第二章 福音の御霊

セス・C・リース

「主なる神の御霊が私の上におられる。これは主が私に油を塗って、柔和な者に福音を宣べ伝えさせ、私を遣わして心の砕かれた者を包み、捕らわれ人に自由を告げ、縛られている者に獄屋の扉が開かれたことを告げ、主が受け入れて下さる年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての嘆いている者を慰めさせるためである。」(イザヤ六十一・一~二)

この御言葉はキリストの御霊を強調しているだけでなく、その福音の御霊と、とりわけ、真にキリストに従うすべての者たちの霊についても強調している。キリストが病人を癒し、悪魔どもを追い出し、すべての人の目を開いて祝福して、ある地域で人気を博しかけていた時、弟子たちが御許にやって来て「みながあなたを探しています」と言ったところ、キリストは「立ち上がって次の町に行こう。去る時が来た」と言って、町から町へ、村から村へ、村落から村落へ進んで行かれ、ついには二年半以内に、至る所で福音を宣べ伝えつつ、ガリラヤ、サマリヤ、ユダヤの町々や村々をすべて歩き通された。「ある地域の人々が彼らを歓待して、そこにとどまってもらうことを望んだのは、そこが彼らにとって働きの地だった証拠である」と、とても多くの説教者たちが考えてきた。だが、キリストは「去る時が来た」と言われた。福音とその創始者の霊は福音化の霊であり、積極的である。過去最高の戦士であるパウロは、彼方の地域まで進んで行って、「後にあるものを忘れよう」と言った。これがキリストを突き動かしていた霊であり、どの土地でも人々がキリストのためにその働きを楽なものにすると、キリストはどこか別の村、別の町、別の都、別の国に行くことを考えられた。まぎれもなく、マルタとマリヤはイエスのためにその働きをとても楽なものにした。まぎれもなく、彼らはイエスを迎えることを喜んでいた。キリストには枕する所がなく、山で夜を過ごさなければならない時もあったが、マルタとマリヤの家では常に歓迎を受けた。にもかかわらず、キリストはそこではあまり多くの時を過ごされなかったのである。キリストは土地から土地へ、町から町へと旅をされた。御父の働きに携わっておられた。われわれにとって、自分の友人と一緒に過ごすのは楽である。見知らぬ人々の間で寝起きして行き来するのは、常に楽なわけではない。近頃見受けられる傾向は、安楽に過ごす傾向、自分を愛してくれる人々と過ごす傾向である。しかし、福音の霊は勇猛果敢であり、したがって、福音化するか結晶化するか石化せずにはいられない。主の霊を持つ人々は、永遠に他の人のことを思い続ける。別の村、別の村落、別のあずま家、心砕けた別の人、破綻した惨めな生活を送っている別の人のことを思い続ける。イエスの御霊を得る時、人類を祝福してこの「良きおとずれ」の輝かしい福音を広めない限り、われわれはどこにいたとしても決して満足できなくなる。

愛する人よ、今朝思い出そうではないか。一緒に集まって祝い、互いに助け合うのに適した時がある一方で、まもなく散らされる時がやって来て、われわれは出かけなければならないだろう。彼方の領域に入って行って、この偉大な知らせをもたらすことを主が望んでおられる人々を見つけ出さなければならないだろう。ペンテコステは結び合わせる性格を帯びているだけでなく、散らす性格をも常に帯びている。とりわけ、迫害によってである。初代教会が聖霊を受けた時、人々はすぐに迫害を受けて、至る所に追いやられた。そして迫害の下で、勇猛果敢な精神の持ち主たちは国境を越え、古代のイギリスやドイツに押し入って、われわれの先祖たちに福音を与えてくれたのである。そのおかげで今朝われわれは、異教国のように人の命をいけにえにする代わりに、この幕屋の中にいる。これは誰かが迫害を受けて国境を越え、彼方の領域に押し入ったおかげであり、誰かが故郷を離れて親しい愛する者たちを後に残したおかげである。そのおかげで今日、われわれは享受する特権を持っているのである。われわれの祖先たちは偶像崇拝者だっただけでなく、礼拝の時に人の血を流すこともあったのである。

