第十二章 復活

セス・C・リース

「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために香料を持って来た。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『誰が、わたしたちのために、墓の入口から石を転がしてくれるのでしょうか?』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は転がしてあるのが見えた。この石は非常に大きかった。」(マルコ十六・一~四)

十字架に付き添った敬虔で愛に満ちた婦人たちの群れが、墓に急いでいた。いま読んだ御言葉は彼らがヨセフの新しい墓に向かっていた時に話した言葉の一部である。彼らは信仰心と愛情に促されて、主のために最後の奉仕、最上の奉仕をしようとしていた。諸々の困難があることを、彼らはほとんど忘れていたように思われる。おそらく、墓に近づくまでそれらの問題を忘れていたのだろう。そこで、彼らは「誰が、わたしたちのために、石を転がしてくれるのでしょうか?」と話し合った。「この石は非常に大きかった」。この聖なる婦人たちの道には、克服できそうにない三つの問題があった。彼女たちの困難は、少なくとも、われわれの道に舞い込んでわれわれの行路を邪魔する困難を見事に描写している。

第一に、石があり、その石は非常に大きかった。

第二に、ヘブル語の封印がしてあった。誰があえてそれを破るだろうか?

第三に、ローマの警備兵がそこにいた。婦人たちが愛の奉仕をするには、まずこの三者を征服しなければならなかった。

どのクリスチャン生活にも、これらに相当する困難がある。この石は動かないが邪魔だった。そして、このように延々と続く緊張の中を通ったか弱い疲れ切った婦人たちには重すぎた。この石はわれわれの道を邪魔する不動の障害物――乗り越えられそうにないが、われわれを攻撃するものではない障害物――を見事に表している。これらの障害物は丸太や重りのようであり、不動の乗り越えられないものとしてわれわれの道に横たわっている。それは何年も変わらずに続いている状況かもしれない。われわれの道の上を覆って、決して離れ去るようには思われない黒雲のようにたれこめている苦難かもしれない。真のクリスチャンたらんとする人はみな、何らかの大きな困難、恐ろしい状況に遭遇する。そのような困難や状況は克服するのが無理なように思われるが、墓の入口から石をどけることを神は保証して下さった。だから、われわれの石のような困難は取り除いてもらえるのである。この大きな石が取り除かれた事実は確実であり、証拠である。これは信じるすべての人に次のような理解を与えてくれる。すなわち、われわれの困難がどれほど大きく、重く、長引いたとしても、どれほど執拗なものに思われたとしても、復活したキリストが触れるとき退かなければならないのである。今朝、困難に妨げられている人々を助けることを私は願っている。反対、あなたの道に横たわっている山々、制する力のない状況に屈している人々を助けることを私は願っている。神に感謝すべきことに、この石の巨大さこそ、神が問題を御手の中に収めて下さると期待すべき十分な理由なのである。困難の大きさこそ、その問題を自分でどうにかしようとしてはならない十分な理由なのである。たいていの人は大きな困難の中にある時だけ、助けを求めて神のもとに駆けつける。小さな問題は自分で何とかしようとするのである。

あるクリスチャンの商売人が、郊外にある自分の家が火事だという電話を受けた。彼は現場に駆けつけたが、家は灰になっていた。保険期間は先週終わっていたが、家族は無事だった。彼は小さな家族を自分の周りに集めて神のもとに駆けつけ、自分の魂を神に注ぎだした。彼は落ち込んだが、神は彼を慰め、このような困難な時に彼を支えられた。しかしこの同じ人が、十時間分の給料で十二時間働いてきた疲れ切った事務員が朝に十分遅れてやって来ると、激怒して天に対して罪を犯すのである。この人はこのような小さな問題を処理できるようには思えない。小さな問題では、支えて下さる神に信頼しないのである。

