第十一章 諸国民の時(ダニエルの四大世界帝国)

エーリッヒ・ザウアー

「諸々の民はどよめく海のように、砕ける大波のように、
騒々しく荒れ狂う。」(イザ一七・一三参照)

ネブカデネザル(紀元前五八六年)と共に「諸国民の時」(ルカ二一・二四)が始まった。すなわち、イスラエルがこの世の列強の手に与えられる時である。この時は、可視的な神の王国の設立によって初めて終わる。

ネブカデネザルとダニエルは、一つの預言の中で、この世の列強の変遷全体を見る特権にあずかった。その預言は世界史全般を網羅するものだったが、各々、救いの計画の中で自分が占める立場にしたがって、異なる観点から見たものだった。

異邦人の支配者であるネブカデネザルは、世界史の外側の面、その人間的容貌、その「人性」、その有機的つながり(一つの像)、その中の崇高で英雄的な堂々たる面を見た。「非常に光り輝く」巨大な人の像を見た(ダニ二・三一)。彼にとって神の王国は山から切り出された一つの「石」にしか見えなかった。

国の大臣であり、同時に聖なる先見者でもあったダニエルは、歴史の内側の面、その非人間性、その野獣的性質(ダニ七・四~七)、その「残忍性」、民同士が争い合うその不和でバラバラな状態(ダニ八・四、六、七、一一・二、四、一一)、粉砕(ダニ七・七、一九)、その中の「冒涜的」(ダニ七・八、二五)要素を見た。彼にとって神の王国は「人の子」の王国である(ダニ七・一三、一四、二七)。つまり、聖書的な意味で真の人間による支配が地上で初めてその中に設立される王国である。

第一の王国は単体だった(バビロニア、一つの頭)。第二の王国は二体だった(メド・ペルシャ、胸と両腕)。第三の王国は体だった(アレキサンダーの後継である四つのギリシャ国家、四つの角を持つ豹)。第四の王国は体からなる単体となるだろう(週末の第四の世界帝国。十本の足の指、十本の角、しかし反キリストを通して結び合わされて単体となる)。しかし最終的に、キリストが出現される時、これはみな廃墟の堆積となる(ダニ二・三五、黙一六・一九、一九・一一~一八、マタ二一・四四)。その後、主が人々にふさわしい君主として、唯一の頭であるご自身の下ですべての民族と人種を真に一つとされる(エペ一・一〇、ゼカ一四・九)。

東から西に進む歴史の展開と方向性は、太陽の行路になぞらえられる――それは夜で終わる。下に向かって、神から離れて、罪と世界は進む。それは金から銀に移り(ダニ二・三九)、銀から銅に、銅から鉄に移る(オウィディウスの世界の四つの時代を参照)。そして、粘土の足の上にネブカデネザルの巨像は立っている(ダニ二・三三)。その体の部位も階級が下がっていく。

まず知性の座である頭、
次に必要不可欠な器官の座である胸、
次に消化の座である腹、
最後に塵の中を歩む足。

それゆえ、その最後は「粉々になること」である。その巨像は「粉砕」されて(ダニ二・三五、四五)、その獣どもの主権は奪われる(ダニ七・一二)。そして、突然、深夜の最中に太陽が昇る。人の子が天から下って来て(ダニ七・一三、マタ二六・六四)人類の真の王国を設立する。その「石」は増し加わって「山」になり「全地を満たす」(ダニ二・三五)。そして「王国と主権と全天下の王国の威信とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる」(ダニ七・二七)。

キリスト以前の八世紀から六世紀までは、世界の諸民族にとって「春」だった。キリスト以前の世界の歴史の中で、人類の知的生活の形成においてこれほど根本的意義のある期間はない。霊感の波がまさに文明世界全体の上を流れた。東アジアでは、最も偉大な中国人である孔子と老子が生まれた。南アジアでは、最も影響力のあるインド人である仏陀が生まれた。ペルシャでは、クロスの宗教の預言者であるゾロアスターが生まれた。西アジアでは、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルの下で、イスラエルの預言が満開の花を咲かせた。そしてギリシャでは、哲学が初めて芽生え(タレス、ヘラクレイトス、ピタゴラス、ソクラテス)、古典詩歌が花開いた(ソフォクレス、エウリピデス、アイスキュロス)。

