第一部 神の贖いの御計画

メアリー・マクドゥーノフ

以下に述べる聖書教師たちへの提言は、多年にわたる祈り深い思索と、様々な聖書の授業における注意深い試行の成果です。

私たちの教会ですら、贖いの真理の全体像を明確に認識している人は比較的少数です。この事実により、私たちの学びをカルバリの十字架に焦点づけて、神の贖いの御計画を明確に示すのが賢明であるように思われました。

この表題の下で、私たちは以下の点について考えます。

第一――贖いが必要になった諸々の状況
第二――カルバリで完全に成就された神の贖いの御計画
第三――取得・実証された贖いの結果

聖書の授業を始める時、聖書が神の御言葉である証明に時間を費やしてはいけません。学びに集まった人々が「聖書は書き記された神の御言葉である」と信じていることを前提としなさい。もしこれを信じない人々がいる場合、彼らは聖書が無謬であることを信じていないのですから、そんな彼らに聖書の節を読んで、聖書の無謬性を証明しようとするのは合理的ではありません。また、彼らと議論してはいけません。ただ自分で聖書を読むよう、彼らに求めなさい。そして続けて、聖書の真理を示しなさい。疑問視されている問題が数学や化学の実演によって証明されるように、授業を通して聖書が確かに神の御言葉であることが証明されるようにしなさい。

神――創造者

「初めに、神は創造された」。創造者なる神は被造物ではなかった事実に注意しなさい。ですから、神は非受造(Uncreated)であると言えるでしょう。創造以前に存在しておられた、創造者なる非受造の神について、生徒に考えさせなさい。神は、創造以前も、創造以後と同じように、完全であり、完璧でした。神の創造の働きは、神の非受造の完全さになにも付け加えませんでした。これらのことを生徒に理解させなさい。この主題を駆け足で済ませてはいけません。なぜなら、この後の授業が価値を持つかどうかは、非受造の命(Uncreated Life)と創造された命(created life)の違いを明確に認識することにかかっているからです。

非受造の命

非受造の命には、始まりも終わりもありません。それは自存し、不変です。これを生徒に理解させなさい。このような命を象徴する幾何学的な絵を生徒に描かせなさい。きっと、彼らは円を描くでしょう。もし可能なら、生徒の何人かに、黒板か紙の上にこの絵を描かせなさい。この時、教師も自分の絵をつくるといいでしょう。この絵はこの学びの課程の挿絵の一つです。縦十四インチ、横十一インチの白い厚紙の上に、大きな金色の円形の紙を貼り付けて、紙の上側に「三一の神」、下側に「非受造の命」と書きなさい。(図一参照)

Fig.1
図一

「始まりもなく、終わりもない」金色の円を全員が見つめている時、詩篇九〇篇二節と一〇二篇二七節を生徒に読ませなさい。または、これらの節を繰り返させなさい。

次に、創世記一章一節全体を生徒に読ませなさい。「初めに、神は天(または、諸々の天)と地を創造された」。すなわち、神が宇宙を創造されました。この宇宙の原子一つ一つに関して、神は特定の目的を持っておられます。神は決して目的なくこの宇宙を創造されたのではありません。この思想を生徒に示しなさい。

例として、人の手をあげなさい。手でなにかを造るには、まず最初に注意深く計画を立てなければなりません。計画、図案、方法がなければ、価値あるものはなに一つ造れません。

この思想を拡張して、神が宇宙を創造されたのは、神がそれを望まれたからであることを示しなさい。神は望みのままに宇宙を創造されました。(黙示録四章十一節の最後の句を読みなさい。)

創造の秩序

創造の秩序に注意を促しなさい。第一に、天とその住人である天使が創造されました。次に、地が様々な形態の命と共に創造されました。

ヨブ記三八章四~七節を読むとわかるように、地が創造される前に、天がその住人と共に創造されました。この箇所では、神ご自身が語り手です。神は僕であるヨブにご自分の創造的な力について語り、優美な詩の中でご自分を名工として描写しておられます。神は空間に地球を送り出して、天体の精妙な音楽を完成されました。そしてその上で、「神の子供たち」、すなわち天使たちが「喜び叫び」ました。生徒のだれかに天体の音楽に関する記事を読んでもらうと助けになるでしょう。「明けの星々が共に歌った」という表現は、素晴らしい詩の一節であるだけでなく、科学的発見によって明らかにされた事実をも示しています。これに関しては、A.T.ピアソン博士の有益な著書「絶対確実な多くの証拠」の中の「御言葉の科学的真理」の章が役に立つでしょう。

惑星創造のこの描写は、惑星進化の理論よりも遙かに納得できます。惑星進化の理論は、「火炎霧のかけらが原初の元素の混合物を進化させ、それが次第に大きくなって、無数の時代を経た後、いま私たちが生活している地球になった」と言います。それでは、「原初の元素」はどうやってできたのでしょう?

この課程の目的は、この驚くべき章の残りの部分に書かれている素晴らしい科学的真理について述べることではありません。今日、科学は様々な発見をしていますが、その中のあるものは聖書が数千年前にすでに述べていたものです。信仰を持つ科学者は、それを示す節を次々と示せるでしょう。たとえば二二節と二三節が、現代の戦争で使われている高性能爆薬と関係あることを、いったい誰がこれまで考えたでしょうか?しかし今、信仰を持つ科学者たちはこの比喩を理解しています。

天使の命

さて、最初に創造された被造物である天使に注意を向けることにしましょう。天使は体を持たない(体を離脱したわけではない)、人格的存在であり、既知の物理法則を超越しています。聖書の多くの箇所が示しているように、天使は肉体の形を取って現れることができます。参照、民数記二二章二三節、歴代誌上二一章十五、十六、十八、二〇、二七節、使徒の働き十二章七~十節。天使は偉大な力と権能を持っています。ペテロ第二の手紙二章十一節、「天使たちは力にまさっており」。詩篇一〇三篇二〇節。テサロニケ人への第二の手紙一章七節と黙示録には、「力ある天使たち」が出てきます。この修飾的な形容詞から、天使たちは位と権威において異なると思われます。そしてこの推測は、天使たちの位や序列を示す他の節によって証明されます。たとえば、エペソ人への手紙六章十二節は「支配者たち、権威者たち、この世の支配者たち」(ロザハム訳)について述べています。

聖書は、聖なる天使の名を二つしかあげていません。すなわち、ミカエルとガブリエルです。

天使という言葉は「使者」を意味します。聖なる天使たちは、神の使者として宇宙を往来し、常に創造者に仕えていることがわかります。天使たちは自分の務めの領域を自分で選んでいるわけではありません。彼らは自分に割り当てられた奉仕を、疑問を抱かずに受け入れます。これに注目してください。天使たちは、空腹で落胆していた神の僕を喜んで食事に招き(一歴十九・五)、贖い主の誕生の素晴らしい知らせを告げ知らせました。天使たちは神の大いなる家族に仕える僕です(参照、ヘブ一・十三、十四)。

次に、非常に重要であるにもかかわらず、ほとんど理解されていない主題に迫ることにしましょう。

罪の起源

宇宙の調和を乱す、恐ろしい不調和が生じました。この原因はエゼキエル書二八章十二節後半~十七節に述べられています。創造者は、天使たちの中で最も知恵があり、最も美しく、最も聡明な者に向かって語っておられます。神は、この天使のことを「油注がれたケルブ」と呼んでおられます。神は言われました、「あなたは、あなたの中に悪が見いだされるまで、その行いが完全であった」。神はさらに、彼に裁きを下して言われました、「あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出そう。おお、守護のケルブよ、わたしは火の石の間からあなたを絶とう」。彼の罪は何だったのでしょう?イザヤ書十四章十二~十五節を見ましょう。この箇所で、神は同じ天使に向かって語っておられます。神はその天使を「ルシファー(暁の子)」という名で呼ばれました。「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。私は神の星々のはるか上に私の王座を上げよう。私はまた、北の果ての会合の山に座そう。私は雲の頂の上に上ろう。私はいと高き方のようになろう』」。

「あなたは心の中で言った」という表現に注意してください。これは心の姿勢だけでなく、意志の姿勢をも示しています。これは思考過程以上のものです。これは知的思考を断固たる決意に結晶化することです。ルシファーは、「私は………しよう(I will)」と五回言いました。これは、創造者に対する彼の姿勢を端的に表しています。

神の御言葉をよく調べると、ルシファーに地上と空中に対する支配権が与えられていたらしいことがわかります。「油注がれたケルブ」という称号は、彼が支配者や君主であっただけでなく、神の聖と神の御名を宇宙中に称揚するために創造されたことをも示すようです。「あなたのタンバリンとあなたの笛細工は、あなたが創造された日に、あなたの中に用意された」という表現から、彼が神に対する大いなる賛美を全宇宙で導いていたと考えられます。

ルシファーの言葉によく注意してください。「私は天に上ろう」。彼は「天そのもの」に、すなわち神の直接的臨在がある「天の天」に上ろうとしました。彼は空中に対する主権に満足せず、天で主権を行使しようとました。「私は神の星々のはるか上に私の王座を上げよう」という言葉は、彼が自分の空中の王座を、星々の天を越えて、天(二コリ十二・二の「第三の天」)にまで上げようとした事実を指します。「私はまた、北の果ての会合の山に座そう」という言葉は、彼が奪取することを狙った高い位――宇宙的主権――を示します。「私は雲の頂の上に上ろう」という言葉は、彼の支配の座が空中にあったこと、そして、神だけが主権と支配を行使しておられる領域を犯すことによって、彼が自分の領土を広げようと画策したことを啓示します。「私はいと高き方のようになろう(私はいと高き方と等しくなろう)」は、創造者と等しくなることが彼の狙いだったことをはっきりと示しています。いいえ、ルシファーの狙いはそれ以上でした。彼は、神を御座から追い出して、自分がその座に着こうとしたのです!ですから、「あなたは罪を犯した」という厳粛な言葉が宇宙中に響き渡ったのも、不思議ではありません。それまで、神は決してこのような言葉を発したことがありませんでした。なぜなら、これが罪の始まりだったからです。最初に罪を犯したのはルシファーでした。