手に負えない困難を私は時々うれしく思う。大きな石のような困難を私は時々喜ぶ。なぜなら、大きな石や大きな必要があるとき、われわれは偉大なキリストを見いださざるをえないからである。われわれの困難が人の手に負えないとき、われわれは決してしくじることのない方に求める。どれほど大きくても石は転げ去る。その石の巨大さのおかげで、偉大な神が御力を示す絶好の機会となるのである。あなたのクリスチャン経験全体に渡って、あなたはこの真理を覚えておかなければならない。大きな石、われわれには処理できない不動のしつこい困難を、主に処理してもらう術を聖徒たちが知っていれば。じっとしていて神の救いを見る術を知っていれば。

次の困難はヘブル語の封印であった。これは権威の封印、法律の封印であった。この封印を破ることは権威を退けることであり、法律を拒否することであった。クリスチャンの諸々の特権が公民法の干渉を受けることは近頃ではあまり一般的ではないが、自然法則の支配を受けている事柄に出くわすことは頻繁にある。そうした事柄はとても厳しいものに思われるため、神無しではくぐり抜けられない。権威の封印に対しては、イエス・キリストの復活で十分である。法律に対しては、それで十分である。自然法則を差し止めるには、それで十分である。そのおかげで、われわれは神の御旨を知ることができ、神がわれわれのために備えて下さっている最上のものを知ることができる。時計職人が時計の動かし方だけでなく止め方も知っているように、時針を逆回転させる方法を知っているように、神はアハブの日時計の影を十五度戻す方法をご存じである。神は自然法則をすべて差し止めて超自然現象を引き起こし、あらゆる障害にもかかわらず解放する方法をご存じである。ボストンの優秀な医学当局が、「あなたの愛する人は、人の技術や助けの及ばない状態にあります」「人の法律や力では回復の見込みはありません」と私に告げた時、復活したキリストが介入して、奇跡を行うのに十分なほど長く自然法則を差し止めて下さった。そして、その病人はベッドから起き上がって、何か食べる物を求めたのである。神がなさるどの奇跡でも、神は自然法則を差し止めて御力を現される。イエスが臨まない限り誰も何も出来ない歴史的事例で聖書は満ちている。主が来て下さらなければ、何事も起きえなかった。だが、主が来て下さった時、重力の法則は無にすぎなかった。因果律は無にすぎなかった。いかなる自然法則が道に立ちふさがったとしても関係なかった。すべての法則の創造者が「退け」と仰せられると、御業が成就されたのである。神に栄光あれ!神はしばしば諸々の法則を逆転させて、無に帰さなければならない。神の御子の復活こそ、われわれが将来すべての敵を超越する保証である。

ペテロは牢屋の中にいた。法令が発せられ、判決が下された。彼は翌日処刑されることになっていた。「しかし、教会は彼のために神に祈り続けた」。この「しかし」の背後には、ヘロデの軍隊よりも強力なものが控えていた。そして、この祈りがかなえられた時、ひとりの御使いが下って来て牢屋の中に立った。天の光がその暗い地下牢全体に満ちた。ペテロが自分の足で立ち上がると、鎖が彼の手足から落ちて、彼は御使いに伴われてその牢屋から歩いて出て行った。一番目と二番目の壁は薄い空気のようになり、彼は扉を開けないで通り抜けた。そして、彼が外の門のところに来た時、その扉はとても重くて、解錠したあと開くのに二十人必要なほどだったのに、自動的に開いた。ペテロは自由の身になり、一週間もしないうちにヘロデは腐乱死体になった。ああ、愛する人よ、われわれのキリストには、大きすぎる問題は何もない。ダリウスですら、ライオンの巣に行くことをダニエルに免れさせる法令を見つけられなかった。免れさせる法令が見つかれば喜んでいただろうが、一つも見つからなかった。そのヘブル語の封印の著者は「あなたは中にいなければならない」と言うが、あらゆる法則の創造者は「あなたは出て行かなければならない」と仰せられる。神が自然法則を征服されるときはじめて、人は燃えてもやけどしなくなる。油の中で茹でられても、前より具合が良くなる。これによってはじめて、毒蛇が腕に絡みついても振り落として、ローマに行けるようになる。この力はわれわれをあらゆる人間的権威よりも高く引き上げる。そして、われわれが「勝利者の足取りで前進」することや、「神は海を巻き去って下さる」と信頼することを可能にする。神を知っていれば。その偉大さを知っていれば。そうすればきっと、自分のちっぽけな困難や試練を誇張するのをやめていただろう。部屋の側面に顔を向けて子供のようにすすり泣くのをやめていただろう。カベナンターの歴史は、彼らが敵に追われていた時のことをわれわれに告げる。彼らがまさに攻撃を受けようとしていたその時、彼らは山にいたが、霧がその小さな群れを覆って敵から隠してくれたので、渓谷や洞穴に逃れて隠れることができたのである。

