第一章 聖戦

セス・C・リース

「最後に、私の兄弟たちよ、主にあって、その大能の力によって強くなりなさい。神の武具をすべて身に着けなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるためです。」(エペソ六・十~十一)

戦争という言葉は、恐怖をはらんでいる。この言葉は、恐ろしい、恐怖感を煽る、心を引き裂くようなあらゆる事と関係している。地球はその中心に至るまでことごとくうめいている。地表は何度も何度も血で赤く染まってきた。やもめの母親たちや孤児たちについて思う時、地上を征服した者たちの足跡である無数の墓――地球をゆうに四百四十回は巡る墓――を思う時、金銭や流血の戦費を測ろうとする時、われわれはほとんど無意識のうちに自分が祈っていることに気づく。人々が自分の剣を鋤に、自分の槍を枝打ち機に打ち変えて、国々がもはや戦いについて学ばなくなる日の到来を求めて祈っていることに気づく。その日が到来しようとしていることを、神に感謝します!

地上の征服者たちは流血により栄誉を獲得したが、われわれの王、平和の王が到来しようとしており、人の血を流さずに地を治めてくださる。

戦争は恐ろしいものである。世界は銃剣で満ちている。地上の諸国民は、軍服を着た人々の生ける壁越しに、互いに顔を見合わせている。今日、千万の人々が、すぐにでも互いの列に発砲するよう用意を整えている。これはみな罪の結果であり、悪魔の働きである。昨日、私は墓場を歩いて横切った。その墓場には約七千人が葬られており、デイトンの国立野営地にある。その時、私は悪魔が行った恐ろしい破壊について考えた。こうしたことのせいで、数千の人がうめき、泣き、苦しんでいる。この人々のことを思った時、私の心は平和な時、正義の時、水が海を覆っているように主の栄光を知る知識が地を覆う時を求めて叫んだ。神に感謝すべきことに、その時が来ようとしている!この戦争、争い、家庭の争い、国内の諸々の誤解、不親切な言葉、平和を損なうものはすべて、神に感謝すべきことに、永遠に終わるのである。

しかし、われわれは史上最大の戦争の中にある。われわれは争いの中で兵士となるよう召されている。この戦いの結果、宇宙の衆群は驚くだろう。無数の世界の住人たちはみな、帽子を脱いで、あなたや私が携わっているこの大きな戦いの結果を目撃するだろう。戦争が恐ろしいものであるように、聖霊はしばしば、地と地獄の軍勢に対するこの大きな戦いにおけるわれわれの戦いの型として、軍隊生活、軍令、軍務規定を用いてこられた。この午後注目しているこの章で、聖霊は聖書を学ぶ者全員にとって馴染み深い一つの絵図を用いておられる。それを学べば学ぶほど、われわれはますます深くその中に入り込むし、それはますます発展する。また、この戦争は代々にわたる戦いであることに、われわれはますます深く印象づけられる。これは命がけの戦いであるだけでなく、永遠の戦いでもある。神に感謝すべきことに、われわれは十字架の兵士、小羊の従者となるよう召されている。確実に言えるのは、反逆はすべて鎮圧されるということである。また、天であらゆる問題を引き起こして地に投げ落とされ、この世界が味わってきた荒廃や悲しみをすべて引き起こしてきた敵の親玉は、底無しの穴に永遠に閉じ込められるということである。ああ、これはたった千年間のことではない!これは長い時間に思われるかもしれないが、主と共に住んで主を賛美する以外にすることがないわれわれにとっては束の間のことである。神に感謝すべきことに、栄光の福音が永遠に勝利して、悪の力や勢力が神の聖徒たちをもはや再び煩わせたり狙ったりすることのできない所に閉じ込められる時が来ようとしている。愛する人よ、われわれの戦いは現実の戦いである。軍服を着ているだけの軍隊ではないし、模擬戦でもない。現実の戦いであって、この戦いで成功を収めるには神がわれわれのために備えてくださったものがすべて必要である。自分の軍隊に敵の力を見くびることを許すなら、将軍は決してなにも獲得できない。まるで征服して勝利を得ることが些細なことであるかのように、罪とサタンを軽々しくふまじめに扱うなら、また、他の敵について話すのと同じようにサタンについて話すなら、われわれは決してなにも獲得できない。愛する人よ、われわれには途方もない敵がいる。この敵は全能ではないが、とても強力である。だから、この敵に立ち向かうには、天の武具をすべて身に着けなければならない。サタンの鉤爪から守ってくれるのは、ただ神だけである。

