第七章 バベルで人類に下された裁き

エーリッヒ・ザウアー

バベルの裁きが人類にのしかかっている。あらゆる霊的・文化的歴史が、この深刻な根本的破局のしるしを帯びている。空しいことに、この世はこれと戦って、自分自身の力でこの呪いを征服しようとしている。

一.最初の人類離散

聖書によると、三つの動機によってバベルの塔が建てられた。高ぶり、団結心、虚栄である。したがって、神の裁きも三重である。上に向かって荒れ狂う高ぶりは、主が下って来られることによって裁かれた(創一一・四、五)。団結心は分散によって裁かれた。そして、虚栄を求める野心は汚名によって裁かれた。それ以降、彼らがそれによって「名」(四節)を上げようとしたこの都は、まさにその名が示す通り、倒壊の象徴となった。そして、「混乱の都」、「混合」の都であるバベルは、たんなる地名としても、罪人の無力さの証拠であり、神に対する反逆はすべて無益であることの証拠である。

バベル(balbel)と、ヘブル語の balbal(混乱させる、混合する)とを比較せよ。バビロニア人が誇る楔形文字的解釈によると、この語は神の門を意味する Bab-ilu であるが、それは語源学の俗説にすぎず不健全である。なぜなら、Bab-ili や Bab-ilam といった綴りが知られており、したがって、この名は神を意味するバビロン語の ilu(ヘブル語で el、アラム語で allab)とは無関係だからである。ロンドンにある大英博物館のアッシリア学者ピンチズ博士が信じているところによると、バベル(Babel)という言葉は、泡立つことを意味する英語の動詞 babble と同じように(ドイツ語では babbeln、plappern)、その音の響きから造られている。これをフランス語の balbutier と比較せよ。
塔型の建物はその後も中東文明の特徴だった。例えば、ハムラビ法典(紀元前一九〇〇年頃)はこう述べている。「彼はアンナ(エレク)の塔の頂きを高くした(中略)彼はその土地の守護者であり、散らされたイシンの住民を再集結させた」。どのバビロンの都でも、その神殿地区には、その中心として一つの塔が立っていた。こういうわけでバビロンでは今でも、巨大な塔の廃墟であるビルス・ニムロデが立っている。この塔に関しては、それが改築された時、「その頂きは天に達するはずだった」と古代楔形文字で銘記されている。ネブカデネザルはエテメナンキの階塔の頂きを高くして、「天と競わせた」。

二.言語の歴史的混乱による思考の混乱

言語の混乱には、まず四重の意味がある。語彙、文法、発音、言葉使いの混乱である。この意味では、今日、約千の言語や主要方言がある。しかし、言語の混乱にはそれ以上の意味がある。

当初の言語が何だったにせよ、(ラビたちや教会教父たちが想定したように)ヘブル語であったか、アラム語であったか、あるいは(疑いもなくこれだけが正しいが)われわれに伝えられた古代言語のどれでもないにせよ、いずれにせよ、口語の同一性は精神生活を大いに画一化した。というのは、言葉は精神を音で表したものなので、全人類の精神性も、その表現や言語が一つである限り、特別な意味で一つだったにちがいないからである。言語の混乱は、こういうわけで、同時に人類の基本的な知的観念を混乱させることでもあった。なぜなら、人の霊に対する神の力の働きにより、当初の一体性の代わりに、思考・感情・観念の中に多数の亀裂が生じたからである。したがって、どの言語にも特有の言語的「精神」がある。こうして、言語の混乱は同時に思考と観念の混乱にもなったのである。

「アダムがパラダイスですべての動物に名前を付けた当初の言語は(創二・二〇)、言わば、自然界全体を正確に映す一枚の大きな鏡だった。しかし今、神はこの鏡を粉々にされた。そして、どの民族もその破片しか持っていない。大きな破片もあれば小さな破片もあるが、今ではどの民族も全体の一つの破片を見ているにすぎず、決して完全な全体像を見ることはできない。したがって、宗教、芸術、科学、歴史に関する諸民族の観念も、互いに大きく異なっており、互いに全く食い違っていることも時としてあるのである」。