われわれは何らかの負債を負っているのだろうか?支払うべき負債が何かあるのだろうか?確かに、聖霊を知り主の霊を理解しているわれわれは、近隣や友人だけでなく全世界に福音をもたらす義務があることを悟らなければならない。誰かが福音をわれわれにもたらしてくれたからには、われわれもそれを他の人にもたらさなければならない。われわれの主の霊は押し進む霊であり、積極的に前に向かって行進する霊である。これが霊的に深いものを常に特徴付けている。今朝、主はこの会衆に向かって「前進せよ」と仰せられるだろう。これが常に福音の標語である。人々を立ち上がらせて、そのテントを他の場所に張らせよ。あなたの娘たちはスラムの中に自分の冠を見いださなければならない。あなたの息子たちは焼け付くような日の下で、あるいは、異国の地の砂だらけの平原で自分の王座を見いだすだろう。この御言葉の霊と常に歩調を合わせて進み続けるなら、われわれは歩き続けて、遂にはイエスがわれわれのために計画されたことをすべて成就するだろう。確かに、親族や友人たちと過ごすのは容易だが、彼らに背を向けて「行くべき所を知らずに」出かけた方がいい。多くの説教者たちは三年、四年、五年、同じ場所にとどまり続ける。自分が依然としてしがみついている会衆が、自分のことを好きでいてくれるからである。多くの時、彼らは立ち上がって去った方がよい。われわれが最も必要としているものの一つは、イエスのこの積極的な霊である。押し出し、押し上げよ。水路に沿って、渓谷に沿って行け。山々を、スラムを求めよ。ジャングルを求めよ、至る所で失われた者を求めよ。この預言は間違いなく人の子についての預言である。「主なる神の御霊が私の上におられる。これは主が私に油を塗って、柔和な者に福音を宣べ伝えさせるためである」。

この福音は「良きおとずれ」の一つである。われわれの使命はわれわれの主の使命と同じである。主に「良きおとずれ」を宣べ伝えることが委ねられた以上、われわれも同じである。主がどうにかしてわれわれの上に御手を置いて、福音の貧弱な面を惨めに示すことからわれわれを守って下さり、遂には人々がそのような宣べ伝えを恐れて逃げ去るようになるよう、私は望む。もちろん、忍耐すべきこともあるし、非難もある。迫害も受けるだろう。しかしそれにもかかわらず、これは「良きおとずれ」の福音である。この世にもたらされた知らせの中で最も輝かしい知らせは、神の御子のこの福音である。次に、この福音は何らかの欠乏を生じさせるものではあるが、ほがらかさ、陽光、花々、芳香、あらゆる種類の祝福を帯びているため、われわれは自分の試練をほとんど忘れてしまう。われわれは泣いたり呻いたりするかもしれないが、最後には叫ぶようになる。苦しんでいるが喜んでいる。悲しんでいるが、それでも常に喜んでいる。艱難の中にあるが、決して傷つかない。悲しみがわれわれを妨げることは決してない。この福音は良きおとずれの雰囲気を帯びている。この福音の甘美な面を宣べ伝え続けるよう、私は望む。なぜなら、私は次の事実を見落としてきたからである。キリストが厳しかったのは偽善者たちや、もっとよく知っていてしかるべきなのに人々を欺いていた教会員たちに対してだったのである。キリストは苦しむ者を見ると常に深く同情されたのであり、この福音は良きおとずれの福音なのである。兄弟よ、われわれがこの福音を携えてあなたのところに行く時、あなたはうつむいたり、悲しげな表情をしてはならない。上を見上げて、「神に栄光あれ」と言うべきである。

われわれはこの福音をしばしば人々に宣べ伝えるが、最初人々は悲しげに見える。もう少し話すと、人々は泣き始める。さらに話し続けると、人々は叫び始める。そして、この主題を大いに恐るべきものであるかのように扱い始める。ああ、愛する人よ、主の従者であるわれわれに託されているこの福音は永続するものであり、かつて人に与えられた使命の中で最も深遠な使命である。これは「主が受け入れて下さる年」を宣言する喜ばしい知らせの福音である。これはヨベルの年、五十年目の年である。これは束縛を終わらせるためであり、隷属を終わらせるためであり、あらゆる奴隷状態に終止符を打つためである。これはイエス・キリストによる完全な勝利である。

