それ造られたる者は切に慕いて神の子たちの現われんことを待つ。造られたる者の虚無に服せしは己が願いによるにあらず、望みをもてこれに服せしめたまいし者による。そは造られたる者自ら滅亡の僕たる状より解かれて、神の子たちの光栄の自由に入るべければなり。何となれば我等は知る、すべて造られたる者の今に至るまで共に嘆き共に苦しむことを。(ロマ八の一九~二二)
ナザレのイエスが自然の親しき友たりしは人のよく知るところである、彼には野の花も空の鳥も限りなき真理の象徴であった。預言者イザヤ、エレミヤ、改革者ルーテル、彼等もまたみな一面において偉大なる自然詩人であった。すべて神を愛する者はまた自然を愛する。何となれば自然は神の心を籠めたまえる聖業であるからである。すべて人生の深き観察者は又自然の同情者である。何となれば人生と自然とはその生命の根底において相通う所があり、従って同じ運命が彼と此との上に懸かっているからである。
使徒パウロは自然について語ること甚だ稀れであった。ゆえにある有名なる記者はパウロの自然観について次のごとき言をなしている、「単にその人の著作より判断して、パウロのごとく外界の美に動かされなかった記者も少ない。彼は幾度びか地中海の青波に浮かび、美しきギリシャ諸島の影を望みたるに拘わらず、また幾度びか松林鬱蒼たる小アジアの山峡を往来し、アイダ、オリムパス、パルナッサス諸山の雄姿を仰ぎたるに拘わらず、また小児の折しばしば故山の流の畔を逍遙い、その岩角に堰きては瀑のごとくに轟く所を見たるに拘わらず、彼のたましいは余りに深く道徳的心霊的真理に没頭し居たるため、彼はそのすべての書簡中一言も自然美について語る所がない。僅かにルステラにおける彼の演説中の一節(行伝一四の一七)を除いては、パウロが自然に対するいささかの感受性をすら有したる事を表わすべき片言隻句をも見い出すことが出来ない」と(ファーラー、パウロ伝第二章)。しかしながらこの種の批評家に対して大使徒を弁護せんがためにはロマ書註解の権威たるゴーデーの鋭き一語をもって足りる。曰く「かく言う人(サバチエーを指して云う、彼もまたファーラーに似たる言を公にした)は多分ロマ書第八章を読んだことがないのであろう」と。もし自然に対する最も同情深き声、自然美をその最高の理想において見たる声、自然の心の最も深き所に自己を没入したる声がかつて記録に上ったとするならば、それは疑いもなくロマ書第八章十九乃至二十二節である。
パウロはここに「造られたる者」という。その原語he ktisisはあるいは造化の行為あるいは被造物の全体又はその一部を意味する。この場合においては被造物中キリスト者(二三節)その他の人類(一九、二〇により)及び天使又は悪魔等(二〇により)を除きたる生物無生物の全体すなわちいわゆる「自然」の謂である。パウロはロマ書第八章において神の子たる者の壮大窮りなき未来の栄光を描かんとするに当り、この栄光に参与してこれが背景を供すべき「自然」の現在と未来とに対し深き同情の一瞥を与えざるを得なかったのである。
事物の正しき観察はまずこれを愛するにある、次にこれを絶対者との関係において取り扱うにある。自然に対するパウロの態度はそれであった。彼は必ずしも多島海の波とタウラスの峯とを讃えなかった。自然は必ずしもその小さき部分をもって又はその表面の姿をもって彼の心に訴えなかった。しかしながら彼は神の造りし大自然そのものを見た。彼はその中心に喰い入るばかりの同情をもってこれに対した。またその姿を神との関係に照らして見た。彼は自然のために己が心腸を琴としてその無声の叫びをこれに響かしめたのである(イザヤ一六の一一)。又自ら永遠の立場に立ちて、自然美の如何にして完成すべきかを予見し憧憬したのである。熱愛者パウロ!彼の前に自然は少しも自己を偽ることが出来なかった。大自然はその赤裸の姿を披いて残りなく彼の眼底に投じた。かくてワーヅワースとブライアントとの詩の及ばざる所をパウロは声高く歌い出でた。