ジョン・ペイトンは、自然法則が差し止められ、見通しが覆され、計画が変更され時のことを、何度も何度もわれわれに告げる。それにより、想像しうる最悪の状況に直面している時でも、勝利が彼に臨んだのである。ああ、神に栄光あれ!

祈りと涙と神への奉仕のおかげで、今この時ある法則やある規則が差し止められていて、われわれは諸々の特権を大いに享受できているのかもしれない。そうでないと誰が言えるだろう?あなたの全生涯を通して、乗り越えられそうにない困難に遭うだろう。自然法則があなたの道をふさいでいるせいで、勝利を得るには奇跡が必要な困難に遭うだろう。神に感謝すべきことに、復活したキリストは奇跡を行うことができる。ヘブル語の封印を破ることができ、地と地獄が押した権威の証印をすべて破ることができる。

さらに、第三の困難はたくましいローマの警備兵だった。これはわれわれを攻撃する活動的な力、生ける軍勢を示しているのかもしれない。歯を軋らせて、しかめっ面をした、大声でわめき散らしながらわれわれに屈服を要求したり先に進むことを禁じたりする、われわれを攻撃する物事や人々を示しているのかもしれない。神に感謝すべきことに、生ける活動的な力からも解放してもらえるのである!それが人の姿や地獄から来た黒い翼の悪魔の姿をしていたとしても、神に感謝すべきことに、解放してもらえるのである。われわれが大胆な立場を取る度に、あるいは、さらに高い立場にしっかりと立つ度に、大気は敵対的雰囲気に満たされ、下の領域から来た生ける敵どもの軍隊がわれわれの前進を阻もうとする。これを知らない者が誰かいるだろうか?敵はわれわれに「止まれ」と要求するが、復活したキリストを知る者は悪鬼どもの連隊をまっすぐ見据えることができる。復活した主の鼓動が一回脈打って、あなたの血管内を駆け巡るだけで、たくましいローマの警備兵を麻痺させて、あなたが勝利を叫んでいる間、倒れ伏せさせるのに十分である。だから、われわれはヘブル語の封印を恐れないのと同じように、もはや悪魔どもの連隊を恐れない。たとえどんな敵でも、行き巡って全集団を清め、われわれに勝利を与えて下さるキリストをわれわれは持っているのである。

兄弟よ、あなたはこれを実行しているだろうか?これはあなたの日常生活の現実だろうか?地の軍勢や地獄の軍団があなたを攻撃することに合意したかのように思われる時、あなたは勝利しているだろうか?復活したキリストは敵を倒して、あの朝眠りこけていたローマの警備兵のように意識不明にする力を持っておられる。神のキリストの神聖な接触により、ローマの警備兵は倒れ伏して、その間に御使いは石を転がした。愛する人よ、自分と困難の間にキリストを置き続ける十分な知恵がわれわれにあるなら、キリストに信頼して、キリストに責任を負ってもらう十分な分別がわれわれにあるなら、キリストの接触はわれわれのすべての必要に応じて、われわれのすべての敵を打ち負かすことがわかるだろう。

