第九章 喜びと力

セス・C・リース

「主の喜びはあなたたちの力だからです。」

キリスト教と他の宗教の違いの中で、快活さと喜びという点以上に異なっているものは何もない。異教国民の普段の顔つきは暗く、とても悲しげなことがしばしばである。礼拝している異教徒を見かける所ではどこでも、彼らの顔には覆いがかかっているように思われる。彼らは辛い時を過ごしている。イエス・キリストの宗教以外の他のいかなる宗教も、真の喜びを帯びていない。正真正銘の新約宗教の信者の普段の顔つきは輝いている。喜びと幸せを感じるのは大事なことだが、とても多くの人々は真の喜びを勘違いしている。喜びや幸せは束の間のものにすぎず、特定の条件や兆候が現れない限り不在である、と思い込んでいる。主の喜びは主御自身と同じように実体的なものであり、外部の環境にはよらず、体格、気分、感情、興奮にもよらない。感情、興奮、歓喜の無い所には喜びは無い、と思っている人々もいる。時として、人々はまさにこの点で問題を抱えて、興奮や陶酔といった感覚を感じられなくなると、自分は主の喜びを失ったと思い込む。そうではない。主の喜びは言いようのない悲しみのただ中で、自分には重すぎるように思われる重圧の下で、耐えられないほど圧迫される時、危機の中にある時でも、心の中に永遠にとどまるものなのである――どこにいてもそうであり、どんな環境に取り囲まれているのかには関わらず、主の喜びがある限り、それはわれわれの力である。「主とその大能の力によって強くなりなさい」とわれわれは命じられている。そうする以外の権利はわれわれにはない。

この運動の中でわれわれが主張しているのは、聖書に戻ることである。聖書的原則、聖書的実行、聖書的経験、聖書的結果を追い求めることを主張している。聖書への、使徒行伝への、聖霊の個人的導きの下で始まった幼い教会が持っていたものへの、出来る限り最短の道を探している。聖霊が教会に期待されていることを、われわれは熱心に期待するべきである。特に使徒行伝を調べて、聖書的水準、使徒的実行、力と結果に自分たちがどれくらい近づきつつあるのかを知るべきである。主の喜びを持たない限り、成功することは全く不可能である。幸福に優るもの、陶酔に優るもの、ハレルヤや叫びで表現しうるものに優るものがある。こうしたことはそれを現そうとするわれわれの試みの中で最善のものではあるが、それはこうしたことよりも遥かに深いのである。

清い生活を送っていて、純粋な心を持っている、聖霊に内住されている人には、言いようのない喜びがある。たとえハレルヤやアーメン等で最善を尽くしたとしても、そのような人は自分の経験を表現できたとは感じない。言葉はそれを表現するのに不適当である。両目が涙を流している時でも、喜びがある。言いようのない呻きの時でも、喜びがある。軽い荷――主がその荷の重い方の端を運んで下さるからである――を運んでいる時でも、喜びがある。われわれは主の苦難にあずかることをたびたび許される。主と共に荷を負っていることを自覚させてくれる経験を、われわれは十分にしなければならないからである。われわれが進むにしたがって、主は十分な苦難をわれわれの上に臨ませる。それは、「私たちは主が飲まれた杯を十分に味わい、主が通られたものを経験しました」とわれわれが真に言えるようになるためである。いつまでも残るもののゆえに、手紙や予期せぬ電報が変えることのできないもののゆえに、われわれはどれほど主を賛美すべきことか。

時々私は妻に、「私の手紙は私を憂鬱にする」と言ってきた。驚きを禁じ得ない暴露話、不可解な実態、恐ろしい不幸話、壊れた家庭、破滅した家族、吹き飛んだ希望のことが書き送られてくるのである。いわゆる聖潔派の人々の間にすら分裂に次ぐ分裂があるのである。これに私は言及したくないのだが、われわれが恐ろしい時代に生きていること、そして、いつまでも残るものを必要としていることをあなたたちに印象づけるために言及せざるをえない。われわれにはとても深いもの、永遠のもの、震われないものが必要である。それはわれわれが主とその大能の力によって強くなるためである。