ですから、「罪は人の思い込みにすぎない」という現代の教えの誤りがわかります。なぜなら、人の心が創造される遙か昔に、罪は発生したからです。

罪の定義

私たちはまた、罪の何たるかも見ることができます。多くの人は「罪は行いにすぎない」と思っています。しかし、罪は姿勢であることがわかります。ルシファーが罪深い行いをする前に、彼の心の中に罪がありました。神に代わって、「私は………しよう(I will)」と言った時に、すでに彼の心の中に罪がありました。堕落した知恵による悪魔的な計画、欺き、大いなる力による巧妙で狡猾な働きはみな、彼の心の中にあった罪の現れにすぎません。ですから、罪をこう定義できるでしょう、「罪とは神の主権に対して意図的にわざと抵抗しようとする姿勢である」。生徒たちをヨハネ第一の手紙三章四節に向かわせなさい。そして、改訂訳と比較させなさい。改訂訳では、「違反」という語が不法と訳されています。この二つの単語の違いを説明しなさい。違反は不法とはかぎりません。例として、私たちの国に来た外国人を挙げなさい。彼は無知のせいで、無意識に法律を破ってしまうかもしれません。それに対して、ある人は法律を知っていながら、意図的にわざと法律を破るかもしれません。不法とは、故意に違反することです。ですから、罪は不法です。この不法な姿勢の数々の現れが、罪、違反です。

単数形の罪(SIN)と複数形の罪(SINS)の違い

私たちは、単数形の罪(sin)と複数形の罪(sins)とを混同するべきではありません。単数形の罪(sin)は神に対する意志の姿勢であり、複数形の罪(sins)は意図的行いであり、単数形の罪(sin)の結果です。単数形の罪(sin)は幹であり、複数形の罪(sins)は枝々です。単数形の罪(sin)は、複数形の罪(sins)として現れるまで、目に見えません。「複数形の罪(sins)」は、単数形の罪(sin)が複数あることではなく、むしろ単数形の罪(sin)の現れです。神は単数形の罪(sin)をご覧になりますが、人は複数形の罪(sins)を見ます。神は被造物を、「それが何をしているか」にしたがってではなく、「それが何であるか」にしたがって評価されます。ですから、この単数形の罪(sin)の外側の現れがどうであれ、自己を神としている者は罪人です。単数形の罪(sin)が恐ろしい現実であることを、生徒に印象づけなさい。

イザヤ書十四章十二~十五節とエゼキエル書二八章十二~十九節は注目すべき節です。この二箇所を注意深く何度も生徒たちに読ませなさい。文脈を見る時、生徒たちは多少混乱するかもしれません。なぜなら、イザヤ書の節では「バビロンの王」(四節)に向かって、エゼキエル書の節では「ツロの王」(十二節)に向かって、神が語っておられるように見えるからです。しかし神は、地上の支配者たちの背後に、彼らを自分の手先、操り人形として利用している者をご覧になっていたのです。これは、主がペテロの背後にいたサタンに語られたのと同じです。サタンは、自分の野望に致命的打撃を与えるカルバリの決定的行動を阻止するために、ペテロを代弁者として利用しました。

この二箇所に記されている表現の多くは、天使ではなく人間を指しているように見えます。しかし、これらの人は別の手先、別の操り人形にすぎません。サタンは、長い間あたためてきた計画を実行するために、彼らを通して自分を現します。これらの節をよく理解するなら、預言解釈上の問題の多くが取り除かれるでしょう。

「咎のない存在に創造され、誘惑する者がだれもいなかったのに、どうしてこの聡明な油注がれたケルブは罪を犯したのでしょう?」という質問があるかもしれません。これは謎です。全くの謎です。神は私たちになんの説明も与えておられません。ただ事実を述べておられるだけです。しかし、ルシファーが罪を犯したきっかけがエゼキエル書二八章十七節に示されています。「あなたの心は自分の美しさのゆえに高ぶり、あなたはその輝きのために自分の知恵を腐らせた」。聡明な油注がれたケルブは、神ご自身を見つめるかわりに、神の賜物である自分の美自分の知恵自分の聡明さを見つめました。ああ!これは自己注視の危険性を示しているのではないでしょうか?また、神から与えられた賜物を見つめることすら危険であることを示しているのではないでしょうか?贈り主よりも賜物を見つめることは、堕落と荒廃への道です。

サタンの罪の結果

油注がれたケルブは、もはや火の石の間を行き来できなくなりました。なぜなら、罪ある者は神の聖の臨在の中にとどまれないからです。(参照、イザ三三・十四、十五、ヘブ十二・二九。)神の臨在から追放されて、彼はどこへ行き、何をしたのでしょう?彼は「天そのもの」から追い出され、決してそこに戻りませんでした。彼は、自分の元々の領土である、地球を取り巻く大気中に住むことを許されました。彼は、この有利な立場を利用して、地球上の諸々の出来事を支配できました。ここで私たちは、「神はこの天使的存在を創造した時、彼に選択する力を与えられた」ことを思い出す必要があります。サタンは熟慮した上で、宇宙の最高支配者になることを選択しました。彼はすべての天使の前で、「自分は宇宙を支配できる」と宣言しました。また彼は、「自分が宇宙を支配している」と考えました。そのため神は、彼に自分の能力を示すことを許さなければなりませんでした。彼に委ねられていた宇宙のその一画に限って、神は彼に独立した支配権を許さなければなりませんでした。

神の無限の力は、彼を砕くこともできました。しかし、そのように砕くことは神の精神的弱さを示すことになったでしょう。

サタンの最初の失敗

サタンは独立して支配権を行使しました。その結果が創世記一章二節に記されています。この節をロザハム訳で読みましょう。ロザハム訳は明らかに欽定訳よりもヘブル語に忠実です。「さて、地は荒れ果てて荒廃した。そして、暗闇が轟く淵のおもてにあった」。この御言葉はサタンの領土だった地上に強調点を置いていることに注意してください。サタンの領土の上にあった天は含まれていませんでした。聡明な油注がれたケルブは、自分の領土ですら独立して支配権を行使できない無能さを、きわめて明確に露呈したのです。

「荒れ果て」、「荒廃し」、「暗闇」、「轟く淵」という単語について学びなさい。「神の子供たちが喜び叫んだ」美と光に満ちた地球はどこに行ったのでしょう?神の素晴らしい御手のわざを台無しにし、この混沌状態を招いたのは誰でしょう?ああ、「敵がこれをしたのです」。

創造者だけが被造物を維持できます。神こそ、すべての支配権の中心です。サタンは被造物にすぎなかったので、自分の主権を維持することが(文字どおりには、まとめることが)できませんでした。また、サタンは神の主権からの独立を選んだので、善政を敷くことができませんでした。だから、完全に失敗したのです。

サタンの悪政によってこの混沌状態が生じるまで、どれくらい時間が必要だったかはわかりません。かなり長い年月が必要だった、と言えば十分でしょう。この期間は、創世記一章一節に記録されている神の創造の御業と一章二節後半に記録されている神の再構成の働きの間に位置します。地質学的年代は、この期間の中に見いだされます。聖書をきちんと理解するなら、地質学の教えと聖書が完全に一致していることがわかります。これまで考察してきたこの廃墟に関する記事では、氷河期が僅か数語で示されています。

この節は、神の御手から発した原初の地球を描写しているのではありません。思慮深い人なら、これを理解できるでしょう。地層や化石を研究している地質学者らは、もし聖書をきちんと理解しないなら、心に深い未解決の疑問を抱くにちがいありません。

イザヤ書四五章十八節によると、神は地を「荒れ果てた」ものに創造されませんでした。「神はそれを人の住みかに形造られた」。それゆえ今、地は空しく荒廃しているので、神は忍耐強く再構成の働きに取り組まれます。創世記一章の残りの部分は、この働きについて描写しています。

再構成された地球

この物語では、「創造」という言葉が三回しか使われていません。すなわち、一節と二一節と二七節の三箇所だけです。一節では、原初の創造との関連で使われています。二一節では、神が動物の命を生じさせる時に使われています。二七節では、創造の冠たる人が現れる時に使われています。この「創造する」という動詞は、「それまで存在しなかったものを生じさせること」を意味します。この三つの時点のことを、進化論者たちは、進化論において「ミッシング・リンク(失われた鎖)」と見なしています。これは実に意義深いです。

創造された命の序列を生物学的に研究することもまた、興味深いです。最初は、単純で意識を持たない植物の命でした。次は、意識はあるものの、自己意識を持たない動物の命でした。そして最後が、自己意識を持つ人の命でした。

現代の比較解剖学によると、脳と脊髄神経の比は、魚で二対一、は虫類で二.五対一、鳥で三対一、ほ乳類で四対一、人で三三対一です。低級な命から高度な命に至るこの序列は、創世記一章二〇~二八節に記録されている創造の記事の中に示されています。