しかし政治的には春のが荒れ狂っていた。紀元前六五〇年、ニネベはまだ存続しており、アッシリアの大王が中東の君主だった。しかし紀元前六一二年にニネベは陥落し、その後、急流の波のように、諸々の出来事が相次いだ。数十年後、ネブカデネザルの王国はクロスによって打倒された(紀元前五三八年)。クロスの帝国はアレキサンダー大王によって打倒された(紀元前三三三年)。アレキサンダーの死後、その王国は四つの国に分裂した(紀元前三〇一年)。その後、ローマがその嗣業をすべて受け継いだ。ローマ帝国の登場によって初めて、嵐なき平穏が数世紀のあいだ訪れたのである。

一.新バビロニア世界帝国(紀元前六一二~五三八年)

「あなたはこの金の頭です」とダニエルはこの像についてネブカデネザルに説明した。ダニエル自身が見た四匹の獣の最初の獣は、この王国に対応していた。新バビロニア帝国は鷲の翼を持つ獅子だった(ダニ七・四)。金が金属の間で占めている地位と頭が肢体の間で占めている地位と同じ地位を、獅子は地の獣の間で占めており、鷲は空の生き物の間で占めている。そして、新バビロニア帝国は獅子のような王権と、鷲のような俊敏さと強欲さを合わせ持っていた。

これ以前にも、ハムラビの時代の古代バビロン(紀元前一九〇〇年)は中東の「頭脳」であり、文明の知的「頭」だった。

新バビロニア帝国はナボポラッサルによって建てられ(紀元前六二五年)、ネブカデネザルによって確立され(紀元前六〇四~五六二年)、ペルシャのクロスによって滅ぼされた(紀元前五三八年)。それはおよそ七十年存続し、その存続期間はユダヤ人のバビロン捕囚(紀元前六〇六~五三六年)とほぼ同じ期間だった。その滅亡によりエレミヤの預言が成就された。「主はメディア人の王たちの激怒を掻き立てられる。その計画はバビロンに立ち向かってこれを滅ぼすことだからである。それは主の復讐であり、その宮のための復讐だからである」(エレ五一・一一、二四、イザ一三・一七)。しかしそれと同時に、バビロン陥落と共に、セム族の世界支配は永遠に終わったのである。

二.メド・ペルシャ世界帝国(紀元前五三八~三三二年)

クロスは旧約聖書の中で他に類を見ないほど歓迎されている。諸国民の歴史の中で、彼は生まれる一世紀以上前にイスラエルの預言の中で名指しで言及された唯一の戦士である。すなわち、イザヤによって、クロス自身が生まれる約二〇〇年前に預言されていたのである(四四・二八、四五・一)。主はご自分の僕であるイスラエルのために、クロスの右手を取って、その前に諸民族を服従させられた(四五・一、四)。主は彼のことをご自分の「牧者」(四四・二八)、「油塗られた者」、御旨をすべて行う者(四五・一)と呼んでおられる。また主は彼に仰せられる、「私はあなたの前に行って、通れないところを平らにし、青銅の扉を壊し、鉄のかんぬきを粉砕する。私はあなたに、暗闇の中に隠されている財宝と、ひそかなところに隠されている宝物とを与える。それは、私エホバはイスラエルの神であって、あなたの名を呼んだ者であることを、あなたが知るためである」(イザ四五・三、四)。このように、旧約聖書はアーリア人(ヤペテ族)の世界支配の創始者を歓迎している。

メド・ペルシャ帝国は二本の腕を持つ銀の胸(ダニ二・三二)、その体の一方を上げている(七・五)、長さの異なる二本の角――その長いのは後で伸びたのである――を持つ雄羊(ダニ八・三、二〇)だった。