愛する人よ、われわれはさらに厳しい状況に直面しなければならないだろう。この聴衆の大部分は若く、人生はこれからである。しかし、厳しい状況があなたの前途に待ち構えている。あなたは大きな責任を担わなければならないし、意地悪で腹黒い敵の群れに直面しなければならない。あなたの友人がすべて去って、手の届く所に誰もいなくなる時、この戦いに役立つものをあなたは得る。あなたが他の誰からも引き離されて孤独になり、全く孤独に感じる時、そうした境遇にあるあなたを力づけて支えてくれるものをあなたは得る。あなたの力である聖霊の喜びによってこれが与えられることを、主に感謝せよ。

悲しんで落ち込んでいる人で強い人を見かけたことは一度もない。悲哀、悲しみ、陰気な様子は他の人々に影響を及ぼす。これは伝染して、家族中に広まる。同じように喜びや輝きも伝染して、悲しみよりも広まる。喜びに満ちているなら、あなたは他の誰かを祝福するような希望に満ちた言葉を語る。恐ろしい苦境の中にいる人々をあなたが見つける時、神はあなたをその人々に対する祝福とする。たとえあなた自身が苦境の中にあったとしても、神があなたを慰めて下さった慰めをもって、あなたは彼らを慰めることができる。悲しみの中で喜びを経験し、弱さの中で強さを経験し、長く辛い苦境をあなた自身が乗り越えられたからこそ、あなたは他の人々を引き上げることができ、彼らに難局を切り抜けさせるすべが分かるのである。聖霊を受けてこの聖なる喜びが生活に臨む時に期待できることの幾つかを見ることにしよう。

第一に、それはわれわれを強くする。話題にするような弱さはなくなる。弱いときも少しはあったが、今は主にあって強い。主には何が出来るのかを告げて、イエスを崇め、高く上げるとき、あなたの力は増し加わる。自分の失敗、不幸、弱さについて話すたびに、あなたはますます弱くなる。「自分は弱く、小さく、無価値である」と言うよりは、恵みの一大供給庫に行って大いに恵みにあずかる方が良い。神の御顔を仰ぎ見て、あなたを巨人にして壁を飛び越えさせ、軍隊の間を駆け抜けさせてくれる、十分な恵みと信仰を求めよ。こうして、あなたは神の御旨を成し遂げるのである。そうできるのは、われわれがカルバリのキリストをしっかり見つめている間である。悔い改めには一目見るだけで十分である。救いを求めている人々は一目見るだけで十分である。戦いを終わらせ、献身して、他のことをすべて為し終えるには、たった一目見るだけで十分である。仰ぎ見ない限り、聖めの祝福や他の経験を得る人は決していない。大騒ぎして麦わらの中を転がって長椅子を叩いたり、絨毯を噛んだりするのも結構だが、何とか乗り越えて一目見なければならない。イエスを仰ぎ見る時、主の喜びが内側に注がれる。われわれは身を乗り出して主が語られるのを見、その御言葉を聞かなければならない。これは他の声や他の人々をすべて遮断することを意味する。これはあちこち見回すことを意味するのではなく、イエスを仰ぎ見ることによって力を得るということである。悪魔どもの連隊全体を打ち破るには一目見るだけで十分である。ただ見上げるだけで力を得るのである。

イスラエル人たちが蛇に咬まれた時、青銅の蛇の竿が宿営の中に、どのテントからも見えるように設けられた。癒される唯一の方法は見上げることであった。私が思うに、数百のイスラエル人は自分のテントの入口まで這って行くことしかできなかったが、そこから目を上げて見るだけでよかったのである。これこそ、他の物事や人を忘れて――何物にも妨げられてはならないという意味である――「見上げる」という新約の法則の偉大な成功の秘訣である。平然と助言を退けるという意味ではない。聖霊を受けた男女ほど近寄りやすい人、喜んで助言を聞き入れる人は、世界に誰もいない。しかし、礼儀正しく助言を受け入れてそれを尊重し素直に考慮した後で、われわれは依然として主が導かれるように主に従わなければならないのである。

