宿す者は、必ず彼に倣いて復活又は栄化せしめられざるを得ないのである。ここにおいてか知る、不朽生命の疑うべからざる確証は聖霊に存することを。科学者と哲学者をして死後の生活を残りなく否定せしめよ。人類の輿論よろんをして来世の信仰を冷ややかに嘲笑せしめよ。私自身の頭脳をして未来観念をことごとく放擲ほうてきせしめよ。しかれども私の心の内に宿れるある者は私をして動かすべからざる確信を維持せしむるを如何いかにしよう。畢竟ひっきょう、来世の確信は聖霊の問題に帰着する。これを宿さざる者は千古に虚しき哲人といえども霊魂の不滅を高唱しながらなお一抹の不安を抱かずしては墓に下るあたわず、これを宿せる者はたとえ「千人その左に倒れ、万人その右にたおる」とも、ひとりとこしえの希望を歌いつつ進みくのである。

「死者もし甦ることなくば、我等いざ飲食のみくいせん、明日死ぬべければなり」とは、来世信仰の欠乏が人の現世生活に及ぼす影響を最も明白に表わさんと欲して、パウロが古き諺を引用して断定したる言である。ある人々はかくのごとく強き断定をいとい、殊更ことさらに反抗の情を鼓舞して、キリスト者の独断をあざけりつつある。ハックスレーがその子をうしなうた時、葬式の司会者によって聖書中のこの語の読まれしを聞き、彼は激越げきえつの辞を綴りてチャールズ・キングスレーに致した。曰く「私が小さき者のひつぎの側に侍して悲歎に暮れつつある時、かかる語を聞いて如何いかに大いなる衝撃ショックを感じたか、とても言い表わすことが出来ない。実に笑うべく憤慨すべき沙汰である。私が来世を信ぜざればとて、人たるの資格を失うて獣のごとき生活に堕落せざるべからずとは何たる言ぞ」と。この際における彼の苦痛に対して我等は心より同情を表せざるを得ない。彼をしてこの言を発せしめたる原因の大半は、あるいは無情なる牧師の態度においてあったかも知れない。しかしながら同情は同情である、真理は真理である。パウロが以上のごとくに言い、ルーテルが「来世なくば神なし。神なくば悪魔も地獄もなし。汝の死と共に万事は終る。しからば淫蕩、掠奪、殺人、その他好むがままを行うにしかず」と言うた時、彼等は果たして誇張の言をろうしたのであるか。来世を信ぜざる者の中にも立派なる道徳家の多い事は、この真理を打ち消すに足る事実であるか。いな、パウロ又ルーテルは問題の帰趣を語っているのである。不徹底はすべての差別を没却する。真理の闡明せんめいはただ徹底的観察にある。ある人が明白に来世を否定しながら貴き道徳的生涯を送りつつあるというか。疑うらくは彼の心中何等か不徹底なるものが存在しないか。彼はその来世否定論と相容あいいれざる何等かの理想を、いまだ全く抛棄ほうきせずしているのではないか。我等は信ずる、彼にしてもし来世否定論を正直にその絶頂まで運び往くだけの勇気を有するならば、彼は必ずや自己の生涯をもってパウロ又はルーテルの断定の誤まらざるを立証するであろうことを。

人生は夢である幻である、すべてが墓の入口まで、そこにて跡なく消ゆるのであるとの観念をもってある人の生涯の基調たらしめよ。又他の人をして、死は無きもののごとく、ただ現在よりもさらに貴き未来の生活に入るべきの確信をもって進ましめよ。二者の生涯に重大なる差別を生ぜざらん事は不可能である。もし前者においてパウロ又はルーテルの言そのままの実現を見ないならば、翻って後者を見よ。来世の確信が人の現世生活の上に及ぼす積極的特徴は、その欠乏の場合における消極的特徴よりも遥かに顕明である。積極的特徴とは何か。「このゆえに我等は常に心強し。かつ身にる間は主より離れるを知る。見ゆる所によらず、信仰によりて歩めばなり。かく心強し」と(六、七、八節)。常に心強し、かく心強しという、これ勇敢にしてかつ楽天的なる人生の勝利者の声である。主より離れるを知るという。これこの世との妥協を憎み俗化を排斥して已まざる貞節の士の叫びである。夏の空のごとくに晴朗にして雪の朝のごとくに清潔なる、かくのごときが来世の確信より生まるる現世生活の特徴である。