メディア人とペルシャ人は兄弟関係にある民族だったが、最初ペルシャ人はメディア人の支配下にあった。しかし紀元前五五九年に、アンサンのペルシャ王クルシュ(クラス、キルス、コレス)がメディア王アステュアゲスを完全に打倒し、それ以降、メディア王国はペルシャ王国になった。この熊は、言わば、その体を一方に「上げていた」。つまり、ペルシャ側を上げていたのであり、他方、メディアは下だった。この雄羊の二本の角のうち、後で一方が伸びて他方を制圧したのである。

力強い猛攻で、特にバビロン陥落後(紀元前五三八年)、ペルシャ王国は前に向かって突進した。「その雄羊が西、北、南に向かって突撃するのを私は見た」(ダニ八・四)。東が言及されていないのは意義深い。なぜなら、実際のところ、ペルシャの王たちはインドに向かって一度も遠征を企てなかったからである。しかし、それ以外の方角で、この貪欲な帝国は次々と国々を貪り食っていった。「起き上がって、多くの肉を食らえ」(ダニ七・五)。この熊の「口」の中には、三本の特別な肋骨があった。リディア王国(紀元前五四六年以降)、バビロニア帝国(紀元前五三八年以降)、エジプト王国(紀元前五二五年以降)である。そして、その一二七の州と共に、それは当時の文明世界のほとんどすべてを網羅していた(エス一・一)。ただギリシャに対してのみ、攻撃の効果はなかった。そしてその地において、後の没落の芽が芽生えたのである(ダニ一一・二)。

三.ギリシャ・マケドニア世界帝国(紀元前三三三年以降)

ペルシャ帝国は二〇六年(紀元前五三八~三三二年)続いたのち崩壊したが、それはフィリップ王の子であるマケドニアのアレキサンダーによるものだった。彼の帝国はネブカデネザルの像の銅の腹と腰に相当し、ダニエルが夢の中で見た幻(ダニ七・六)では四つの翼と四つの頭を持つに相当する。そして彼自身は「雄やぎ」の「大きな角」である。この雄やぎは「西から」やって来て、「激しい」攻撃で、「雄羊」であるペルシャを打ち倒した(ダニ八・五~七、二一)。

「雄羊」と「角」は、それ自体が、軍事的指導者と王権の明確な絵図である(エレ五〇・八、ゼカ一〇・三)。それらは特にペルシャに当てはまり、特にアレキサンダーの帝国である雄やぎとは異なる。なぜなら雄羊は、機敏で自分の身を守れる雄やぎよりも平和を好み、気の荒さや強情さを御することが雄やぎよりも容易だからである。また、厚い羊毛の皮で覆われている雄羊は、快適さと繁栄を表す絵図としてうってつけだからである――アレキサンダーの時代のペルシャ帝国もそうだった。さらに、ペルシャの王たちは、その軍隊の先頭に現れる時、王冠の代わりに文字通り雄羊の頭をかぶることがしばしばあった。また同様に、彼らの首都ペルセポリスの柱の上には雄羊の頭があった。

アレキサンダー大王の象徴であるこの「雄やぎ」について、ヘーベルニックは次のように述べている。

マケドニアにあるエデッサの都はカラヌス王からエーゲ(ギリシャ語の aix、aigos は山羊を意味する)という名を受けた。そしてこの名から、マケドニア人はエーゲ人という名を受け継いだ。古典の筆者たちによると、この名が彼らに与えられたのは明らかに、その王がこの都を占領するのを可能にした山羊たちのためである(ユスティヌス)。その都は、この名の下で、長きにわたって初期のマケドニアの支配者たちの居住地であり続けた(シケリアのディオドロス)。ロクサネから生まれたアレキサンダー大王の息子はアレキサンダー・エーグスと呼ばれた。マケドニアの王たちの幾人かの肖像が、雄やぎの角と一緒に硬貨の上に描かれていた。また、山羊はマケドニアの軍隊の軍旗や隊旗の紋章として用いられた(ユスティヌス)。

