「なぜなら、預言は人の意志から出たことはかつてなく、神の聖なる人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」(二ペテロ一・二一)
われわれは神聖な霊感を遥かエデンまで遡ることができる。神はエデンの園でアダムとエバに御旨を現された。そして、洪水前の時代全体を通して、人が神の御旨を知りたい時は、神は常に喜んで御旨を知らせてくださったことがわかる。王たちの時代全体を通して、神はいわゆる「神の聖なる人々」を持っておられた。その人々は神と交信し、天の御旨を授かって理解した。この「聖なる人々」は預言者と呼ばれ、このペテロの手紙では「神の聖なる人々」――預言者――と呼ばれている。また、彼らは「聖霊に感じて」聖書を書いたのであると述べられている。
この預言者たちは、一般的に言って、かつて生きていた人々の中で最も高貴な人々だった。全体的に言って、預言者たちは過去の人々の中で最も敬虔で優れた人物だった。わずかな例外を除いて、王たちは邪悪であり、偶像崇拝のうちに生活した。祭司職は王職と同じくらい腐敗していた。しかし、王や祭司や民衆が神から背き去ったこのような背教の時代にも、神は数名の預言者を持っておられたのである。この預言者たちは立ち上がって罪を責め、神の威光と権威を確立するために働いた。一般的に言って、王たちは堕落していただけでなく、王国をも堕落させた。聖書が述べているとおり、預言者たちは聖なる人々だった。神に感謝すべきことに、聖なる人が常にいたのである。「聖なる者になることは不可能である」と言う人々もいるが、旧約の時代のあいだ聖なる人々がもしだれもいなかったなら、新約聖書の中に彼らへの言及はなかっただろう。もしイエスが彼らのことを聖なる人々としてご存じでなかったなら、彼らのことをそのような者として述べることはきっとなかっただろう。
モーセはパロの王座を打ち倒して史上最大の帝国を打倒するために召された。民を隷属の中から導き出すために召された。しかし、この任務は彼が「神の聖なる人」になるまで与えられなかった。人生で最も重大な時期に入るにあたって、ペンテコステを受けなければならなかった。モーセは人々に、神は彼らの中から「自分のような」一人の「人」を起こされる、「あなたたちは彼に聞かなければならない」と告げた。だから、モーセは自分が神の預言者であることを告白しているのである。モーセは来たるべき方の大いなる予表だった。というのは、「その方は私のような者である」と述べているからである。聖なる人々によって何をなせるかの見本として、神はモーセを際立たせておられる。勇気を出して、神はわれわれを聖なる者にしてくださると期待しようではないか。
偉大で善良なサムエルが召されたのは、その国が最大の窮状にある時だった。彼は油注がれた預言者であり、当時最も輝かしい光だった。当時のマルチン・ルターだった。イスラエルが束縛の中にある時、民衆の間に偶像崇拝が浸透し、説教者たちが神から遠くさ迷い去っていた時、エリヤが神の臨在の幕の後から進み出て、勇敢に群衆に立ち向かい、「万物の神こそ礼拝すべき唯一の御方である」と告げた。彼は何ものも恐れずに前進したが、なすことすべてに成功を収めた。火のバプテスマのゆえに神に感謝せよ。火のバプテスマは人の中から恐れを取り除き、全存在を力、勇気、力で満たす。人に勇気を与えて、教会の数々の団体に向かって神の真理全体を告げさせるのである。
また、きわめて暗い困った状況の下で神に対して信実だったイザヤがいる。イザヤは真理を告げてそれを支持したため、とうとう人々は彼を牛肉のようにノコギリで引き裂いた。彼は神からメッセージを受け、勇敢にそれを伝えたのである。
エレミヤもいる。エルサレムが陥落して回復の望みがほとんどなかった時、彼は忠実に神のメッセージを告げて、あらゆる形の罪を非難した。そして、失われたもののために涙を流し、ついに「涙の預言者」と呼ばれるようになった。過去にこのような人々を神が持っておられたからには、きっと神は今日もこのような人々を必要としておられるにちがいない。パロの王座を打倒するために一人の聖なる人が必要だったからには、今日の多くの偽教師や偽説教者に異議を唱えるために用いられる人が数人大いに必要である。全き真理を告げることを恐れない聖なる男女を神は必要としておられる。