三一の神

これまで、この素晴らしい章の各節に関して、多くのことが述べられてきました。しかし、私たちと最も関わりがあるのは、人の創造について述べている御言葉です。「そして神は言われた、『われわれのかたち(image)に、われわれの似姿(likeness)に人を造ろう』」(二六節)。この短い句は、とても多くの内容を含んでいます!まず第一に、「われわれ」という複数形が使われていますが、これは神が三一である事実に注意を促します。三位一体を数学的に考えてはなりません。さもないと、三神論――三つの神――になってしまいます。「三一(triune)」という単語は、「一にして三であること(three in one)」、三重性を意味します。この三一性の例として、木を用いることができるでしょう。「木は、葉、樹皮、木繊維といった固形物を有する。これらはみな、目に見えるものである。さらに、木の構成の中には力と法則が存在する。力が木を構成し、法則がその構成を支配する。それゆえ、木はその本質的構成において一つである。そして、この三要素(その内の二つは目に見えない)は、木の中に構成し込まれるのである。」(L.T.タウンゼント)

ハルデマン博士は、三つの光線を例にあげて三位一体をこう説明しています。「光は三つの光線から成る。これらの光線は互いに区別されるものである。これらの光線は三つの光を形造るのではなく、ただ一つの光を形造る。(中略)どの光線も、他の二つの光線がなければ、光ではない。一つの光線が光だとすると、それは他の二つの光線がそれに結合されているからである。(中略)三つの光線は、混同・分離することなく、一つの光のままである。各光線には独立した機能がある。第一の光線は開始し、第二の光線は形成して照らし輝き、第三の光線は完成させる。第一の光線は、見ることも、感じることもできない。第三の光線は、見ることはできないが、感じることはできる。第二の光線は、見ることも、感じることもできる」。

科学的精神の持ち主なら、この類比を直ちに理解するでしょう。しかしおそらく、一般の人にとっては、「心の中の思い、言葉として表現された思い、聞き手の心の中に受け入れられた思い」という例が最もわかりやすいでしょう。私の心中の思いを友人に伝えるにはどうすればいいでしょう?自分の思いを言葉として表現しなければ、友人は私の思いを知ることができません。私は自分の思いを話すか、書き記すか、印刷しなければなりません。私が自分の思いを言葉として表現するなら、その思いは言葉によって友人の心に伝わります。友人の心中の思いと、言葉として表現された思いと、私の心中の思いとは一つです。しかし、三重性は直ちにわかります。私の心中の思いは完整な思いです。言葉として表現された思いは、同じ思いですが、そのすべてではありません。なぜなら、私の言葉は私の思いを十分に表現できないからです。他方、友人の心中の思いは、表現された思いの目に見えない写しです。

「父なる神」という表現は完整な神を意味し、「御子なる神」は可視化された神を意味します。他方、「聖霊なる神」は、現された神の目に見えない写しです。神のすべての働きに、この三重性があてはまります。ですから、創世記一章一節は「神が宇宙を創造された」と述べていますが、ヨハネによる福音書一章三節は「万物はロゴス――御言葉――なる永遠の御子、可視化された神によって創造された」と述べています。また、創造に関する聖霊の働きについて述べている箇所もあります(ヨブ二六・十三、三三・四、創一・二)。私たちは、三位一体の中に三つの異なる性格が存在することを示す用語を使わないよう、用心しなければなりません。父なる神、子なる神、聖霊なる神を分けて考えてはいけません。私たちは、今まで神を見た者はいないし、これからもいないこと、しかし、永遠の御子なるキリストにおいてのみ、神の表現を見ることができることを、覚えておかなければなりません。(参照ヨハ一・十八。)これを心に留めて、創世記一章二六節の御言葉を考えることにしましょう。

注記: 三位一体に関して、通常は「格位(person)」という言葉が使われています。教師たちは、「性格(personality)」と「格位(person)」の違いを注意深く説明するべきです。後者は、父・子・聖霊の違いが人格的性質によるものであることを示すのに使われます。「三位一体の三格位」という用語は、三つの異なる性格を意味するのではありません。

神の「かたち(image)」に創造された人

「かたち(image)」と「似姿(likeness)」という言葉は何を意味するのでしょう?これらの表現を調べると、この二つの語が同義語ではないことがわかります。前者は人の目に見えない部分、すなわち内なる人について特に述べており、後者は目に見える部分、すなわち外なる人、体について述べています。内なる人は、なんらかの方法で、神に似せて造られました。神にかたどって造られた、と恭しく言ってもいいでしょう。しかし、私たちはこれをどのように、またどれくらい理解すればいいのでしょう?

この節を正確に解釈しそこなうことが、多くの宗教的・哲学的思想体系の根本的誤りです。これを心に留めて、この問題を注意深く調べることにしましょう。

神は考え、選び、愛される方です。神は御心を完全に満足させる定められた御旨を持っておられます。神のすべての働きは、この御旨を実現するためです。ですから、自分のかたちに人を創造したことには、次のような意義があることがはっきりと分かります。すなわち、神は人を御旨を認識して選択できる者に創造されたのです。人が御旨を選ぶなら、神の御心だけでなく自分の心も完全に満足させることができるでしょう。

別の言い方をすると、人は考え、選び、愛する者として創造されました。しかし、人の思考、選択、愛は、創造された命の水準にあります。他方、神の思考、選択、愛は、遥かに超越した非受造の命の水準にあります。私たちはこれを覚えておかなければなりません。明晰かつ論理的に考えようとするなら、この二つの水準を明確に区別する必要があります。

すでに述べたように、神は御心を完全に満足させる定まった御旨を持っておられます。そして、神のすべての働きはその御旨を実現するためです。それでは、こう尋ねましょう――人間を創造された神の目的は何だったのでしょうか?

人間を創造した神の目的

この問いは容易に答えられます。神が人を創造されたのは、「子にするため」です。神は、彼の性質を持ち、彼の愛に応答する者たちを欲されました。天使たちは考え、選択することができましたが、子になることはできませんでした。彼らは当初の無罪性を失って、罪深くなることはできましたが、神の非受造の命にあずかることはできませんでした。神の子になるには、神の非受造の命が必要です。神の性質にあずかることができなければ、子として非受造の愛を神に返すこともできません。子たちの非受造の愛だけが、御心を満足させます。

この非受造の愛は、神の子供たちの心の中に「注がれて」います(参照、ロマ五・五)。しかし、聖書は天使たちの愛に関して、一言も述べていません。

人が神のかたちに創造されたことは性格以上のものを含んでいることが分かります。それを「自己意識+自己決定性」と定義できるでしょう。人は、より高い水準の命を受け入れる能力を持つ者として、創造されました。別の言い方をすると、最初に創造された時、人は神の子供になる可能性を付与されていました。人は神の子供になる可能性を持っていて、その可能性を認識しており、子たる身分を実現する神の非受造の命を選ぶ力を持っていました。これが人を創造された瞬間から道徳的に自由な主体に構成したのです。

選択する力を使って、理解した神の御旨とは反対のものを選ぶまで、人は人間的な義と聖なる性向を持っていました。しかし、人は神の子供ではありませんでした。なぜなら、神の非受造の命の閃光が、人には全くなかったからです。

以上を要約して、こう言えるでしょう。人が神のかたちに創造されたことに関するこの表現は、神が人に、知性、感覚、意志、義、良心、神の子供になる能力を授けられたことを意味するのです

可能性としての子たる身分と実際の子たる身分の違いを、生徒たちに明確に理解させなさい。創造時に、人は神の子供になる可能性を持っていました。しかし、選択する力を使わないかぎり、人は実際に神の子供になることはできませんでした。

神の「似姿(likeness)」に創造された人

さて、「似姿(likeness)」という言葉について考えることにしましょう。人は「神の姿」に創造されたのではなく、「神の姿に似せて」創造されました。これに注意してください。外なる人は神の似姿に形造られました。この神の似姿とは何でしょう?すでに見たように、永遠なる御子は神の現れ、可視化された神です。御子なる神――御言葉――は、「肉体になる」(ヨハ一・十四)はるか以前に、人の姿で何度も人類に現れました。士師記十三章二~二二節と旧約聖書の他の箇所は、この事実を明白に啓示しています。さて、体はこの栄光の姿にかたどって造られました。しかし、ここでもまた、二つの命の水準を明確に区別して分けておかなければなりません。この栄光の姿は非受造の命の水準にありました。それに対して、人の姿は創造された命の水準にあり、はるかに劣ります。人は、本質的神性において神になることは決してできませんでしたが、土の体を栄化する神の命を選択することはできました。最後のアダムである主イエス・キリストの人体は、こうして栄化されました(参照、一コリ十五・四五)。この栄化された姿に似せて、最初の人はかたどられたのです。ですから、最初のアダムの創造に関する神の目的は、栄化された最後のアダムでした。

非受造の命を描いた厚紙と同じ大きさの白い厚紙を用意して、その紙に小さな円を描き、その円の頂上から上に向かって垂直の短い線を描きなさい。そして、その絵の上側に「最初のアダム」、下側に「創造された命」と書きなさい(図二)。そして、この絵を生徒に見せなさい。

Fig.2
図二

この二つの記号を並べて吊るし、両者の著しい違いが目に入るようにしなさい。生徒に両者の違いを述べるよう求めなさい。そして、次のように生徒を教えなさい。

非受造の命には、始まりも終わりもありません。それは自存し不変です。

創造された命には、はっきりした始まりがあります。それは神によって与えられ、神に依存し、変化します。

創造された人の命の記号が描かれている厚紙の上のこの円は、人の永遠の存在を示していることを説明しなさい。永遠の存在と不死とを、生徒たちに混同させてはなりません。厳密に言うと、非受造の命だけが不死です(一テモ六・十六を見よ)。