アレキサンダーの勝利の行軍は、古代で最も壮大な見物である。猛烈な速さで、まるで土に触れずに飛ぶ足の速い雄やぎのように(ダニ八・五)、四つの翼を持つ豹のように(ダニ七・六)、アレキサンダーはさほど活発ではない雄羊、丸々と太った巨大なペルシャの熊に向かって突進した。小アジア西部のグラニクス(紀元前三三四年)、タルソから遠くないキリキアのイッソス(紀元前三三三年)、ニネベ近くのガウガメラ(紀元前三三一年)での比類ない勝利により、この若々しい戦士は弱々しいダリウス・コドマンノスの巨大な軍勢を滅ぼした。ガウガメラではアレキサンダー軍の人数はペルシャ軍の二十分の一だった。「雄羊には、これに当たる力がなかったので、やぎは雄羊を地に打ち倒して踏みつけた。また、その雄羊を、やぎの手から救うものはなかった」(ダニ八・七)。わずか年の戦争の後、二十五歳のこの若者は二千年の歴史を持つ古代オリエントの君主になった。この豹に「主権が与えられ」(ダニ七・六)、この雄やぎは「はなはだ大きくなった」(ダニ八・八)。

しかしその後、この壮大な見物に悲劇が起きた。権力の絶頂にあって、人生の盛りの年に、世界の中心であるバビロンで、アレキサンダーは酒宴の後、高熱で没した。それは紀元前三二三年六月十三日、彼が三十二歳の時だった。それは突然の死であり、彼は王座を継ぐ後継者を残さなかった。「角」は「折れた」(ダニ八・八、二二)。「一人の英雄王が起こり、一つの大きな王国を支配して、自分の望むことをすべて成し遂げます。しかし、彼が起こってから間もなく、その王国は崩壊し、天の四方に分かたれますが、その一つも彼の子孫に受け継がれることはありません。また、彼が治めたほどの権力が続くこともありません」(ダニ一一・三、四)。

アレキサンダーの嗣業を巡って彼の将軍たちが二十年間争った後、実質的に四つの主要な王国が生じた。

1.セレウコスのシロ・バビロニア王国(「北の王」ダニ一一・六、七、一一)
2.プトレマイオス・ラゴスのエジプト王国(「南の王」ダニ一一・五、九、一一)
3.カッサンドロスのマケドニア・ギリシャ王国
4.リュシマコスのトラキア・ビテニア王国

こうして、紀元前三〇一年のイプソス(フリジア)の戦いにより、紀元前六世紀のダニエルによる預言が文字通り成就した(ダニ七・一、六、八・一)。「その雄やぎははなはだしく大きくなったが、それが最も大きくなった時、その大きな角が折れた。そして、その代わりに四つの別の著しい角が生じて、天の四方に向かった」(ダニ八・八)。それゆえまた、この豹には四つの翼があっただけでなく、四つの頭もあったのである(ダニ七・六)。

この四人の継承者の国々の中で、救済史にとって重要なのは二つの強国、すなわち、「南の王」のエジプト王国と「北の王」のシリア王国である。そしてまたこの二つの中では、特に後者が重要である。それゆえ、この二つの王国に対して、特に詳細な預言がなされている(ダニ一一)。紀元前三〇一年から一九八年まで、イスラエルはエジプトの支配下にあった。それから、パネアの戦いの後、シリアの属国になった。

ここで、僅か数十年後に、世界文明と啓示との間にあの大きな戦いが生じた。この戦いの体現者の名はアンティオコス・エピファネスとユダ・マカバイである。

折れたアレキサンダーの角の代わりに生じた雄やぎの四つの角の一つから、一つの特別な小さい角が生じた。「その小さな角は南と北に向かって、また麗しい地(パレスチナ)に向かって、はなはだ大きくなった。そして、天の衆群に及ぶまでに大きくなり、星の衆群のうちの数個を地に投げ下ろして、これを踏みつけた」(ダニ八・九、一〇)。「一人の王が起こるでしょう。その顔つきは傲岸で、陰謀に長けています。その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなします。彼は強くなり、聖徒たる民を滅ぼします」(ダニ八・二四)。