サムエルについて、「主は彼と共におられ、その言葉は一言も地に落ちなかった」と述べられている。主があなたと共におられるなら、それで十分である。兄弟よ、主があなたと共にいてあなたと共に進まれるようにあなたが行動できるなら、主は全く十分な御方となられる。主が行かない所には行かないようにしようではないか。主が前線におられない所で戦いを仕掛けないよう、神がわれわれを助けてくださいますように。このようにかつては聖なる人々がいて、聖なる生活を送っていたのである。彼らは恐ろしい途方もないものに立ち向かった。預言者たちは王たちに立ち向かって彼らの腐敗を非難しなければならなかった。勇敢に王の顔を見据えて、「あなたは地獄への道を歩んでいる」と告げられる人は、今日なんと少ないことか!預言者たち、神の聖なる人々はそうしたのである。クェーカー教会の創立者であるジョージ・フォックスはそうしたのである。彼らは王の宮殿、会議、教会会議、偽物の宗教の最大の中心地に立ち向かった。彼らが御霊に感じてこのように警告して非難したのだとすると、今日なぜだれもこの奉仕に召されないのか不思議である。
ある聖なる人がダマスコにやって来た時、ユダヤ人たちは彼を殺そうと待ち構えていた。彼がアンテオケにやって来た時、棺がそこで彼を待っていた。彼がルステラで奇跡を少しばかり行った時、人々は彼を礼拝せんばかりだった。人々は「この人は神である」と言ったが、彼が彼らに真理を告げると、人々は石を取り上げて彼を石打ちにした。彼がエルサレムを訪問すると、彼は打たれ、命からがら逃げのびた。そしてローマで首を刎ねられた。彼の最後の言葉は、「われわれに常に勝利を与えてくださる神に感謝する」だった。ああ、私はこのような節を読むのが好きである。他の人々も同じように行って勝利したからには、われわれも征服することができる。しかし、彼らは聖なる人々だった――聖なる心を持ち、聖なる生活を送っていたのである。聖なる人々は決して死なないことを、あなたはご存じだろうか?聖なる人は死んだ後も生き続ける。時として、生きている時よりも死んでいる時の方が良いこともあるほどである。
この昔の預言者たちの一人は死後も大きな力を持っていた。死んで何年もたっており、肉はすべて骨から剥がれ落ちていたが、その墓場に死体が投げ込まれてその骨に触れた瞬間、死体は甦って両足で立ったのである。このように、エリシャの枯れた骨には今日のアメリカのプロテスタント以上の命があったことがわかる。
もし主が遅れるなら、ナップ兄弟の名は徐々にこの運動から落ちて行き、あと数年もすればその名はめったに言及されなくなるだろう。別の名前が人心を捕らえているだろう。しかし、彼が生きた聖なる生活には依然として力があるだろう。そして、数百の人々が徐々に彼のことを聖なる人と思うようになり、彼の神に対する忠誠を彼の在世時以上に評価するようになるだろう。「神の聖なる人々」――このような人々がいてくれて私は本当に嬉しい。彼らは苦しむ者を救い、堕落した者を引き上げ、祝福を受けるすべての人を祝福するために生きているのである。
シカゴのカスタム・ハウス・プレイスやカナル・ストリートを徒歩で通って、そこで見かける貧しい不幸な人々の苦しみを和らげたりその状況を改善するためにこれまでほとんど何もされていないことを思う時、とても奇妙な気分になる。かつては立派だった人が飲み屋にもたれかかっているのを私は見かける。この人はまさに悪魔に何ができるかの見本である。地獄の産物の展示品である。「こんな人々と永遠に付き合わなければならなかったとしたらどうだろう!」と私は言った。神が私を救って聖めてくださって以来、私はこんな社会に反発しているが、このような人々を助け引き上げて自分の足で立たせるという目的を抱いている。聖なる人々は堕落している人を助け、失われている人を回復することを常に喜ぶものである。これは今は困難な働きだが、勇気を出そうではないか。もはや断食しなくなる時、涙を流し、ひたすら祈って、魂を獲得して神に向かわせることがなくなる時が来ようとしている。平和と勝利が宇宙中を治めるようになるのである。