人は言う、自然と人とは最も著るしき対照である。彼に真実がある、調和がある、自由がある。此に虚無がある、混乱がある、束縛がある。完全は彼に在りて不完全は此に在る。美しきは彼であって醜きは此である。人の欠陥はことごとく自然において充される。自然の中に神の声あり、人の中に悪魔の囁きがあると。何人もこれらの語に共鳴するを禁じ得ないであろう。しかしてもちろんその中に真理がないではない。しかしながらパウロの自然観は甚だしくこの普通の思想と異なる所があった。彼は明白に言うた「造られたる者は虚無に服せり」と。虚無とはすべて恩寵と真実との源なる神を離れたるの状態である。造られたる者すなわち山と水と花と星とをもって彩られたるかの美わしき大自然は、実は神に呪われたる者であると彼は断言した。こは余りに大胆なる言い方ではないか。事実が果たしてこれを裏書するか。そは兎に角として、注意すべきはこれ独りパウロの観察たるに止まらず、旧新約を通じて現わるる一貫せる聖書的自然観なる事である。聖書は決して自然と人とを切り離して取り扱わない。又これを相反するもののごとくに対照せしめない。聖書にありては自然はその創造の始めより人と離るべからざる関係において置かれた。自然の造られたる目的の一つは人の生活を完からしめんがためであった。自然は環境にして人は中心であった。自然は従者にして人は主者であった。霊と物とより成る人は自ら神と自然との連鎖たる地位に立ったのである。自然を司るべき者は人にして、人を飾るべき者は自然であった。人は自然の頭にして自然は人の誇りであった。かくも密接なる関係をもって始まりしがゆえに二者はまた共同の歴史を形成せざるを得ない。神は自然をして人の運命に従わしめたもう。主たる人の上に臨む事はまた従たる自然の上にも臨む。中心の波瀾は自ら環境にまで及ぶ。人一度び神の前に罪を犯して、自然もまた大いなる恥辱を招いたのである。人、神との結合より堕ちて、自然もまた神より誼われたのである。例えば若き芽の砕かれて枝全体の凋むがごとし。かくて虚無に服せし者は独り人のみではなかった、罪なき自然もまたその時より虚無に服した。調和と自由とは人に失せて、混乱と束縛とは自然にも臨んだ。欠陥は人にあり又自然にある。しかり、美しく見ゆる自然の根底に実は大いなる欠陥がある。今や不完全なる者は人のみではない。大自然そのものが神の前に甚だ憐むべき状態においてあるのである。――かくのごときが聖書の自然観の一部にして又パウロのそれである。
事実は果たして如何。人と自然との連帯関係は、生物学者は素よりこれを認める。彼等は曰う「すべての生命は同一のものである。同じ源泉より出発し、同じ道程を取って進み、同じ終局に帰着する。人の生命も畢竟その根底は自然の中にある」と。しかして人の堕落に伴う自然の敗壊に至りてはさらに顕著である。聖書の伝うる所によれば、人の罪を犯すやまず誼われたるものは土であった。曰う「又アダムに言いたまいけるは、汝その妻の言を聴きて我が汝に命じて食らうべからずと言いたる樹の果を食らいしによりて、土は汝のために詛わる。汝は一生の間労苦してそれより食を得ん、土は荊棘と薊とを汝のために生ずべし。……汝は汗して食物を食らわん」と。すなわち人をして労苦せしめんがために誼いはまず食物を産すべき土の上に落ちたのである。その時以降土は楽園におけるがごとき豊かなる生産力を失いて、かえって荊棘と薊とを生ずべく、人は額に汗して労苦するにあらざれば食物を獲るあたわざるに至るという。誰かこの見易き事実を疑うものがあろうか。