「しかし、時が満ちた時、神は御子を遣わされた。」(ガラ四・四)
紀元前三二三年のことである。一匹の飛ぶ「豹」として(ダニ七・六)アレキサンダーはペルシャ帝国を征服した。この「熊」(ダニ七・五)、「雄羊」(ダニエル八・七)は今や無力になった。紀元前三三四年の春、たった三五、〇〇〇人で、彼はその勝利の行軍に取りかかった。紀元前三三一年の秋、ペルシャ帝国は廃墟となった。アレキサンダーはすでにその眼差しを西方に向けていた。しかし、バビロンのネブカデネザルの宮苑で、死が突然彼を取り去った(ダニ十一・三、四)。「大きな角」は折れた(ダニ八・八)。その帝国も倒れて粉々になった(ダニ八・八、二二)。
それにもかかわらず、世界史と神の救いの計画の歴史において、アレキサンダーには永続的な意義がある。なぜなら、彼は東と西を政治的・軍事的に征服しただけでは満足せず、両者を文化的に融合し、結び合わせて、単一国家にすることを目論んだからである。
彼はギリシャ・マケドニアの軍規にしたがって三〇、〇〇〇人のペルシャ人を訓練した。彼はギリシャ語を世界共通の言語として導入した。ギリシャ式の劇場、学校、運動場が、古代オリエントのほぼ至る所に設立された。そしてそれと共に、ギリシャ精神と気質が東方にますます広まった。
逆に、アレキサンダーはペルシャの習慣をギリシャ世界にもたらした。王宮にオリエントの装束やペルシャの儀式、特に国王崇敬が導入された。アレキサンダー自身、「オリエントの真珠」であるバクトリアのロクサネ姫と結婚した。彼の八十人の将軍と、彼のマケドニア兵の一万人が、彼の例に倣った。そしてそれに関して、彼らは五日間のあいだ輝かしい婚宴を祝った。その婚宴は、結婚祝いに溢れたものであり、エステル王女のかつての住まいだったペルシャのスサで開かれた(エス一・二)。
こうして東方と西方との間に文化的結合が生じた。いわゆるヘレニズムである。そしてこの点においてもアレキサンダーの帝国はダニエルの幻の豹に似ていた。というのは、豹の立派なまだらの毛皮は、今やヨーロッパとオリエントの文明が織り成す豊かな色彩に対応していたからである。
このようにヘレニズムは計画的政策の産物である。それはアレキサンダーによって個人的に造られた文明である。まさにこの点に、彼の比類ない恒久的意義がある。民の一般的見解も、半ば不承不承ではあるが、その意義を指し示して、死すべき人間の中で真っ先に、アレキサンダーに対して「大王」というあだ名を付けたのである。
アレキサンダーの帝国は、彼の死の直後、倒れて粉々になった。しかし、アレキサンダーの生涯をかけた真の働きは存続し続けた。後に、特に紀元前二世紀以降、ローマ人が彼の嗣業を手に入れた。しかし奇妙なことに、彼らは人々の予想に反して、ローマ化の政策を彼らの文化活動の前面に据えずに、至る所で世界のヘレニズム化を続けた。こうしてローマ帝国は比較的統一されたヘレニズム文化の入れ物になった。それは日の昇る所から沈む所まで、ナイル川からスコットランド国境近くのタイン川岸まで、ジブラルタル海峡からイラン高原まで広がった。そしてさらに!ローマ人は世界の軍事的・政治的主人だったが、文化的には彼らを精神的・哲学的に上回るギリシャ人によって征服されたのである。
こうして、初期キリスト教の揺り籠である世界が生じた。「時が満ちた」世界である。それは次の六つの基本的特徴を持っている。
一.世界の中央集権化、 二.世界の文化的統一、 三.世界的交易と交流、 四.世界平和、 五.世界的退廃、 六.世界的な諸宗教の混合。
一.世界の中央集権化
ローマ人は国家よりも高貴なものを何も知らなかった。ローマ人の理想の男性像は国家への献身にあった。「永遠のローマ」の僕となることが、その最高の志だった。それゆえ、人は市民の中に消えた。
この国家観の体現者が、その頭であるカエサルだった。カエサルは全体の頂点であり、「国家の第一市民」だった。ローマにいるカエサルから、全地域に指令が発せられた。一人の意思が地中海世界全体を支配した。天の王の御子ですら、受肉により、ローマ臣民になった(マタ二二・二一)。
