第十三章 神が要求される完全

セス・C・リース

「私は、私の主であるキリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべてのことを損と思っている。キリストのゆえに、私はすべてのものを失ったが、それらのものを糞土のように思っている。それは、私がキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに見いだされるようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死に同形化され、なんとかして死者の中からの復活に達したいのである。私はすでにそれに達したとか、すでに完全になっているというのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。兄弟たちよ、私はすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事に励んでいる。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにあって上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、私たちの中で完全な人たちは、そのように考えようではないか。しかし、なんであれあなたたちが違った考えを持っているなら、神はそのことも示してくださるであろう。」(ピリピ三・八~十五)

この「完全」という言葉は、それが救いに関して用いられる時、大きな誤解を生んでいる。そのせいでわれわれは、新約聖書の教えの系譜や、クリスチャンの完全の何たるかについての新約の思想を、何度も何度も繰り返さざるを得ない。

いま読んだこの教えでは、「完全」という言葉が二回用いられていることがわかる。

第一に、将来達すべき完全、死者の中からの復活――第一の復活――まで保留されている完全である。

第二に、得ていることを使徒が告白している完全である。使徒はこの祝福を受けている人々に宛てて、「完全な人たちは、そのように考えようではないか」と述べている。

人々は宗教以外のことならどんなことでも勤勉に完全を追い求める。農業、科学、芸術、発明――事実、救い以外のあらゆること――で完全に達しようと懸命である。束の間の物質的なものや滅びるものにこの言葉を適用することをためらわない。完全な日、完全な機械、完全な一致、完全な紳士、完全な花について話す。事実、ほとんどあらゆる場所でこの言葉を耳にするのだが、われわれの神の偉大な福音については別である。この場合、完全について話すと、人々は恐れてお手上げになり、「それは行き過ぎだ」と言うのである。使徒がここで述べている完全は絶対的な完全、神の完全ではないことを、すべての人が理解しているし、特に神学をかじったことのある人なら理解している(あなたが神学に触れることを恐れないよう私は希望する)。なぜなら、われわれは完全にされた後、地上だけでなく死後も成長し続け、その成長には終わりがないからである。しかし、われわれが神の完全に近づく地点に達することは決してないし、われわれが神々になることを約束している御言葉もどこにもない。われわれは注意深く自分のいるべき場所にとどまりたい。だから、われわれはその観点から完全について述べているのではない。われわれに要求されているもの、われわれが待つべき完全があるということなのである。神がわれわれに望んでおられるものをわれわれは賢く理解できる、と私は信じている。ここで使徒が述べている完全は、創造ではなく贖いに由来する。あなたや私が今持っているものや将来持つもの、また成るものはみな、贖いを通して与えられる。われわれの始祖は創造による完全さを持っていたが失ってしまった。この失われた地所を再び獲得することはできなかった。それは失われた――決定的に失われたのである。われわれが今持っているものや将来持つものはみな、イエス・キリストを通して与えられる。そして、この午後われわれにとって最も身近で大切なものはみな、十字架の周りにある。そこから一歩たりともさ迷い去ってはならない。イエス・キリストの十字架を後にするような所は、地上にも天にもどこにもない。われわれが永遠にわたって享受することになる諸々の特権は、血潮によって買い取られたものである。時が流れて行っても、われわれは代々にわたって血潮を歌うだろう。ほふられた小羊、流された血潮、われわれを贖うために自発的に命をささげてくださったキリストが、永遠にわれわれの話題である。御名に栄光あれ!

