第三 キリストに肖るまで――霊性の完成

藤井武

愛する者よ、我等いま神の子たり、(ヨハネ一書三の二)

人によって生まるる者は人の子である。生まれしばかりの幼児でもよい。たとえその自己意識はいと淡くその智慧と力とは数うるに足らぬにもせよ、一度ひとた呱々ここの声を挙げたる瞬間から、人の子としての存在が始まった事実は、これを如何いかんともすることが出来ない。一人の小さき幼児の中に、人たるのすべての要素が少なくとも萌芽のかたちにて備えられている。神によって生まるる者(ヨハネ一の一三)は神の子である。たとえ「キリストに幼児おさなご」(前コリント三の一)でもよい。すべて己が偽りなき心もて十字架の彼を信じた者は、その瞬間から確実に神の子と成ったのである。

我等は自らキリストにける者(クリスチャン)ととなえ、世の光、地の塩をもって任じている。しかしながら省みて恥じざるを得ない。生命のみちを辿ること多年、しかして自己の内的生活に如何いかばかりの変化を見たか。古き誘惑は今なお新しき脅威ではないか。愛にとぼしきハートは今なお冷たき血の池ではないか。相変わらぬ弱さ、浅さ、穢さを誰にかかくそう。

もちろんかかる生活の中にも幾ばくかの進歩を認め得なくはない。極めて徐々として、目に立たぬほどかすかに、芽は伸びつつある、つぼみふくらみつつある。しかしながら我等の受けたる名の高さに比して、余りにふさわしからぬ実体の低さよ。思え、「神の子」というのは如何いかに偉大なる称呼であるかを。子たるの本質は父にる事にある。不肖の子は子であって子でない。「神の子」は「神にる者」でなければならぬ。神にる者!それがもし我等に被せられし名であるならば、世に不肖の子にして我等クリスチャンのごときものがあろうか。この偉大なる理想の前に、些々ささたる進歩のごとき何ぞ認むるに足ろうか。天のごとくに高き名を帯びて、いつまでも地を匍匐ほふくしつつある我等は、わざわいであると言わねばならぬ。

しかしながら老使徒ヨハネ――彼は若き時イエスの側にしてその胸に寄りかかりしほど特別に愛せられし弟子であった――は我等を慰めかつ励まして曰う「愛する者よ、我等いま神の子たり」と。クリスチャンよ、心強かれ。我等が誠実にキリストを受け入れた以上、我等は神によって生まれたのである。従って我等は今間違いもなく神の子である。すべて神にるべき素質は確かに我等のうちに備えられているのである。ちょうどひとりの幼児の中に人たるの要素がことごとく備えられているように。

後いかん、いまあらわれず、(ヨハネ一書三の二)

今すでに神の子である。神の子たるの実質は萌芽のかたちにおいて確かに備えられている。それは後にいつか必ず成熟して全きものと成るであろう。「後いかん」と言いて、我等は未来に至り現在とは別の何者にか成ることを意味するのではない。今萌芽のかたちにあるものが全き成熟に達した時の状態を予想してかく言うのである。「後あるべきもの」は「今あるもの」の完成である、発現である、終局である。

後あるべき我等の状態は「いまあらわれず」という。神の子としての我等の理想はいまだ実現しないとのいいである。クリスチャンが全く神にる者と成るべき日は、未来に保留せられている。その日の来たるまで、我等の理想は完全なる実現を見ることが出来ないのである。これ神の定めたもうた法則である。我等はおのが霊的生活の進歩の遅さに心挫こころくじけるに及ばない。我等をしてただ来たらんとするある日を望ましめよ、望みつつ日々に進ましめよ、よしその歩みは牛のように遅くあるとも。

主の現われたもう時、我らこれにんことを知る。(ヨハネ一書三の二)

この望ましき来たらんとする日は何時いつであるか。「主の現われたもう時」!キリストが栄光をもって世の前に現われでたもう時、それは偉大なる時である。人類歴史の終結すべき時である。万物革新の始まるべき時である。神の摂理の目標たる時であって、新しき創造の紀元たる時である。その時に我等は全くキリストにる者と成るのであるという。キリストの聖きがごとく聖き者に、キリストの愛するがごとく愛する者に。それのみでない、ひとり我等の霊魂のみならず、身体までがその日かれにるのである。「彼は万物ばんもつを己に従わせ得る能力ちからによりて、我らの卑しきさまの体をえておのが栄光の体にかたどらせたまわん」(ピリピ三の二一)。彼の今あるがごとき「朽ちざる、光栄ある、強き」霊体に我等もまた復活せしめられる。かくのごとくにして「この天に属する者に、すべて天に属する者はる」のである(前コリント一五の四八)。かくのごとくにしてキリストの栄光が霊的にも体的にも、そのまま我等の栄光となるのである。かくのごとくにして神の子として我等の性質はその絶頂に達し、いと高き名が始めて実体にふさわしきものとなるのである。