この教訓から、石は婦人たちに敵対していただけでなく、キリストにも敵対していたことがわかる。キリストは石の反対側におられた。キリストは外に出なければならならず、婦人たちは中に入らなければならなかった。われわれに敵対しているものはみな、キリストに敵対しているのである。われわれの敵はみな、キリストの敵なのである。われわれの敵はキリストの敵であり、キリストは敵の扱い方をご存じである。だから、われわれの敵をキリストの敵としてキリストに対処してもらうなら、われわれは問題をただキリストに委ねて、始終勝利を叫ぶことができる。われわれに敵対しているかのように思われる物事、キリストに敵対しているかのように思われる物事があるが、実際本当のところ、キリストに逆らえるものは何もない。キリストがわれわれの味方である以上、誰がわれわれに敵対しえよう?ああ、私は誰かを助けることを願っている。ああ、神の御力に関する新たな幻、復活したキリストに関する新たな幻を見ることができますように。そして、地と地獄が動員しうるあらゆる敵よりもキリストは遥かに力強いことを理解できますように。これが私の避け所である。もし隠れられなければ、何度も私は倒れていただろう。これが私の希望であり、私の勝利である。私はすべてを征服するキリストに目をとめ続ける。敵は私を倒す前にキリストを倒さなければならない。敵はキリストの御前に出る時、常に麻痺してしまうのである。

この教訓で次のことに注意せよ。この敬虔な姉妹たちは、墓に向かう途上、数々の困難があることを思い出したが、それでも引き返さなかった。あなたたちの多くは、「これ以上先に行っても無駄です。マリヤ、あの石がどれほど大きかったか覚えていないのですか?」と言っただろう。われわれの大部分は引き返しただろう。しかし、姉妹たちは石や、封印や、ローマの警備兵のことを思い出したにもかかわらず、その心はキリストに対する信仰と、愛と、忠誠で燃えていた。そして、彼らが急いで墓に向かったところ、石が転がしてあるのが見えたのである。われわれの場合も、こういうことが何回あったことか。われわれは遠くにある困難を思い、渡るべき橋を思った。前方を見て、道に獅子がいると想像した。自分の道に大きな石が横たわっているのを見た。決して割れないゴムの木の丸太を見た。克服できそうにない状況があった。しかし、その場所に来て見ると、それはなくなっていたのである。諸君、あなたが歩き続けるなら、忠実であるなら、石があった丘の上に着く時、その石が転がされているのを目にするだろう。

神は常に忠実に丁度よい時に来て下さるというこの学課の教訓に注目せよ。早すぎず遅すぎず――丁度よい時である。石はかなり前に転がされたわけではない。御使いがまだそこに座っていたからである。サタンは何と多くの時、「今、この問題がお前にのしかかっており、時は短い。それなのに、解放の兆しは見えない。主はお前の期待を裏切るだろう」と言うことか。悪魔は言う、「主が過去にお前の期待を裏切ったことがないのは分かっている。だが、これは別だ。これは緊急事態だ。今すぐ何かが起きなければならないのに、お前が見ているように、主はおられないのだ」。ああ、これは悪魔の囁きである。神は常に丁度よい時に来て下さる。多くの時、信仰は石に向かって歩み寄らなければならない。神は一時も時間を無駄にされない。丁度よい瞬間に来て、われわれを解放して下さる。丁度よい時に、素晴らしい御力と恵みを示して下さる。

モーセは、まさに絶体絶命に思われる状況に民を導かなければならなかった。出口は無かった。山々が両脇にあり、押し迫る敵が背後にいた。そして、彼らの前には海が広がっていた。望みはないように見えたが、神は丁度よい時に来て下さったのである。

ヨシュアの試練はさらに厳しかった。何も起きていないのに、祭司たちに命じて水の中に立たせなければならなかった。神は決してしくじることがない。信仰が試される時にあなたが忠実なら、勝利が必ず訪れる。