私はこの福音を宣べ伝えるのが好きである。この福音は人々を助け、その重荷を取り去り、その黒雲を追い払うからである。この福音は人々の悲しみを忘却の彼方に歌い飛ばすように思われる。私は人々のことを知っている。私は人々を親しく知っている。私は人々が苦しんでいるのを知っているが、人々が集まる公の集会でそれに気づく人は誰もいない。彼らの苦しみは隠されて、喜びと陽光と微笑みが溢れる。だから、「この福音は人々を陽気にする」と人々に告げてほしい。かりにこの福音が少しばかりの迫害をもたらしたとしても、主は王国のブドウ酒を注いでそれを忘れさせるので、あなたはほとんど迫害を感じなくなる。主はあなたを酔わせるので、たとえ人々があなたを蔑んであなたに向かってあらゆる悪口を言ったとしても、あなたは楽しんで極みまでも喜ぶのである。

特別に強調したい次の点は、この福音はあらゆる身分の人々のためであるという事実である。特に貧者、一般人、なおざりにされている人、落ち込んでいて起き上がれない人のためである。この世や世的教会から不評を被っている人々のためである。彼らこそ、われわれが喜ばせるべき人々である。かつてなかったほどの暗闇でも人々を喜ばせる福音のゆえに、神に感謝せよ!この国は恐ろしく暗い。われわれの周囲の人々はみな、手探りで自分の道を探っている。一つの教会につき一人か二人、一つの地域につき二人か三人である。光を探している正直な一般人は。神に感謝すべきことに、「良きおとずれ」の福音を彼らに宣べ伝えることがわれわれに委ねられている。

また、「私を遣わして心の砕かれた者を包み」。ご存じのように、物事や人々は見た目通りのものであるとわれわれは思い込みがちである。だが、そうではない。全く聖められない限り、思う通りの人である人は誰もいない。道で人々と会って話をしても、人々は自分の心が砕かれている事実を微塵も見せない。しかし、あなたと分かれて二ブロックも行くと、彼らの胸は極めて深い悲しみで喘ぐのである。心が砕かれている事実を覆い隠す方法を、この世は持っている。人々は浮ついた軽薄な心を外面的に装うが、多くの時、それは罪の意識を覆い隠すためである。何の問題もないような様子をしていても、それはただ酷い悲しみを隠すためである。これは貧しい者に言えるだけでなく、宮殿のような家庭にも言える。大通りや街路でもそうである。人生のあらゆる局面で、痛んだ心と言いようのない悲しみを抱いている、心の砕かれた人々がいる。家庭の諸々の困難は、神の御子の福音によらない限り、決して癒されない。もしわれわれがこの知らせを彼らにもたらさないなら、彼らの生活は永遠に破綻したままである。今朝、われわれは神の僕として、この福音を心砕けた人に宣べ伝えるよう委ねられている。ああ、スラム、ホテル、穴ぐら、あずま家、地下室、屋根裏部屋で、われわれは何という悲しみに出会うことか!人生に倦み疲れた人々、まさに自殺しようとしている人々に出会うのである!明るい福音だけが彼らを救う。経済的に破綻して、湖に行って飛び込んだあの人は、この福音を聞いていれば救われていたかもしれない。失望して自分の命を絶ったあの女性は、この良いおとずれを聞いていれば決して失望しなかったであろう。ああ、福音には心砕けた人を包む力、破滅した惨めな人生を新しくする力、喜びと神の永遠の恵みの陽光を魂に回復する力がある。そして遂には、人生は生きる価値のあるものとなり、われわれは喜んで他の人々のために生きるようになるのである。