戦いがわれわれの上に臨む時、自分自身で戦う必要はない。「イエスを仰ぎ見る」なら、イエスがわれわれのために戦って下さることがわかる。試練や試みがわれわれの上に臨み、誘惑が増し加わる時、われわれが知る必要があるのは、ただ「見上げる」すべだけである。「試練が来たら、タンスの中に駆け込みます」と人々が言うのを私は聞いてきた。しかし、試練があなたに降りかかってタンスの中に入る時間がない時もある。祈りつつ神の御子と親密に交わっているなら、路面電車や蒸気船の桟橋にいる時、あるいは仕事の真っ最中に、誘惑が降りかかってきたとしても、ただ目を上げるだけでよい。人々は目に涙をため、あなたの友人たちはあなたが困難に遭っていると思うかもしれないが、そうではなく大丈夫なのである――「イエスを仰ぎ見」よ。

イエス以外に模範はなく、聖書以外に律法はない。われわれは新約聖書をわれわれの行動規範として、イエスをわれわれの唯一の模範として受け入れなければならない。われわれはお互いを模範とすることを拒否しなければならない。経験、実演や感情、感覚やいかなる種類の見せかけにも倣ってはならない。他の誰かの生活で自分を測ることはできない。他の人はあなたより長く砥石車の上にあったかもしれない。何年も研磨紙で磨かれてきたかもしれない。罪はわれわれの生活の中から瞬時に除き去られるが、角やざらざらしている所は一度にすべて除き去られるわけではない。あなたがあるクリスチャンを自分の模範とするとき、その人は着飾ってしっかりしており洗練されているかもしれないし、あなたが始める前に、神は何千ドルにも値する恵みをその人に注いできたかもしれない。しかし、その人があなたより若干進んでいるからといって、その事実に落胆してはならない。忍耐して主に信頼するなら、主はあなたのことも砥石車の上に乗せて磨き上げ整えて下さるので、あなたは叫ぶだけでなく輝くようになる。自分より六ヶ月進んでいる人と自分とを比較してはならない。われわれは彼らに追いつくよう最善を尽くすべきだが、神がわれわれ自身の生活の中に授けて下さった恵み、力、能力に落胆してはならない。多くの時、われわれには自分の内にある最善のものが見えない。聖められた人は自分を見ることをあまり好まない。モーセの顔は輝いていたが、彼はそれを知らなかった。人々が自分自身の経験や他の人の経験ばかり見ている時、彼らは輝きを失う。われわれの唯一の仕事はイエスを喜ばせることである。この一事をあなたの目標とせよ、「私は後にあるものをすべて忘れてこの一事に励んでおり、突き進んでいる」。標準はイエスである。われわれは彼に注目しなければならない。彼を見つめ彼に耳を傾ける時、主の喜びがわれわれの魂の中に注がれて、われわれは神聖な力を帯びる。御名に栄光あれ!

聖書に立ち返ってペンテコステの実を得るとき、われわれの内側にたくましい資質と力強い目的意識とが育まれるので、何に直面しても問題ではなくなる。ペンテコステは臆病さを死に渡す。ペンテコステは恐れをすべて滅ぼす。もし敵に直面することを恐れているなら、試みが来る時、あなたは失敗するだろう。しかし、主に信頼する者たちは決して狼狽、失敗、敗北することはない。ハレルヤ!私は言う、聖霊が共におられるなら失敗は不可能である。いかなる敵だろうと、あなたは敵の群れの中を突き進んで、あなたに逆らって頭をもたげようとするすべての敵に勝利することができる。神に栄光あれ!