何故に来世の確信は人をして勇敢にかつ楽天的ならしめるか。彼は人生に無限の進歩的未来あるを知り、従ってその価値の測るべからざるものあるをおもうがゆえに、人生のために献ぐる如何いかなる犠牲をも敢えておしまないからである。又自己の生命の不朽にして早晩必ず完成せらるべきを信ずるがゆえに、如何いかなる蹉跌さてつも失望の理由とは成らないからである。すべての勇敢なる生涯は犠牲をおしまざる生涯である。しかして犠牲はその目的の価値の大なるほどこれを払うにやすくある。もしこの世のいと小さき一人のたましいといえども神の前に永遠の未来を有し従ってキリスト自らそのために生命を棄てしほどの価値を有するならば、これがために私もまたわが涙と血とを注ぐに何の惜しき事かあろう。現に幾多いくたの聖徒又は殉教者が皆この観念をもって貴き犠牲の生涯を送ったのである。又すべての楽天的なる生涯は失望を知らざる生涯である。しかして光輝ある来世生活の確信者には、何があるとも失望だけはあり得ない。そのき実例を詩人ブラウニングにおいて我等は見る。世界のかつて産出したる最大楽天者の一人は彼であった。彼はその有名なる辞世の詩『アソランド』の跋中ばっちゅうに自ら歌って曰く、

かつてその背を向けしことなく、ひたすら前へと進みし者、
雲は必ず晴るべきをつゆ疑わざりし者、
義はしばらく敗るとも悪の勝つべしとは夢にも想わざりし者、
倒るるは起たんがため、敗るるはさらによく戦わんがため、眠るはめんがためとなしし者。

彼をしてかくも弾力に富みたる勝利者たらしめしものは何であるか。彼は続いて歌う、

人の活動せわしき真昼時において
逝きし者(詩人自身)に歓呼をもて挨拶せよ。
彼に言え「進めよ、依然として背を向くることなく
励めよ、栄えよ」と、又叫べ「急げよ――戦え、とこしえに往け、彼世かのよにおいてもまた此世このよにありしごとく」と。

彼世かのよにおいてもまたとこしえに往かんとする者のみ、此世このよる間常に「我等は心強し……かく心強し」との告白を発表することが出来る。

来世の確信は又人をして此世このよとの妥協を憎ましめ、俗化を排斥して已まざらしめる。何故であるか。彼は此世このよいまだキリストのものに非ずして、かえってキリストに敵する者に属する事を知るからである。キリストは何時いつか必ず再び来たりて此世このよを己の手に収め、地を化して天国たらしむるであろう。その時我等も永遠の生活に入り、かおかおとを合わせて主と相見あいまみゆるに至るであろう。これ我等の最もさいわいなる希望である。しかし今はなおその時でない。来たるべき者はいまだ来たらない。我等はいまだ親しく目に「見ゆる所によって」歩まない。ただ「信仰により」、キリストとの具体的接触ならぬ霊的交通によりて我等の歩みを定むるに過ぎない。此世このよにありて現在の肉体に居る間、我等は「主より離れるを知る」のである。我等の主は「その所有もちものを僕なる我等に預けて遠く旅立」したのである(マタイ二五の一四)。ここにおいてか我等の憎むものにして此世このよとの妥協のごときはない。僕もしその主に忠実ならば彼の留守を預かれる間に如何いかにしてその敵と握手することが出来ようか。俗化の危険に対する最も有効なる警戒はこのりんたる貞節の精神においてある。来世信者は偉大なる楽天家である。しかしながら彼の生涯に全く此世このよ離れしたる調子がある。俗臭は痕迹といえども彼のえざるところ、妥協は生命を賭して彼の排斥する所である。彼は夢にも「主より離れる」の一事を忘れない。ゆえに留守居たる身の清潔を守らんがためには全世界を敵として孤軍奮闘するを辞さないのである。誠に人の生活を確実に現世の誘惑より絶縁するものは、来たるべき主に対する切なる思慕である、すなわち来世の確信である。

四 如何にして死に処すべきか

来世の希望は確実である。この希望あるによって現世生活に言うべからざる強みと気高さとがある。キリスト者は来たらんとする永遠の生活を慕うの余り死については多く思わない。しかしながら死は今日に至るまで万人に臨みし運命であって、たとえ我等はこれを経過せずしてただちに栄化せしめらるべき可能性を有するといえども、事実としては死の襲来を全く予期の外に置くわけにはゆかない。死はあるいはこれを避け得るであろう、あるいは避け得ないであろう。それが自己の、あるいは愛する者の、現実の問題として横たわる時、如何いかなる心をもってこれに対すべきか。キリスト者の死は如何いかなる状態の存在であるか。それの彼岸には輝く国あるを疑わぬにしても、暗黒のごとき大海そのものは果たして何であるか。永眠の夕より復活の朝までの未知の夜は如何いかにしてこれを明かすのであるか。来世問題は最後に自らこの問題に触れざるを得ない。