それゆえまた、皇帝礼拝には高度な意義があった。それは国家統合の宗教的表現であり、特にカリグラ(紀元三七~四一年)とドミティアヌス(八一~九六年)以降、帝国中に見られるようになった。その主たる意義は政治の領域にある。皇帝礼拝は、この世界帝国の外的・内的統合を宗教的に承認することであり、真の国家宗教だった。それゆえ、信仰の問題に関して課せられた唯一の宗教的強制だった。この点を除けば、ローマ帝国は非常に寛容だった。皇帝は「神また人間生活の至高の救い主」(ユリウス・カエサルの時にはすでにそうだった)、「神の子」(アウグストゥス)、「主また神」(ドミティアヌス)、「大祭司」、「世の救い主」(アウグストゥス、クラウディウス、ネロ)、「王の王」としての地位を占めた。皇帝の布告は「福音」(良い知らせ)、その書簡は「聖なる書」と称された。皇帝の到着は「パルーシア(parousia)」(降臨)、その訪問は「エピファニー(epiphany)」と命名された。これらすべてのことにより、初期キリスト教との衝突は避けられなかった。それがクリスチャンを迫害する主な根拠だった。そしてそれと同時に、一世紀のこの帝国は終末の反キリストの帝国の型となった(この「獣」には七つの頭があり、その冠で飾られた頭には「神を汚す諸々の名」がついている。黙十三・一)。
しかしそれでも、この皇帝の意思すらいと高き方の御旨の支配下にあった。地中海世界のこの中心から、全く政治的な一つの命令が発せられて、諸国民に影響を及ぼした。カエサル・アウグストゥスの人口調査の勅令である(ルカ二・一)。しかし結局のところ、それは主の御手の中の一つの手段にすぎなかった。これにより主は、ユダの地にあるとても小さな町、ベツレヘム・エフラタ、ダビデの町に関する預言の言葉を成就されたのである(ミカ五・二、ルカ二・一~七)。まさにここで大なるものと小なるものとが出会う。そして、この小なるものの中に万物で最も偉大な方がおられたのである。
二.世界の文化的統一
ローマ帝国よりも広範に広がって、より大きな人口を有していた帝国はいくつもあった。しかし、ローマ帝国のように、同時代のすべての文明民族を自らの内に統合した帝国は、歴史上、後にも先にも一つもない。諸々の文明の力強い融合と、壮大な均等化と混合の過程とが、オリエントのヘレニズム化・ローマ化と西洋のオリエント化によって生じた。
(1)三つの主要な潮流。本質的には、ローマ帝国のヘレニズムは三つの主要な潮流が合わさったものである。その芸術・科学・哲学を伴うギリシャの潮流、その軍事的・政治的・法的生活を伴うローマの潮流、その諸々の宗教と神秘的儀式とを伴うオリエントの潮流である。しかし、普遍的な生ける有機的つながりはまだ造り出されていなかった。これが頓挫したのは、古代には、ストア哲学は別として、「人間性」の観念が一般的に欠けていたためである。しかし、一般の人々の意識は世界を意識する方向に大いに広げられた。こうして世界は、普遍的なキリストの救いの知らせのために整えられたのである。
(2)初代キリスト教の世界宣教の言語としてのギリシャ語。さらに重要な意義を持つのが、国際交流の言語が一つだけだったことである。諸国の言語や地方の方言はまだ存続していたが(使十四・十一、二一・四〇)、それでもギリシャ語は全世界で理解されていたので、ある人はそれを単純に「共通」言語(ギリシャ語でコイネー、Koine)と呼んだ。これにより、間もなく始まることになっていた最初のキリスト教宣教の働きのために、主な困難の一つ、すなわち言語の習得が除かれた。そして、そうでない場合の二倍以上の速さで、福音は勝利の行軍を進めることができた。これは特に大都市や沿岸都市の場合にそうだった。さて、パウロは大都市、特に港町に対する福音伝道者だった。それゆえ、神の摂理により、皇帝たちの時代のこの発展過程全体にわたって、全世界で用いられるギリシャ語が、「初代キリスト教の世界宣教の言語」となるよう、あらかじめ備えられたのである。
三.世界的交易と交流