しかしてこの変化は言うまでもなく突発的のものである。長き間漸進し来たりたる我等の霊的生活は、その日俄然として躍進するのである。長き間地上の匍匐ほふくを続けたるものが、その日俄然がぜんとして天上に高翔するのである。

思えば心まばゆきほどの変化よ。我等は切にかかる変化の実現を望む。しかし一度ひとたび眼を現実の姿にそそぐ時、その余りにけ離れたる出来事であるを如何いかにしようか。

しかしながら我等は自然界においてすら見る、漸進また躍進は万物進化の法則であることを。科学者は近頃に至ってようやくこの事実に気付き出した。「ダーウィンの時代以後に起こりし進化論の大いなる変化の一つは突発的変異の認識である。ここに突発的変異と呼ぶは、多くの中継的段階をもって種の典型と結び付けられない突然の新態を意味する。……プロテウス(種々に変化する海神)は匍匐ほふくすると共にまた飛躍する。ことに教授ウィリアム・ベートソン及び教授フゴー・ド・ヴリーの研究によって、著るしき程度の変化が一挙にして起こり得ることが明白になった。教授ド・ヴリー記して曰く『通常信ぜらるる所によれば種は徐々として新しき型に変化するという。この見解とは反対に突然変異説(the theory of mutation)は、新しき種及び変種が現在の形態から俄然がぜんたる跳躍によって作り出される事を認める云々』と。この事実は、ド・ヴリーがオランダのヒルフアズムにて発見せし北米種の月見草の一種によって適切に解説せられた。さながらる休みなき内的の潮によって動かさるるように、ほとんどそのすべての機関が変化しつつあった。忽然こつぜんとしてそれは多くの新しき形態を発生した云々」(トムソン科学大系)。

「プロテウスは匍匐ほふくすると共にまた跳躍する」。ここに神の宇宙を導きたもう法則がある。漸進また躍進である。ひとり自然界の進化に限らない。霊界においてもまた同じ。例えば回心(conversion)の実験を見よ。暗黒の中における長き徘徊はいかいの後に、光明は俄然がぜんとして雲を破って臨むではないか。いたましき産みの苦しみの後に新生命は突如として躍りづるではないか。

回心の法則はまた聖化の法則である。我等の霊性のつぼみはややにふくらみつつあるとはいうものの、夜の寒さにうなだれて、いつ見事に開くべしとも思われない。しかしながら憂うるをやめよ。「夜ふけて日近づきぬ」、「我名をおそるる汝らには義の日でて昇らん」(ロマ一三の一二、マラキ四の二)。

さながら夜の寒さにうなだれて閉づる花が
太陽のこれを白むるころ
みな真直になってその茎のうえに開くごとく
(ダンテ、地獄篇二の一二七~一二九)

やがて「義の太陽の直照の下に、地上のつぼみはたちまち天上の花となるであろう。すべて神の子の内にあるものが、キリストの呼び声に応えるであろう。すべて発育の半途はんとにある聖き性格のすがたが、彼の容光に照らされて輝きづるであろう。彼等のうちに潜める全きキリストのかたちが、生々いきいきとかつ華々はなばなしく現われ来たるであろう」(ロバート・ロー)。今我等の内にありてなおややかなる愛、しぼめる義、その他すべての未熟なる「善きもの」が、その日大愛の聖手みてによってことごとく極致まで引き伸ばされるであろう。さながらある力強き内的の潮に動かされてそのすべての機関が新しきものに変化する月見草のように、我等の生命の全部、機関の一切が、内にみなぎる聖霊の感化によって、今より想像のかなわぬほどなる栄光の変貌を成しとげるであろう。

「主の現われたもう時、われらこれにんことを知る」。クリスチャンとしての完成である。また人間としての完成である。我等の側よりいえば、生まれでたる終局目的の成就、神の側よりいえば、宇宙を創造したる原始理想の実現。その時は必ず来たる。ああ、望ましきその時!