聖書がこれについて語る所ははなはまれにしてかつ簡単である。我等はその委しき説明を読むことが出来ない。しかしながら一事の疑うべからざるものがある。キリスト者の死は現世生活よりもさらに勝るものであるとの事これである。試しに老使徒の晩年における左の高調なる述懐に聴け。「我に取りて生くるはキリストなり、死ぬるは益なり。されどもし肉体にて生くる事わが勤労はたらきとなるならば、いずれを選ぶべきか、我れこれを知らず。我はこの二つの間にはさまれたり。わが願いは世を去りてキリストと共にらんことなり。これ遥かに勝るなり」と(ピリピ一の二一~二三)。あたかも人をして死の讃美を聴くの思いあらしめる。しかも何人か生の歓喜の宣伝者たるれパウロの口より中世の僧侶に似たる厭世的告白を期待し得ようか。余人は知らず、パウロにしてもし死を讃美するあらば、そはもとより生のいとわしきがゆえでなくして、死が生に勝るの生たるがゆえでなくてはならぬ。誠に彼に取りて生くるはキリストであった。キリストにりて彼は愛し、キリストにりて闘い、キリストにりて福音を伝え、キリストにりて祈りかつ讃美した。彼の生活の原動力がことごとくキリストであって、しかしてキリストこそは彼の歓喜中の歓喜であったのである。しかるに彼はなほ附言して曰う「死ぬるは益なり」と。その語勢よりすれば、死ぬるは生くるよりもさらに益なりとの意味たるを疑わない。ゆえに又曰う「これ遥かに勝るなり」と。しかりキリストにある最大歓喜の生よりも死は遥かに勝るなりと。如何いかなる言かこれよりも強く死を弁護することが出来ようか。怪しむべきは生の謳歌者おうかしゃよりづる死の高調なる讃美である。しかしてこの大いなる謎を解くものは唯一つあるのみ。すなわち死は生に勝るの生であるとの事実これである。

驚くべき提唱である。何人にも大いなる悲痛の原因たる死、多くの勇者すらもその前に当りて思わず戦慄する死、未来信者すらも自ら畏縮を禁ぜざる死、それが生に勝るの生であるとは!よし死は生命の絶滅ではないとするも、果たして意識なきながき睡眠ではないか。もし又何等かの意識ありとせば、かえって最も苦痛多き陰鬱いんうつなる状態ではないか。いずれにせよ、死は如何いかに良くこれを見積るとも健全なる生活に取って何よりも望ましからざる最後の休憩所ではないか。思うにこれらの疑問は必ずしも理由なきものではない。死は肉体を脱ぎていまだ霊体を着けざるいわゆる裸の状態にあるの点において確かに不完全なる変態たるをまぬかれない。活動の生活としてそは現在の生活よりもむしろ大いに劣るであろう。しかるにもかかわらず何ものをもってもうべからざる恩恵のこれに伴うあるがゆえに、死は意識なき睡眠状態にあらず、陰鬱なる苦痛の生活にあらずして、かえって生に勝るの生たらざるを得ないのである。恩恵とは何か。キリストとの偕在かいざいこれである。「願うところはむしろ身を離れて主とともにおらんことなり」(八節)。主と共にるという。もちろんただ機械的に並び存するの意ではない。最も親しき人格的交通関係に入る事である。従って明白なる意識をもって己が深き思いをことごとく直接に彼に訴うると共にまた彼よりの大いなる感化にあずかる事である。この一事においてキリスト者の死は現在の生活よりも遥かに勝るのであるという。如何いかなるさいわいぞ。うべなり、パウロが他人につかうる活動の目的としては生を選びながら、自己一人の願いとしてはむしろ死を求めたこと。しかしてすべて死の床に臨みし聖徒等が皆その眼を奇しくも輝かせつつ、言うべからざる深き平安をもって「さらば」を告ぐるは、ひとしくこの真理を証明するのではないか。誠にキリスト者の生涯中信仰的平安の最も美わしき発現を見るは彼の最期である。もし死がある高き意義において現在の生活よりもさらに勝るものでないならば、かくのごときは遂に説明すべからざる現象と言わねばならぬ。しかれども感謝すべきかな、我等が死の大海に漕ぎづる時主は必ず彼処にありて待ちたもうのである。(別項「沙洲を超えて」参照)