「試みに従来ただ野生の草木の自然に繁茂するのみなりし処女的森林又は原野を取りて見よ。ここに種を播かんと欲してその樹木を伐採しその下草を刈り取らんか、たちまちあらゆる種類の忌むべき臭き雑草や刺ある蕁麻の類が生え出づるであろう。これを除けば除くに従いて又しても前のごとくに勢いよく生ゆるであろう。かかる所に良き種を下すともその発育は不可能である。げに土の誼いと闘わんがためには最も勤勉なる労力を必要とする。同じように多年適当に耕作せられたる一画の土地も、もししばらくそのままに放任せられんには、無数の硬き雑草や荊棘などが尺寸の余地もなくこれを占領するであろう。すべてこれらの悪しき種はそもそも何処から来たのであろうか。土はまさしく堕落したる人心と同様である――汚れているのである。あたかも人の心がこれを注意して開発するにあらざればいかに好き境遇にあるとも十戒のすべての罪を生むがごときである」(F・C・キムバリー)。その他土地に生産逓減の法則の行わるる事も人のみな知る所である。何故に人の労力を増加するに拘わらず土地はこれに酬いないのであるか。また何故に広袤数百万又は数十万方哩に及ぶサハラ、ゴビ等の大砂漠が空しく地上の彼方此方に横たわっているのであるか。かかる現象は地の創造の当初においては見るあたわざりしものであった。人、神にそむきてより土は人のために誼われたのである。貧しくして汚れたる土、衣のごとくに古びゆく地、そは確かに詛われている、虚無に服している。
しかしながら詛われしものは独り狭き意義における土のみではなかった。人に従たる大自然そのものがことごとく虚無に服せしめられたのである。見よ植物界の絶えざる苦闘を。その発芽より結実に至る迄の各階梯において幾多の敵と戦いこれに打ち勝つにあらざれば植物はその生を完うすることが出来ない。各種の害虫は根を切り葉を噛み皮下に潜伏し花底に産卵しあらゆる隙を狙うてこれを枯れしめんとする。加うるに天候の不順なるあり、旱魃、烈風、降霜、氾濫等の諸害交々襲い来たりて、多くの愛すべき草木をうち斃すのである。また目を転じて動物界に向けんか、そこにはさらに恐るべき不断の戦争の行わるるを見る。鋭き牙と研ぎ澄まされたる爪とは至る所に出没して、襲撃、掠奪、格闘、流血、食肉等の惨劇が日々に繰り返されつつある。すなわち陸には狼は羊を襲い獅子は鹿を裂き毒蛇は兎を噛み、空には鷲と鷹とは小禽を捉えて貪り食らい、水には鮫と鰐とは小魚を呑んで楽しむ。誠に強者の専横なる跋扈である、弱者の悲惨なる犠牲である。されば猜疑逃奔は何時しか多くの動物の習性となってしまった。彼等は小やかなる物音にすら直ちに耳を欹て身を構えて戦慄しながらあるいは岩蔭の穴へと馳せ去りあるいは森の茂みへと飛び往くのである。平和らしき山と海との装いの下に深大なる不安と激烈なる恐怖とが充ち満ちている。かかる不完全の世界をしも自然という美名の下に漫然として讃美せんとする者は誰であるか。自然を讃美せよ、されども先ずこれを愛せよ。愛は皮相に満足することが出来ない、自然の根底に大いなる欠陥がある。自然は誼われている、自然は確かに虚無に服している。
パウロは大自然の虚無を見た。彼の熱き同情はすべての造られたる者に向かって傾注せられた。しかして世に同情者の耳にのみ聞こゆる衷心の声がある。大自然の衷心の声。そんなものが果たしてあるか。無心の自然に何の声ぞ。かく疑う者はあるいは学者あるいは実際家あるいは宗教家であるにもせよ、少なくとも彼等は自然の同情者ではない。自然は彼等の前に沈黙を守るであろう。しかしながら同情者に向かって自然は訴える、虚無に服せる憐むべき自然はその衷心に漲る無量の感慨を潮のごとくに注いで彼女の同情者に向かってこれを訴える。