必然的に、これはみな更なる結果をもたらした。世界意識の混乱と共に、意識が更に混乱してしまったのである。

三.信仰と宗教の退廃

人類史の始まりには、唯一の神を信じる信仰があった。神はご自身を三重の方法で啓示された。自然によって(ロマ一・一九、二〇)、良心によって(ロマ二・二~一五)、歴史によって(創一~一一章)である。後の異教は、したがって、この当初の三重の啓示からの逸脱であり、この当初の啓示の記憶の歪曲であり、自然による啓示の誤解であり(ロマ一・二三)、良心による啓示に対する魂の混乱した葛藤である――これがどの異教宗教にもある三つの根本的要素である。

それにもかかわらず、神は人類の上に普遍的啓示を通して影響を及ぼし続けてこられた。神はとても強力な磁石のように人類を捉えられた。「事実、神はわれわれ一人一人から遠くありません」(使一七・二七)。神は人々を追い求められた。それは、人々のうちに、神を求める探求心を呼び覚ますためであった。それはちょうど、自分の子供の心を求める母親のようであり、母親がそうするのは、今度は子供が母親を求めるようになるためである。「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにしてくださったのである」(使一七・二七)。したがって、神ご自身の働きかけにより、諸民族の間に、異教徒の間ですら、驚くほど多くの探究や調査が生じた。しかし悲劇的なことに、大詐欺師であるサタンが人類のこの探究を誤った道に逸らしてしまった。そのせいで、人は神を求めつつ、同時に神から逃げているのである。人は神を得ようとしつつ、自分から神を突き放している。神の祝福を求めつつ、神の臨在を避けている。神と関わろうとしないが、それでも神から逃げられない。

人間のこの宗教的不協和と退廃の根源は、使徒パウロの教義によると、忘恩である。というのは、「彼らは神がおられることを知っていながら、神を神として賛美せず、神に感謝することもせず、その思いは空しくなり、その愚かな心は暗くなった」(ロマ一・二一)からである。しかし仔細に見ると、特に次のような諸々の要素が、悪鬼の惑わしにより、宗教生活の領域でこのような価値の転倒を生じさせたのである。

神と霊に関する観念それ自体は原初の啓示からの遺産であり、したがって、まず宗教史の過程の中で発展させられる必要はなかった。突き止めるべき問題は、それがいかにして自然の諸々の要素と関連するようになったのか、ということである。

まず第一に、夢の観察があった。なぜなら、夢の中では、体の肢体はすべて休止しているのに、そこには何か「動いたり」、「聞こえたり」、「見えたり」するものがあったからである。また夢の中では、死者も同じように活動している姿を「現し」て、それにより、「霊」として存続していることを「証明」するからである。

さらに、の観察もあった。なぜなら、この「魂」、この目に見えない内なる何かが、この死にかけている人が最後の息を引き取る時に、言わば息や空気のように、その体を去ったのではなかったか?そしてその後、その死者は全く動かなくなったではないか!これは、内なる「私」、内住している活動的な息する魂の意志無しには、いかなる動きも生じえないことの証拠ではないだろうか?

しかし外の自然界では、すべてが動きに満ちている。植物や動物、星々の行路、雄大な大嵐、荒れ狂う川々、神秘的な磁石、打った石から出る火花においてもそうである。これはみな、強大な者たちの存在と内住を示す、単純な抗しがたい証拠ではないだろうか?この強大な者たちが、われわれの身の回りのこうしたあらゆる動きの中で活動しているのである――それで、自然は諸々の霊によって生気を与えられていると見なされるようになり、こうしてアニミズム哲学が生じたのである

しかし、人は自分自身の魂以外に他のいかなる「魂」も知らなかったので、これらの自然界の諸々の霊に人の魂の特徴を賦与することは全く合理的なことだった。さらに、これらの自然界の諸霊は、自然界の諸要素の圧倒的力に対応しており、より高度で強力な生命形態を持つ存在であると考えざるをえなかったので、こうした人間的特徴についても、より高度で強力なものを彼らに帰せざるをえなかった。こうして必然的に、悪鬼英雄との間にある関係が生じた。これにより、悪鬼的なものが人間を通して一つの人格に昇華し、英雄的なものが悪鬼的なものを通して超人へと昇華した。これが異教の神観念の本質である。こうして異教徒は自分自身のかたちにしたがって自分の「神」を創造したのである(逆に創一・二七参照)。

