第八章 神の同労者たち

セス・C・リース

「私たちは神と共に働く同労者だからです。」(一コリント八・九)

これは歴史上最大の協力関係の宣言である。このような協力関係があること、そして、宇宙の神がわれわれ――土くれの虫であるわれわれ――をこの団体の中に入れてくださったことを思う時、われわれの心は感動するだけでなく圧倒されそうになる。ここにはなんの説明もない。これは人の理解力を全く超えている。この御言葉は短いが、事実である。事実、われわれは大いに喜ぶことができる。

先日、ロンドンのエクセター会館で、二千名の提携者たちが会して、毎年恒例の晩餐会にあずかった。彼らはイギリスのある出版会社の会員だった。彼らは従業員全員を事業の提携者にする計画を採択した。彼らが毎年恒例の晩餐会に集まった時、それは壮観だった。彼らは一つの会社を代表していた。この光景は、来たるべき大いなる日を私に鮮明に示してくれた。その日、二千人だけでなく――数はどうあれ――十四万四千という数字で示されている人々が小羊の婚宴に座すのである。その時、この大会社の提携者は一人一人表彰されて、その食卓に座す。それは一大晩餐会であり、大いなる日である。このような高い召しを受けていることを思い出す時、われわれは自分が全く無にすぎないことを思い知らされて、神の恵みがなければ立ち上がって自分の特権を受け入れられそうにないように感じてしまう。この聖なる協力関係の中でわれわれは一つであり、同じからだの肢体である。われらの主であるキリストは一つであり、われわれはみな兄弟である。

いかなる協力関係においても、二つの当事者、二つの側がなければならない。この協力関係では神の側と人の側がある。神がわれわれをご覧になってご自分の協力者に受け入れてくださるとは、なんというあわれみか!双方の側に満たすべき条件がある。生じるものがある。

最初私は神の側を見た。すると、われわれが破産者であるだけでなく反逆者でもあった時に、神はわれわれを受け入れてくださったことがわかった。神はわれわれの負債をすべて担ってくださる。われわれに立ちはだかる借金を帳消しにし、天の銀行に信用枠を設けてくださる。まるで一セントも浪費したことがない者のようにしてくださる。どんな犯罪歴があったとしても、どんな汚れや染みがあったとしても関係ない。宇宙の神はわれわれを受け入れて、それをすべて拭い去り、われわれに商売上の立場、天の銀行の信用を与えてくださる。そのおかげで、まるでこの会社にずっといたかのように扱ってもらえるのである。今朝、われわれは神を礼拝するべきである。少し考えて見よ。このような状況下にあるわれわれを神は拾い上げてくださるのである!

私はある高潔な会社の紳士について耳にした。その人には一人の従業員がいたのだが、その従業員はその人から幾ばくかの金を横領していた。しかし最終的にその従業員は真に悔い改め、長い葛藤の末に雇い主の所に行った。自分の罪を告白するためだけでなく、法律による刑罰を受けるためだった。そして大いに身を低くして告白し、「もちろん、このまま雇い続けてもらおうとは思っていません」と言って話を終えた。少し間を置いて返って来た答えはこうだった。「いや、あなたをこのまま雇うことはしないが、私の協力者にしよう。なぜなら、このような供述と、このような告白に至った悔い改めの価値を私は承知しているからである」。このように気高く振る舞う人は多くないが、神は常にこうされるのである。

われわれが自分の罪を告白する時、神はわれわれを赦してくださるだけでなく、全宇宙で最も偉大な協力関係の中にわれわれを受け入れてくださる。そして、われわれは神の肘の所に座して、神と共に働く同労者になるのである。

神の側に関して次に気づいたことは、われわれがすることを望む仕事に必要な分の資本金を神はすべて備えてくださるということである。地上の会社では常にそうとは限らない。地上の会社の案内を受け取っても、「制限付き」とあるのを度々見かける。ロードアイランド州のポーツマス野外集会協会に入れてくれるよう求めた時、彼らはわれわれの資本金を制限して、われわれの書類の上に「制限付き」という言葉を記した。だが、神は決してそんなことをなさらない。この会社の書類では、「神はあなたたちに対してあらゆる恵みを溢れさせて、あなたたちがあらゆることで常に満ち足りて、あらゆる良い働きに富むようにすることができます」といった条項を見ることができる。だから、われわれがする仕事の資本金を制限しているのは、ただわれわれの信仰だけである。他の制限はない。兄弟よ、あなたは一ペニーの受給者にもなれるし、億万長者にもなれる。船で海に行って大海で商取り引きをし、深海の神秘を見ることができる。神はわれわれの手の届く所にこのような可能性とこのような無尽蔵の資源を置いてくださった。われわれがなすべきは、ただ神を信じることである。そうするなら、われわれの資源は無限である。神に永遠に栄光あれ!