八番目の北の王がアンティオコス四世エピファネスである(紀元前一七五~一六四年)。彼の多くの愚行のゆえに、彼の同時代人たちは彼のことを「エピファネス(Epiphanes)」すなわち賢者と呼ぶ代わりに「エピマネス(Epimanes)」すなわち気違いと呼んだ。しかし、彼の気違いじみた考えや獰猛性にもかかわらず、彼のことをたんなる粗野な未開人として描写することはできない。むしろ、彼はギリシャ文化の熱烈な支持者だったのである。その父アンティオコス三世がローマ人によって征服された後(紀元前一九〇年)、彼は人質として十三年間ローマに住んだ。そして、ローマ・ギリシャ思想にあまりにも満たされたので、ドイツの歴史家モムゼンは彼のことを「本職のローマ猿」と呼んでいる。特に、ローマ人が彼にエジプトを征服するよう命じた紀元前一六八年以降(ダニ一一・三〇)、彼は自分の王国のあらゆる部分を宗教的・政治的に融合することによって、自分の権力を内面的に強化することを目論んだ。これに関して彼が反対にあったのはパレスチナにおいてだけだった。この反対を叩き潰して、「一人の王、一つの国、一つの文化」という標語を遂行するためだけに、彼はエホバを礼拝するユダヤ人たちを迫害した。この迫害の真の狙いは、オリンピアのゼウスすなわちジュピターと結びついているギリシャ文明をユダヤ民族の中に導入することだった。

それゆえ、彼は割礼と宮の礼拝を禁止し(ダニ八・一一、一一・三一~三六)、安息日と祭りを守ることを差し止め、聖なる諸文書を没収・破棄・焼却させ、それらを所持していることが見つかった者たちを殺した(ダニ一一・三三)。それゆえ、彼は宮から金で覆われた香壇、金の燭台、供えのパンの机、聖所と至聖所の間の覆いを奪った(紀元前一六九年)。それゆえまた、彼はこの民に豚肉を食べるよう強制した。そして何と、紀元前一六八年のキスレーヴの月(十二月頃)の二十五日、オリンピアのゼウスの年祭の時に、彼はこの神に奉献された小さな祭壇をエルサレムの燔祭の祭壇の上に置かせた(一マカ一・二〇~二四、四一・六四)――これは聖所の中の「荒らす憎むべきもの」だった。これについて主イエスは、そのオリーブ山上の説教の中で、未来を象徴する預言として言及しておられる(マタ二四・一五。ダニ一一・三一参照。九・二七。一二・一一)。これらすべてにより、彼は使徒ヨハネが「反キリスト」と称している者の型となった。それゆえ、彼は預言の中で三番目の世界帝国の「小さな角」として描かれている(ダニ八・九、二三)。これは反キリストが四番目の世界帝国の「小さな角」であるのと同じである(ダニ七・八、二〇、二四、二五)。

啓示された真理に対する文明によるこのような侵害に対抗するために、自由の英雄であるマカバイ兄弟が反乱を起こした(紀元前一六八~一四一年)。「自分の神を知る人々は強さを示して、事を行います」(ダニ一一・三二)。英雄的戦いの後、彼らは宗教の自由を勝ち取った(紀元前一六五年)。そして、最終的に政治的自由さえも勝ち取った(紀元前一四一年)。しかしまさにこの時、そうこうしている間に、彼らの敵の歴史は新たな時代を迎えつつあった。諸々の民族に新たな時代の日が昇ったのである。というのは、アンティオコスの生涯の背後には、彼を制限・制圧する(ダニ一一・三〇)新たな勢力が立っていたからである。その勢力とは、それまでオリエントには知られていなかった――ローマである。

四.ローマ世界帝国(紀元前二〇一(一三三)年以降)