ここで人間の言語の力が入り込んで、宗教的な諸々の観念を形成・発展させる。なぜなら、人間の知性の特異性の一つは、知らず知らず、また時として無意識のうちに、物質的なものと霊的なものを並べて、互いに混ぜ合わせることだからである。こうして言語は人の外側にあるものを人格化して、「微笑む」太陽、「陽気な」小川について述べる。また逆に、外側にあるものを人の中に持ち込んで、「冷たい」愛らしさ、「陽気な」性格、「輝かしい」喜びについて述べる。さらに豊かな想像力をもって、言語は太陽の「矢」(その光線のこと)、月の「打撃」(詩一二一・六)、天の「窓」(マラ三・一〇)、あけぼのの「まぶた」(ヨブ三・九)について述べる。

人がこうした言語表現の絵画的性質を堅持している間は何の危険も生じず、むしろ反対に、人の精神を豊かなものにした。しかし、罪によって暗くされ(エペ四・一八、ロマ一・二一、二二)、悪鬼の力によって迷わされた瞬間、人は絵図をもって空想の衣を現実にまとわせるだけでなく、さらに進んで、それらの絵図そのものの実在性を信じるようになった。そしてこの側面から、自然を神格化する新しい観念の世界も生じた。そして、言語が異教形成の主な要因の一つになった。神観念のさらなる形成に向けて、特に神々の歴史(神話学)と異教的来世観との形成に向けて、他の多くの原動力が共に働いた。例えば、恐怖や欲望という諸々の動機、天罰の必要性、世界の起源に関する黙想、民話や英雄伝説の記憶である。

これに関しては、文法上の性も重要である。なぜなら多くの場合これが、ある神のことを男と考えるべきか、それとも女と考えるべきかの決定要因だったからである。

これはみな次のことを証明している。すなわち、言語が混乱する前、異教の国家的型と称するのにふさわしいものは確かに存在しなかったのである。たとえバベルの裁きの前に、自然の神々に関する個々の観念が見つかったとしても、それでも、異教の国家的型と称するのにふさわしいものは、人類が一つの民族ではなくなって、ばらばらの国々に分かれたことによって始まったのである(申四・一九、ロマ一・一八~三二)。

しかしそれと同時に、これはみな悪鬼の協力の下で起きた。なぜなら、異教の神々は空虚な想像ではないからである。新約聖書の使徒の証しによると、アポロ、ダイアナ、アフロディーテ、イシュタル、あるいは名称が何であれ、これらのものは自然界の力のたんなる知的人格化ではないし、さすらう空想力が自然を神格化したたんなる架空の描像でもない。それらの背後には、実在する悪鬼の霊の勢力がいるのである。この悪鬼の霊の勢力は、オカルト的霊感の道筋に沿って、神話の装いをまとった国家的型により――その装いは、輝かしい詩的装いのこともあれば、恐ろしい暗い装いの場合もある――様々な民族に自らを現した。もしそうでなければ、異邦人への偉大な使徒は、主イエスの御名に特に訴えることにより、ピリピのあの占い師から「ピトンの霊」(使一六・一六そのままの言葉)を追い出せなかっただろう。ピトンは特に、アポロ神殿で神託を宣言する者の名だった。アポロの最も重要な聖地であり神託神殿であったデルファイでは、祭司長である「ピティア」(霊媒)が支配していた。エンドルの霊媒についても参照せよ(一サム二八・七、八、レビ二〇・二七の「霊」)。

またそうでなければ、パウロは非イスラエル宗教のことを、「異教徒がささげているのは、悪霊どもにささげているのです」(一コリ一〇・二〇)とは到底言えなかっただろう。こういうわけで、国家的多神教の中には一抹の事実の要素がある。ペルシャとギリシャの天使の君たちについて考えよ(ダニ一〇・一三、二〇)。異教は全体的に誤謬や偽りに基づいているだけでなく、それと同時に心霊術的基盤にも基づいているのである。

