第七章 われらの父の顧み

セス・C・リース

「見よ、わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石垣は常にわが前にある。」(イザヤ四九・十六)

これが、イスラエルの「主は私を見捨ててしまった、私の神は私を忘れてしまった」という叫びに対する答えだった。その時は苦悩の時、失意の時だったが、神は御声を発してこの御言葉を告げられた。「主はヤコブのすべての住まいにまさってシオンの門を愛される」。神は無限の顧みをもって常にご自身の民を顧みてこられた。キリストは世のためだけでなく教会のために命を与えてくださった。それは、「教会を聖めて、しみやしわやそのようなものの全くない栄光の教会をご自身に迎えるためであった」。イスラエルが落胆して、「主は私を見捨ててしまった、私の神は私を忘れてしまった」と叫んだ時――今朝の御言葉「見よ、わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石垣は常にわが前にある」からわかるように――助けになるもの、励ましになるものが必ず与えられたのである。

この前の節で、主は世人が知っている恒常的な惜しみない愛情、母親の愛情に注意を促された。そして次に、あなたたちに対する彼の愛は最も愛情深い母親の愛情よりも大きいことを、イスラエルと全世界に教えようとされる。今朝これを信じられたらと、私はどれほど願っていることか!これがそうであることを知るようになればなるほど、どれほどこれはわれわれの心を砕くことか。この御言葉で私が最初に気づいたのは、ご自分の子供の一人一人を神は個人的に知っておられることをこの御言葉は告げていることである。「あなたを」というこの言葉が私に示しているのは、神はわれわれ全員の名前をご存じであること、われわれは大衆の中に埋没していないし、いっしょくたに愛されているわけでもないということである。われわれは運命という遠い岸辺に打ち寄せる人類という大波の中に埋没しているのではなく、個々の単独の存在であり、神はわれわれ一人一人を知っておられ、愛しておられるのである。神はわれわれの名をご存じであり、われわれの髪の毛もすべて数えられていることを思い出すと、大きな慰めである。東洋の羊飼いが、多分千頭の羊でも一匹一匹の名を知っていて、名前を呼ぶだけで呼ばれた羊は頭を上げてやって来るように、主はわれわれ一人一人のことを個人的かつ個別に、別々の存在としてご存じである。われわれの場合、お互いに忘れてしまって、会ってもわからないことが時々ある。過去に甘い交わりをしたことがあっても、そんな有様である。しかし、神はわれわれのことをご存じであり、われわれのことがわからなくなることは決してない。「この人なら自分のことを知っているはずだ」と思う人と会っても、その人はあなたのことがわからないように思われることがあったとしても、主はあなたやあなたの居場所をご存じであり、あなたやあなたの声の叫びがわからないことは決してないことを思い出せ。どんなに暗い時でも、状況がどれほど奇怪で悪化したとしても関係ない。尊い御名に永遠に栄光あれ!主はあなたのしていること、あなたの受けている苦難をご存じである。主はあなたに耐えられるものをご存じであり、あなたに耐えられない状況が決して生じないように見守ってくださる。

サタンには大きな力があるが、制限されている。自分の力を常にすべて働かせられるわけではなく、力の使用を制限されている。サタンはある種の制約下にあり、あえて超えようとしないある種の境界がある。われわれの力は測られており、サタンがやって来てわれわれに敵対したとしても、その力は慎重に測られている。そのため、どんな誘惑でも、われわれに耐えられるよう、必ず逃れの道が用意されているのである。

神はわれわれを個人的に知っているだけでなく、われわれを個人的に愛しておられる。その決して絶えることのない愛情と忠実さを証明するこれに優る証拠はない。神はこの真理を力強く証明するために最も強力な絵図を用いられた。にもかかわらず、神の愛と忠信さと顧みを疑問視する人がなんと大勢いることか。サタンが困難をわれわれにもたらすときや、悲しみでわれわれを取り囲むときは必ず、あわれみ深いキリストの温かな優しい愛情がわれわれの上に注がれる。どうか主がわれわれを助けてこれを見せてくださいますように。