石をどけるのに婦人たちは触れる必要がなかったことに注目せよ。努力や剣を抜くことは不要だった。諸君、神がわれわれに望んでおられないことがあるのをご存じだろうか?そうである以上、われわれは完全な沈黙の姿勢を取るとき最も強いのである。パウロは言う、「私は弱いときに強い」と。われわれが完全にじっとしていて、神がなさることを見ている時、最大の勝利が訪れる。「あなたたちはこの戦いを戦ってはならない」。これが意味するのは、あなたは雄羊の角や牧者の投石器を手にして進み出てはならない、ということではない。ただじっと立っていて聖なる歌を歌わなければならないこともある、ということである。成し得る最善のことは何もしないことであることもあるだろう。悪魔があなたをせかしてあなたに多くのこと、軽はずみで理不尽なことを行わせようとすることもあるだろう。しかし、神が事を明らかにして下さるまで、あなたはじっと立っていなければならない。

さらに、これは天の使者による解放だった。この使者は「私の困難は私の王座である」と言わんばかりに石の上に座していた。神に感謝すべきことに、天の使者たちがこの地上に来て下さるのである。聖書の数箇所では、彼らはこの地上に生きているように描写されている。イエスは「彼らは上り下りする」と言われた。すでに彼らがこの地上にいると言わんばかりである。まず地に下らなければ、どうして上ることができよう?御使いたちは「仕える霊であって、救いの相続人に仕えるために遣わされ」ているのである。いかなる困難にもかかわらず、彼らは今日われわれの周りにいる。「主の御使いたちは主を畏れる者の周りに陣を張る」。

確かに、あの安息日の朝、ローマの警備兵以外に他の軍隊がそこにいたのである。その軍隊は、十七万五千人の敵がたった一日のうちに倒れた時にエリシャが見たものだった。この軍隊は列を組んでわれわれを取り囲んでおり、われわれの振る舞いを見つめている。そして、われわれが助けを必要とする時はいつでも、われわれを助けて守るために遣わされる。間一髪逃れた経験を思い返せないクリスチャンがいるだろうか?何らかの恐ろしい事故で死ななかった理由の説明がつかない状況を思い返せないクリスチャンがいるだろうか?あなたがまさに滅びの淵に立っていた時、神の御使いが丁度よい時に来て、あなたの世話をしてくれたのである。われわれのどれほど多くの者が過去を振り返ってそのような時のことを思い出せることか。罪人だったときでさえ、そうである。なぜ地獄に落ちなかったのかわからないほどである。罪人だった時でさえ、神は聖なる御使いにわれわれを守らせて下さった。われわれが説教している間に、もしこの聴衆の中の罪人から神の保護が取り去られるなら、彼らはたちまち地獄に落ちるだろう。一人の人がどれほど多くのことを乗り越えて生き残るのか、あなたはこれまで注意したことがあるだろうか?そうしたことの一つがその人を殺してしまう、とあなたは思ったのだが、何物もその人を殺せないようである。しかし最終的に、ある日、小さな出来事が起きる。その出来事は全く大したことではなく、その人が過去に何度もくぐり抜けて来たものである。だが、その出来事でその人は死んでしまうのである。ああ、かつては神がその人を守り保護していたのである。その人の不法の杯はまだ一杯ではなかった。しかし、御使いたちが退く時がやって来て、その人は死んだのである。人が死の境界を越える時、命の糸を断ち切ってその人を地獄に送るのは雑作もないことである。その人が主に立ち返る望みはもはやない。ああ、われわれは将来起きること、まさに自分に臨もうとしていることをほとんど知らない。しかし、御使いたちの群れが聖徒たちと共にいる。また、一時の間、差し止めて保護するある力が罪人たちを覆っている。そのことのゆえに罪人たちは立ち止まって神に感謝すべきである。地上でわれわれと共に旅するよう遣わされている御使いの群れに感謝できるよう、神がわれわれを助けて下さいますように。私は時々、御使いたちの翼を感じられそうなことがある。極めて厳しい試練を通っている時に、そう感じることがある。まるで地獄がわれわれに向かって吠え猛っているように思われるのだが、主の御使いたちはわれわれの額を扇いでくれる。そして、われわれを幸いにしてくれるものが世の中に何もない時でも、われわれは言いようのないほど幸せになる。あなたが神を得る時、聖霊とペンテコステを得る時、あなたは上なる天に結ばれ、御使いたちはあなたの世話をすることを保証してくれる。神に感謝すべきことに、われわれのキリストは石を転がすだけでなく、われわれを引き上げて諸々の困難を乗り越えさせることができるのである。