誰か、自然をもって無心となす者は。自然の重要なる構成者は動物である。中天に飛んで声の限りに囀り交わす雲雀も、重き軛の下に呻吟し長鳴する牛も、みな自然の一員である。しかして彼等によりて代表せらるる精神はまた植物の中に動いている。日蔭にありて光を慕う一茎の草にだに機械的作用と比すべからざるある心的衝動を認め得るではないか。しかしてまたこれら有機体の生活と離るべからざる関係にあるすべての無生物にもある種の本能なきを誰か断言し得よう。しかり、山にも海にも深き欲求がある。路傍に横たわる一個の石塊すら均しく大自然の一員として天地に漲る無声の叫びに響応し共鳴しつつあるのである。すべての自然の同情者はこれを感得した。彼等は自然の美を讃美するのみをもって已むことが出来なかった。彼等の目は外なる装いを透して内なる心に触れた。自然の心に言いがたき歎きがある、苦しみがある。虚無に服しつつも虚無に堪えざるの歎き、敗壊に縛られつつも敗壊を脱れんとの苦しみこれである。「私はしばしば自然が哭き悲しみつつ私に何物をか求むるを感じた。その求むる所の果たして何物なるかを解せざるはわが身に沁む痛みである」と詩人ゲーテは曰うた。「いと麗かなる春の日、自然はその艶美の限りを顕わす時、我等の心これに酔わされつつもなお苦き悲哀の毒をも吸うではないか」と自然哲学者シエリングは言うた。深き自然の観察者は詩人又は哲学者ならずとも皆これを知る、ゆえにパウロは彼等を代表して言うたのである「我等は知る、すべて造られたる者の今に至るまで共に歎き共に苦しむことを」と。自然は一度び虚無に服せしめられてより今に至る迄断えず歎き苦しみつつある、野も山も樹も草も禽も獣も「地とそれに充つるもの、世界とその中に住む者」はみな共に声を合わせて。
造られたる者は虚無に服して歎き苦しみつつある。目ある者は見よ、耳ある者は聴け。これ宇宙に充つる大いなる事実である。パウロはすべての自然の同情者と共にこれを見これを聴いた。しかし彼はただに同情者として隠れたる事実に触るるのみではなかった。彼は又キリスト者としてその事実の根本的意義を捉えざるを得なかった。自然の虚無と煩悶とは神の目にありて如何なる意義を有するか。パウロはこれを探りこれを解した。彼は自然を愛したる上にこれを神との関係に照らして見たのである。この立場に立たずして詩人も哲学者も未だ自然を解したということが出来ない。誠に詩人ゲーテの解せざりし所を使徒パウロは明白に覚った。自然は虚無に服している、しかしこのままにして滅び往くのではない、造られたる者は今に至るまで歎き苦しみつつある、しかしその声は決して空しく消ゆるのではない。虚無に服せるその事、煩悶しつつあるその事の中に深き意義がある。
「造られたる者の虚無に服せしは己が願いによるにあらず、望みをもてこれに服せしめたまいし者による」。自然に罪なし。自由の意思を賦与せられざりし彼女の自ら求めて神に背くべくもない。造られたる者の虚無に服せしはすなわちこれに服せしめられたのである。神は人の罪のゆえにやむを得ずして自然を誼いたもうた。素より彼女をして遂に滅亡に終らしめんがためではない。彼女を支配すべき人を辱めんがためである。ゆえに人にしてもし罪より救われんか、彼女もまた全く詛いの束縛より解放せられねばならぬ。人の罪を犯すや否や直ちに救贖の途を備えたまえる神はまた自然を誼うに先だちてすでにその復興を予期したもうた。彼は「望みをもって」自然を虚無に服せしめたもうたのである。憶う、その時造物者の胸に溢れし感慨(もしかく言うを得べくば)の如何ばかりであったかを。造化の事全く終りて幾許もなき頃である。天地を環境とし人を中心としたる彼の偉大なる傑作はいみじくも神の前に横たわった。「神その造りたるすべての物を見たまいけるに甚だ善かりき。