人の創造を描写するのに、三つの動詞が使われています。教師はこれに注意を喚起してもいいでしょう。第一は、二六節のアサ(Asah、ヘブル語)であり、「つくる、用意する」という意味です。第二は、創世記二章七節のヤツァル(yatsar、ヘブル語)であり、「形造る」という意味です。これは、陶器師が土を形造るのと同じ意味です。第三は、創世記一章二七節のバラ(bara、ヘブル語)であり、前に存在していなかったものを生じさせるという意味です。

主なる神、永遠の御子、現された神は、以前創造した土のちりから最初の人の体を形造られました。次に、命のないこの土くれに人の生命原理を分け与え、それと同時に素晴らしい内なる人を創造されました。内なる人は、神の命を選択して、神の栄光、喜び、満足となることができるよう、用意されました。「命の息」という表現は、非受造の命の分与を示すものではないことに注意しなさい。それは、人の生命原理の分与を示すにすぎません。創世記二章七節を、六章十七節、七章十五、二一、二二節と比較しなさい。

イザヤ書四三章七節では、これまで私たちが考察してきた人のこの創造の出来事に関して、この三つの動詞が使われていることがわかります。

人の栄光と尊厳を生徒たちに示しなさい。そして、ルシファーが荒廃させた原初の地球には、人が全く存在しなかったことを生徒たちに印象づけなさい。神の再構成の働きのこの最終日まで、人の命は現れませんでした。創世記では「創造する」という動詞が注意深く用いられています。このことから、「アダム以前にも人が存在した」という説は否定されます。また、人の創造よりもかなり古い時代の動物の化石はたくさん発見されていますが、それより古い時代の人の化石は発見されたことがありません。

三部分からなる人

「内なる人」と「外なる人」という用語、あるいは、これらに相当する用語が、現代心理学で用いられています。しかし、聖書心理学はさらに細かく人を分析しています。聖書は、人の目に見えない部分の区分を示し、人が二部分からではなく、三部分からなることを教えています。これはテサロニケ人への第一の手紙五章二三節で明確に教えられており、ヘブル人への手紙四章十二節とルカによる福音書一章四六、四七節に示されています。

三重丸を描いた三番目の厚紙を用いて、この三部分性を示すことができるでしょう。最も内側の円に「霊」、(それを取り巻く)第二の円に「魂」、外側の円に「体」と書きなさい(図三)。

Fig.3
図三

霊は神を意識する座であり、魂は自己を意識する座であり、体は世界・感覚を意識する座です。これを生徒に説明しなさい。

霊によって、私たちは神を知り、神との関係を知り、各被造物との道徳的関係を知ります。魂の力――知性、知覚、(愛情、感情)――によって、私たちは霊の直覚、魂のこの様々な機能の要求、肉体感覚の履歴を取り扱うことができます。

箴言二〇章二七節は、人の魂ではなく「人の霊は主のともしびである」と述べています。この三つの言葉を不注意に用いないよう、生徒たちに注意しなさい。「霊」を意味するところで「魂」と言ってはいけませんし、その逆もいけません。「体、魂、霊」と言ってはいけません。なぜなら、このような言い方は神聖な序列を逆転しているからです。正常な状態では、霊の力が魂の力と体を治めます。説明のために、霊を女主人、魂を執事、体を召使いにたとえることができるでしょう。この序列を逆転させるなら、家は乱れます。

多くの人は、霊と魂を同義語だと思っており、この筋道に沿って両者の違いを教えようとすることは不必要だと感じているようです。おそらく、この教えを最も支持する根拠は、聖書がこの違いを啓示している事実でしょう。聖書のある箇所でなぜこれらの言葉が使われているのか、その理由が常にはっきりわかるとはかぎりません。しかし、そのような問題の節をさらに深く研究するなら、皮相的な読み方では見落としていた多くのことが必ず明らかになります。

この主題についてしかるべき教育を与えてこなかったことが、「魂的」なものが「霊的」だと見なされる結果を招いた大きな原因です。これは嘆かわしいことです。

外なる人である体は、目に見えない内なる人の素晴らしい力を現すために形造られました。ですから、両者の間には精妙な関係が存在します。

もし魂と霊の力が創造された当初の正常で釣り合いのとれた状態のままだったなら、体は変わることなく存在し続けたでしょう。しかし、もし神の非受造の命が人の霊の中に入っていたなら、それは直ちに魂の力に浸透し、内なる人のこの造り変えの結果、体を構成する地的粒子は死と腐敗の可能性を除き去る変化を経験していたでしょう。

他方、神に依存することをやめた結果、内なる人の力が無秩序と暗闇を経験するなら、ちりの体の中に元々備わっている死の可能性は、もはや停止状態のままではないでしょう。そして、人の肉体的部分は分解と腐敗を経験するでしょう。

次の主題に進む前に、神が最初の人間の夫婦を創造された時、なんと素晴らしいものが存在するようになったのかを考えることにしましょう。また、ここで次の点をよく見ることにしましょう。これまで男の創造についてだけ述べてきましたが、エバの人格もアダムの人格と同じように創造されたことを、私たちは覚えておかなければなりません。

最初の人間の夫婦の優越性

私たちは、自分たちの方が優れているという幻想上の優位的観点から、「人類が代々築き上げてきた知恵と知識を全く知らないとは、なんと哀れなのだろう!」と考えて、この最初の夫婦を見下しがちです。ああ、私たちは大いに間違っています!最初の人は、直感的知識により、今日の科学者が多年の勤勉な学びと無数の人材の助けがなければできないことを、人間的に言って、だれの助けも借りずに容易に行えました。創世記二章十九、二〇節に注目してください。神である主は、ご自分が創造した様々な動物をアダムの所に連れてきて、「彼がそれにどんな名をつけるか」ご覧になりました。「アダムが生き物に名をつけると、それがその生き物の名になった」。今日の科学者で、このような分類の偉業を成し遂げられる人がいるでしょうか?

最初の夫婦は、神の創造的な御手によって造られたばかりでした。彼らの霊の力は、強く、汚れがありませんでした。また、彼らの魂の力は、均衡が取れ、活発でした。さらに、彼らの体の力は、損なわれておらず、自由でした。このような最初の夫婦を見ることができさえするなら、「ああ、私たちはなんと堕落していることか!」と私たちは叫ぶでしょう。

アダムとエバの自然環境

さて、最初に創造された夫婦の自然環境を調べる必要があります。「主なる神は、エデンの東方に園を設け、そこにご自分が創造した人を置かれた」(創二・八)。この園の美しさと豊かさを想像できるでしょうか?私たちはしばしば、美しい景色を眺めて、それを楽しみ、堪能します。しかし、朽ちかけている枝、しぼんだ葉、イバラや雑草を見る時、結局のところ、自然界の美しさが不完全さによって損なわれていることを実感させられます。私たちは、バラの素晴らしい美しさと、その芳香のかぐわしさを賞賛します。しかし、ああ、そのトゲは私たちを傷つけます!この園はなんと異なっていたことでしょう!そこには、トゲ、アザミ、イバラ、毒草はありませんでした。枯れ木や朽ち木もありませんでした。すべての草木が、新鮮で、美しく、正常で、完全でした。私たちはこれまで一度も、不正常な状態から解放された自然界を見たことがありません。

この園に生えていた木が、特に私たちの注意を引きます。この園には、神の創造の御旨にしたがって、三種類の異なる木が生えていたようです。「主なる神は、その土地から、見るに良く、食べるに良いすべての木を生えさせた。また園の中央に命の木、それから善悪の知識の木を生えさせた」(創二・九)。第一は「見るに良い木」、すなわち緑陰樹です。神は、人に賦与した美的感覚を満足させることを良しとされます。第二は「食べるに良い木」、すなわち果樹です。この木が、肉体の維持に必要なものをすべて供給しました。第三が「園の中央の命の木、それから善悪の知識の木」です。この最後に述べられている二本の木の用途は、体のために食物を供給することでも、人の魂を感情的に満足させることでもありません。私たちはこう尋ねることができます。「何の目的のために、この二本の木がそこに置かれたのでしょう?」。

この質問に答える時、命の木が最初に述べられていること、そしてそれが園の中で最も目立つ場所、すなわち「園の中央に」あったことに注意しなさい。もう一方の「善悪の知識の木」は、劣った場所にありました。まるで、命の木の卓越性のゆえに他の木々がかすんでしまうよう、創造者が仕組まれたかのようです。これはみな、とても示唆に富んでいます。

また、次のこともわかります。神は、命の木から自由に食べることを許可されましたが、もう一方の木にあずかることを厳しく禁じて、不従順の罰がいかなるものかを彼らに告げられました(創二・十六、十七を見よ)。神はなぜ、一方にあずかることを許可し、他方にあずかることを禁じたのでしょうか?

命の木

主なる神は荒野でモーセに素晴らしい幕屋の計画を与えられましたが、この幕屋に関する指示はすべて、永遠の真理の象徴でした。また、主はいけにえの供え物の精緻な体系を設けられましたが、その詳細はどれも、カルバリの贖いの御業と関係している方を物語っていました。ですから、まさにこの人類史の開始の時点でも、神が二人に知って欲しい諸々の真理を、象徴によって教えようとされた可能性は十分あるのではないでしょうか?