神はわれわれを受け入れてすべてを備えてくださるだけでなく、この働きのための神聖な能力をも与えてくださる。神は見いだしうる最も硬いこぶを用いて、きわめて見事に磨き上げられる。市場の最も弱いものを用いて、最大の御旨を成就される。神はわれわれに神聖な能力を与えてくださる。だから、もはやわれわれの天然的能力の問題ではないし、任命や技能の問題でもない。神の御手がわれわれの上に臨んで備えをする問題である。われわれは人々を学校、修辞学、哲学、羊皮紙で整えて、神の働きと思われるものに送り出す。彼らはしばしばきわめてみっともない失敗を犯す。しかし、神は御手を僕の上に置かれる。そして、その御手は重く思われるが、神は決してその僕を立ち上がらせない。しかしついには、その僕は勝利して出て来て、群れを駆け抜け、あるいは壁を飛び越えて、自分の任務を達成することに成功するのである。

神は御使いたちを召すこともできた。御使いたちは行くことを喜んだだろう。すべてのことを喜ばしい奉仕として行っただろう。神の招きと召しに舞い上がっただろう。彼らが知りたいのはただ、仕える機会があるかどうかである。しかし、御使いたちは召されなかった。神は世界を福音化するというこの偉大な委託を遂行するこの輝かしい協力関係の中にわれわれを召しておられる。確かに人の側もあるが、人の側はあまりない。せいぜい神に服して「はい」と言うことくらいである。道からどいて、神がなさるすべてのことに默従することくらいである。われわれは史上最高の召しに召されている。にもかかわらず、この召しに対する人々の対応はなんと遅々としていることか。そもそも神がわれわれを召されるのが、私にはとても不思議である。さらに不思議なのは、せっかく神が召しておられるのに、われわれが常に応じるとは限らないことである。どうしてためらうなどということがありえるのか?どうしてぐずぐずと先延ばしにして、このような召しに応じるのがこんなにものろのろしていることがありえるのか?神に感謝すべきことに、われわれの多くはすぐに御許に行くこと、主の召しに直ちに駆けつけることを学んでいるところである。われわれが知りたいのはただ、われわれに対する御旨と御目的だけである。われわれは喜んでこの輝かしい軍隊の隊列の中で自分の位置につく。神と共に働く同労者になれる特権のゆえに神に感謝せよ!われわれの団結した行動にはこのような力がある。極小の動物でもサンゴ礁を造ることができる。数がとても多いからである。もしわれわれが互いに一つであり、神と一つなら、不可能なことはなにもなく、われわれに逆らって造られる武器は功を奏さない。われわれに逆らって話す舌は麻痺し、われわれは勝利から勝利へ、力から力へ、栄光から栄光へと征服者の道を歩み、ついには永遠の栄光のうちに共に座し、染みのない白い衣を着た十四万四千人として、小羊の婚宴を祝うのである。

今朝われわれに必要なのは、われわれの側で団結して行動することだけでなく、快活になって互いに助け合うことである。神が唯一の経営者であり、われわれはその助け手であることを悟るべきである。われわれが神を助けているなら、事はとても容易に運ぶ。これを悟るとき、われわれは大いに団結し、共に荷を負うようになる。そのため、一度、二度、いつでも一緒に荷を引くようになる。われわれの道を邪魔できるものはなにもない。われわれの働きで状況が困難に思われる時もある。なにか途方もないことをしなければならない時、できることはすべてしたように見える時もある。しかし神に感謝すべきことに、もしわれわれが一つなら勝利は確実である。もしわれわれが神と共に働く同労者なら、御業を認識して、御業と人の働きとを区別しなければならない。神と共に働こうとするなら、神がどこで働いておられるのかを見いださなければならない。今朝、私はあなたたちに告げる。祝福に満ちた聖霊は、この最後のクリスチャンの時代、もっぱら人々の救いのために働いておられるが、その働きの中心点を変えて、別の領域に移っておられる。聖霊がある領域を離れたので、それらの領域は荒れ果てて、空しくなり、なにもなされていない。もしこれらの荒れ果てた領域の中でぐずぐずしているなら、神と共に働く同労者にはなれない。神がそこで働いておられる時もあった。神は今ある、あるいは過去にあった、教会の数々の大きな団体の中で、最善を尽くしてこられたが、今では別の領域におられるのである。