シカゴにいるこの親愛なる人は、大きな北西鉄道会社に雇われていた。彼は多くの逆境にあった。病気が彼に降りかかり、彼は病院に行った。数週間後に復職したのだが、また病気にかかって、二度、三度と病院に運ばれた。最終的に彼は高地療養が必要であると告げられた。金はほとんど尽きかけていたが、鉄道員だったので、デンバーまでの切符は確保することができた。力が回復する前に電報が入って、彼の家族が深刻な病であることを告げた。病気のまま金もない状態で彼は家に戻った。周知のごとく、金の切れ目が縁の切れ目である。家族は病気で、家賃は払わなければならない。子供たちはお腹をすかしている。この世で彼に残された唯一のものは、生命保険証書だけだった。彼は「この保険金を家族に与えよう」と言って、自殺するつもりで湖に向かった。湖から約三ブロック以内の所で、集会を開いている教会を通りかかったところ、歌が聞こえたので、彼は廊下に立って物思いに耽った。その胸中には大きな戦いがあった。ほんの三ブロック離れた所に湖と死体安置所がある。階段を登った所では福音の歌が歌われている。最初彼は「中に入ろう」と思ったが、自分の家族が飢えていることを思い出し、「だめだ、湖に急ごう」と言った。暗闇の軍勢と神の御霊の間で何と恐ろしい戦いがなされていたことか。遂に彼は「波止場に行く前に階段を登ってこの歌声に耳を傾けよう」と言った。私はその時のことをすぐには忘れられそうにない。彼は教会の後の片隅の会衆席に身を投げ出した。そして、自分の前にある会衆席の背の下に頭を下げて耳を傾けた時、陽気な福音を聞いたのである。神の御霊は恐ろしい認罪をもって彼を捕らえられた。祭壇への招きがなされた時、彼は前に進み出て自分を神に明け渡し、みごとに救われたのである。彼は十分な金を持って家に帰り、家賃を払い、家族にまともな食事を与えた。また、すぐに妻を教会に連れて行き、妻も救われたのである。その後すぐに、彼は聖霊のバプテスマを求めて、まったく聖められた。彼はクリスチャン家庭の中に家族の祭壇を設けた。彼は神癒について耳にし、ヤコブ五章に従って油塗られた。イエスは彼の体を癒して下さった。彼は職場に復帰し、彼の家庭はめったに見られない陽気で幸せな家庭になった。これは、どこでも陽気な福音が宣べ伝えられる時に生じる結果の一例である。

今朝、あなたたちに思い出させたい。道角、あずま家、講壇、宣教で宣べ伝える時、誰が耳を傾けているかわからないのである。必死に救いを求めている人がいるかもしれない。限界に達している人がいるかもしれない。神に感謝すべきことに、この福音を忠実に宣べ伝えるなら、あなたは人々を助けることになるのである。

私は夢にも思っていなかった。アベ・マックピークが後の会衆席に座っていた時、彼の心はあまりにも重く沈んでいて、上を見上げるのが怖くて恥ずかしかったということを。まさか会衆の中にそのような気持ちの人がいようとは思っていなかった。福音はどこでも同じである。神は後の席にいる彼に語りかけ、しかるべき時に福音を送って、罪の生活から彼を救われた。前の日曜の晩に、あなたたちは彼の証しを聞いた。神は彼を救い、聖め、保たれたので、警察官ですら彼の生活がすっかり変わって改まったのを認めざるを得ないほどになった。また、警察官たちは彼の写真をこの国のごろつき共の写真の中から撤去することを余儀なくされた。一生二度と会うことのない人々と、あなたは常にすれ違っている。その人々の行路を横切ることはもはやない。チャンスは一度きりである。良い知らせのこの福音を携えていないなら、あなたは絶好のチャンスを見逃すかもしれない。神が若い説教者たちや伝道者たちを助けて下さいますように。あなたたちは良きおとずれを告げるよう召されている。毎回、まるでそれが最後のチャンスであるかのように、人々を罪と地獄から救う唯一のチャンスであるかのように、宣べ伝えるよう召されている。ああ、癒された砕けた心のゆえに神に感謝します

十一月のある夜のこと、心砕けて落胆している、友人も希望も家もない少女が、シカゴのわれわれの救護院の扉の所に立っていた。その少女は六週間の幼児を抱きかかえながら、中に入れてくれるよう求めた。もちろん、少女は中に通された。しかし、この福音の力の下に来た時、その心と生活はすっかり改まって変わってしまったのである。その霊はあらゆる点で変わってしまったのである、そのため今では、彼女は可愛らしい、聖められた、クリスチャンの少女である。彼女はその地のどの教会にとっても祝福である。良い知らせの福音がこれをなしたのである。ああ、この力を知ることを願う!私は確信しているが、われわれが困難な事例に接することはない。良きおとずれのこの福音には、困難すぎる事例などないからである。