日落ちて夕の星輝き、
我を呼ぶさやけき声の聞こゆ。
沙洲にて哀みをする者あらざれ、
れ大海に漕ぎづる時。

たとい時と所との小流より
潮は遠く我を運び往くとも、
れまのあたりまみえん、わが水先案内に、
沙洲をうち超えしその時に。

さらば安んじて往こう、貴き水先案内に伴われて、復活の彼岸に達するまで。

ここにおいてか死は矢張やはり問題にして問題ではないのである。死は肉の生活より勝るとも劣らざる恩恵を伴う状態であって、従って我等が永遠の生活に何の妨げをもなさないのである。パウロは早くテサロニケの信者の懐疑に対してこの事を明らかにして曰うた「兄弟よ、すでに眠れる者のことにつきては、汝等の知らざるを好まず。希望のぞみなき他の人のごとく歎かざらんためなり。我等の信ずるごとく、イエスもし死にて甦りたまいしならば、神はイエスによりて眠りにつきたる者をイエスと共に連れ来たりたもうべきなり。我等主のことばをもて汝等に言わん、我等のうち主の来たりたもう時に至るまで生きてのこれる者はすでに眠れる者に決して先立たじ」と(前テサロニケ四の一三~一五)。かの日まで彼等はイエスと共にあり、かの日到らばイエスと共に神に連れられて天より来たり、しかして我等と共に霊体を賦与せられて永遠の生活に入るのであるという。しからば我等をして最早もはや死について思い煩う所なからしめよ。もしそれが今日襲い来たるともただ静かなる感謝をもって受けしめよ。死についてはすべてを神に委ぬれば足りる。我等のつとむべき事はこれに関する煩慮ではない、さらに他にある。「されば身にるも身を離るるも、ただ聖心みこころかなわんことをつとむ」(九節)。「身にるも身を離るるも」とはキリスト再臨の時に着目していう。我等がその時なお身にりて遂に死を経験せざるものとなるとも、あるいはその時すでに身を離れて死の状態においてあるとも、それは問題でない。問題は「ただ聖心みこころかなわんこと」にある。現世生活にある間の我等のすべての思想と言語と行動とが主の心にかなうか否かにある。死は来世生活に何のるいをも及ぼさない。しかしながら我等のなす所の如何はことごとくその価値を永遠にのこすのである。「我等はみな必ずキリストの審判さばきの座の前に現われ、善にもあれ、悪にもあれ、各人おのおのその身になしたる事にしたがいて報いを受くべければなり」(一〇節)。多くのキリスト者はこの事実を信じない。キリストの贖いを信受したる者に何の審判さばきぞ何の報いぞと言うて、彼等は自己の道徳的生活につきすこぶる無頓着なるの風がある。はなはだしきに至っては、回心後における個々の罪の悔改はこれを忘れたるにあらずやと思わしめる者さえある。贖いもしかくのごときものならば、それはむしろわざわいである。贖いは断じて悔改を不要ならしめない、いなかえってその必要を最も痛切ならしめる。もちろん一度ひとたび贖いを信受したる者は、その信仰を失わざる限り、救いより漏るるには至らないであろう。しかしながら爾後じごの罪にして悔改の伴わざるものを神は決して見逃したまわない。しかのみならず、キリスト者の現世において行いし一切のわざを何時か一度ひとたび明白ならしめて、これに正しき評価を加え、その適当なる結果を実現せしめずんば、神はみたまわない。キリスト者が来世において賦与せらるべき各々おのおの相異あいことなりたる地位は、けだしこの審判によりて定まるのである。かくのごとくにしてキリスト者にもまた審判がある。彼等は来世生活の首途かどでにおいて特にこれがためにキリストの前に立つであろう。しかして彼等が肉体にありし間主のためにささげしすべての犠牲、福音のためにつとめしすべての労作、愛のために人知れず流ししすべての涙と血とに対して、主は今こそ眼のあたりその聖手を挙げて賞讃の辞を賜うであろう。同時にまた彼等の繰り返したる幾多の蹉躓さちについても、何等かの形においてその結果を己に引き受けねばならぬであろう。厳粛なる審判である。しかしながらこれあるによってキリスト者の道徳的生活に初めて緊張したる活溌かっぱつさがある。もしこの審判がないならば、もしすべてのキリスト者はひとしく救われると言うのみであって、その現世における高き低き生活がみな一様に没却せられるのであるならば、理論はかく実際上如何いかにして彼等の鋭敏なる道徳意識を磨滅まめつせしめないことが出来ようか。しかして又理論としても、罪のゆえにその独子ひとりごをさえ犠牲にしたまいし至聖なる神がキリスト者の道徳的生活を審判さばきたまわないと言うがごときは有り得べからざる事である。キリスト者の審判は彼等の聖き野心を刺戟しげきし奨励する大いなる恩恵である。彼等をして死について思い煩わしむるなかれ。しかれども審判について想い巡らさしめよ。彼等のあらゆる思いと言葉と行いとをただ聖心みこころかなうものたらしめよ。来世の希望は人の心を死より引き離して現世生活の聖潔に集中せしめる。誠に「すべて主によるこの希望のぞみいだく者は、その聖きがごとく己を潔くす」る。