(1)国際交通。どの都の市場にも、ローマからの距離を示す道しるべが立っていた。「永遠のローマ」の市場には、アウグストゥスによって設置された黄金の道しるべが立っていた。その道しるべはこの首都が、この巨大な、脈打つ諸民族有機体の心臓であることを示すものだった。アレキサンドリアと小アジアの間には、毎日船便があった(ラムゼイ「七つの教会への手紙」一八四三五頁)。プリニウスによると、スペインからローマの港であるオスティアまでの旅は、四日だった。また、アフリカからは二日だった。あるフリギアの商人の墓碑銘が知られている。この商人は、小アジアのコロサイ近くのヒエラポリスからローマまでの一、二五〇マイル以上の旅を、少なくとも七十二回した。
この素晴らしい世界交通がなければ、初代キリスト教の急速な前進は考えられなかっただろう。海上交通が特に彼らにとって重要だった。なぜなら、初代キリスト教の福音の働きは、その大部分が、港湾都市で行われたからである。特にパウロの場合がそうだった。「この使徒の世界は、主に、海風の吹く所にあった」。パウロがカイザリヤ、トロアス、エペソ、アテネ、コリント、ローマの港に滞在したことを考えさえすれば、これがわかる。
しかし、陸上の交通網も非常に重要だった。きわめて遠い隔絶された土地でさえ、道路と橋によって開かれた。当時すでに、城壁と要塞で守られた頑丈な高速道路の、しっかりした完全な交通網が帝国全体に広がっていた。「すべての道はローマに通ず」。これらの帝国の主要道路の上を、後に福音の使者たちは旅して、出現された贖い主の喜ばしい知らせを世界にもたらした。パウロだけでも、陸路と海路で、総計一五、〇〇〇マイル以上旅した。
(2)ユダヤ人の離散。当然、ユダヤ人も世界貿易に参加した。この民の多くは、紀元前四世紀には、まだ西方にはほとんど知られていなかったが、パレスチナの外に住み着いた。こうしてディアスポラ(離散)が生じた。アレキサンダー大王は一〇、〇〇〇人のユダヤ人を自分が建てた都であるアレキサンドリアに移した。プトレマイオス・ラゴス王とその後継者たちは、そこに一〇〇、〇〇〇人以上のユダヤ人の植民地を設けた。使徒たちの時代、約五〇、〇〇〇人のユダヤ人がローマに住んでいた。彼らの割合が最も大きかったのはバビロンと東シリアだった。エジプトでは彼らは全人口の八分の一だった。その首都であるアレキサンドリアでは、ほぼ半分だった。その都の五つの区域のうち、二つをユダヤ人が完全に占めていた。これに加えて、同じように多くのユダヤ人が他の三つの区域にも住んでいた。その穀物取引のほとんどすべてをユダヤ人が握っていた。
(3)改宗者たち。離散したユダヤ人たちを通して、イスラエルが世界の諸国民に知られるようになり始めた。異邦人たちはその宗教とも出会った。多くの人が、唯一の神を信じる単純で気高い信仰に惹かれるのを感じた。確かに、ユダヤ人たち自身が異邦人たちの間で直接的な宣教の働きを遂行した。それにはパリサイ人、「分離された」者、彼らの愛国主義の最も熱心な代表者も含まれていた(マタ二三・十五)。宣教で勝ち取られた人々は「加入者」と呼ばれた(ギリシャ語 プロセリュトイ proselytes。使二・十一、八・二六~四〇、十・一、二)。完全加入者は割礼と浸礼のバプテスマによってユダヤ教の中に受け入れられた。
パウロは至る所でユダヤ人の離散者と提携した(使十三・五、十四、十四・一、十七・一、十、十八・四、十九・八等)。簡素なシナゴーグやユダヤ人の祈り場がなかったなら(プロセウケー proseuche。使十六・十三)、使徒の宣教活動はほとんど不可能だっただろう。このようにアレキサンダー大王の時代以降、国際交流によって、初代キリスト教の福音の働きの最も重要な方法の一つのための基礎が造られてきたのである。
(4)パウロの世界宣教旅行の出発点。しかし、それだけではない。東地中海にあったパウロの宣教の中心地は、間接的に、国際交流を通して生じたユダヤ人離散者のおかげでもあった。クプロとクレネ出身の回心したユダヤ人離散者を通して、アンテオケにキリスト教会が生じた(使十一・二〇)。他方、パレスチナのユダヤ人は、異邦世界との生き生きとした接触や又その理解に欠けていたため、ユダヤ人と完全な改宗者に対してのみ福音を伝えた(使十五・一~六)。パウロのアンテオケは、古代世界における贅沢と罪の中心であり、ある後代の皇帝が述べたように「大酒飲みの都」だった――しかし、まさにこの場所で、イエスの弟子たちは初めて「クリスチャン」と呼ばれるようになった(使十一・二六)。「小さな角」であり、第三世界帝国の反キリストである、アンティオコスのアンテオケが(ダニ八・九~十四、十一・二一~四五)――ここでは実に驚くべきことに、キリスト教の世界宣教の出発点となったのである。神の世界支配のなんという皮肉か!(詩二・四)まことに、「光は暗闇の中に輝いている」(ヨハ一・五)のである。