「石が転がされたのは、イエスがよみがえれるようになるためだった」と述べる聖書的根拠は何もない。というのは、復活後、彼は閉じた扉を通り抜けて出入りされたからである。そうできたからには、彼は石を通り抜けることもできたにちがいない。また、別の点にも気がつく。彼がマリヤに現れた時、彼が来たのは墓からではなく園からだった。園で散歩しておられたのである。考えられる可能性は、彼は御使いがそこに着くかなり前に起き上がって、朝の空気の中を歩いておられたということである。これから、諸々の状況を道から取り除く必要はないことがわかる。われわれのキリストは諸々の状況の中を進んで行くことができる。石を転がしてもらうのは素晴らしいことだが、御使いが来る前に起き上がって立ち去るのはいっそう素晴らしいことだと私は思う。イエス・キリストがヨセフの新しい墓の中に入って行かれた時、その目的は墓の反対側をノックして出て行くことであった。私は信じる。彼は別の道から出て行かれたのであり、その復活によりすべての墓を打ち破って、すべての聖徒の復活を保証して下さったのである。

全く聖められた人が生きているのは、墓のこちら側の暗い死の側ではなく、復活の側である。宗教には暗い面があることを私は承知している。陰鬱な暗い北側がある。しかし、明るい面、熱帯の面もあることを私は知っている。そこでは花は咲き、鳥は歌い、永遠の栄光の陽光を浴びることができる。ああ、教会がこれを知っていれば――命の復活の面を知っていれば。ほとんどすべての人が宗教の北側に座している。彼らは凍えており、その手は冷たく、歯をガタガタ鳴らしている。ああ、彼らが南側に辿り着けていれば。諸君はご存じだろうか?復活の事実は、その上で救いの計画全体が転回する蝶番なのである。あなたはご存じだろうか?キリストがよみがえったように、われわれもよみがえるのである。また、われわれを倒れ続けさせておける悪魔どもはいないのである。あなたはご存じだろうか?キリストが早朝に起きたように、聖められた聖徒は他の人々より千年早く起きるようになるのである。われわれは朝の空気の中を出歩くだろう。かぐわしい芳香、大気を満たす音楽、早朝のうっとりさせるような声を、われわれは目撃するだろう。そして、他の人々が墓から出て来る千年前に、われわれは歩き、歌い、神を賛美するのである。私は今、その芳香をかげそうなほどである。何と元気づけてくれることか!これは人の魂に電気と生命原理を送って飛び跳ねさせる。神に栄光あれ!

まったく聖められるとき、あなたは御使いが着く前に起きるようになる。そのラッパの音はそれまで聞いた最も甘美なものになると思う。そのラッパは、キリストにある死者の国民に起きて、栄光のうちに下って来られる主に会うよう召す。そのラッパは、生きている聖徒たちに死すべき運命を払い落として、一瞬のうちに携え挙げられ、小羊の婚宴に行くよう召す。これが諸々の時代の頂点になる。これは大いなる日であり、他の日はみなこの日を指し示している。私はそこに行くのである!

「すると、石は転がっていた」。あなたはこの祝福を望むだろうか!主は石を転がし、封印を破り、警備兵に語られる。あなたもこの祝福を得られることを私が知っていなければ、このようにあなたに宣べ伝えるのは酷なことだっただろう。私はあなたを大いに愛しているので、あなたに得られないものであなたをじらしたりしない。これは確かなことである。あなたがこの諸々の条件を満たすなら、神はヘブル語の封印をすべて破り、石をすべて転がし、警備兵をすべて麻痺させて下さる。そして、この復活の命はあなたを通して流れ、あなたを巨人にする。「主にあって、その大能の力によって強くなりなさい」。