主は後に、人の手が用意したパンを裂き、それをご自分の裂かれた体の象徴として用いられました。また主は、人の足が圧搾して造ったぶどう酒を、ご自分が流した血の象徴として用いられました。ですから、このエデンの園において、受肉以前に、主は園の中央にあった木を選んで、それを神の非受造の命――この命は人のために主の中に蓄えられていました――の象徴とされた、と信じることができるのではないでしょうか?また、私たちの始祖は、霊と精神の素晴らしい力――神の創造的な御手によって造られたばかりの力――によって、この象徴を十分に理解して見抜き、この命を選ぶことができたのではないでしょうか?この命は、彼らが園で会話した栄光の主のうちに、現実に表現されていました。誰がこれを疑えるでしょう?しかし、それでも彼らがこの木にあずからなかったことは明白です。別の言い方をすると、彼らは非受造の命、永遠の命――この言葉の方がよく使われています――を選びませんでした。もし命の木から食べていれば、彼らは単純な信仰を通して、神の命――この命は彼らのために永遠の御子の内にありました――を受けていたでしょう。そして、直ちに神の子供になり、造り変えのための供給を受け続けることにより、最終的に「永遠の御子のかたちに同形化」されていたでしょう。

神の子ではないアダム

最初のアダムは神の子ではなかったことを、生徒たちに印象づけなさい。生物学的にどうしてなのかわかります。彼は同じ種類の命を持っていませんでした。「贖いは、最初のアダムの堕落以前の水準に人を回復する」という誤った考えがあります。もしそうなら、これは実に悲しいことです。なぜなら、子たる身分についてなにもわかっていないことになるからです。贖いは私たちを、永遠の御子による子たる身分の水準に置きます。アダムとエバは自分の選択する力を用いて神を選んでいれば、この水準に達していたでしょう。また、次のことにも注意しなさい。かりにアダムとエバが永遠の命――永遠の御子のうちにある神の非受造の命――を選んで神の子供になっていたとしても、彼らはその命を子供たちに伝えることはできなかったでしょう。彼らは、罪のない人の命を聖なる性向と共に、子供たちに伝えることはできたでしょう。しかし、彼らの子供たちは、非受造の命に関して、自分の選択する力を個人的に用いなければならなかったでしょう――なぜなら、非受造の命は常に神からの賜物だからです

神は人を、より高い水準の命を受け入れる能力とそれを選ぶ力とを持つ者に創造されました。また、より高度な道徳的理解力を、人に与えられました。ですから、これらの卓越した力を使うための機会を、人の生活環境は備えていなければならないことがわかります。それで、これまで考えてきたこの二本の木が楽園にあったのです。

この素晴らしい「神の園」に関する記述の様々な面を詳しく学ぶには、多くの時間が必要でしょう。ですが、こう述べて直ちに要約することにします。主なる神は、最初に創造した夫婦を理想的環境の中に置き、地上の被造物を治める力を彼らに与え(創一・二八)、霊・魂・体の力に必要なものをすべて備えてくださったのです。「おお、地球よ、汝は天の如し!」とミルトンが叫んだのももっともです。

人に対する道徳的テスト

さて、一つの物語を見ることにします。もし神が、他の聖書の箇所を通して、この物語をはっきりと理解する鍵を与えてくださっていなければ、私たちはこの物語を全く理解できなかったでしょう。生徒全員に創世記三章一~七節を読ませなさい。この奇妙な誘惑の光景の意味は何でしょう?誘惑者は誰でしょう?誘惑者は明らかに蛇でした。明るい色をした蛇は、園の中で神が禁じられた唯一のものに巻き付いていました。しかし、蛇が語った言葉を読むと、この爬虫類は実際の誘惑者ではありえないことがわかります。なぜなら、爬虫類は動物の命の水準にあり、自己意識の水準以下にあることがわかっているからです。蛇が語った数語の言葉から、自己意識と驚くべき知力と優れた意志と神意識さえも伺われます。ですから、蛇を代弁者・手先として使っている、目に見えない実際の誘惑者を求めて、私たちは他所を捜さなければなりません。動物の被造物をすべて探索対象から外して、「一体何者がこの誘惑者なのか?」と尋ねましょう。アダムとエバ以外にも人がいて、なんらかの陰険な動機で、彼らを神の命令に背かせようとしていたのでしょうか?全くありえません。なぜなら、神の偉大な宇宙にはこの男女しかいなかったからです。神が、その結果をよく知りながら、ご自分が禁じたことを行うよう、彼らを誘惑されたのでしょうか?ありえません。神はだれも誘惑されません。それでは、誘惑者はいったい誰でしょう?

誘惑者の条件を満たす、なにか他の生命体が存在するのでしょうか?天使しか考えられません。ですから、「目に見えない誘惑者は天使であり、しかも明らかに高い位の天使である」と結論することにします。この誘惑者の正体に関して、なにか手がかりはあるのでしょうか?心理学の注意深い学生なら、誘惑者の言葉は昔ルシファーが発した言葉によく似ていることを、直ちに指摘するでしょう。誘惑者の言葉は、ルシファーと同じように、「自分は神と等しい」という思い込みを示しており、神の至高の戒めを故意に無視しています。

今後、私たちはルシファーをサタンと呼ぶことにします。思慮深い人なら、神が創造された人に関して、サタンがある特定の目的を持っていたことにも気づくでしょう。サタンは、神が地上の被造物に対する支配権を人に与えたことを知っていました。また、もし人が創造者に信頼し続けるなら、人は地的支配権の行使に成功するであろうこと、そしてその結果、自分の堕落した力では地上の領域を支配できなくなるであろうことを、容易に理解することができました。さらにサタンは、もし人が地上の領域で支配権を行使するなら、その結果、人は彼を大気中から追い出すほど強くなるであろうこと、そうして彼の野望は無に帰すであろうこと、また代々の昔に神が下した凄まじい裁きが恐るべき現実になるであろうことを、推論することができました。

サタンの独立行政の結果、神の美しい地球は混沌状態に陥りました。しかし、この最初の失敗にもかかわらず、彼の性格は全く変わりませんでしたし、彼の野望もついえませんでした。サタンが自らの失敗に失望し、悔しがったのは間違いありません。しかし、彼は全く悔い改めませんでした。神によって再構成された地球が現れた後、彼は以前のようにその支配者になろうとしました。これらの事実や状況を見ると、サタンこそ蛇を代弁者として利用していた目に見えない誘惑者だったと信じざるをえません。

この誘惑の光景は、よく学ぶ価値があります。誘惑の結果をよく理解するために、この誘惑の舞台を注意深く調べることにしましょう。舞台は神の素晴らしい園です。この園には、波打つ木々、芳香を放つ花々、きらめく水、自然美を備えたあらゆるものが揃っていました。サタンは驚くべき策略家です。彼は、人類史のこの決定的瞬間に関する詳細全般にわたって、慎重かつ十分に計画を練りました。第一に、彼はエバが一人だけの好機を狙いました。(彼はもしかしたら、それ以前に別の場所で、アダムの注意を引いたかもしれない、と思わずにはいられません。)次に彼は、エバの注意を引き、自分の代弁者にするために、特に目立つ動物の種族を選びました。明るい色をした蛇――古代、蛇は直立で、木から木へ優雅に滑走できたにちがいありません――が、エバの注意を禁断の対象に引くために用いられました。

この章の記述を調べると、命の木が物語の中心にないこと、それどころか言及されてすらいないことがわかります。明らかに、エバの注意は質問者によってもう一方の木に向けられています。エバはその木を見つめることに夢中になるあまり、実を食べることを禁じられた木のことを、「園の中央にある」と言っています。彼女は、自由に食べることを許されていた園の中央にある木を忘れてしまったかのようです。創世記三章二、三節を二章十六、十七節と比較しなさい。

この時、エバが命の木に背を向けて立っているのを、私たちは想像できます。彼女は、禁断の木に絡みついている、明るく曲がりくねった蛇の体を見つめています。おそらくこの時まで、その禁断の木を恐れを抱かずに見ることを、彼女は自分に許していなかったのでしょう。しかし今、禁断の木がその素晴らしい美しさでエバを魅了しました。誘惑者によってそそのかされるまで、彼女の心の中に不従順な思いは入り込んでいませんでした。三節を心理学的に分析すると、これがわかります。

彼女は神の禁令に、「それに触れてもいけません」という言葉を付け加えました。これは彼女の心理状態を示しています。彼女は従おうとするあまり、禁断の木の実に触れようとすらしませんでした。きっと、彼女はそれを見つめようともしなかったでしょう。これは、無垢な心の正常な心構えです。今日、同じ心構えを良心的な子供や大人にも見ることができます。罪深い性質を受け継いだ人ですらそうなのですから、罪のない性質を持っていた人の場合、この心構えはどれほど強かったことでしょう。「あなたたちが死ぬといけないからです」という表現は、エバが不従順の結果を弱めようとしなかったことを示します。「~するといけないからです」という表現は、不確実性を意味しません。彼女は不従順の結果をありのまま述べたにすぎません。

しかし今はじめて、神の戒めに対する不従順な思いが彼女の心に示され、そこに宿りました。しかし、誘惑者の働きは実に巧妙だったので、禁断の実を食べても全くの不従順ではないように思われました。サタンは彼女に「命の木」を忘れさせるよう、舞台を整えました。彼は彼女の目を支配し、自分の不従順な思いを彼女の心に投影し、神の御言葉を疑わせました。そして今、彼は、神の御言葉の代わりに自分の言葉を受け入れさせて、自分の計画どおりに彼女の意志を用いるために、彼女の心を完全に眩ませます。

後に、彼はエバを用いてアダムを誘惑し、彼に選択させました――こうして、サタンのもくろみが遂げられました。サタンはアダムとエバを誘惑して、選択する力を誤用させることに成功しました。その結果、子になる当初の可能性は失われ、彼らの罪の無い状態は罪深くなり、彼らは彼の僕、奴隷になりました。