……すなわちその造りたる工を竣えて七日に安息みたまえり」。しかるに見よ、偉大なる傑作は突如としてその中心より破壊し始めたのである。これに応じて聖なる作者はやおら起ち上った。彼の安息は破れその満面のほほえみは消えた。彼は今しも聖手を挙げて、成りしばかりの苦心の作品に対し、その環境たる部分を自ら撃たんとしつつある。しかもその熱涙を宿せる瞳の中にはさらに新たなる理想の輝けるを見る。彼に、言うべからざる失望の痛みがあった。同時に新しき希望の慰めがあった。神はこの時己が独子を犠牲にして、失われたる人と自然とを回復せん事を決心したもうた。人類の救贖と万物の復興、この貴き希望をもって、神はあえて自然を毀ちたもうたのである。ゆえに造られたる者の虚無に服せしその事の中に、すでに無限の希望がある。しかしてこれ神の備えたまいし所なるがゆえに必ず実現すべき希望たるは言う迄もない。
毀たれし自然は爾来今に至るまで断えず煩悶しつつある。虚無に服しながら虚無に堪えざるの煩悶、すなわち新たなる状態に移らんとする欲求の声である(共に苦しみと訳せられし原語 sunodinei は産みの苦しみを意味する)。その充さるべき日の何時なるやを知らず、かえって虚無の状態はますます甚だしからんとするの徴候あるに拘わらず、自然はしばらくもその煩悶を廃めない。まことに熱烈にして執拗なる欲求である。自然もまたアブラハムのごとく「望むべくもあらぬ時になお望み」て、欲求を続けつつあるのである。そもそもかくのごときは果たして空しき望みに過ぎぬであろうか。もちろん欲求必ずしも確実なる希望を意味しない。否、空しきものにして堕落せる人類の欲求のごときはない。しかしながら罪なき自然の衷心の声は純粋である、正直である。こはある意味においてなお霊の声のごとく一種の預言的性質を有する。自然は全く望みなきものを欲求しない。その数千年に亙りて断えざる欲求は、何時か実現すべき希望の反映である。思うに神は自然を虚無に服せしめんとするに当り、その復興の希望を彼女に暗示したもうたのであろう。あるいは彼女の欲求そのものが素々神の植え付けたまいしものであろう。何れにせよ、造られたる者の歎き苦しみの中に確実なる希望の預言がある。
希望、自然の前途に横たわる確実なる希望、そは果たして如何なる希望か、「そは造られたる者自ら滅亡の僕たる状より解かれて、神の子たちの光栄の自由に入るべければなり」。僕(奴隷)より自由へ!滅亡より光栄へ!しかり神の子等の光栄へ!貧しくして汚れたる土と、闘争又は荒廃に苦しめる諸生物とは、共にその囚われたる状態――滅びゆく現在の状態より解放せられて、自由の状態――新しき光栄を被せられたる状態へと移るであろう。すなわち全地は化して最も豊かなる園となり、すべての植物は限りなき生気に充ちて栄え、動物界にもまた貴き平和が遍く行き渡るであろう。
荒野と潤いなき地とは楽しみ、砂漠は喜びてサフランのごとくに咲き輝かん。盛んに咲き輝きて喜びかつ喜びかつ歌い、レバノンの栄を得カルメル及びシャロンの美わしきを得ん。彼等はエホバの栄を見、我等の神の美わしきを見るべし。……そは荒野に水湧き出で砂漠に川流るべければなり。やけたる砂は池となり、潤いなき池は水の源となり、野犬の臥したる住所は蘆葦の繁り合う所となるべし。(イザヤ三五の一、二、六、七)
山と岡とは声を放ちてみまえに歌い、野にある樹はみな手をうたん。松樹は荊に代わりて生え、岡拈樹は棘に代わりて生ゆべし。こはエホバの頌美となり、またとこしえの徴となりて絶ゆることなからん。(同五五の一二~一三)
狼は小羊と共に宿り、豹は小山羊と共に臥し、犢、小獅子、肥えたる家畜共におりて小さき童子に導かれん。(同一一の六)