若い男性や女性が聖霊に満たされると、宣教の働きに備えるために、たいていスラム街や聖書学校に進む。彼らは諸々の協会や組織や教会団体への嗜好を失う。アメリカのプロテスタントではごく普通の社交、娯楽、市場やバザーに、もはや加われなくなる。神には一つの偉大な働きの中心があり、その中心から神は輝いておられ、救いの流れが四方に流れている。神はもはや、司教の理事会、教会会議、偉大な学問機関を中心とはされない。今や神を見いだすのは、宿営の外側、門の外側、町の境の向こうである。盗人や酔っぱらいや友達のいない者の間の界隈で、遊女のいる路地や望みなきホームレスに、神を見いだす。神は最前線、山々の後背、海外の地で働いておられる。慎ましいささやかな宣教団体の中で、あずまやの下で、テントの中で働いておられる。しかし、宗教的権力とおぼしきものの中心らしきものは、聖霊と聖霊のリバイバルに欠けている。「神がおられない所にとどまって働こうとするのは、時間の無駄であり、金の浪費であり、自分たちのエネルギーの無駄である」とわれわれが言っているのは、これが理由である。あなたたちは、「どうして神はそこで働いておられないのですか?」と言っている。まあ、あなたたちの質問にすべて答えるつもりはない。いくつかの理由がある。一つは、聖霊は望まれていない所にとどまらないということである。侮られる所に聖霊はとどまらない。自分が大司教でない所に聖霊はとどまれない。聖霊が支配と権力を握らなければならない。手綱は聖霊の御手に委ねられなければならない。聖霊は人の安全ベルトに縛られて働かれることはない。人の計画に従われることはない。人が造った規則や法令に服されることはない。たとえ、それらが学識ある博士たちによって造られたものだとしても。そのような条件に服する前に、聖霊は町を去ってしまわれる。聖霊は悪党、浮浪者、役立たず、二十年間職を探して「とても見つからない」と思っている人を召し、救い、聖め、その体を癒して、一つの中心を開始される。その中心の周りに天の力が集結して、その人は歌い叫び、ついには一大リバイバルが起きるのである。

兄弟よ、もしあなたがなにもない戦場を轟音を立てて行き巡っており、なにも起きていないなら、「自分は神の同労者である」とは信じられないのではないだろうか。私はわれわれの土地のいわゆる諸教会の多くと共にとどまるよりは、むしろ死んで四日たつ死体に付き添いたい。神はご自分と歩調を合わせるようにわれわれを召された。神がどこに砲台を据えられたのか、どこで真の戦闘がなされていて神と共に戦いに出て行けばいいのか、われわれは突き止めなければならない。空砲を撃って紙鉄砲をもてあそび、かんしゃく玉で祝砲を上げ、だれも傷つけず、なにも起こさないことを望むなら、そうすることもできる。だが、あなたは確実に報償を失う。神が何の上に証印を押されるのか、私は知ろうと努めている。神が保証されないものを認めることはできない。たとえ学校、学問の中心、称号、宗教界が拍手喝采するもののためといえども、火の柱が前進しているのを見るなら、私は一瞬たりとも後でぐずぐずしてはいられない。われわれが今日享受しているものは、われわれがそのために大きな代価を払ってきたものである。それはわれわれの魂にとって大いに甘美であり、たんなる空虚で無力な宗教組織と今さら交換することはできない。死せる教会団体――それは神聖な事柄におけるあなたの進歩を台無しにする――に関わっている時間は無い。これらの死体が甦る望みはない。こういうわけで、私の心はスラムやジャングルにある。こういうわけで、私は倒れている人々に望みを置く。私の魂と存在は彼らを助けるためにすべて注ぎ出されている。われわれは大路と垣根の時代に近づいている。まさに世界史における土曜の晩に至っている。われわれは自分たちの小さなエルサレムの外に出て、門の外の垣根や路地に横たわっているらい病人たちを見つけなければならない。今日、神の捺印と証印を真に帯びている運動で、なおざりにされている大衆に特別な注意を払っていないものがあれば、それを私に示してほしい。そのような運動がどこにあるのか?一つも見つからない。神の証印を帯びているもの、主の御姿を帯びている人はみな進んで行って、卑しい、なおざりにされている、失われた人を探しているのである。

こういうわけで、この野外集会には宣教の日があるのである。こういうわけで、われわれは外国に宣教士たちを送っているのであり、救護院を設けているのである。こういうわけで、われわれには都市の宣教士がいるのである。彼らは喜んで良い給料を捨て、自分を否み、あらゆる種類の障害を被っている。人々を火の中から引き出すため、人々を救ってかの大いなる日に備えさせるためである。その日、われわれは共に座すことになる。ここにいるあなたたちの中には、人気がある大教会の会員もいる。あなたたちは彼らを支援するために自分の金をつぎ込んでいるが、救われていない大衆は探し求められていないし、助けを受けてもいない。また、望まれてもいない。教会は自分のスカートをまくって、彼らを自分の最上の会衆席に迎えるという考えを一蹴している。なんなら、あなたは独立した聖潔の諸教会の組織に対して戦うこともできるが、われわれはそれを励ますつもりである。われわれは酔っぱらい、遊女、浮浪者を喜んで受け入れる諸教会を組織しているのである。