愛する人よ、われわれは「聖なる人々」と呼ばれている。今朝、聖なる人と呼ばれることにもし引け目を感じているなら、あなたはペンテコステを求めて獲得しなければならない。われわれの任務はそれを宣べ伝えることだけでなく、それを得ること、生きること、歩むこと、語ることである。われわれはこのような聖なる慎ましい生活を送らなければならない。それは、われわれの足跡に従うことをわれわれの子供たちが恐れなくてすむようになるためである。あなたの可愛い息子や魅力的な娘に聞かせたくないような会話に耽る権利はない。怒りや不親切、怒って発した不用意な言葉といった、家庭内の罪の言い訳をすることが一般的に行われている。しかし、愛する人よ、あなたや私に期待されているのは、われわれの子供たちが勇敢にわれわれの足跡に倣うような生き方をすることである。会話中にあなたが俗語や不適切な言葉を使うなら、子供たちもそのような言葉を使うようになる。あなたが不親切なら、子供たちもそうなる。あなたが怒るなら、子供たちは怒ることを正当化するようになる。
愛する人よ、われわれは聖なる生活に召されているだけでなく、そのための備えもなされている。主は最初にそのための備えをすることなく、われわれを何かに召されたりはされない。もしわれわれが聖なる生活を送っていないなら、それはその経験をしていないからである。聖潔が客間だけでなく台所や食堂でも実際的なものでないなら、生活が講壇だけでなく農場、家庭、鉄道列車でも実際的なものでないなら、そんなものは無価値である。神に感謝すべきことに、神は聖なる生活に私を召してくださった。聖なる人の模範と、その人が暮らしている地域に及ぼす影響は、常に祝福である。その人の性格がその子供たちに及ぼす影響は永続的である。子供たちに敬虔さの模範を残した方が、農場や株券を残すよりも良い。農場や株券は蓄えるのに一生かかるかもしれないが、子供たちの魂を永遠に地獄に突き落とすおそれがある。敬虔な模範の影響力は決してなくならない。少年たちは時としてこの道からさ迷い出るかもしれないし、少女たちは暫くのあいだ無関心になるかもしれない。しかし私は、「子供をその行くべき道にしたがってしつけよ、そうするなら年をとってもその道を離れない」と述べているこの古い聖書を固守する。敬虔な母親――涙を流して祈る、聡明な愛情深い母親、神と子供たちの前で聖なる生活を送る母親――の涙は決して無駄にならない。彼女が祈りの部屋で過ごす時間は決して無駄にならない。
親たちよ、私はあなたたちを励ましたい。正しく歩み、自分の宗教を生活の中で実行せよ。染みのない、責められるところのない生活を送れ。あなたたちの息子たちや娘たちが家に来ても、実は遠く離れていて罪の中に深く沈んでいるかもしれない。祈り続けよ、泣き続けよ、信じ続けよ。あなたたちの祈りはいつかある晩かなえられて、あなたたちの少年少女たちを連れ戻すだろう。
過去最高の預言者の一人が困っている一人の母親に近づいて、家に中に何があるかと尋ねた。母親は、「はしための家には一つぼの油しかありません」と答えた。しかし、そこにいたのは神の人だった。彼が祈った時、その祈りは御座に届いた。母親は油のつぼを主に渡し、主は母親にその二人の少年を戻された。母親が預言者に「この油をどうしたらいいのでしょう?」と尋ねると、預言者は「売りなさい」と答えた。そこで、母親がそのために祈って油を売ったところ、借金を完済するのに十分な金額が得られただけでなく、それに加えて永続的な供給も得られたのである。
私はあなたたち親たちに、「あなたの家には誰がいるのか?」と問いたい。衣服やこの世を愛していて、あまり聖潔を気にしていない娘がいるかもしれない。しかし、あなたは娘を主にささげて、「娘を救い、聖め、魂を勝ち取る働きに召してください」と主に求めることができる。彼女はインド、アフリカ、あるいは日本に行くことになるだろう。そして、いつの日か、栄誉ではなく黄金の穀物の束を携えて家に戻って来て、あなたの頭に栄光の冠をかぶせてくれるだろう。その冠は永遠に残る。あなたが年老いた時、彼女はあなたの祝福となる。あなたが一つぼの油を神のためにささげたからである。あるいは、息子がいるかもしれない。このように息子を神に明け渡し、全家族を主に明け渡せ。「私と私の家族は主に仕える」と戸口に記せ。最初は反対があるかもしれない。しかし、主人が行く所に全家族も行くものである。神は聖なる生活を送るようわれわれを召された。それはわれわれの子供たちだけでなく、隣人たちの子供たちをも愛するためである。神が望んでおられるのは、われわれの影響力を広めて、かつて経験したことのないさらに大いなる勝利をわれわれに与えることである。われわれの中には言いようのない葛藤や悲しみを抱えている人もいるが、いつの日か失われた者たちは家に帰って来るのである。