愛する人よ、あなたは今日この武具を身に着けただろうか?帯を締めているだろうか?信頼に足る者だろうか?主があなたを任命して立ち去り、再び戻って来た時、あなたが配置についているのを主はご覧になれるだろうか?どうすればわかるのか?試練によってである。あなたは試練に遭ってきただろうか?主が戻って来られた時、あなたが配置についているのを主はご覧になっただろうか?神がわれわれを信頼できるようになる経験がある。われわれは立つ。「すべてを成し終えて」立つ。だから立て。他にすることがない時でも、ただ立っておれ。神に栄光あれ!だからこの午後、主が私に与えてくださったメッセージで、主がわれわれのために備えてくださった武具にあなたたちの注意を向けさせたい。聖霊はローマの武具とローマ兵の絵図を用いておられる。われわれが持つべきものと、そのあるべき結果を描写するためにこの絵図を選んだ時、聖霊にはわけがあったのである。ああ、私はこの十節のゆえに神に感謝する。「最後に、私の兄弟たちよ、主にあって、その大能の力によって強くなりなさい」。次に、聖霊はその方法についてわれわれに告げる。「神の武具をすべて身に着けなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるためです」。次いで、聖霊はその必要性をわれわれに告げる。「われわれは肉や血に対して戦っているのではない」。われわれの敵は並の敵ではなく、われわれは主権者たちに対して、権力者たちに対して、この世の暗闇の支配者たちに対して、また邪悪な霊どもに対して、しかも天上で戦っているのである――天上であなたは天使を見ることを期待するだろうが、悪魔どもを見るのである。だから、神の武具をすべて身に着けよ。それは、悪しき日に際して、あなたが立つことができるためである。今は悪しき日である。あなたがなんと言おうと、今は大いに悪しき日である。祝福を受けることになる人々にとって今は祝福と恩恵の日だが、光を退けてきた人々の間では今は恐るべき背教と言語を絶する邪悪の日である。今はこの時代の土曜の晩である。勝利は間近である。しかし今は、悪人どもや誘惑者どもがますます悪くなる日である。今はこの世が死に物狂いで地獄に向かっている日である。今は教会が背教の中に落ち込んでいる日である。「この世は良くなりつつある」と説教者たちがわれわれに言うのには仰天する。全プロテスタントが異教徒の間で信仰を告白する回心者を三百万人得ている間に、異教徒は二百万人増加したのを、われわれは知っているからである。今は、年に八百人の説教者が講壇を去って、法律、薬学、商売、そして悪魔に赴く日である。この調子で行くとプロテスタントが世界を救うのにどれくらいかかるのか、紙と鉛筆を持って来て私に教えてほしい。今は、信仰を告白する十人のクリスチャンの間に、活き活きとした敬虔さや霊性について僅かでも知っている人が一人も見いだせない日である。奉仕者たちも人々も、まるで一度も福音を聞いたことがないかのように、神を知る真の知識と霊的な事柄を知る真の知識に欠けている。ああ、今は恐ろしい日である!しかし神に感謝すべきことに、武具があり、装備一式がある。この装備を身に着ければ、十字架の従者たちは勝利を得ることができる。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。今は、多くの人が敬虔さを装いつつその力を否んでいる日である。使徒は「そのような者たちから離れ去れ」と言った。洞穴、隠れ家、地下壕に赴くべき時が来た。純福音は廊下、道ばた、あずまや、麻布のテントに追いやられている。会堂、宮、尖塔付きの家屋は純福音を受け入れない。われわれは肩を組んで、王と共に突き進まなければならない。なんであれ、だれであれ、イエスに従わないものから離れ去れ。聖霊は武具をすべて身に着けるようわれわれを召しているだけでなく、その武具を一つ一つわれわれに教えてくださっている。