毎世代、数十億の異教徒がキリストなき墓に葬られる。この国の三十五万の堕落した少女たちには友がなく、希望もなく、情けも受けていない。それなのに、諸教会は自分たちの尖塔を急ごしらえしたり、パイプオルガンをもっと良いものに変えたり、会衆席をもっと高価なものに交換したり、会衆席を一般人が集えないような値段で貸し出している。そのため、倒れている少年少女たち、数々の団体の中で倒れかけている少年少女たちには、チャンスがないのである。彼らの多くはこれまで一度も良い機会に恵まれたことがない。あなたは数千回も良い機会に恵まれてきたというのに。彼らに第二のチャンスを与えるのは筋が通っているのではないだろうか?彼らの多くは状況のせいで罪の中にいる。彼らは無力であり、希望も家もない。彼らを喜んで受け入れて彼らの真価を認めるプロテスタント教会は十に一つもない。神は他のどこよりも彼らの間で働くことを好んでおられる。私は神と共に進もうか、それとも、人々と共に進もうか?説教者たちや人々は歌を歌って、滅び行く魂を救うことについて話しているが、それと同時に根本的間違いを強調している。その間違いは、度々引用される「翼の折れた鳥は二度と高く舞い上がれない」という句で言い表されている。女性は一度倒れると、二度と立ち上がれない、というのである。これは地獄のような間違いである。破滅の黒壁のように真っ黒である。その源は呪われた被造物どもの間にある地獄の穴である。この呪われた被造物どもが永遠の夜を縫ってよろめき進んでいるのである。われわれには折れた翼を癒す福音がある。この福音は折れた足、砕けた心、崩壊した家庭を癒すことができる。そして、サタンが毒を注入し続けて極みまでも破壊・荒廃させた人生さえも新たにして、造り変えることができる。われわれが持っている福音は、羽の折れた鳥を前にもまして高く舞い上がらせる福音である。毛虫や咬み切り虫が食い散らした年を回復する福音である。罪を取り去るだけでなく、神に感謝すべきことに傷跡を覆ってくれる救いである。この福音は女性の顔から罪のしわを取り去ることができる。われわれが持っている福音は、諸君、不正確に伝えられてきた結果、誤解されてきた福音である。その原因を辿って行くと、アメリカのプロテスタントが神から遠ざかっている事実に行き着く。

それはあまりにも大袈裟だ、とあなたは言うかもしれない。私の魂は騒いでいる。私はこれまで幾度もシカゴのハリソン警察駅の家で日曜を過ごしてきた。そこはノルウェーの連中が囚人と同じバケツの水を飲み、同じパンを食べている所である。そこでは、害虫が這っているのを至る所で目にする。そこで私は、約八フィートかける十フィートの小さな個室の中に八人の人が詰め込まれているのを見かけた。押し込んでも三人以上は横になれず、残りの六人は一晩中立っているか、交代で汚物の中に横たわらなければならない。私は別の監房も通ったが、私が見たかぎり、落ちぶれた階級の状況はと言うと、ステッドがロンドンからこの国に来て、視察旅行の途中で、彼が公表した記事のためにアメリカの新聞から非難を受けたわけだが、私がこれまで学んだかぎり、彼は決して誇張してはいなかったのである。それなのに、あなたたちが献金している説教者は着飾って、世界は良くなりつつあるという、ほんのりバラ色の説教を読み上げている。私はあなたたちに控え目に言うが、われわれが今いる時代は、もし人が神と歩調を合わせるなら、いかなる束縛、いかなる類の教会権力の下にとどまることもありえない。むしろ、神と共に進んで行って、神が自分に委ねてくださった人々を救わなければならない。私は特に教会員になることについて話しているのではない。そんな些細な事に取り組んでいる時間は無い。私が取り組んでいるのは偉大な数々の原則であり、私の魂にとって説明するにはあまりにも大きな問題なのである。もし神の民がこの働きに団結して取り組むなら、われわれはたった十年でこの世界を福音化して、イエスの来臨を迎えることができる。しかし、今朝私が顔を合わせているこの数百の人々は、神がどこで働いておられるのか、神があなたにどこに金を投資することを望んでおられるのかを見いださないかぎり、決して大したことは成し遂げられないだろう。どうか主がわれわれを助けてくださり、神の導きと神の成功について確信が得られるまで、顔を伏せて泣き、断食し、祈らせてくださいますように。