悲嘆に暮れている両親からわれわれが受け取った手紙をもしあなたが読めたなら、あるいは、わがままな娘を悲嘆に暮れている母親や悲しみに打ちひしがれている家庭に戻したことによってこの国の数々の家庭に生じた喜びをあなたに伝えることができたなら、あなたは聖なる生活の力をもっとよく理解していただろう。二年以上不在だった娘が救いと聖めを受けて戻って来る時、打ちひしがれていた家庭の暖炉の周りに湧き起こる喜びを想像してみよ。母親は言う、「二年以上、泣いて祈り、あなたの帰りを待ち侘びてきたのよ。昼間は毎時間祈り、夜遅くまで寝ないで待っていたのよ」。自分の道を突き進んでスラムまで落ちぶれた子供に注ぐ母親の祝福を聞いて欲しい。この祝福がわがままな子供を救ったのである。数人の母親たちが「自分たちの一人娘のために祈って探してほしい」と言ってくる。われわれが祈ると、神が導いてくださる。その娘は見つかり、悲嘆に暮れている母親のもとに戻される。母と娘が抱き締め合って家族の祈りをする光景を目撃できたなら、あなたの心は感動していただろう。親たちよ、あなたの心痛、眠れずに過ごした時間、神を待ち望んで過ごした長い期間に、神は報いてくださる。
かつては聖なる人々がいたと、この御言葉は述べている。神に感謝すべきことに、今日も聖なる人々がいる。兄弟よ、生きているかぎり、聖潔に反対してあえて声を上げようとしてはならない。神はあなたに警告するために私を遣わされた。そんなことをすれば、あなたの人生が破綻するだけでなく他の人々の人生も破綻するかもしれない。今朝、あなたに警告したい。神は少数の聖なる人々を持っておられる。あなたは「主に油注がれた者たちに触れ」てはならない。批判してはならない。揚げ足取りをしてはならない。自分の子供たちの前で当てこすることすらしてはならない。この経験を受けてこれを日々の歩みの中で実践しないなら、裁きのとき、あなたの愛する者たちがあなたと会って、あなたの失敗のせいで永遠に焼かれるかもしれない。自分が宣べ伝えていることを実践しようではないか。真の危険に気づかずに眠っている魂を目覚めさせようではないか。
私が話しているこの聴衆の中には全く救われていない人が三百人以上いる。神があなたたちを助けてくださいますように。あなたの子供たちの運命があなたの言葉と生活にかかっている。聖なる生活に裏付けられた聖なる証しは、地獄の全軍勢といえども打ち破れない。神はヨブに、あなたは「完全な」人であって、いかなる苦しみの下でも「罪を犯さなかった」と仰せられた。
兄弟姉妹よ、たとえこのメッセージを忘れたとしても、この御言葉を覚えておいてほしい。私のことはすぐに忘れてもかまわないが、永遠にこの御言葉を覚えておいてもらいたい。あなたは聖なる男女になることができる。神はあなたに聖霊を与えて、あなたを神聖な秩序の中に保つことができる。いつの日か、聖潔の教師と巡り会ったことを、あなたは神に感謝するだろう。私の場合がそうである。当時はわからなかったが、今ではわかっている。われわれの町に聖潔の教師がやって来たのは、望まれていたからというよりは、むしろ必要とされていたからなのである。というのは、当時の諸教会は現在の諸教会と同じように考えていて、その多くは真理を拒絶していたからである。しかし、その教師は困難を忍び、反対の中を突き進んで、そのメッセージを私の魂に届けてくれた。天の山々で彼に会う時、信実な福音の忠実な宣べ伝えのゆえに私は彼に感謝するだろう。さて、愛する人よ、この祝福が欲しければ、祭壇に来てそれを得よ。二、三人の働き人があなたの耳にささやいてあなたを混乱させ、あなたが祈れなくならないように私は見守るつもりである。これはあなたが神の御許に行く絶好の機会となるだろう。今朝、御許に行きたくないだろうか?神はあなたを救い、聖め、あなたに聖なる生活を送らせることを待っておられる。主を賛美せよ!