最近、私はある母親の記事を読んだ。その母親は、ろくでなしの無期懲役刑を受けた放蕩息子の後を追って行き、獄屋の入口のところに小さな小屋を与えてくれるよう求めた。母親はできるだけ息子のそばで生活して日々を送り、息子が死んでその獄屋の庭に葬られると、自分が死んだらその同じ不名誉な場所に葬って欲しいと要求した。それは、死んでも自分の骨を息子の亡骸と一緒にすることを望んでのことだった。母親はどこまでも息子の後を追って行き、ついにはだれもが「息子のことは放っておきなさい」と言うようになった。しかし、母親の心は決して息子から離れず、最終的に死んでもそうだったのである。

さて、この御言葉は比較をしており、その教えるところは明確である。すなわち、ご自身の民に対する優しい同情に満ちた神の愛情に迫るほどの愛情を、人はこれまで決して抱いたことがないのである。きわめて深く、きわめて優しい、きわめて高貴な人間的愛情を思い描いたとしても、さらに進んで、「神はそれを遥かに上回るほど私を愛してくださっている」と信じることができる。私は時々思うのだが、もしわれわれが神の愛をもっと信じていれば、われわれはもっと高貴な者になっていただろうし、もしわれわれが神の信実さをもっと信じていれば、「神でもしくじるおそれがある」と少しでも思うことを恥ずかしく感じていただろう。神がどの世代でもご自身の民に対して忠信だったことをわれわれがもっと注意深く学んでいれば、どんな反対要因に直面しても、「神はわれわれと共におられ、われわれを切り抜けさせてくださる」と勇敢に信じる勇気がわれわれの魂の中に湧き起こっていただろう。

姉妹よ、状況がどれほど暗くても関係ない。神はあなたを愛しておられる。人々がどれほどあなたに反対しても関係ない。神はあなたの友である。難問がどれほどあなたの周りに積み上がったとしても、誘惑がどれほど荒れ狂おうと、神は決してあなたを見捨てない。イスラエルの神は苦難を見るたびに同情してくださる。あなたの頬を一筋の涙が伝うとき、あなたが溜め息をつくとき、あなたが喘いだり、あなたの心が痛むとき、あわれみ深いキリストは必ずそれをすべてご覧になって理解してくださり、大いなる優しさをあなたに向けてくださる。そして、ご自分の愛を拒絶したエルサレムのために泣かれたように、もしあなたが彼に対して信実なら、キリストの大いなる心はあなたのために同情して悲しんでくださる。そして、あなたの不安をすべて取り去り、悲しみをくじいて、御前であなたを喜ばせようとしてくださる。主はイスラエルを裏切ったことは一度もない。イスラエルが主を裏切ったのである。「わたしは決してあなたを離れず、決してあなたを見捨てない」と主は仰せられる。

また、主はわれわれのことを知っていて愛しておられるだけでなく、われわれに対する主の顧みは永遠であることもわかる。あなたを「たなごころに彫り刻んだ」と主は仰せられる。過ぎ行く諸世紀を経ても存続するもののゆえに、神を賛美せよ。印刷されているのでも、書き記されているのでも、印を押されているのでもない――彫り刻まれているのである。永遠の御父のたなごころにわれわれの名が彫り刻まれているのである。この特権のゆえに神に感謝せよ。この絵図は間違いなくユダヤ人の慣習から取られている。ユダヤ人が捕囚にあっていて都が廃墟と化していた時、彼らは自分の腕と手にエルサレムとその城壁の絵を描いた。そして、しばしばその絵を見て涙したのである。だから神は仰せられるのである、「あなたは常にわが目の前にあり、永遠に覚えられている」と。建築家は建物の詳細を描いて、その建物を建設している間、その図を常に自分の前に置いておく。それとまさに同じように、神はあなたの人生に関する完全な計画を立てておられ、永遠の愛をもって、決して忘れることなく、それを御前に置いておられるのである。母親は信実で、その愛情は地上で最も純粋で強力かもしれないが、それでも忘れるおそれがある。しかし、われわれを永遠に覚えていてくださる方がここにおられる。われわれは常に御前にしっかりと保たれている――御手のたなごころに彫り刻まれているのである。