この完全は創造に由来する完全ではない以上、それはわれわれの体や知性の完全を意味しえない。私は確信しているが、特にこの点で神の救いを誤解した結果、深刻な誤謬が生じ、時として難破してしまうのである。完全な頭脳を持つよう要求・約束している御言葉はどこにもない。「間違いを犯さなくなるよう救われなければならない」という考えが近頃流行っている。これは真実ではない。これは知性の完全ではなく霊の完全である。聖書が教えている唯一の完全は、全く聖められて完全な愛に満たされる時に生じる心の完全である。ジョン・ウェスレーが「完全な愛の経験、すなわち全き聖めに付け加えうるのは、さらなる愛である」と述べた時、彼は正しかったのである。聖霊の賜物は常に再生に続くものであり、常に回心後のことであって、同一のものではない。聖霊を受ける時、われわれは罪から解放されて完全な愛に満たされた心を受ける。聖霊が入って来られる時、聖霊はわれわれの心を完全にしてくださる。聖霊はわれわれの頭脳を大いに助けて、間違った考えや偽りの教えを正し、多くの事で間違いを犯さないよう保ってくださる。また、以前は神秘的で理解が困難に思われたことをはっきりと理解できるようにしてくださる。とはいうものの、聖霊はわれわれに完全な頭脳を与えてくださるわけではないし、なんの間違いも犯さなくなるほどわれわれを整えてくださるわけでもない。

悪魔は兄弟たちを訴える者である。悪魔がなによりも願っているのは、なんの問題もないのにわれわれに自分自身を責めさせることである。また、なんの証拠もないのに他の人々を責めさせることである。われわれの心から罪が取り除かれるとき、われわれの同意無く罪が舞い戻って来ることはありえない。罪が追放された後、燃える剣がエデンの門を守ったように、われわれが内住の罪から清められた後、聖霊が門で警護し続けてくださるので、意志の同意なく罪が人の魂の中に再び入ることは決してできないのである。

無意識に知らぬまに罪に落ち込むこともありうる、と思っている人々もいるようである。そんなことは全くない。救われたあと一度でも罪に落ち込むなら、自分自身の選択で落ち込んだのであり、わざとその中に入り込んだのである。無知は罪ではない。神の御旨はわれわれに完全な心を与えることだけでなく、われわれを保護し、保持して、ご自身に忠実な者に保つことである。生まれて数週間の子供が怒りの仕草を見せて、母親を打ったとする。その子に知識があれば、それは罪だっただろう。しかし、知識のないところに律法はなく、罪はありえない。血潮がすべての過ちを弁護してくれる。責任を担える年になるまで、血潮が子供のための宥めとなってくれる。その時まで、たとえ肉的な性質に満ちていたとしても、子供は咎を免れるのである。

過ちは罪ではない。故意でない過ちにすぎないものを罪と告白するのは、あなたの経験を損ない、あなたの影響力を弱めることである。罪は神の律法を意図的に破ることである。人が罪を犯すとき、それが罪であることがその人にはわかる。自分が罪を犯したことを聖霊が知らせてくれなければ、たとえだれが私を罪に定めたとしても、私は決してそれを信じないだろう。それに関する人々の話を私は受け入れられないだろう。なにかが間違っている時、聖霊はそれを私に知らせてくれる。人を統べる王は意志である。人は自分の意志にしたがって動く。だれでも御旨を行うことを願う者はその教えについて知るようになる、と神は仰せられる。だから、私が御旨を行うことを願っている以上、神は咎や罪の結果から私を守ってくださっているのである。だから、自分を責めることや他人を責めることに注意深くなると、私は信じている。「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、私たちは互いに交わりを持ち、御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちを清めます」。

神の律法を故意に破らないかぎり、暗闇、真の霊的暗闇はない。状況や摂理による暗闇はあるかもしれないし、人間的観点ではお先真っ暗かもしれないが、常に頭上は開いている。他になにも見えなくても、上を見上げることはできるのである。

神の使者を主の御使いと思った時、ヨハネの判断は誤っていた。また、ひれ伏して神の使者を礼拝した時、彼は再び間違いを犯して誤った行いをした。使者は、「いいえ、そうしてはなりません。私は主の僕のひとりです。それだけです」と言った。