今朝、私には大いなる負担がある。それはわれわれがこの野外集会を去る時、素晴らしい事や、この世や教会の好意を求めるのではなく、魂を求めるようになることである。魂を探索して追いかけよ。飢えていて救える魂を嗅ぎ分ける臭覚を与えて下さるよう、神に求めよ。決して救いを得ることのない人々に多大な時間を費やす代わりに、救いを欲している人々の通り道に自分を置いて時間を節約させてくれるよう、神に求めようではないか。私は飢えている魂と絶えず接触している。何年間ものあいだ、主と私の間には一つの了解事項がある。それは、飢えている人々のいない所に行って集会を開くつもりは私にはないということである。ここ数年、私がある地域に行くことを神が許されるとき、私はそこにリバイバルが起きるのを目撃するか、あるいは、少なくとも数人が救われるのを目撃する。リバイバルが不可能な場所もある、と人々は言う。かりにそのような場所があったとしても、神はそのような場所から私を遠ざけて下さると私は信頼している。私はこれまで素晴らしく祝福されてきたので、リバイバルが起こりうる場所を見いだしてきた。リバイバルが起こりえない場所に、牧師としてあるいは伝道者としてとどまるようなことはしたくない。真理を受け入れる瀕死の魂の通り道に神は私を置いて下さると、私は信頼している。人生は短い。チャンスはすぐに過ぎ去る。チャンスは二度とやって来ない。人々を罪と地獄から救うつもりがあるなら、それを速やかになさなければならない。神に感謝すべきことに、「捕らわれ人に自由」を告げること、重荷をほどくことがわれわれに委ねられている。

ああ、重荷を負っている人々が今朝ここにいる!あなたたちの中には重荷を担っている人々がいる。イエスがその重荷を解いて下さらない限り、その重荷はあなたをかがませ、最終的にあなたを殺すだろう。聖められた人々が大きな重荷を負って休めない時は、主が休ませて下さる。もうこれ以上荷を負えそうにない時、主は介入してあなたの重荷を負い、あなたの荷物を持ち上げて、あなたを解放して休ませて下さる。そして、主はまさにその目的のために来て下さったという事実を、あなたは喜ぶようになる。兄弟よ、あなたの重荷を主に負ってもらいなさい。もし私が自分の重荷を負おうとするなら、私はたちまち棺桶に入ってしまうだろう。姉妹よ、重荷を主の上に下ろしなさい。兄弟よ、イエスが助けられないような暗いものは、あなたの人生に何一つない。それはあなたの最も親しい友人にもとても打ち明けられないことかもしれないが、イエスはご存じである。彼が来られたのは、重荷を負っているすべての魂をほどき、解放し、自由にするためである。神に永遠に栄光あれ!ああ、この福音がわれわれに委ねられている。至る所でこの福音を宣べ伝えようではないか。牢屋の中にいる人々、食欲、情欲、金銭欲、この世の欲、名誉欲の虜になっている人々に宣べ伝えようではないか。この世を愛してはいるのだが、「それから逃れられれば」と願っている人々に宣べ伝えようではないか。

最近の野外集会で、ネブラスカのある裕福な人が私と共に数時間費やした。その人は私に、自分がいかに金を愛していたのか、また、金銭愛のゆえに自分をいかに嫌っていたのか、しかし、力がなくてどうしようもなかったことを話してくれた。彼は束縛されていたのである。彼は銀行家の息子で、生まれつき金銭欲があった。彼は私に、「私はこの商売根性が嫌です。しかし、どうすればこの商売根性をなくせるのでしょう?」と言った。神に感謝すべきことに、私は彼に告げることができた。ほどいて自由にする福音があるのである。この祝福を得る時、水を飲むように小切手を書けるようになる。貧しい者を助け、堕落しているものを助け、病人を看病し、イエスのためにどこにでも行って、何でも出来るようになる。この祝福を得るなら、そうなるのである。愛する人よ、この世がこの福音を必死に求めていることを忘れてはならない。生存競争の激しい世界で、大きな生活費を抱えながら、人々は自分の道を掻き分けつつ、裁きに向かって急いでいる。彼らに「良きおとずれ」を与えるには、急がなければならない。「縛られている者に獄屋の扉が開かれたこと」。主が使徒たちを獄屋から出されたからには、今日も主は人々を獄屋から出して下さる。罪からの解放が現実であるように、枷、鎖、守衛からの解放も現実なのである。