兄弟よ、あなたはこれまで考えたことがあっただろうか?建築計画が職工長の前で綿密に計画されるように、あなたの人生の計画は神の御前で綿密に計画されているのである。あなたは知っていただろうか?あなたが神の子なら、あなたに臨むことは偶然や不運によるものではなく、神の計画の一部なのである。また、あなたに臨むのを神が許されたことは必ず、あなたが神に信頼しているかぎり、神はそれをあなたの益にしてくださるのである。時として、これらの事柄は荒っぽい外見をしているが、あなたに対する神の計画の一部として受け入れなければならない。神はこれらの事柄を祝福としてくださる。神は地図を持っておられ、もし許されるなら、天の神聖な計画にしたがってあなたを導いてくださる。神は、遣わしたい所にあなたを遣わし、あなたにして欲しい働きをあなたに与えられる。たとえ困難や妨げや試練があったとしても、あなたの霊的力を成長させて、あなたが神に最高の栄光を帰すのに役立たないものがあなたに臨まないように見守ってくださる。これは思い煩い、不安、計画をなんと一掃してしまうことか!一度かぎり永遠に、何も言うことがない地点にわれわれをもたらしてくれるのである。われわれの計画や道筋は御手の中にあり、われわれにとって心地よいものである。それは天の議場で立てられたものである。天は何でもすることができ、将来待ち構えているものをすべて知っている。また、われわれにとって最大の益となり、神にとって最高の栄光となるように、われわれを導くすべを心得ている。

この御言葉を神が語られた時のことを思い起こす時、この教訓はいっそう印象的なものになる。その当時、エルサレムの城壁は崩れ落ち、宮は廃墟になっていたのに、「あなたの石垣は常にわが前にある」と神は言われたのである。すべてが崩れ落ちているように思われる時、神の宮がまるで廃墟の中にあるかのように思われる時を、あなたは経験するだろう。今日の聖潔運動の中にすら、とても多くの分離、失敗、分裂、度重なる分裂、度重なる失敗を私は目にする。だから私はこのような御言葉に向かって、それを腕で抱きしめて、「あなたの石垣は常にわが前にある」と主が仰せられるのを聞きたいのである。城壁が崩れ落ちていることを主はご存じである。これを私はどれほど嬉しく思っていることか。宮が廃墟になっていることを主はご存じである。かつては純福音を説いていた人々がさ迷って行ってしまったことを主はご存じである。懐疑主義に陥った者もいるし、狂信に陥った者もいる。また、形式主義に陥った者もいる。ありとあらゆる~主義が四方から入り込んでいる。だが主は今朝、「あなたの石垣は常にわが前にある」と言われる。すべてが崩れ落ちて何の希望もなく、イスラエルは落胆し、すべてが闇夜のように暗い時、主は「わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ」と言われる。「城壁が崩れ落ちていることをわたしは知っているが、わたしはあなたを愛しており、あなたを見捨てない。城壁が再建される時が来る」。宮が見事に修復される時、都――新エルサレム――が天から下って来る時が来る。その時われわれは、夫のために美しく着飾った花嫁として、上に昇って行き、中に入って永遠に主と共にいるようになる。「神の礎は堅く据えられていて、『主はご自分の者を知っておられる』という印を帯びている」。神は善であり、私は神に信頼する。たとえ城壁は崩れ落ちていて、宮は鳥や獣やコウモリやあらゆる汚れたもので満ちていたとしても、神にとっては問題ではない。神は一つの民を持っておられる。たなごころに記されている民を持っておられる。神は彼の民に対して信実であり、彼の民は神に対して信実である。永遠に神に栄光あれ!兄弟よ、すべてが粉々になっていくかのように、皆が落後していくかのように思われる時を次に迎えたら、この御言葉の上に身を伸ばして叫ぶがよい。

昨日は朝から晩まで、私がこれまで過ごした中で最も涙を流した日であった。私は見知らぬ人々の間で泣き、路上で泣いた。人々がどう思ったかはわからないが、私はそんなことにはほとんどおかまいなしだった。しかし、神がご自身を現して、その栄光の幻とその信実さと絶えることのない愛の幻とを私に与えてくださった時、地も人々もこの幻の輝きを邪魔できない領域に私は上げられたのである。神に栄光あれ!