西洋の世界列強が勃興して、セム・アッシリアのオリエントが没落することは、大昔からバラムによって予言されていた。バラムは、キリストが生まれる前の二番目の千年紀の中頃の、モーセの同時代人である。「禍だ!これが起きることを神が許された以上、誰が生き延びられよう?キッテム(すなわちキプロス。創一〇・四、イザ二三・一、一二、エゼ二七・六、ダニ一一・三〇参照)から船が来て、アシュルを低くし、エベルを低くする(創一〇・二一)。しかし、これもまた滅びる」(民二四・二三、二四)。一二〇〇年後、これはローマ帝国によって成就された。

その始まりは小麦の粒のように小さかったが――その最盛期には日の昇る所から日の沈む所まで諸民族を支配する国家となった。これがローマの発展である。ペルシャ帝国が建国された時、それはイタリア中部の小さな町にすぎず、ギリシャの輝かしい歴史家であるヘロドトスはこれに言及すらしていない。しかし、主イエスの時代には、ローマは「全体の中心」「世界の会合場所」だった。

この発展の勢いをローマはギリシャから得た。ローマ人自身はおそらく、彼ら自身の高尚な芸術的・哲学的文明を生み出す立場には全くなかった。彼らの強みはもっぱら軍事、統治、法律にあった。鍛錬と国家に対する忠誠という点で、彼らは比類なかった。しかし、彼らの権力が最高に達した期間でも、彼らは内面的には半未開人のままだった。これは、ローマ人の残忍なあの恐るべき娯楽場である、野蛮な円形闘技場からわかる。ローマ帝国は確かに鉄だった(ダニ二・四〇)。それはネブカデネザルの王像の足に相当していた(ダニ二・三三)。そして、第四の帝国、ダニエルが夜の幻の中で見た第四の「獣」の発展の、最初の段階・局面に相当していた。この第四の獣は「恐ろしい、ものすごい、非常に強いもので、大きな鉄の歯があり、食らい、かつ、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた」(ダニ七・七)。

ネブカデネザルの王像(ダニ二・三一~四三)と、ダニエルが夜の幻の中で見たそれに対応する四匹の獣(七章)は、バビロニア・ペルシャ・ギリシャ・ローマの世界帝国を表す、という解釈は、すでにエイレナイオス(紀元二〇二没)、ヨセフス、ユダヤ教のラビたちに見られる。ルターは言う、「この解釈と解き明かしに立つ時、全世界は調和のとれたものとなる。また、事実や歴史はこれを強力に証明する」。全知の神はその僕たちに、極めて遠い未来も極めて近い未来も、容易に示すことができる、ということを考える時、すべての困難は消え去る。イザ四二・九、四四・七参照。

元々(1)小さな農業国で土地を欲していたローマは、人口の増加により、侵略する必要性に迫られた。同じような隣国との戦争(特に紀元前三四三~二九〇年のサムニウム人との戦争)に勝利した後、紀元前三〇〇年までに、ローマは(2)イタリアの一大勢力となった。国際政治への参画は、その避けられない結果だった。それと同時に、地中海でイタリアの対岸にあるカルタゴと対立するようになった。この最も危険な敵を打ち倒したことにより(紀元前二〇一年。特に、紀元前二〇二年の、ザマにおける、ハンニバルに対するプブリウス・コルネリウス・スキピオの勝利により)、ローマは(3)誰もが認める地中海西岸の先進勢力となった。そして同じように強制的に――世界列強になる直接的意図はなかったものの――ローマのオリエントへの介入は避けられなかった。

しかし、今やローマは「打ち砕く鉄」(ダニ二・四〇)となり、次々と砕いていった。四年後にマケドニアが打ち砕かれた(紀元前一九七年。スミルナの東北にあるマグネシアでの勝利によって)。紀元前一六八年、マケドニアは滅ぼされた。それは、その地のピュドナでの勝利の結果だった。紀元前一四六年、カルタゴの滅亡により北アフリカが「属州」となった。同年、コリントが征服された時、ギリシャも属州になった。紀元前一三三年、ヌマンティア征服により、スペインが制圧された。そして、ペルガモ王国を受け継ぐことにより(紀元前一三三年)、紀元前一二九年に小アジアが併合された。