この園の光景とその正当な結果を描写するとき、人類史におけるこの悲惨な瞬間の厳粛さを損なう表現を使わないよう注意しなければなりません。人類の母たるエバの行動には、恐ろしい結果が伴いました。リンゴの実を食べるエバの喩えは、その結果に対する認識の悲しむべき欠如を示しています。そしてそれはまた、神の御言葉の決定的真理に関する論理的思考の欠如をも示しています。

今、教師はこの禁令に伴う刑罰に注意しなければなりません。神は、「それを取って食べるその日、あなたは必ず死ぬ」と言われました。神はこの御言葉で何を意味されたのでしょう?体の速やかな分解ではないことは明らかです。なぜなら、アダムとエバは堕落の後、長年にわたって生き長らえたからです。

死という言葉で神が意味しておられること

その意味を理解するには、「死は外界との交流を失うことである」という科学的な死の定義が助けになります。この主題を生徒によく理解させるには、次の例が役に立つでしょう。ここに人の目があります。見たところ、その構造は完全で、広く開かれており、前にあるものをなんでも見ることができそうです。その目は周囲の明るい太陽光を浴びており、自然物を見ることができそうなのですが、全く反応がありません。その目はなにも見ていません。なぜなら、視神経が切れているからです。その目は、目の前の美に対して死んでいます

ここに耳の全く聞こえない人がいます。鳥はさえずり、ベルは鳴り、話し声がします。しかし、この音波はそれを受け入れるべく開かれている他の耳には旋律を伝えますが、その耳はこの音波に反応しません。その耳は音に対して死んでいます

アダムとエバが不従順に振る舞ったその日、罪がアダムとエバの霊の中で、神を知る精妙な直感的知識を断ち切りました。彼らは自分の周りに臨在しておられる方に反応できなくなりました。彼らは神に対して死にました。ですから、人は道徳的で、教育もあり、上品で、心身共に強健かもしれませんが、それでも神に対して死んでいることがわかります。人は、神について多くのことを知り、神について語り、神について宣べ伝え、神について本を書くかもしれませんが、それでも神に対して死んでいます――御霊の御声に反応しません。これは、テモテへの第一の手紙五章六節、エペソ人への手紙五章十四節、ローマ人への手紙八章六節などの意味を理解する助けになります。

人をこのように「死者」と「生者」のグループに分類することは、科学者の興味を引くでしょう。なぜなら、科学者もすべてのものを同じように分類するからです。科学者の前に多くのものを並べたとしましょう。彼は、子供がするように、美しいものを一つに積み上げ、美しさに欠けるものを別に積み上げるでしょう。しかし、彼は各々を命の有無に照らして吟味するでしょう。その結果、彼は一方には「生きている」というラベルを貼り、他方には「死んでいる」というラベルを貼るでしょう。

神は人を道徳的美点や「善行」に基づいて分類されません。神は各人に関して、「この人はを持っているか?わたしに対して生きているか?」と問われます。

私たちの始祖の霊の中に確立されたこの死の過程は、内なる人全体にわたって速やかに明らかになりました。そして、しばらくして、体が分解する可能性――堕落以前、人が神に従順で神に依存していた時には、それは休止状態にありました――が現実のものになりました。地のちりから見事に形造られ、栄化される可能性を秘めていた体は、今やちりに戻りました。ここで教師は、霊・魂・体を表す三重丸を含む黒い円盤を、人の三部分を表す白い三重丸の上に重ねなければなりません。(図四)

Fig.4
図四

遺伝の法則

私たちは今、創世記一章の神の創造的御業の記事で数回使われている一つの句に注意する必要があります。この句は最初に二一節で使われています。「そこで神は、その種類にしたがって、海の巨獣と水に群がりうごめくすべての生き物、またその種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された」。さらに二四節は言います。「そして神は、『地は、その種類にしたがって生き物、その種類にしたがって家畜、はうもの、野の獣を生ぜよ』と仰せられた。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた」。

科学によると、動物の原初の胚は見分けがつきません*。原形質の一片は獣に成長し、別の一片は鳥、また別の一片は爬虫類に成長します。さらに驚くべきことに、顕微鏡による観察や化学者による分析では、植物、動物、人の原初の胚は全く同じです。しかし、なぜ一つの胚がオークを生じ、別の胚がライオンを生じ、また別の胚が人を生じるのか、科学者は説明できません。各々の胚の中に異なる生命原理があること、そしてこれらの様々な生命原理が不変的法則に則って現出すべく生命体を複製することは明らかです。科学界の限られた知識から神の単純な御言葉に向かうことは、なんという安息でしょう。神の創造的力は、これらの様々な生命体を生じさせました。そして、その複製は神の創造的働きの延長にほかなりません。(これが詩篇一〇四篇三〇節の素晴らしい詩で述べられているのを見てください。)「生命の自然発生」説を証明しようと多くの試みがなされましたが、どれも完全な失敗に終わりました。この惑星上の生命の起源とその複製の神秘に関するこの大問題を解くために、相継いで理論が提案され、実験に次ぐ実験がなされました。進化論者たちは、「自分たちの緻密な研究は成功によって報われるはずだ」とたびたび感じてきました。しかし今、彼らの間の鋭い論理的思考力の持ち主は、「自分たちの鎖は完全である」などと言う意欲を持ちません。なぜなら、致命的に弱い鎖があり、それが彼らを困惑させ、落胆させているからです。

* 今日の科学知識によると、すべての生き物の細胞中には、生体の設計図である遺伝子が含まれています。そして、すべての種は遺伝子レベルで異なります。全知全能の神は、遺伝子という超微細な設計図をすべての生き物に与えられました。これは実に驚異的であり、神の素晴らしい知恵を示します。しかし、著者がこの本を出版した一九二〇年代には、まだ遺伝子は発見されていませんでした。(訳注)

「生命の複製は神の創造的御業の延長である」という前に述べた思想を心にとめるなら、神ご自身によって一つの法則――この法則からの逸脱は決してありえません――が定められたことを認識するのは難しくありません。各生命体は、その生命の複製が続くかぎり、「その種類にしたがって」複製されます。

もう一つの自明な事実に注目しましょう。生命体にはそれぞれ、決まった目標があります。目に見えない、しかし固有の生命原理が、生命体をその目標に至らせます。科学の専門用語では、この目標のことをと呼びます。生命体はこの型と同じ形になります。これに関連して、型のことを「特質の集合体」と定義してもいいでしょう。これまでの考察からわかるように、ある水準にある命が別の水準にある命を生み出すことは不可能です。いかなる生命原理も、その特定の水準にある命を現して成熟に至らせることしかできません。たとえば、ユリの球根内にある生命原理はユリの命を生じ、妨げられないかぎり、その命のすべての特質を完成に至らせます。しかし、ユリの生命原理は決して鳥の命を生み出しません。また、鳥の卵の中にある生命原理は鳥の命を現すことしかできません。鳥の命は自分の目標に達することはできますが、それ以上高く進めません。言いかえると、鳥は羽を広げて空中を遥か高くまで舞い上がり、甘美な歌を歌うことはできますが、決して人の命を生み出せません。人の命だけが、人の命を複製できます。人の命は、さらに高度な水準にある命――神の非受造の命――を生み出せません。

さて、この遺伝の法則を堕落した状態にあるアダムとエバに適用しましょう。彼らが複製するべき命の特徴は何でしょう?第一に、それは創造された命です(自存する命ではありません)。第二に、それは人の命であって、神の命ではありません。第三に、それは罪深い命であって、罪の無い命ではありません。ですから、「アダムとエバの子供たちは、罪深い、創造された、人の命を持ってこの世に生まれる」と言えるでしょう。罪の毒が人の胚の中にあり、生命の開花と共に現されます。そうなるしかないのです。ですから、アダムとエバの子孫はみな、同じ種類の命、すなわち、罪深い、創造された、人の命を持ってこの世に生まれます。ローマ人への手紙五章十二節の使徒パウロの言葉は、この変更不可能な遺伝の法則と完全に一致します。「一人の人を通して罪がこの世に入り、罪によって死が入り、こうして死がすべての人に及びました。なぜなら、すべての人が罪を犯したからです」。

次のことを思い出さなければなりません。前に見たように、罪は行い以上のものです。また、罪と死の間には関係があります。ですから、遺伝の法則と「罪と死の法則」は人間界全体を平行して進みます。

別の主題に進む前に、教師は罪に関するこれまでの話を復習した方がいいでしょう。生徒たちに以下の要約を復唱させるか、暗記させなさい。

単数形の罪(Sin)は、神の権威に対して、故意に、意図的に反抗する姿勢です。この姿勢の現れが複数形の罪(sins)です。

単数形の罪はサタンに由来し、人が創造される代々の昔に発生しました。サタンの罪により、直ちに以下の結果が生じました。

(a)サタンは神の臨在から永久に追放されました。
(b)サタンは支配権を失いました。
(c)サタンは恐れの虜になりました。

(c)に関して次のことを生徒に説明しなさい。最初に罪を犯した者に神が下された恐ろしい裁きの言葉を、サタンは忘れられません。サタンはその言葉をよく覚えており、非常に恐れています。しかし常に、この滅びの判決の完全な執行を妨げようとしています。