この偉大なる出来事は如何いかにして起るか。神の子の完全聖化の原理如何いかん

我等そのまことさまを見るべければなり。(ヨハネ一書三の二)

同化の秘訣は直視にある。見ることはることである。喜悦きえつにかがやく顔を見る者は、理由なくして、おのが心にもまた晴れ晴れしき気分の漂うを覚える。「その日は曇った陰鬱いんうつな日であったが、街上を歩み行く彼を見て、みな晴れやかになった」とは、かつてボストンの一新聞記者が、フィリップス・ブルックスについて掲げた記事の一節である。ある美しき人について詩人は歌うた。

その姿は眺むるものをよろこばし
眼により心にあたうる甘美は
味わう人のほかにりがたし。(ダンテ、新生)

シナイ山上に四十日四十夜エホバと相見あいみて友と語るごとくに語りしモーセは、「山より下りし時、その顔、光を発して」おったという。愛する者相見あいみる時、ふたつの心臓は同じ旋律の鼓動を続けるではないか。

この直視による同化の原理は、畢竟ひっきょう物理界における共鳴の原理と異ならない。冷たき物体さえ同じ性質のものと対立する時、自ら先方の振動に感化せらるるならば、まして超自然的感受性の豊かなる人格者の間においてをや。しかして人格者間の感応の仲だちとして最も鋭敏なるものは「見る事」にある。見るにまさりて心ゆく経験はない。神の力が最も強く我等を動かすは、我等が彼について聞く時ではない、じかに彼を見る時である。「われ汝のことを耳にて聞きいたりしが、今は目をもて汝を見たてまつる。ここをもてれ自ら恨み、塵灰の中にて悔ゆ」とヨブはその深刻なる経験の後に叫んだ。見ることその事が感応である。キリストの全人格に波うてる聖き生命は、我等の眼を通して我等自身の内なる生命に共鳴を促し、かくて我等の全人格をして彼にたるものと成らしめるのである。

我等は霊の眼をもって今よりすでに彼を見ている。しかしながら今我等の見るところ全からず「鏡をもって見るごとくおぼろ」である。「されどかの時には顔をあわせて相見あいみ」るであろう。しかして彼をそのまことさまにおいて、如実の姿において見るであろう。何となれば、我等もまた完全なる霊体に復活せしめられて、文字通りにのあたり栄光の主と相見あいみることが出来るからである。しかして少なくとも観念上において、見る事はる事の原因であるがゆえに、もし順序をいわば身体の栄化は多分霊魂の聖化に先だつであろう、あたかも始めの創造の時にず土の塵をもって人の身体が造られ、しかる後生気がその中に吹き入れられたと同じように。

すべて主によるこの希望をいだく者は、その聖きがごとく己を聖くす。(ヨハネ一書三の三)

見ることはることである。ここに聖化のしき原理がある。それはただに聖化完成の原理であるばかりでない、また聖化進行の原理である。

我等は世にありて如何いかにして純潔のみちを進むことが出来るか。誘惑の力強さを思え。これを思うて恐怖におののかない者は、霊界の小児にあらずんばすなわちすでに処女的純潔を失いたるたましいであろう。サタンはことに聖潔を慕える霊魂を誘うことを好む。最大の誘惑を経験するものは最も聖き人である。聖潔のみちの右に左に、我等の心かるるいと甘きものが、我等をとらえんとして待っている。

誘惑は実力である。ゆえにまたさらに優れたる実力をもってせずしては、これに打ち勝つべくもない。甘きものがける力をもって現実にわが心をき付ける時、空しき理想や冷たき教訓が何になろうか。

誘惑以上の実力はただ天国の瞥見べっけんにある。サタンよりもうるわしき者はイエスあるのみ。「誠に彼には一つだに美しからぬ所なし」(雅歌五の一六)。彼とその聖国みくにの栄光を見るにまさりて人の心をよろこばしむるものはないのである。これを見てそのうるわしき輝きに照らさるる者のみが、確実にこの世の誘惑から離れ得る。

キリストとその聖国みくに、これを如実の姿において見る事は、彼の現われたもう時にまで留保せられている。しかしながらその時に先だちて、我等はこれを望むことが出来る。望むことは「まことさまを見る」ことでない、直視又は実見ではない。しかし少なくとも予見よけんである、もしくは瞥見べっけんである。その心キリストを慕う者にして、誰か時に鮮やかに彼の栄光を見ないであろうか。天国を望んでやまざる者にして、誰かしばしばその幻影に接しないであろうか。望む者は見る。しかして見る者はる。「我等はみな顔おおいなくして、鏡に映るごとく主の栄光を見、栄光より栄光に進み、主たる霊によりて主と同じかたちするなり」(後コリント三の一八)、聖化進行の原理もまたこれである。恐るべく力強き誘惑に打ち勝ちて、己を聖くし得るみちはただここにあるのみ。ゆえに曰う「すべて主によるこの希望をいだく者は、その聖きがごとく己を聖くす」と。