この御言葉に示されている次の点はとりなしである。われわれの名が御手のたなごころに彫り刻まれているからには、主がわれわれのために祈られる時、その御手をもって主はわれわれを御父の御前に保ってくださる。イエスがそこにおられないことはないことを覚えよ。彼はあなたや私のためにそこにおられ、われわれのために祈っておられる。かりに私が何か奇妙な説明のつかない悲しみや、心をしおれさせる試練や試みを通っていたとしても、この部屋にいて隣室のペニントン兄弟やゴドビー兄弟が私のために祈ってくれているのが聞こえたら、私は大いに力づけられるだろう。多年にわたって勝利者であり続けてきた親愛なる年配の聖徒であるゴドビー兄弟が「主よ、リース兄弟を祝福してください」と祈っているのが聞こえたら、きっと私は祝福を感じて、新たな力と共に立ち上がり、主の戦いを戦うだろう。しかし、まさに隣室でイエスがわれわれのために祈っておられることを、あなたはご存じだろうか?たとえ地上にいたとしても、われわれは救われて聖められているので、まさに隣室である天の前庭でイエスはわれわれのために祈っておられるのである。あなたがきわめて厳しい試練や、あなたに臨むことが許されたきわめて長きにわたる圧迫の中にあるとき、イエスは両手を上げてあなたのために御父に祈っておられる。その御声が聞こえさえすれば、あなたは霧の中から抜け出して、御名の中で力を帯びるだろう。これは贖いの思想を示唆する。御手のたなごころにいくつもの名が彫り刻まれているのを見る時、その人々は釘跡――御血――と堅く一体化されているにちがいないことがわかる。なぜなら、刺し貫かれたのはまさにその御手だからである。御父があなたの名をご覧になる時、同時に御血をもご覧になる。あなたと困難、試練、悪魔との間には、贖いが立っている。あなたと来たるべき裁きとの間、あなたと怒りの神との間には、贖いが立っている。そこにイエス・キリストは立っておられ、その右手のたなごころには釘跡であなたの名が彫り刻まれているのである。

あるあわれな兵士が脱走のかどで軍法会議にかけられた。判決を言い渡そうとしたその時、裁判官は一時のあいだ中断して、「ここにいる人の中に、ジャックを弁護するために何か言いたい人はいますか」と尋ねた。すると、一人の古参兵が歩み出て手を上げ、しばしのあいだ沈黙しつつそこに立った。その頬には涙が流れ落ちていた。それから一言、「彼は私の弟です」と述べた。この嘆願で十分だった。その兵士は祖国の兵役で片腕を失っていたので、自分の弟の命のために嘆願する権利があったのである。判決は却下され、彼は赦された。

吠え猛る地上と地獄の狼どもがあなたをすっかり囲んでいるかもしれないが、天の法廷に立ってくださる御方、あなたのために嘆願する権利を持つ御方がおられる。この御方は手を上げて腕を差し出し、釘跡を示す権利を持っておられる。そのたなごころにはあなたの名が彫り刻まれており、「わたしのために彼を赦してください」と彼は仰せられる。神に感謝すべきことに、この御方の求めは常に聞き届けられる。あなたが祈っても天は黄銅のように思われるかもしれないが、イエスが祈られるとき決してそんなことはない。自分は何もできないように思われるかもしれないが、もう一方の側で働いている方がおられ、この方は御父にそれを明らかにしてくださる。キリストがそこにおられ、なすすべをご存じなのである。