サタンに支配権が与えられていた地球に関して言うと、彼の罪の結果、地球は無秩序で混沌とした状態になりました。

サタンはアダムとエバを罪に誘惑しました。

彼らの罪により、直ちに以下の結果が生じました。

(a)彼らは死にました。すなわち、彼らは神から分離され、神に応答できなくなりました。
(b)彼らは支配権を失いました。
(c)彼らはサタンの虜になりました。

人に支配権が与えられていた地上の被造物に関して言うと、人の罪の結果、人と動植物の生命水準は無秩序な、苦しい、瀕死の状態に陥りました(ロマ八・二二を見よ)。

罪が大気と土地に及ぼした結果を、この時点で詳しく述べる必要はないでしょう。しかし、「罪が地的被造物を変え、歪めたため、その痕跡は至る所に見られる」と言っても差し支えないでしょう。どの人にも、また、どの動植物にも、人の罪の結果を認めざるをえません。驚くべきことに、「地上の王が道に迷った」にもかかわらず、地は再び「荒れ果てて、荒廃し」ませんでした。神はそれを維持されました。神は人類に関してある御旨を抱いておられ、この罪で呪われた世界で成就されるべき計画を持っておられたからです。

さて、人類に関するこの偉大な永遠の御旨について、もっと詳しく考えることにしましょう。生徒たちにローマ人への手紙八章二九、三〇節、エペソ人への手紙一章三~五節を読ませなさい。

象徴の独特な混ざり合い

これらの御言葉を慎重に熟考すると、二つの象徴が使われていることがわかります。その二つの象徴とは、建物と親子です。この二つは独特な方法で混ざり合わされています。「あらかじめ定める」という言葉は、「選定すること」を意味します。建築家が素晴らしい建物の集団を心に思い描いて、それと同じ一つの計画――全体と様々な部分との関係を詳細に示す計画――を立てるように、偉大な建築家である神は聖書の中で、多くの建物――各々の建物は栄化された人です――から成る「都」の素晴らしい栄光に満ちた概念を描写されました。「土台のある都、その設計者と建設者は神です」(ヘブ十一・十)。この都は神の住まいのためです(人の住まいのためではありません)。この都は黙示録の中に美しく描写されています。これらの節の中で聖霊は象徴を用いておられることを私たちは覚えておかなければなりませんが、しかし他方で、その象徴が啓示しようとしている幸いな真理を識別しなければなりません。

さて、もう一つの象徴である親子と、この象徴と今考察したばかりの建物の象徴との独特な混ざり合いを見ることにしましょう。エペソ人への手紙一章五節では、この都の個々の建物は「子」と呼ばれていることがわかります。また、神の究極的御旨が示されています。神の究極的御旨は、神に創造された人が永遠の御子の中に自分のために蓄えられている神の命にあずかること、そしてこの命の造り変えによってついには御子のかたちに同形化されることです。ヘブル人への手紙二章十節は、この完成を示しています。

ですから、人に対する神の永遠の御旨は、人が永遠の御子を通して神の子になることであり、そして、これらの栄化された個々の人が、「都」(黙二一・二、三、二二、二三)として述べられている一つの共同体を団体的に形成して神の住まいになること、もしくは「兄弟たちの大きな群れ」を御父の家で形成することです。

宇宙最大の問題

今、私たちは宇宙最大の問題に直面します。神に対して死んでおり、「咎と罪の中で死んでいる」人間は、どうしたら神の子供(children)になり、最終的に「栄化された子(sons)」になれるのでしょう?生物学的には不可能です。なぜなら、どの水準の命も自分自身を複製することしかできないからです。生命は、より高い水準の生命を生み出せません。人はどんなに努力しても、神の命に至れません。科学は、「肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるものは霊である」(ヨハ三・六)という聖書の宣言と完全に一致します。様々な水準にある生命は、永遠に別々に隔たっていなければなりません。ですから、人がどんなに努力しても、全人類は罪深い命の水準に永遠にとどまらなければなりません。「すべての人が罪を犯しました」。それゆえ、すべての人が「神の栄光に欠けています」(ロマ三・二三)。

神は絶対的に聖なる方です。神は罪に耐えられません。神は罪を許すことができません。私たちは、罪を軽く扱うような神を礼拝できません。生徒たちに罪の恐ろしさを印象づけなさい。しかしその際、生徒たちが罪の法則の存在を悟れるようにしなさい。自然界の法則に必然的結果が伴うように、罪の法則にも必然的結果が伴います。(ロマ八・二後半を参照。)ある人々は、「神は愛なる方なので、罪人を罰せられない」と言います。しかし、このような説得力に欠ける非論理的推論に生徒たちが耽るのを許してはなりません。神は愛に欠けているから、人が絶壁から身を投じる時、落下することを許されるのでしょうか?いいえ、重力に逆らうことはできません。神は愛ではないから、わざと火の中に入れた手は焼けるのでしょうか?いいえ、私たちは自然法則の働きに通じており、その不変性を知っています。

神はでたらめに罪を裁かれるわけではありません。これを生徒たちに理解させなさい。神の裁きは、不変的法則の必然的結果であり、因果律の実例です。気まぐれに怒って罪人を罰する方として神を描写することは、これまで多くの悪影響を及ぼしてきました。神は聖にして愛なる方です。神は、絶対的・不変的な「罪と死の法則」の働きの致命的結果を生活の中で経験している罪深い人々のことを、嘆き悲しんでおられます。罪人の神からの永遠の分離は、罪の論理的結果にちがいありません。

神の聖と人の罪深さは、決して一つになれません。神は聖以外のなにものでもありえませんし、人の天然の状態は罪深い以外のなにものでもありえません。

ですから、神の聖の要求により、罪人は神の御前から除かれなければならず、両者の間のいかなる交わりや関係も不可能なことがわかります。

しかし、神は聖なる方であるだけではありません。神は愛なる方でもあります。「神は愛です」(一ヨハ四・八)。神の聖の要求だけでなく、神の愛の要求も考慮されなければなりません。神の愛は罪人の種族を慕い求めます。神は、永遠に変わらない非受造の愛で、罪人を愛しておられます。神は、罪人を御腕に抱いて、子と呼ぶことを願っておられます。

ここに正反対の要求があります。神の聖は「わたしから去れ」と罪人に言わなければなりませんが、神の愛は御腕を開いて罪人を受け入れなければなりません。この正反対の要求はどうすれば調和されるのでしょう?法理的な方法、すなわち法律上の義の形によるしかありません。例として、反対の要求を持つ二人の人を考えましょう。彼らは正義の法廷に行き、自分の話を語ります。裁判官は彼らの話に忍耐強く耳を傾け、それから判決を下します。この判決は、裁判官に提訴された訴えの真実に関する公的宣言であり、その国の法律に基づきます。

聖書の中で裁きという言葉は、懲罰的意味以上に、この弁護的意味で用いられていることを心に留めましょう。それは「正すこと」です。この説明を心に留めて、神の聖と神の愛という反対の要求に関するこの裁きがどうなるのかを考えましょう。それをこう述べることができるでしょう。「神の愛の要求は正しいものであり、神の愛は、罪深い人々の状態を変えて、御心を満足させる者にする権利を持ちます。しかしまた、この状態の変更は神の聖を確定・満足させるものでなければなりません」。

さて、この状態の変更が何を含むのか考えましょう。第一に、それは新しい生命原理、性質、遺伝を必要とします。第二に、「罪と死の法則」よりも高い法則の働きが実現されなければなりません。第三に、サタンの領域と支配からの解放が成し遂げられなければなりません。

さらに、この状態の変更は、神の聖が讃えられ、神の道徳的支配が全宇宙で正当化されるような方法で成就されなければならないことがわかります。

しかし、人類の罪の問題は法理的に解決されなければならないだけでなく、一つの決定的行いによって決定的に解決されなければなりません。そして、それは効果的に解決されなければなりません。言い換えると、「正すこと」は、この大いなる問題の詳細を一点も欠いてはなりません。

さて、「これまで考えてきた変更を十分に成し遂げる決定的行いの性質は、いかなるものでなければならないのか?」と問う用意が整いました。この答えは短く次のような文章で述べることができます、「それは、人の罪の結果と同じ分だけ、神の苦しみが表されることでなければなりません」。この文章を注意深く検討するなら、これ以外の方法では神の不変の愛と聖は調和されえないこと、そしてこれ以外の方法では両方とも適切に表されえないことがわかります。苦しむ愛と絶対的な聖のこの表れは、罪深い人が神の子供になるための唯一の方法でもあります。

生徒たちにこの点をさらによく理解させるには、おそらく次のような例が役に立つでしょう。ここに一人の人がいます。彼には心から愛する友人がおり、彼はしばしばその友人と会って、交わりを楽しみます。彼は親しい交わりの年月を期待しています。しかしある日のこと、彼は友人が膨大な金を横領していること、そして無謀な投機ですべてを失ったことを知ってショックを受けます。彼の繊細な正義感はその人とこれ以上親交を持つことを許しませんが、彼の愛はそのような友情の断絶に大いに苦しみます。彼はその人の罪を蔑む一方、その人をあわれみます。この正反対の感情はどうすれば調和させられるのでしょう?両方の感情を表す一つの行いによるしかありません。ですから、彼は友人を訪問し、その悪行のひどさを突き止め、自分の財産をなげうって、友人の不正の犠牲になった人々の損失を償います。この犠牲的行いによって、その人の愛と正義感が表されます。さらに、これに加えて、もしその友人の心が触れられて、真に悔い改めるなら、その人のこの自己犠牲的行動は、罪人に及ぶ贖いの恵みのささやかな絵図になります。

今、神の愛と聖のこの表れをもっと詳しく考えなければなりません。この表れは罪深い人がその意義を悟れるような形でなければならないことは明らかです。ですから、人間が神の御心を理解できるよう、神は人性をまとわなければなりません。しかしながら、容易にわかるように、神全体を人の姿で網羅することはできませんでした。神は無限であり、この創造された宇宙は神を制限できません。しかし、永遠の御子――現された神――は、ご自分の独立した神聖な力とその栄光の多くを放棄して、しかし神聖な性質は放棄せずに、衣のように人性を身にまとわれました。