第一は帯である。軍用の帯には三つの目的がある。第一に、近頃人々が着ている緩い衣服を束ねることである。束ねなければ戦いの邪魔になる。第二に、腰を強めることである。第三に、防御や攻撃用に、幅広の真鍮を帯につけることがよくあったのである。エリシャがゲハジに「腰に帯をして、あのシュネム人の家に駆けて行け」と言ったことは、覚えているだろう。バプテスマのヨハネは、獣の皮でできた紐を腰に巻いていた。軍用の帯には銀か真鍮の飾りが付いていることがよくあった。われわれの帯は真理の帯である。この帯は緩やかな流れるような恵みを束ねて、戦いのためにわれわれを力づける。「真理」、これこそ聖書を学ぶ学生たちがここで求めているものである。人々がコロラドやクロンダイクで金を掘るように、ここはあなたたちが真理を掘る所である。今われわれは、地的教育から、自分の観念から、偏見から、宗派的性癖からわれわれを救ってくれる真理を得なければならない。いかなる抗議も間違いも生じ得ないものを得なければならない。

われわれは自分の頭と心と口をこの真理で満たさなければならない。モーセの経綸の下では、人々はこの真理を自分の額や、住んでいる家の前に置いた。至る所にこの真理があった。彼らはこの真理を自分の子供たちに教えるよう命じられた。起き上がる時にこの真理を唱え、横になる時にこの真理を復唱するよう命じられた。間違いなく、彼らは夢の中でもこの真理を携えていた。この真理は一晩中彼らと共にあったのである。

「義の胸当て」は真の聖潔である。これが心を覆った。とても多くの人が「これは頭のためだった」と思っている。頭のための胸当てなどない。義の胸当ては心のためだったのである。ただこれだけが心を守ってくれるものであり、悪の矢を退けるものであり、サタンの矢に立ち向かうものである。清い心はただ清いだけでなく、強められており、所有されており、守られている。主の御使いが清い心を守っている。聖霊がその中に住んでおられる。清い人々の「周りを主の御使いは取り囲んで」守る。もし完全に聖められていないなら、この働きが完了するまで、あなたはなにも手にしてはならない。

しっかりと「平和」の靴を履こうではないか。「足には平和の福音の備えを履き」。平和の靴を履いて戦いに行くのは奇妙に思われるかもしれない。これは福音の逆説の一つである。われわれは人々と戦っているのではなく、われわれの戦いは罪とサタンに対するものである。われわれは罪を憎む。高所でも低所でも、どこでも罪を見いだすなら、われわれは勇敢に罪を攻撃する。しかしその時、神の平和がわれわれの内にあり、われわれの上を覆っているのである。さて、どんな境遇でも保たれる経験を一度もしたことがないなら、なにかが決定的に間違っている。どんな戦いの時も、われわれの内面は穏やかに保たれなければならない。動揺するのは敵方でなければならない。われわれは優しくあり続けなければならない。宣べ伝え、祈り、歌わなければならない。サタンは四方八方で吠え猛っているかもしれないが、われわれは春の朝のように平安に保たれなければならない。「主はわれらの敵の前に宴を設け」。兄弟、あなたはこの平安を得ただろうか?あなたがメッセージを解き放って、それにより人々が動揺して刃向かう時でも動揺しないほど、あなたは救われているだろうか?この鎧を身に着けているだろうか?快適だろうか?すり切れていないだろうか?不具合があるなら、どこかが間違っているのである。

次に、剣を持たなければならないことがわかる。われわれは剣の刃ではなく柄を握らなければならない。刃を握るなら自分の身を切ってしまう。柄を握って正しく用いるなら、戦いがどんなに激しくても、勝利を得ることができる。聖霊が支持しておられるこの御言葉は、どんなもろ刃の剣よりも鋭い。愛する人よ、装備している実感をあなたが持つよう私は望む。神の武具をすべて身に着けるなら、恐れるものはなにもないし、びくつくこともなにもない。落胆した表情をする必要はない。あなたには行動する覚悟があり、鎧を着て死ぬ覚悟がある。ああ、これは素晴らしい特権である。私は前線で最善を尽くし、敵の胸当てに新たな矢を突き立てて死にたい。戦争の用意ができている人は、この学校に何人くらいいるだろうか?難局に直面して生きる覚悟があるだけでなく、無一物で出かけて行って、指揮官なる御方のために喜んで生きもし死にもする覚悟がある人は、どれくらいいるだろうか?

神の聖書学校における説教
オハイオ州シンシナティ