霊的難破や堕落の極めて明確な証拠の一つは、「すべての人がある特定の示威行動をして、ある特定の体操運動をしなければならない。さもないと、全き救いを経験していないのである」という非聖書的な許し難い要求である。われわれがみな同じになることを、神は決して意図しておられない。神は二枚の草の葉を決して同じようには造らなかったし、木の葉っぱが厳密に同じ模様になるようには決してされなかった。他の人の経験や外見を猿真似することを、神はわれわれに望んでおられない。神があなたに望んでおられるのはただ、あなたが清くなって、神のものになり、地の果てまでも神に従うようになることである。聖められて聖霊に満たされる時、あなたはそうなる。そして、主の喜びがあなたの魂の中にとどまるようになる。あなたは勝利から勝利へ、成功から成功へと進み、遂には跳躍して神の都の門の中に入る。ハレルヤ。嬉しいことに、戦いは続いているが間もなく終わる。嬉しいことに、戦いをくぐり抜ける時がやって来る。採掘が終わり、われわれは輝き、輝き渡って、永遠に神の栄光のために生きるようになるのである。

主はあなたを祝福して下さる、愛する人よ、溢れんばかりに喜ぼうではないか。ある人が死にかけるほど祝福されているのを見て、自分もそうなろうとしてはならない。彼らが叫び声やかかとで喜びを表していたとしても、あなたの喜びは無言の涙や言葉にできない静かなハレルヤによって同じように力強く溢れ流れているのかもしれない。確信をもって言うが、どちらが最善かは分からない。御霊によって息吹かれたのでない限り、何も益にならない。たいていの場合、他の人々が大いに飛び跳ねていても、私は少しもそうしたいとは思わない。私が特に感興を覚えるのは、多くの死せる頭脳の持ち主の間にいる時である。「跳ねたり叫んだりしないなら救われていない」と考えている人々の間にいる時、私はたいていとても静かである。

他の誰かに倣おうとする代わりに、たとえ2×4しか満たせなくても、神の栄光のために満たそうではないか。私は4×6を半分しか満たせないでいるよりは、むしろ2×4を一杯に満たしたい。他の誰かの役割を果たそうとするなら、あなたは絶えず気まずく場違いに感じるだろう。しかし、自分自身の役割を果たすなら、あなたは心地よく感じて、全く易々と動くことができる。どのみちあなたは自分のものではない。あなたは神の財産であって、神が責任を負っておられる。人々が自分のことをどう思っていたとしても、あなたは満足していられるし、駆け回って人々の考えを知ろうとはしなくなる。自分のメッセージを人々がどう思おうと気にしなくなる。いずれにせよ、人々はあなたのものではないのだから。うまく行っても行かなくても、成功しても失敗しても、働きはすべて主のものであることを理解するなら、主が全体の責任を負っておられることを悟るなら、主が手放せるものをあなたは何でも手放せるようになる。全く聖められた人はみな、自分自身のオルゴールを持っている。それは他の人々にとっては良い音色とは限らないが、あなたは満足である。今朝、私は主の喜びを経験した。私には幾らかの重荷がある。それは確かである。しかし、自分の重荷をあなたに話したり負わせたりする必要がどうしてあろうか?あなたにも幾らかの重荷がある――おそらく十分すぎるほどの重荷があるだろう。どうして私の重荷に耳を傾けるのか。「重荷を抱えて互いに行き来してはならない」と言うつもりはない。私が思うに、時々は忠告や助言を求めに行くべきだが、すでに十分すぎるほど重荷を抱えている人に自分の個人的重荷をすべて注ぎ尽くすようなことをしてはならない。たとえあなたが重荷を抱えていて辛くても、その重荷をずっと抱えてきた人々もいるのである。その人々は数百年前に、あなたの今の境遇と全く同じ境遇を通った。しかし今、彼らは天にいる。間もなくあなたもそこに行く。そして、あなたが今日経験しているのと同じ試練を他の人々が通るようになる。われわれが主のものである限り、どこにいても、どんな境遇を通っていても、われわれは王国に向かっており、やがてその中に入るのである。主を賛美せよ!