ユニークな方―――神・人

この事実がヨハネによる福音書一章十四節とピリピ人への手紙二章五~七節に明白に述べられているのがわかります。二つの水準の命がひとりの方の中で結合されることにより、この世にユニークな存在「神・人」がもたらされました。

ここで教師は、このユニークな方に関して述べている聖書中の最初の言葉に、注意を喚起しなければなりません。生徒に創世記三章十四、十五節を読ませなさい。十四節で、なる神は蛇に対して呪いを宣告しておられることを説明しなさい。この爬虫類はサタンの道具であり、状態の変化を経験しなければなりませんでした。神は、蛇の退化が時の終わりへの実物教材となるよう、意図されました。栄光の千年王国時代、他の動物は元どおりの状態に戻ります。しかし蛇は、毒はなくなるものの、ちりの中をくねりながら進み続けます。(イザ六五・二五、十一・六~八を見よ。)

十五節で、なる神は蛇を代弁者として利用していた者に向かって語っておられます。すでに見たように、この者はアダムとエバを罪に誘惑したサタンでした。神が語られた言葉に細心の注意を払いなさい。なぜなら、この節は贖いの全啓示の胚珠を含んでいるからです。「わたしは敵意を置く。おまえと女との間に、おまえの種と女の種との間に。彼はおまえの頭を砕くが、おまえは彼のかかとを砕く」(ロザハム訳)。何度も読み返すと、人称代名詞の「彼」が強調語であることがわかります。明らかに、ユニークで力強い方が示唆されています。この方は「女の種」と言われていますが、これは生物学的に考えると尋常ではない表現です。なぜなら、通常の子孫に関しては、「男の種」という表現が使われるからです。人間の父親が示されていない事実、そしてこのがサタンの頭を「砕く」事実は、彼が超人であることを示します。また、小さな蛇の頭を砕くことがその蛇にとって致命的打撃になるように、サタンの頭を砕くことはサタンの野心的力と支配にとって致命的打撃になることがわかります。さらに、この強い方が蛇の頭を砕く時、そのかかとを砕かれることは、この蛇が彼のかかとに毒に満ちた力をすべて集中して、言語を絶する苦しみを彼に与えることを意味することがわかります。

さて、「女の種」というこの独特な表現に対応する節が他にも見つかるかどうか、見ることにしましょう。イザヤ書七章十四節、「見よ、一人の処女(原文では『その処女』)がみごもっている。そして、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この名はとても示唆的です。それは、二つの水準の命、すなわち神の非受造の命と人の創造された命の結合を暗示します。インマヌエルという言葉は「私たちと共におられる神」を意味します。この「私たち」は人のことであり、この表現は人の中の神を強調しています。

イザヤ書九章六節で、再び「私たち」という言葉が使われていることがわかります。「私たちに(人に)、一人の子が生まれる」。しかし、次の節によく注意しなさい。「一人の男の子が与えられる」。この男の子は「生まれる」のではありません。これは、この男の子の起源が人の水準よりも高いことを示しています。また、彼に与えられる名前に注目しなさい。「素晴らしい助言者、大能の神、永遠の父、平和の君」。人に由来する子供がこのような名を帯びることが可能でしょうか?

ミカ書五章二節から、この神・人の誕生の地がわかります。この節を読む時、最後の句に注意を喚起しなさい。「その出ることは、昔から、永遠の昔からである」。また、詩篇九〇篇二節の最後の句と比較しなさい。

さて、マタイによる福音書一章十八~二五節に向かいましょう。この箇所には、ベツレヘムにおけるインマヌエルの誕生が記録されています。また、医者ルカが記録している、この方の誕生に関する美しい記事を読みなさい。ルカによる福音書二章一~二〇節を見なさい。天使たちが喜び叫ぶのも不思議ではありません。なぜなら、罪深い人類を贖うために、神が人性を身にまとわれたからです。

ここで四番目の厚紙の印を示しなさい。この四番目の厚紙は、前に使った厚紙と同じ大きさです。そして、三番目の厚紙で示した三重丸の上に、金色の大きな星をのせてあります。その星には金属の留め具がついていて、厚紙にはさむことができます。星の上に神・人という言葉を記し、星の下にそれより小さな文字で「最後のアダム」と書きなさい(図五参照)。コリント人への第一の手紙十五章四五、四七節に注意を喚起して、「最後のアダム」という表現について説明しなさい。また、この表現を救い主を意味する主の人名「イエス」と関連させなさい。(マタ一・二一を見よ。)主の人性を象徴するこの白い三重丸を示して、主が本当に人の性質を取られたことを生徒たちに明らかにしなさい。ヘブル人への手紙二章十四~十八節、四章十四、十五節を読ませなさい。主は人体の養いのために食物を必要とし、疲労回復のために眠りを必要とされました。この事実をよく考えなさい。これらの事実を証明する福音書の様々な節に注意を喚起しなさい。主の神性を象徴する金色の星を示しなさい。福音書の中から、主の神性を示す証拠を生徒たちに挙げさせなさい。主が罪を赦し、礼拝をお受けになったことを述べている節を読ませなさい。しかし、主がとしてなさった行いを含めないよう、注意しなさい。主は人として、神を信じる信仰を行使し、神に全く信頼されました。荒野での断食、水上歩行、ナザレで猛り狂う群衆の間を通り過ぎたことなどは、その例です。これらの行動や他の記録された主の行動を見ると、当初人に与えられていた支配権を主が行使されたことがわかります。最初のアダムは罪を通してその支配権を失いましたが、最後のアダムはそれを完全に現されました。また、父なる神に対する主の信頼を強調している、以下の節を読ませなさい。ヨハネによる福音書六章三八節、七章十六節、七章二八、二九節、八章二八、二九、三八、四九、五〇節、五章三〇節。

Fig.5
図五

エデンの園での誘惑の光景と荒野での誘惑の光景を比較すると、大いに助けになるでしょう。一つの授業全体をこれにあててもいいでしょう。最後のアダムは、最初のアダムを打ち負かしたのと同じ誘惑者を相手にされたことに注意しなさい。美しい園で注意深く誘惑の計画を練った同じ狡猾な精神の持ち主が、最後のアダムを罠にかけて打ち負かすために、荒野で誘惑を用意しました。しかし、私たちの始祖が神の御言葉に疑いを持ち、不従順だったその所で、最後のアダムは「このように記されている」と繰り返し、最後まで堅く従順を貫き、信頼のうちにへりくだられたことに注意しなさい。最初のアダムは、罪を犯した時、神から賜った支配権を失い、サタンの奴隷になりましたが、最後のアダムは支配権を行使し、として荒野から上られました。

ここで、この文脈で使われている「支配」の意味について、生徒たちに説明しなさい。なぜなら、この主題はほとんど理解されていないからです。真の支配は、被支配者の最高の幸福を目的としており、自分を犠牲にしてこれを行うことを選んで、これを実現する力を持っています。支配は独裁の正反対です。独裁は、配下の者たちを犠牲にして利己的野望を遂げることを目的としています。

「神は人を地上の支配者として創造された。人はこの地上で、神の代表、王となるべきであった。万物が人に服すべきであった。王職の概念は、人から人に委ねられる権威のことではない。それは下からではない。それは、天と地の至高の主によって与えられる力と主権である。」(アドルフ・サフィア)

罪を犯した時、サタンは支配権を失い、独裁の生涯に入りました。サタンは王として臣民を治めたのではなく、主君として奴隷たちの上に君臨したのです。この事実に注意を喚起しなさい。

「大天使といえども、独立した王ではなく、臣下にすぎない。もし自分に委ねられた王国を正しく治めないなら、それは他の者に与えられるのである。」(ストックマイヤー牧師)

この神・人の人性が無罪・依存・勝利であることを見るのは、今や容易でしょう。彼には、宇宙が創造される前から神の御心の中にあった、人類を贖うためのあの計画を遂行する用意があります。神が全知であることを思い起こしさえすれば、これは証明されます。神にとっては、常に現在時制です。神には過去も未来もありません。人を創造する前に、神は人の罪の結果をご覧になりました。そして、選択する力を持つ者を創造することから来る責任を担われました。神は、一つの道を備えることにより、その責任を果たされました。その道により、人は選択する力を用いて、罪から解放され、栄化された神の子になることができます。こういうわけで、神の贖いの計画は人の罪――これにより神の贖いの計画が必要になりました――に先立つのです。

贖い主は何をなさなければならないか

さて、この計画を遂行するにあたって贖い主が何をなさなければならないか、慎重に指摘することにしましょう。第一に、彼は罪深い人類と同じにならなければなりません。これは深いへりくだりを意味します。ピリピ人への手紙二章八節にこれが示されていることがわかります。その前の節は、「彼はご自分を無にして、人の姿になられました」と述べていますが、この節では、「彼は人としての有り様で見いだされ、ご自分を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでも従順になられました」と述べています。

第二に、罪の完全な刑罰――すなわち、死、神からの分離――を受けるために、彼は罪人と同じになり、身代わりとして罪と死の法則の働きの下に来なければなりません。

第三に、彼は身代わりとしてこの刑罰を受けて、より高次の法則、命――神の命――の霊の法則の働きを現さなければなりません。

第四に、栄化された神・人として、彼は贖われた人類の新秩序のかしらにならなければなりません。贖われた人類は、彼の命にあずかり、ついには彼のかたちに同形化されて、彼の似姿になります。

神・人であるイエス・キリストは、これをみな行おうとしておられました。なぜなら、「見よ、わたしはあなたの御旨を行うために来ました。おお、神よ」と彼は言われたからです。