多くの時、私は立ち止まって、自分が獄屋から解放されたことを祝う。自分を縛っていた鎖を私はよく覚えている。自分の足をつないでいた枷を私はよく覚えている。自分の舌にはまっていた輪や束縛された生活を私はよく覚えている。神に感謝すべきことに、鎖はみな外れたのである!私の足、手、舌は解かれ、獄屋の扉は開かれ、私は歩いて外に出て御使いたちの社会の中に入った。あなたたちが少しも顧慮してこなかった数千の人々が、今日、同じ境遇の中にある。愉快な夜を罪の中で過ごした後、心砕けて住む家も無いように感じつつ、一人で日曜日丸一日を森の中で過ごしたのを私はよく覚えている。私は信じる。もしそこに聖徒がいて、古びた丸太を懺悔席に変えて私を跪かせていれば、私は救われていただろう。しかし、その地方では聖徒は極めてまれであった。私の魂について話してくれた人はほとんどいなかった。優った道があることを私は知らなかった。だから、心砕けた病める気弱な状態で罪から離れ去っても、一人でさまよって、悲しみにくれて泣くより他なかったのである。このようなキリストを知っていれば、私はキリストに立ち返っていただろう。今日、これと同じ状態の人々が大勢いる。彼らは私と同じように救いを受けることができる。彼らは神の目から見て同じように価値ある者である。彼らが地獄に落ちる前に、われわれは彼らにチャンスを与えなければならない。

「主の御霊が私の上におられる」のは、この福音を特に貧しい者に、大衆に宣べ伝えさせるためであることに注意せよ。ああ、私の心は能無しや悪党、浮浪者やホームレス、倒れて起き上がれない人を慕う。売春婦や、すべてを失って希望の光があるとは夢にも思っていない囚人を慕う。この国の堕落した三千人の婦人たち、牢獄、獄屋、矯正院にいる数十万の男女や子供たちを、私の心はどれほど慕っていることか。数十万の靴磨き、数十万の新聞売り、二百五十万のホームレスを、私の心はどれほど慕っていることか。家が無く、価値も希望もない人々の大部分は、最高の家庭の出身者たちである。単科大学や総合大学の卒業生たちである。信頼と栄誉の地位にあったにもかかわらず、罪によってどん底に落ちた人々である。この福音だけが彼らにとって唯一の希望である。誰からも特別に―― 一度も――祈ってもらったことのない可哀想な浮浪児や、友だちのいない子供たちが数千人いる。彼らを産んだのはどこかの母親だが、今日、「ジャック」、「ディック」、「ボブ」等のニックネームしか誰も知らない。残飯やリンゴの芯、拾える物で食いつないでいる、路上生活の子供たちが数百人いる。その中にはタバコやその吸いさしを集めて生きている者もいる。この子らも救われていたであろう。貧しい者に福音を宣べ伝える人は多くない。聖潔の戦闘的な説教者でもそうしようとしない。近頃の教会は貧しい者を忘れてしまったように思われる。現代の教会では、会衆席を確保するのにお金が必要である。しかし、向こうに小さな靴磨きがいる。あなたはその子のために祈りと涙を献げて、神にその子を救ってもらうようにすることができるし、その子に福音を宣べ伝えるために遣わしてもらうこともできる。不名誉な家庭から救われた者たちの中には、かつての自分たちと同じ境遇にある他の人々のために大きな重荷を負うあまり、ほとんど食べることも寝ることもできない者たちがいる。神が自分たちを救って下さったので、自分たちも他の人々を救わなければならないと感じているのである。こういうわけで、ニューヨークで罪の生活から救われたジェシーは、罪深い家庭にこの福音を宣べ伝えない限り、休むことができなかったのである。その結果、遂には数百もの人が続々とこの知らせを受け入れた。二十六歳の時には、彼女は路上で十三年間生活を送っていた。彼女は言った、「私の民は束縛の中にあります。私は良き知らせのこの福音を彼らに宣べ伝えなければなりません」。