ある少女が病気の父親への愛情に満たされて庭園に行き、花束を集めた。しかし、少女はとても幼かったので、花だけでなく赤いクローバー、白いクローバー、雑草、到底花とは言えない混ぜ物も集めてしまった。しかし、少女の母親がまずそれを受け取ってまっすぐに伸ばし、雑草を取り除いて贈り物にできるようにし、少女に戻した。子供らしく陽気に少女はそれを父親のところに持って行った。すると、父親は喜んだのである。われわれが祈る時、時々雑草が混ざってしまうことがある。われわれはつぶやいたり、不平を言ったり、多くのものを求める。もし求めたものを全部得ていたなら、奇妙な姿の花輪が出来上がっていただろう。しかし、われわれの祈りはまず神の御子の御手を通る。そして、御子は雑草や草を取り除いて手入れをしてくださる。その結果、御父はそれを見て喜ばれるのである。イエス・キリストのとりなしのゆえに、失われている世人と救われた教会のために高く上げられた両手のゆえに、神に栄光あれ!

また、ここには告白の思想も示されている。あなたは御手のたなごころにあり、御手は公の世の前に、また天の観衆の前に高く上げられている。そうである以上、主は天においても地においても、御使いたちや人々の前で、あなたのことを認めてくださる。聖書が告げているように、われわれが邪悪な世の前で主を告白する時、主も天の御使いたちの前でわれわれのことを認めてくださる。われわれが地上で主を崇める時、主は天でわれわれに栄誉を与えてくださる。

姉妹よ、あなたは取るに足りない無名の存在かもしれない。あなたは奇妙な環境に取り囲まれていて、あなたの生活環境は制限されているかもしれない。また、人々はあなたを蔑んでいるかもしれない。あなたが神に対して信実であるかぎり、多分あなたを蔑む人もいるだろう。しかし、あなたは天の観衆には良く知られていて、宇宙の大都市で話題になっているかもしれないのである。神の御子はすでに天の御使いたちにあなたのことを話しておられる。何回もあなたは震えて涙を流しながら主を告白してきたし、主は御使いたちの歓声と天の音楽の真っただ中であなたのことを喜んで認めてきてくださった。たとえ下界で何の栄誉も受けていなかったとしても、天上で栄誉を受けることができる。天での栄誉こそ最も価値あるものなのである。われわれは地上の栄誉を求めているのではない。死んだあと自分の棺の上に人々から花を置いてもらいたい人、自分の名を永らえさせるために金を与えたり何かをしようとしている人が、もしここにだれかいるなら、私はあなたに請い求める。どうかこの祭壇に来て、聖めを受けてほしい。この祝福を受けるなら、あなたは永遠の事柄を大いに見るようになるため、この世が与えうる何物をも顧みなくなる。神と御使いたちから認めてもらうこと以外、何も望まなくなる。ヘブル書十一章の群れと共に立って、御血により永遠に勝利を叫ぶことで、もはや十分になる。神に栄光あれ!ああ、大いなる日が来ようとしているのである!

私は望む。どうか何かを得ようと試みることや、自分はそれを受けたのだろうかと思い悩むことや、それを失うのを恐れるあまり眠るのを恐れることが、もはやなくなりますように。われわれの名が御手のたなごころに彫り刻まれている地点にわれわれは達することができる。後退するより前進する方がたやすい地点に達することができる。後退するのではと恐れないようにしようではないか。永遠に前進し続けようではないか。

数世紀前、あるイスラム教のモスクが建てられて、その入口には「モハメッド」という名が大きな文字で記されていた。あるクリスチャン建築家がその建物を建てて、漆喰を塗る前にその入口の表に「神」の御名を掲げ、その石の上に「その王国は永遠の王国である」という御言葉を彫り刻み、その後、漆喰でそれを覆った。その建物は何世紀ものあいだ立っていたが、ついに漆喰が崩れ落ちる時がやって来て、モハメッドの名は崩れ去った。そのモスクは今日も立っており、そこを訪問すると、「神」の御名と「その王国は永遠の王国である」という御言葉を見ることができる。真に神から出ているものはみな、永遠に存続する。人から出ているものはみな、滅びて忘却の彼方に消え去る。今朝、次の事実をあなたたちに告げることができて私は嬉しい。自分自身の経験や自分自身の利益に邪魔されることのない安全な場所があるのである。そこでは、両手で人々を火の中から引き上げることができる。痩せ衰えたり、飢えたり、困窮する必要はない。豊かな場所、自分自身の心配事や利益をすっかり忘れて魂の救いに全く没頭できる場所がある。そこでは、すべての時間、すべてのエネルギー、神から賜ったすべての力を、失われている人を探すことに注ぎ込めるのである。

