診断 その九

エバン・ロバーツ

(a)環境、(b)悪霊、(c)サタン、(d)敵、(e)霊的邪悪さ、(f)暗闇の勢力に対抗して祈るよう、新約聖書のどこに書かれているのか、と尋ねられています。この立場は聖書的であって、真理や事実に霊的に合致しているのでしょうか?
(「勝利者」誌 一九一一年 第三巻 五月号 初出)


暗闇の勢力に「対抗して」祈ることは聖書的であり、真理にしたがっており、クリスチャンの経験からも証明されている事実です。

聖書とクリスチャンの教会史から、次のことがはっきりとわかります。

1.あらゆる悪に「対抗」する祈り、あらゆる善に「味方」する祈りがなされなければなりません。
2.神は罪とサタンを滅ぼすために、彼の教会の協力を必要としておられます。

「神に属する事柄」は「霊的に識別」されるものであり(一コリント二・十四)、「霊的な」人たちだけが理解できます。「立つ」、「抵抗する」、「格闘する」(エペソ六・十二)、「あらがう」(ヤコブ四・七)、祈りの中で「労する」等の言葉は、解釈するのに霊的識別力と経験が必要です。なぜなら、これらの言葉は、天然の人には理解できない霊の領域における数々の事実を描写しているからです。ですから、この質問をした人に「私は『霊的』だろうか?」と自問させなさい(ガラテヤ六・一)。もし、その人が「霊的」でないなら、その人は使徒が暗闇の勢力との戦いに関して用いている言葉を霊的な意味で理解することも、解釈することもできません。

あなたに質問した人に、この問題をすべて神のもとに持って行ってもらいなさい。そして、これに関するあらゆる真理の中に導かれるよう求めてもらいなさい。そうするなら、その人はこれらの言葉の真の意味を理屈からではなく、神の照らしと人生経験から示されるでしょう。

パウロの手紙の中でしばしば述べられている信仰の戦いに関する「天然的な」見解や解釈がありますが、それらは天然的な知恵を源としており、十字架につけられていない「古い人」の一部であって、聖霊によって与えられる真の霊的知識を受ける妨げになります。しかし、聖霊からこのように教わった霊の人は「すべての事柄を識別します」(一コリント二・十五)。

「格闘する」という言葉について考えてみてください。肉体的格闘は天然の領域で何を意味するでしょう?他人と格闘している人の目的は、敵を投げ倒して、倒したままにしておくことです。これが肉体に対する肉体的格闘です。霊的戦いもまた、暗闇の勢力を投げ倒して、倒したままにしておくことを意味します。そして、そのためなら利用できるあらゆる手段を用います。この戦いにおいて、祈りは悪魔を投げ倒す一つの要素ではないでしょうか?

「抵抗する」という言葉について考えてみてください――これは肉体対肉体といった肉体的抵抗のことではありません。これは荒野におけるキリストのように、知的抵抗を意味する場合もありえます。キリストは荒野で悪魔の思想に対して思想で――つまり知性に対して知性で――お答えになりました。嘘に対して真理で、誘惑に対して勝利で、聖書に対して聖書で、聖書の間違った引用に対して聖書の正しい引用でお答えになったのです。抵抗することは、体のために知性を用いることによる場合もありえます。悪魔の最初の誘惑に遭われたキリストがそうでした。誘惑者が「これらの石をパンに変えて、あなたの肉体の必要を満たしなさい」と言った時、イエスは「こう書き記されている」とお答えになりました。

による抵抗もあります。これは物理的力に対するものでも、表明された思想に対するものでもなく、純粋に悪霊の力に対するものです。

霊の領域では肉体的格闘の余地はありません。なぜなら、その領域では肉体は支配する側ではなく、支配される側だからです。*しかし、知的格闘や霊的格闘はあります。そして、その格闘は体のため、魂のため、霊のため、悪魔が求める何か人の内側や外側にあるもののためかもしれません。

* 祈りは体を正しい地位に置くうえで、すなわち、霊によって支配される地位に置くうえで重要な要素です。

人の霊と知性は体を守るため、悪魔に抵抗するうえで協力しなければなりません。それは、体が人に罪を犯させないようにするためです。

また、霊と知性は敵から知性を守るため、一つになって抵抗しなければなりません。キリストは宮から飛び降りるよう誘惑された時、霊の剣を用いて誘惑者に抵抗されました。この誘惑は肉体の必要を満たすよう示唆するものではなく、魂から何らかの反応を引き出すためのものでした。

同様に、抵抗することは霊のためかもしれません。それは悪魔が何を攻撃するのかによります。人を守るには、人の全存在――霊、魂、体――が一つになって行動しなければなりません。

敵に対して抵抗し、戦う、すべての局面で、祈りはなくてはならない武器です。祈りがなければ、あなたは抵抗することも、格闘することも、立つことも、持ちこたえることもできません。祈りは霊の敵に対する防御と攻撃の力強い武器です。教会は全体的に言って、悪魔に対する勝利をこれらの方法で経験していません。なぜなら、教会は敵に対抗して祈っていないからです。あなたが霊の敵に対する戦いに従事するようになる時、あなたは敵の存在と敵の力を真に意識するようになり、敵に対して用いる武器の必要を感じるようになります。

悪霊どもに対抗する祈りについては、「この類のものは祈りと断食によらなければ出て行きません」という主の御言葉の中に示されています。

一ヨハネ三・八にこう書き記されています、「神の御子が現れたのは悪魔の働きを滅ぼすためです」。しかし、彼は将来現在過去、どうやってそうされるのでしょう?悪魔の働きはすべて滅ぼされたのでしょうか?悪魔の働きはどれも滅ぼされたのでしょうか?まだ、滅ぼされるべきものが依然として何か残っているのでしょうか?

神は罪とサタンを滅ぼすために、彼の教会の協力を必要としておられます。それは、カナン人を滅ぼすのに、神はイスラエルの協力を必要とされたのと全く同じです。

キリストは「まず強い人を縛りなさい」と言われました。これは強い人に対抗して祈ることを意味しており、それを含みます。祈り以外にどうやってこのように縛ることができるのでしょう?また、祈り以外の何が縛ることができるのでしょう?

エバン・ロバーツ