これらすべてにより、異教徒は悪鬼の影響の下で、「自分の神々の創造者」となった。国民性や他の諸々の要素の多様性に応じて、宗教的根本原理や基本的な道徳上の理想も多様である。

ギリシャ人は言う、「人よ、汝自身を知れ」と。
ローマ人は言う、「人よ、汝自身を支配せよ」と。
中国人は言う、「人よ、汝自身を改めよ」と。
仏教徒は言う、「人よ、汝自身を滅却せよ」と。
バラモン教徒は言う、「人よ、汝自身を宇宙万物の中に融合せよ」と。
イスラム教徒は言う、「人よ、汝自身を従わせよ」と。
しかしキリストは仰せられる、「私無しでは、あなたたちは何もできない」と。
そしてキリストにあって
クリスチャンは言う、「私は、私を強くしてくださるキリストによって、何でもすることができます」(ピリ四・一三)と。

「自分の宗教により異教徒は自分には神がいないことを表明する。宗教は格別な罪である。つまり、第一戒に対する罪であり、神を神々で置き換えることである」「人が神に対して反抗していることと、人自身の内的矛盾とを示す、最も強力な表れである」。

他方、神々(諸々の偶像)の観念ですら、観念に基づく。偽りの神は、その外観をひどく損なってはいるものの、唯一の真の神の戯画である。人は自分の宗教で神から逃げている。しかし、その逃避行においても、人は神に捉えられており、神観念から逃れられない。そして、神を否定することによって、神を証しせざるをえない。異教においては、真理と虚偽、価値と無価値は、互いに並び立つだけでなく、互いに入り組んでいる。「それゆえ、人の宗教と啓示との関係には、常に二重の結びつきがある。福音は諸宗教を滅ぼす。諸宗教が虚偽であり罪である限り、福音は確かに諸宗教を裁くものである。福音は諸宗教を贖い、成就して、本来の真理に連れ戻す。その真理から諸宗教は逸れているのであり、その真理を自分なりの方法で証ししているのである」。

それにもかかわらず、全体として見ると、これは無数の人が歩んでいる誤った道である。諸世紀を通して、それは人類を支配してきた。「彼らは自ら賢いと称しつつ、愚かな者になった」(ロマ一・二二)。これによりバベルの裁きは、極めて大きな結果を伴う裁きとなった。というのは、思考と知的交流の混乱は、人類を離散させて人類の一体性を破り、その結果、宗教的混乱を招いたからである。この宗教の混乱には、言語の混乱を遙かに上回る意義がある。

四.普遍的な国際緊張

この時以降、世界史は二つの力の間の戦いである。この二つの力とは、諸々の世界帝国の求心力と、個々の民族の遠心力である。前者の代表者は、例えば、ニムロデ、ネブカデネザル、クロス、アレキサンダー大王、ナポレオンである。後者の代表者は、特に、マラソンの戦士たち、アルミニウス、ガンジーであり、一般的に言って、自由を求める民族的決起や戦争全般である。概して、世界征服者たちの求心力は、個々の民族の遠心力によって何度も挫かれてきた。この両者の対立の最も顕著な形が戦争である。したがって、戦争と戦争の噂が主の来臨まで続く(マタ二四・六)。

しかし、こうしたすべてのことにもかかわらず、この離散の裁きは、今の諸国民の発端・形成の原因ではなく、諸国民が霊的・宗教的・言語的・政治的に分かれる原因となった。人類の今の民族構成は洪水の直後に始まったのであり(セム、ハム、ヤペテ)、したがって裁きでは全くない。また、新しい地には、依然として諸国民が存在する(黙二一・二四、二二・二)。神は単一性における多様性を求めておられる。すなわち、諸国民からなる一つの家族を求めておられるのである。

同時に、歴史を形成するこの二つの力の間の戦いは、歴史の最高の主によってすべて支配されている(アモ九・七、イザ四五・一~三)。そしてこれにより、諸民族の歴史は諸民族の裁きとなる。「正義は民を高くし、罪は国を辱める」(箴一四・三四)。「信仰が支配していた時期は、どれも輝かしく、実り豊かである」(ゲーテ)。しかし、道徳的に退廃した文明は必然的に滅びることになる。諸民族が受ける祝福の大きさは、神が定められた創造と歴史の秩序を彼らがどの程度守るかに大いにかかっている。この意味において、民族全体が回心して神に立ち返ることもある。すなわち、エレミヤ書一八・七やヨナ書にあるニネベの都に見られるような、民族的悔い改めもあるのである。