ある友人が最近私に、「あなたの魂を地引き網で引いて、わがままや、汚れた野心や、指導欲が紛れ込んでいないかどうか調べてみなさい」云々と書き送ってきた。私は答えた、「私の魂はすでに引かれています。主が引いておられるのです」。自分でそうしようとしても、私にはその方法がわからなかっただろう。ずっと昔に、私はそれを全く主に委ねて、自分は手をつけないことを約束したのである。探ることも保つことも、主がすべて面倒を見てくださらなければならない。自分は一匹も豚を井戸に投げ入れていないこと、自分に地引き網は不用であることを、私はとてもよく承知している。「自分は聖められているのだろうか?」と自答してから何年も過ぎた。私は目を主に注ぐ。私の心は、昼は雲の柱、夜は火の雲に従おうと決意している。主に目を注ぎ続けるなら、あなたはいとも簡単に、また大いなる喜びをもって、主に従うことができるし、主はあなたが安全に切り抜けられるよう見守ってくださる。

さらにもう一つの思想が示されている。イエスが昇って行かれたのと同じように、彼の再来も確かなことである。彼は昇って行かれた時と同じように、両手を広げて戻って来られる。そして、聖い群れを御使いたちだけでなく地の諸国民にも告げ知らされる。彼らは知るのである。この民は真に天的な者たちであり、イエスと共に歩み通した忠実な者たちであることを。イエスが再来される時、彼は両手を差し伸べて聖徒たちを祝福し、罪人たちを裁かれる。地の諸国民はその時、誰が忠実な者なのかを知る。そして、もしあなたが全く聖められていれば、あなたは小羊の婚宴に入ることができる。愛する者よ、この告げ知らせとこの擁護を待つ余裕がわれわれにはある。是認されるのを待つ余裕がある。われわれが聖められていることを、人々は今信じる必要はない。人々が「お前は聖められていない」と思う時や、「お前は後退している」と告げる時でも、あなたはこの祝福にあずかることができる。ああ、あわれみ深いキリストの優しい忠実な愛は決して破れるおそれはない!しかし、兄弟よ、この群れと共に生きるには、あなたは全く聖められなければならない。たとえあなたがこの運動にしがみつき、名簿に名前を載せてもらい、ボタンやバッジやリボンで覆ってもらえたとしても、この民は依然としてあなたのことを知らないかもしれない。しかし本物を得るなら、あなたが誰のものなのかを人々に知ってもらうために外面的印を身に付ける必要は全くなくなる。神があなたにこの祝福を与えてくださるなら、たとえ人々がそれを信じることを拒否したとしても、それはただあなたの喜びを増すだけである。あなたにはわかっているからである。あなたは大いに喜ぶようになるので、自分はこの祝福を受けていること、自分の名が御手のたなごころに彫り刻まれていることがわかるようになる。そのため、あなたは疑う者たちに答えようとしなくなる。神は私が労苦している時、私を召してくださった。だれも私のことを欲していない時、私が落ち込んでいて立ち上がれない時、私を召してくださった。私が無にすぎないことをご存じだったのに、私を召してくださった。この神は今さら私を放棄されたりはしない。ああ、御名に栄光あれ!

愛する人よ、あなたの名は彫り刻まれているだろうか?宮廷生活で生じるある種の振る舞いや上品さというものがある。あなたが神に全く明け渡す時に生じる、ある種のこの世からの聖なる独立というものがある。そのため、あなたはこの世と手を切って永遠に神と共にいることを、人々は広く理解するようになるのである。