次に、われわれの宝は土の器の中にある事実をわれわれは悟らなければならない。「主がわれわれに語ってくださっている」とか、「主がわれわれを導いてくださっている」という強烈な思い込みに気をつけるのは悪い考えであるとは、私は信じない。「主が私にこれを語られました」「主が私にこれをするよう仰せられました」「夜、主が私に語られる夢を見ました」という言葉を、われわれはたびたび耳にする。さて、人々に語りかけるのは主ひとりだけではない。聖霊はわれわれを導いておられる。それは確かである。しかし、聖霊の導きは三重であり、常に声によるとは限らない。摂理、書き記された御言葉、霊的直感やわれわれの思いに臨む印象――まるで耳に聞こえる声のように鮮明なこともある――によることもある。しかしわれわれは、霊を試すよう命じられているように、声も試さなければならない。なぜなら、サタンの語りかけも度々あるからである。サタンは腹話術師であり、まるで自分があなたの存在の中心にいるかのように声を発することができる。そして、それを主の語りかけのようにあなたに思わせようとする。イエスの足下にひれ伏して、書き記された御言葉によってすべての霊、すべての声を試そうではないか。聖書をでたらめに開くことや、まるで宝くじのような他の方法で、声を聞くことができると主張する人々もいる。そのような方法を主は用いられない、とは言わないが、そういった方法が信頼できるものとは限らないことは確かである。こうした方法や他の方法によって深刻な過ちに陥った人もいるのである。

ギデオンが羊の毛皮を広げて、「羊の皮は湿っていて、その周りの地面は乾いているようにしてください」と求めるのは一向にかまわなかった。彼が羊の毛皮を二度目に広げて、「羊の皮は乾いていて、その周りの地面は湿っているようにしてください」と求めた理由もわかる気がする。しかし、われわれは今全く別の経綸の中におり、主は御言葉、摂理、御霊によって語られるのであって、しるしによって語られることはそれほど多くないのである。

「自分のメッセージは神の権威に由来するという思い込みに注意せよ、むしろメッセージをしてその証拠たらしめよ」という昔のクエーカーの条項――私はその下で育てられたのである――は悪いものではなかった。もしあることが神聖なら、その正しさは自ずと明らかになる。人々が自分のメッセージを生み出す前にそれに値札を貼るのを私は時々見てきた。しかし、生み出されたメッセージに値札分の価値はなかったのである。聖霊はわれわれの益をことごとく心に留めていてくださる。そして、御旨を見いだす時間をわれわれに与えてくださる。慌てて奇妙な声を追いかける必要はない。最上のきわめて堅固な確信は、一人っきりで御前に退いている時に形成される。たいてい、だれかにせっつかれているように感じる場合、それは悪魔であり、少なくとも疑いのまなざしで見るべきである。主はとても親切で優しい方なので、ある事柄についてあなたになんらかの疑問がある場合、それを考慮して試す時間を与えてくださる。天から発した確信を得て、それについては決着済みであると感じるようになるまで、保留する時間を与えてくださるのである。

また、これは奉仕の完全さではないことも言いたい。聖霊によって支配されている、完全な愛に満たされた完全な心と、完全な奉仕との間には大きな違いがある。今生でわれわれが完全な奉仕をすることは決してない。完全な奉仕と、完全な心で主に奉仕することとの間には大きな違いがあるのである。

私が牧師で、私の小さな子が四歳か五歳だった時のことを思い出す。私は子供を道に送り出して、五つの別々の商品を買い求めさせた。子供は買い物に行けることを喜んだ。少しして、子供は喜びに満ちて戻ってきたのだが、包みが四つしかないのに気づいて大いに悲しんだ。子供の奉仕は完全ではなかったが、確かに完全な心で奉仕してくれたのである。これは私にとって、子供が残りの品も買ってきてくれたのと同じくらい嬉しかった。だから、私は子供にキスして胸に抱きしめ、ほめたのである。