こうして、主に紀元前二世紀に、ダニエルの預言が成就した。「それは全世界を食らい、踏みつけ、打ち砕く」(ダニ七・二三)。それは「鉄が砕いて粉々にする」ようである(ダニ二・四〇)。ザマ、キュノスケファライ、マグネシア、ピュドナ、ヌマンティア――この五つの主要な段階により、ローマは世界的勢力に登った。大まかに言うと、ローマはアレキサンダー大王の嗣業を引き継いだのであり、紀元前一四六年以降(あるいは紀元前一三三年以降)、ローマは(4)地中海の東部及び西部の地域を支配する軍事共和国になったと一般的に認められるようになった。「それはまるで鉄の足を持つ戦争の神が地上を闊歩して、一歩毎に血の川を流れさせるかのようだった」。

しかし今や騒乱の時が来た。その興隆はあまりにも乱暴だった。(5)変革の時期が続かなければならなかった(紀元前一三三~三一年)。「私が嘘つきだったなら天は喜んだかもしれない。しかし、私にはローマが、驕るローマが、その繁栄の犠牲になって没落するのが見える」(プロペルティウス、紀元前一世紀)。

ローマの支配の拡大と共に、ローマは世界の中心となった。国々のすべての宝が支配階級のもとに一斉に流れ込んだ。その結果は無分別な贅沢、極めて放縦な放蕩、道楽、腐敗だった。すでに紀元前一九〇年に、若いアンティオコス・エピファネスがローマに滞在している間、一万人を下らない訴訟があり、そのほとんどは死刑にされた。世界征服と共に、ローマ共和国は自分自身の墓穴を掘ったのである。元々ローマは農業国だったが、特に紀元前二世紀以降、全地中海の世界的勢力となってからは、すべてが変わった。巨大な帝国をまとめるために、市民からなる一大常駐軍を維持することを余儀なくされた、しかし、長期にわたる兵役のせいで、小作農の家や農場は荒れ果てて、それを裕福な地主に売ってしまった。こうして、巨大な土地を持つ大地主が生じた。大地主は奴隷たちによって自分の土地を耕した。中産階級は没落した。農民たちは田舎から大都会へと追われていった。「田舎からの逃避行」が始まった。資本主義と労働者階級との間に大きな対立が生じた。それから、田舎の地域が空っぽになったせいで、以前の徴兵制度はもはや不可能になり、傭兵制度が採用された。

傭兵たちは、自分たちを入隊させた将軍に、盲目的に服従した。彼らにとって最も大事なのは、誰が自分たちを導いて最も多くの略奪品や戦利品を得させてくれるのか、誰が最高の賃金を約束してくれるのか、ということだった。個々の扇動家の個性によって局面が変わった。様々な野心的指導者、特にマリウスとスッラ、カエサルとポンペイウス、アントニウスとオクタウィウス(アウグストゥス)の登場後、内戦が続き、それによりローマ国は一世紀以上揺れ動いた(紀元前一三三~三一年)。そしてこの内戦の中から、最終的に、キリストの時代に、皇帝たちによる独裁支配が現れた。こうして、ローマは六番目の段階に入った。それは(6)世界的な軍事専制国家となった(紀元前三一年以降)。七番目の最後の段階は、すでにバラムによって予言されていた没落である(民二四・二四)。特に、紀元四七六年の西ローマ帝国の滅亡と、一四五三年の東ローマ帝国の滅亡である。

この発展は独特であり、世界史の中にこれに並ぶものはない。この四番目の獣は「他のどの獣とも異なっていた」(ダニ七・七、一九)。それと共に、一つの出来事の中から強制的に別の出来事が続いた。世界の支配者である神の御旨が、言わば運命の力によって、ローマの歴史を支配した。キリストのために、ローマは成るように成らなければならなかったのである。確かにローマ人たちは「世界を奪う者たち」だった。しかし、知らず知らずのうちに、彼らの略奪は救済史の中である役割を果たしたのである。ローマは人類の福音を広める準備のために、人類文明のための入れ物を造らなければならなかったのである。こういうわけでローマの任務は「集めること、あるいははっきり言うと、キリストのために集めること」だったのである。