F兄弟がシカゴのハリソン警察署で宣べ伝えるのを聞いた時ほど、私は大きな感銘を受けたことはない。一年少し前、彼は同じ境遇にあり、その同じ獄屋の一つの中にいた。しかしある日、われわれのスラム宣教士の一人である光の使者が、鉄格子を通して手を差し伸べて、彼の手を取ることを申し出た。だが、彼は彼女に自分の牢のドアから去るよう命じた。幸いなことに彼女は聖霊を受けていたので、立ち去る代わりに不潔な石床の上に跪いて、彼の救いのために祈った。彼女は涙を流して祈り、遂にその人が救われるという確信を得た。神が彼の心に触れて下さったので、彼はわれわれの集会場所を記したカードを受け取って、「釈放されたら集会に行く」と約束した。そう約束したのは宣教士を追い払うためであった。数日後、自分のポケットに手を突っ込んでタバコを探したところ、彼はそのカードを見つけて約束を思い出した。酒業者が彼の罰金を払っていた。彼は通りを歩いたがポケットには十セントしかなく、行く所もなかったため、集会に行くことにした。その晩、この福音が彼に届いた。彼は祭壇で涙を滝のように流し、悔い改めの泣き声を上げて、みごとに救われた。彼はバーテンダー、ボクサー、飲んだくれであった。上等な飲み物を混ぜ合わせる技術のおかげで高給を要求することもできた。その晩、彼は救われたが、これは現実にしてはあまりにも素晴らしすぎるように思われた。そこで彼は、その二月の晩、教会のすぐ後の暗い小道に行き、数インチ積もった雪とぬかるみの上に跪いて、こう祈った。「ああ、神よ、もしこれが本当のことであって、私が回心しており、クリスチャン生活を送ることが私に対するあなたの御旨なら、ラム酒やタバコを好むこの嗜好を取り除いて下さい」。すると、たちまちその嗜好は消え去ったのである。

ああ、神が私たちを助けて下さり、この福音の可能性を見せて下さいますように!その可能性は無限であり、果てしない。立ち上がってこれを宣べ伝えようではないか。聖霊を受けようではないか。自分自身の関心や自己中心性から逃れて、誰か他の人を助けて祝福しようではないか。

私があなたたちの中の数人に願うせめてものことは、あなたたちがこの祭壇に来てみごとに救われ、生涯二度と別の祭壇に行かなくなることであり、この経験をしたかどうか確認したいという衝動を二度と感じなくなることであることを、あなたたちはご存じだろうか?探求を超えた境地、研究を超えた境地、別のバプテスマを求めようとしなくなる境地というものがある。ガブリエル自身が来て、あなたに探すよう言ったとしても、彼を両目でまっすぐ見て「神に栄光あれ!」と言うようになる境地がある。

なぜこのような祝福をあなたたちが受けることを私は願っているのか?この祝福はあなたを自分自身から解放する。あなたは自分の魂の車輪をもてあそぶことにもはや貴重な時間を費やさなくなる。この祝福を得たかどうかドキドキしながら確認することにもはや時間を費やさなくなる。神に栄光あれ、人々を罪と恥辱から救うことに時間をすべて費やすようになるのである!パウロを思い浮かべよ。彼は「もはや私ではない」と言い、自分自身の経験を調べたり検証することに日を費やさなかった。あなたは死んでいるのである。検証しようとする「私」はもはやいない。検証するに足る「私」はいないし、調べるに足る「私」もいない。「もはや私ではない」のであり、キリストである。キリストは「私はあなたを油塗り、この死にかけている世に福音を宣べ伝えることをあなたに委ねた」と言われる。人々が私のところに来て、「スラムの働きにつきたい」と言う。私は彼らに「あなたはまったく聖められましたか?」と尋ねる。すると、彼らは口で答える前に態度で答えてしまう。ためらいの態度そのものが答なのである。主はわれわれに自分自身と自分自身の関心を片付けることを望んでおられ、失われた人のために泣いて祈ることにすべての時間を費やすことを望んでおられるのである。