(5)世界宣教の聖書。しかし、この一連の思潮は七十人訳でその頂点に達した。パレスチナの外に住んでいたユダヤ人たちは、すぐにヘブル・アラマイ語を忘れてしまった。ヘレニズムの言語領域に住んでいたからである。それゆえ、数世代後、シナゴーグの礼拝で用いるためのユダヤ人の聖書をギリシャ語に翻訳する必要性を、彼らは感じるようになった。数十年の時の流れの中で、そのような翻訳が実現するに至った。
それは「セプチュアギンタ(Septuagint)」(ラテン語で七十を意味する)と呼ばれた。なぜなら、ユダヤ人の伝承によると、それはエジプトの王プトレマイオス二世ピラデルポス(紀元前二八四~二四六年)の時代に、七二(七〇)人のパレスチナ人学者によって、七二(七〇)日間で、七二(七〇)の個室の中で生み出されたからである。実際には、多くの翻訳者たちの作品として、それは紀元前二五〇年と一〇〇年の間に、エジプト(アレキサンドリア)で徐々に生まれた。最後に翻訳された部分は伝道の書だったように思われる(おそらく、紀元前一世紀以降)。
このセプチュアギンタ(LXX)は今や、初代キリスト教の福音宣教に備えるための又それを推進するための、神の御手の中にある強力な手段となった。それを通して、異邦人世界はユダヤ教の啓示信仰を知るようになった。パウロと他の初代キリスト教宣教士たちは、道中つねにそれを用いた。実に、新約聖書の記者たちは、旧約聖書からの引用をほとんどすべてこれからしている。こうして、元々ユダヤ人のためのこの訳が、初代キリスト教の宣教のために遍く用いられる聖書となった。この理由のゆえに、その後の紀元二世紀には、ユダヤ人たちはキリスト教に反対してもはやこれを用いなくなった。そして、これは憎しみの対象にすらなったのである。
四.世界平和
これは皇帝たちの支配から生じた特別な成果だった。ローマ人たちが全地の君主となって以来、人々の熱気はますます和らいでいった。絶賛されている「ローマの平和」パクス・ロマーナ(Pax Romana)が始まった。アウグストゥスの時代は戦争が全くなかったわけではないが、それにもかかわらず、(紀元前二三六年以降)絶え間なく続いた二〇〇年以上に及ぶ戦いの後、戦争の神の神殿であるローマのヤヌス神殿は紀元前二九年にようやく閉ざすことが可能になった。諸国民の間の戦争あるいは平和が、世界における福音宣教の働きにとって何を意味するのかを、福音のための努力のすべての物語が証しする。こうしてこの点においても、福音のための道が開かれたのである。
五.世界的退廃
しかし道徳的には、この文明世界全体は、死の胚芽を内に宿していた。特にハンニバルに対する勝利以降(紀元前二〇二年)、世界の首都に流入した黄金の流れは、大いなる贅沢を引き起こし、そのため腐敗と俗悪さがきわめて尊大な形でたちまち姿を現した。貴族と労働者階級が最も堕落した。タキトゥス、スエトニウス、ユウェナリスの記述によると、貴族と国の最高の官吏たちが落ち込んだ低い道徳的状態のどす黒さを、適切に描写するのは不可能である。放蕩と暴食、偽証と毒殺、俗悪さと不道徳、不貞と放縦が当時の風潮であり、特に一世紀中頃が酷かった。最下層も同じように低く沈み込んでいた。ヘレニズムの大都市、特にイタリアの大都市では、仕事不足で大衆が滅んだ。"Panem et circensus"――「パンと遊びを」――これが支配者たちに対する彼らの要求だった。昼はブラブラと何もせずにうろつき、夕方は残忍なローマ人の最低な遊興場所である円形劇場に赴いた。野獣狩り、剣闘士の闘い、模擬海戦に群がる群衆はあまりにも膨大だった。そのためウェスパシアヌス帝とティトゥス帝はローマに巨大なフラヴィア円形劇場を建設させた。1この円形劇場には五四、〇〇〇席あった。そしてその落成式に際しては、一二〇日続いた見世物で、一二、〇〇〇匹以上の獣と一〇、〇〇〇人以上の剣闘士が命を失った。