国民は有機体である(ホセ一一・一)。したがって、一つの構成単位として責任を問われる。諸民族に対する預言者たちの訴えを見よ。それらの訴えは常に、構成単位である国民に向けられている。例えば、アモス一・二、イザヤ一三~二三章、エレミヤ四六~五一章。諸民族は諸々の世代を通して同様の生活を営む。したがって、その子孫たちは先人たちの行いのゆえに祝福もしくは裁きにあずかるようになる(エゼ三五・五、六を見よ)。これらすべてによって初めて、世界中の劇的緊張の説明がつくのであり、諸々の王国や民族のるつぼの中で演じられる文明の興亡の説明がつくのである。

ここにはまた、もちろん、依然として神の統治の秘密があって、われわれはそれに光を投じることはできない。これはアルメニア人のことを考えるだけで十分にわかる。

創造・歴史・摂理における神の定めは以下の通りである。

全体の最初の萌芽としての結婚と家族。
社会的身分(一ペテ二・一三、一四、一八、エペ六・五~九、コロ三・二二、四・一、一コリ七・二〇)。
血縁(ロマ九・三)、歴史、精神性・言語、教育・慣習による共同体。
支配者たち(ロマ一三・一~六、一ペテ二・一三)、ノア以降(創九・六)。
権威(一ペテ二・一七、ロマ一三・七)と服従(ロマ一三・五)。
共同体生活と司法の管理。後者には死刑が伴う(創九・六、ロマ一三・四)。
神が定められた境界(使一七・二六)。
祖国と同胞への愛(ロマ九・三)。
他民族に対する敬意。

五.救済史の贖いの目標

それにもかかわらず、この言語の混乱は、神は人類のいかなる団結にも反対される、ということを意味するものではなかった。それどころか、極めて霊的に親密で極めて包括的な人類の交わりこそ、神の明確な御旨である(ミカ四・一~四)。

しかしが願っておられるこの合一は、ご自身をその中心とする。それは御子「キリストにあって」であり(エペ一・一〇、ヨハ一〇・一六、一七・二一、二二)、彼を神は王に定められたのである(詩二・六、ゼカ一四・九)。

しかし、人は創造主を退位させることを望んだ。それは自分自身が支配権を握るためである。そして、この肉の力の連合は、まるで砦のように、贖いの遂行に反対した。それゆえ、それは没落せざるをえなかった。そして、「神の散らす御手」が現れたのである。悪鬼的な肉の合一を滅ぼすことにより、真の神聖な霊的合一がもたらされなければならなかった。したがって、この最初に現れた普遍主義が廃止された目的は、最終的普遍主義をいっそう確実に達成することだったのである。したがってまた、バベルの裁きですら――恵みなのである。

六.歴史の終幕における神の勝利

しかし、人類は神の計画に対して執拗に戦う。敗北したバベルの精神が、その後の諸世紀も活発に働き続けている。実に、終末の時には、それは目標に達して勝利したかのようにすら見える。そして、反キリストがニムロデの働きを完成させる(黙一三・七、八)。

バビロンの都の歴史の

原型は――カインの都であり(創四・一七)、
象徴は――バベルの塔であり(創一一章)、
根本的開始は――ネブカデネザルによってであり(ダニ二・三七、一八)、
発展は――世界史においてであり(ダニ二、七章)、
完成は――反キリストの下でであり(黙一三、一七章)、
終わりは――キリストの勝利によってである(黙一八、一九章)。

というのは、反キリストの後、キリストが現れて勝利を勝ち取られるからである(黙一九・一一~二一)。また、天に反対して上に向かって荒れ狂うバビロンである「淫婦」(黙一四・八、一七・一~八)に対して、天から下る神の都(一〇節)であり新しいエルサレムである「花嫁」が勝利するからである(黙二一・九)。