主はわれわれを何度もこのように扱ってくださった。われわれは完全な心で完全な奉仕を始めようとするし、「自分は完璧にやれる」と思うのだが、帰って来て包みを下ろしてみると、一つ足りないことに気づくのである。すると、主はわれわれを抱き上げて抱擁し、まるですべてを見事にやり遂げたかのような気分にさせてくれるのである。完全な心で奉仕するかぎり、主は奉仕の分量については気にされない。私の子供が持ってきた包みの何を一体私が気にするというのか?私が子供を遣わしたのは、品物を求めてというよりは、むしろ教訓を学ばせるためだったのである。私にとって大事なことは、子供が完全に従うことだったのである。神が気にしておられるのは、あなたの心がご自分に対して完全かどうか、あなたが最善を尽くして御旨を行っているかどうかを確かめることである。サタンはやって来て、あなたに五つ目の包みについて告げ、あなたの犯した間違いに注意を向けさせて、「どうしてお前はこのもう一つの包みを持って来なかったのか」と尋ねる。しかし、あなたが最善を尽くしたなら、主は「大丈夫」と言ってくださる。そして、主はいつかまたわれわれを買い物に行かせてくださるのである。だから、完全な心から発した奉仕と完全な奉仕との間には違いがあることを覚えよ。サタンはあなたのヘマや厄介事であなたを訴え、責めるだろう。そして、あなたが公の場で祈る際、文章が不完全だったり文法的に不正確だったりすると、「なんたる醜態をさらしたことか」とサタンは囁く。否、あなたは醜態をさらしたわけではない。あなたはすべての包みを持ってきたわけではないが、最善を尽くしたのであり、主を十分に喜ばせたのである。あなたが公に証しをした時、あなたは感極まってわっと泣き出し、言うつもりだったことや、言おうと思っていたことを言い尽くせないことも時々あった。あなたが座る時、「なんたる醜態をさらしたことか」と悪魔は囁く。否、あなたは醜態をさらしたわけではない。包みを一つ忘れただけで、多分持てるかぎりのものを持って来たのである。

完全な心を持つ経験をしても、誘惑から免れるようになるわけではない。誘惑と罪との間には違いがある。短気と短気を起こすよう誘惑されることとの間には違いがある。私が短気について述べたのは、あなたに訪れる多くの誘惑の一つの見本としてにすぎない。短気にとてもよく似た感覚でもないかぎり、短気を起こすよう誘惑されることはありえない。実は短気ではないのにとても短気であるかのように、時として悪魔は聖められた人々に感じさせる。彼らはただ悪魔に立ち向かって、「お前の物を持って去れ」と告げるべきである。「私はそのような種類の実を結ばないのだから、それは私の心に由来しない」と悪魔に告げよ。サタンは光の天使として聖められた人々のもとにやって来る。

このように数日毎に落ち込む経験――勝利を得ても、その翌日には落ち込んでしまうのである――はどれも、新約聖書的な信仰経験ではないし、救いでもない。聖霊によるバプテスマは決定的御業である。人生でただ一度しか起きない。あなたが後退しないかぎり、決して繰り返されることはない。聖霊が来臨する時、それはとどまるためである。聖霊の臨在を感じなかったとしても、それはあなたの取り組むべき問題ではない。あなたが取り組むべきことは、聖霊があなたの中に来て、あなたを全く聖めてくださったこと、そして、あなたが光の中を歩いていることを知ることである。これを知るとき、聖霊になすべき事を指図したり、自分の感覚を整えてもらうよう指図すべき理由はなにもなくなる。あなたが全く神に明け渡しているかぎり、地にも地獄にもあなたを投げ倒す十分な力はない。可能ならあなたを滅ぼしたいと思っている人々もいるが、不可能である。主が開くとだれも閉じることはできない。聖められた人々はお世辞や批判に対して全く死んでいるのである。

私が誘惑について述べたことは、全般的にも言える。誘惑に似たものがないかぎり、どうして誘惑されるおそれがあるだろう?多くの時、人々はしばしば深刻な誘惑を受けて苦しむが、それはわれわれが主の苦難の交わりを知るためである。ゲッセマネの園でイエスは恐ろしい誘惑に遭われたのではなかったか?血の大きな汗を流されたのではなかったか?それでも、一瞬たりとも罪を犯されなかったのである。愛する人よ、言いようのない悲しみ、説明できない苦悩、拷問のように思われる誘惑があなたに襲いかかったとしても、聖霊がおられるかぎり、罪はないし、汚れもない。あなたが光の中を歩んで神に従っている間、悪しき者の力は麻痺する。悪しき者があなたの中に入る方法はたった一つしかない。すなわち、あなたの意志の同意である。