1 今つかわれているコロシアム(Colosseum)という名称は、中世に初めて生じた。これは疑いなく、近くに立っているネロの巨像(Colossus Neromis)のためである。
中流階級は違った。この点について、中流階級には依然として礼儀正しさ、倫理観、個人的な家庭生活、強い宗教的感覚が大いに存在していたことを、パピルスは証言する。ギリシャの神々やイタリアの神々を信じる信仰は全く消え去っていた。そのため、大衆は遥か東方から来たオリエントの神々に向かった。その神々の数は多く、当時優勢になりつつあった。
六.世界の諸宗教の混合
それゆえ、これがローマ帝国時代の最後の主要な際立った特徴である。エジプト、ペルシャ、バビロン、小アジアから、オリエントの宗教団体が押し寄せて、いわゆる「秘儀」すなわち秘密結社を形成した。「時が満ちた」この時ほど宗教的だった時代はほとんどない。エジプトからはイシスとオシリス(セラピス)崇拝がやって来た。ペルシャからは特に軍隊の間にミトラ礼拝が入り込んだ。それと並んでアッティス礼拝と共に、小アジアからキュベレー礼拝が到来した。オリエントからは皇帝礼拝も到来した。
そして今や、オリエントから神々や諸々の偶像が渡来して、諸宗教や諸礼拝が混合・融合した。これは、その神々の「バビロン的」混合により、人類史の中でも独特なものとして際立っている。国家の神々、ギリシャの神々、オリエントからの神々が、混合した宗教や秘儀と共に、ますます混ざり合って、一本の多彩で強力な本流の中に流れ込んでいった。宗教的には東方が西方を征服した。ローマはすべての神々の崇拝者となった。これは時として恐ろしく奇怪で、馬鹿馬鹿しいほど混乱した、誤謬の病的幻想だった。地中海世界全体が巨大な寄せ鍋の様相を呈した。類を見ない、東西の宗教的混沌が生じた。古代の諸宗教は霊的に破産した。しかし、まさにこの点において諸宗教は、あらかじめ救いを備えてくださる贖い主なる神の支配を明らかにしたのである。
(1)神々の同等性。アレキサンダー大王以降、国際交流や諸民族の混合により、諸民族は互いのことを学び、また、お互いの信仰や礼拝についても知るようになった。必然的に、「その中のどれが正しいのか?」という疑問が生じた。ペルシャ人はアフラ・マズダーが最高神だと言い、ギリシャ人はゼウスだと言い、ローマ人はジュピターだと言い、バビロニア人はマルドゥクだと言い、エジプト人はテーベのアモンだと言った。しかし、それらがみな等しく正しいとしたらどうだろう?これらのものはみな、様々な国民が唯一の同じ神に対して与えた別名にすぎない、としたらどうだろう?アフラ・マズダー=ゼウス=ジュピター=マルドゥク=アモンであり、他の神々についても同様だとしたらどうだろう?こうして、この神はあの神に等しいという無数の等式が生じ、それが時として国際的に広がった。そして、神観念の混合・融合と共に、その儀式も徐々に似たものになり始めた。
これにより、宗教上の諸問題に関して、諸民族が調和へと向かう最初の傾向が生じた。そして、この型が今に至るまで各国で優勢である――すなわち、唯一の神が他のすべての神々の頂点に立つという型である――この型が各国でも同じように構築されて普遍的枠組みとなり始めた。ますます人々は、ひとりの共通の最高神について考えるようになった。この最高神は全体の頂点に立つものであり、他のすべての神々はこの最高神の様々な形態、個別の現れにすぎない、と考えるようになったのである。そのため、皇帝たちの時代の異邦世界全体にわたって、唯一の神を信じる多かれ少なかれはっきりとわかる信仰が漂い始めた。それは確かにまだ不明瞭で漠然としており、汎神論的だった。しかし、それは唯一の神を信じる信仰であり、かなり不明瞭なものではあったが、それにもかかわらず、唯一の真の「知られざる」天地の神を予感させるものだった。この神をまもなく、福音の使者たちは世界に向かって宣言することになっていた(使十七・二三)。