かくて自然の虚無はことごとく癒され、天地は荘美の極に達し、万物の歎き苦しみの声は消え果てて、絶大なる歓喜の歌がこれに代わるであろう。しかもそは自然の独唱ではない。彼女の側に立ちてこれを導きつつ声を合わせて共に永遠の讃歌を唱うる優秀なる伴侶がある。神の子――贖われたる人――キリストに似たる光栄を被せられたる聖徒等がそれである。自然は彼等の随従者として彼等の光栄に参与するのである。これ始めに彼等の罪のゆえに誼われたる自然のまさに受くべき特権である。又彼等(人)がその救いを成就せられて永遠の生活に入る時、これにふさわしき環境を提供してもって彼等の生活を全からしめん事は自然の最後の使命である。ゆえに自然はただに自然として完成せらるるのみではない。さらに一段優秀なる神の子等の受くべき恩寵に自ら参与する事を許される。すなわち曰う「神の子等の光栄の自由に入る」と。ああ、誼われたる今の天地は何時かキリストの光をもって蔽われ、燦然としてこれを反射するに至るであろう。その限りなき荘美に比しては、今の地中海の青波も小アジアの緑蔭も数うるに足らない。パウロの目に映じたる自然は此に非ずして、彼であった。パウロは自然の理想を見て心躍った。しかしてこの高遠なる理想は何時か必ず事実となりて現わるるのである。
神の子等の光栄に参与するという、この理想の実現は何時であるか。神の子等は今はなお光栄を被せられていない。彼等はすでに新しき生命に入りて、神との関係においては恩寵に恩寵を加えられるといえども、この世の立場より見ては、キリストと共に十字架につけられたる死者に外ならない。彼等は無視せられ嫌悪せられ排斥せられつつある。しかしながらやがてある驚くべき時が来たるであろう。すなわち終わりのラッパ忽焉として鳴り響かん時、イエス・キリストその栄光の体をもって我等の前に顕われたまわん時、その時神の子等もまたみな栄光の姿に化せられて大いなる権威を帯びて顕現するのである。「汝等は死にたる者にして、その生命はキリストと共に神の中に隠れあればなり。我等の生命なるキリストの現われたもう時、汝等もこれと共に栄光の中に現われん」(コロサイ三の三、四)。しかしてその時こそまた自然の理想の実現すべき時である。自然は神の子等の顕現を俟ちて初めて完成せしめられる。このゆえに自然の待望は神の子等の栄光の姿における顕現にある。「それ造られたる者は切に慕いて神の子たちの現われん事を待つ」、「切に慕いて」と訳せられたる apokaradokia の語義は頭を挙げて(kara)遥かに(apo)窺う(dokeo)の意である。「いかに塑造的の表現よ。彫刻の天才はこの一字のギリシャ語より希望の像を彫むであろう」(ゴーデー)。見よ大自然はその頭を挙げて「神の子等は未だ顕れずや」とひたすら窺い望みつつある。天地の思慕、万物の待望は一に我等人類の救贖に集中しているのである。
「地球は単に数学的法則の下に支配せらるる死物ではない、今日まですでに幾多の自己変形を経過し今なお絶えざる進歩の途上にある生活体である」とは地質学の唱うる所である。しからばその進歩の終局においては遥かに秀逸なる変形を期待せねばならぬ。学者のこの提言はたまたま聖書の教えと暗合する所がある。聖書にありては自然の生命は希望にある、万物はみなある光栄ある未来を望んで動きつつある。山に希望あり、海に希望あり、囀る鳥に希望あり、散り行く花に希望あり、新緑に希望あり、紅葉に希望あり、旭光に希望あり、夕陽に希望あり、誠に宇宙そのものが一つの大いなる希望である。キリスト者はここに現われんとする新しき宇宙を予見し憧憬する。彼の自然観は純然たる希望的自然観である。しかして彼はその希望の実現が自己の完き救贖に懸ることを知るがゆえに、彼の自然に対する同情は弥が上に深きものたらざるを得ない。