この完全のもう一つの結果は、後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばさせる地点にわれわれをもたらすことである。ヘブル人への手紙の著者は、「完成を目指して進もうではないか」と述べている。これはつまり、全く聖められることである。ここで彼は、「後のものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにあって上に召してくださる神の賞与を得ようと努めている」と述べている。自分の経験から離れ去って、将来のことを思おうではないか。毎日開始点に駆け戻るようでは、一体何が成就されるというのか。

ああ、自分自身の経験や関心を乗り越えて、それを絶対的かつ永遠に神に委ねる男女が必要である。神は預かったものを顧みて、永遠に保ってくださる。つまらないことをしばらく考えて落ち込むたびに、あなたは自分の信仰を弱め、クリスチャンとしてのあなたの影響力を損なうのである。今まさに敵に対しようとしている兵士たちの軍勢があったとして、もしその三分の二が水筒を求めて隊列を乱して後退したら、あなたはどう思うか?われわれが願っているのは、歩調を合わせ続け、肩を組んで立つことである。神に対して、また互いに対して忠実であることである。自分の経験を疑問視しても、また調べ尋ねても、決してなにも得られない。あなたは契約を交わして、それを永遠に神に委ねることに同意したのである。

もし私の時計が壊れたら、私はそれを時計屋に持って行かなければならない。時計屋が時計を造ったのだから、直すこともできる。私が時計を買った時、時計屋は修理請け負いの保証書を私にくれた。時計屋は時計の番号と日付けを控えている。兄弟よ、神はあなたの魂の番号を控えており、あなたの名をそのたなごころに刻んでおられる。あなたの魂の回転歯車を良好に保つとの保証書を与えてくださった。どうしてそれを神に任せないのか?多くの人々が一丸となって――霊的に言って――自分の手で時計をいじって時刻を合わせるのを、私は見かける。毎日時刻を合わせなければならない時計を持ち歩いている人々を私は知っている。いつも手で時刻を合わせているのである。その問題は内部にあった。内部が正常に働くようにするなら、時計は正午に十二時を打つ。神がわれわれに望んでおられるのは、罪人たちがいつでもわれわれを見て時刻がわかるような生き方をすることである。そうするなら、あなたの表情から時刻がわかるようになって、彼らはあなたを見て自分の時計を合わせたくなるだろう。これこそパウロが、「私を見てあなたの時計を合わせなさい。私は正しい時刻を知っています。私がキリストに従っているように私に従ってください」と言ったことである。「私の歯車の一つがなくなってしまったようです」「どこかに問題があって、私を見て時刻を合わせると迷ってしまいます」とは言わず、「これが時刻です。あなたの時計を合わせなさい」と言ったのである。神に栄光あれ!「この鎖は別として、あなたの時計がすべて私の時計のようであることを、私は願っています」。

完全な心で、われわれは互いのために、また聖霊のために、広い余地を残しておかなければならない。また、自分や他の人々を批判してはならない。微笑みと歌と叫びをもって前進し、過去を忘れなければならない。ある時、私は「あなたは聖められましたか?」と、ある人に尋ねた。「そうですね、リース兄弟、今日のところは勝利です」。まさにこう述べることで、明日は勝利を失うことを予期していることを示唆したのである。

兄弟よ、聖霊にとどまってもらえ。ひとりの御方として聖霊に語りかけよ。その好意を求めよ。その臨在をあなたがどれほど喜んでいるかを聖霊に告げよ。「いつでもあなたを家の中の最上の椅子にお迎えします。あなたの席は常に上座です」と聖霊に告げよ。聖霊は気ままに出入りされる、と多くの人は思っている。聖書はもっとましなことをわれわれに教えている。聖霊の御旨はとどまることであり、もしわれわれが聖霊にとどまってもらうなら、だれもわれわれから聖霊を追い出せない。私は聖霊に永遠にとどまってもらうつもりである。あなたはどうだろうか?御名に栄光あれ!ハレルヤ!