(2)オリエントの諸々の秘儀宗教。神々のこの平等化よりもさらに重要だったのが、当時ちょうど入り込みつつあった東方の諸宗教の宣教活動である。これらの宗教が東方からやって来たこと自体が、非常に重要だった。なぜなら、キリスト教も東方から来たからである。それゆえ、当時の世界の人々にとって、この起源は何ら奇妙なものではなかった。彼らは、オリエントの宗教の教師たちが西方にやって来るのを見慣れていたし、彼らのメッセージに耳を傾けることにも慣れていた。
さらに、これらのオリエントの諸宗教のほとんどは、共通の根本的観念を持っていた。すなわち、死んで蘇る自然神を信じる信仰である。この観念にこれらの諸宗教が到達したのは、植物界の枯死と再生や、太陽・月・星々の出没を神格化することによってであった。それゆえ小アジアでは、春に(三月二十二~二十五日)、自然神アッティスの再生の祭りが祝われた。その最も重要な日である三日目には、大祭司が人々に向かって「アッティスは戻って来られた!その来臨を喜べ!」と告げた。春が過ぎ去って、熱暑の夏になると、シリアではタンムズ・アドニスの死を悼む式典が行われた(エゼ八・十四、十五)。十一月十三~十六日から、エジプトではナイルの神であるオシリスの死を悼む催しが行われた。その時期は、ナイル川の水量が減って、穀粒が言わば死ぬために蒔かれる頃だったからである。そして、ほぼ冬至の日である十二月二十五日は、ペルシャでは「誕生日」だった。すなわち、太陽神ミトラの再生の日であり、シリアではバアルの再生の日だった。同じような神々として、ギリシャにはディオニュソス、オルペウス、ヒュアキントスがあり、またツロのメルカルトやタルソのサンダンもあった。1
1 ヒスロプの「二つのバビロン」、ペンバーの「教会、諸教会、奥義」「奥義なる大バビロン、奥義、カトリック主義」を見よ。
さて、この信仰はキリスト教とは全く異なる基礎の上に建てられていた。すなわち、自然の神格化と、それから特に天と地におけるその出現と消滅に関する解釈の上に建てられていた。しかし、福音のように神の実際の啓示や、贖い主が文字どおり死んで復活されたという歴史的事実(一コリ十五・十三~十九)の上に建てられていたわけではなかった。しかし、それにもかかわらず、これらの自然宗教はみな、イエスの十字架上の死とその復活に関するメッセージを異邦人が理解するための準備として役立ったのである。
しかし、最も大事なのは、これらの宗教がすべて贖いの宗教だったことである。そのため、これらの宗教は、悲嘆にくれる気分や、彼岸を切望する気分にぴったりだった。そのような気分が、衰退して活力を失ったすべての文明と同じように、ローマ皇帝たちの時代にも蔓延していたのである。ミトラの秘儀宗教では、この世からのこの逃避は、悔い改めの自殺行為にまで至った。
(3)贖いに対する熱望。しかし、贖いが必要であるというこのような感覚が丁度その時目覚めた原因は、古代世界の実際的人生観全体が激変したことにある。この激変は世界征服、国際交流、世界的退廃によって生じたものだった。ここでわれわれは痛感せざるをえない。異邦世界は福音のメッセージのために整えられていたのであり、ついに「時が満ちた」のである。
古代世界は宇宙の此岸を中心としていた。この目に見える世界が唯一の現実であり、彼岸は影にすぎなかった。そしてこの点で人の精神は内側ではなく外側に向かった。「それゆえ、建築や彫刻、装飾品、劇、あらゆる種類の見世物、行列や凱旋行進を好んだのである。それゆえまた、個人・自由な人格としての人は姿を消し、埋没してたんなる市民になってしまったのである」。
しかし、今やすべてが変わった。一大変化が今や進行していた。それは外側から内側への、此岸から彼岸への転向だった。とりわけ、ローマによる地中海世界の征服、征服者たちによる戦利品の浪費、それに伴う属州における不義と抑圧、上流・下流階級の物質主義と不道徳、それに加えて国際貿易と国際交流は必然的に、これらすべての外面的華やかさや些事に対する反発を最終的に生じさせた。また、少なくとも、高貴で真実なものに対してまだすっかり鈍感になってしまったわけではないすべての人々の心の中に、失望感と空虚感を生じさせた。
しかし、幸福が此岸に見つからないなら、眼差しは自ずと、いっそう大きな切望と共に、彼岸に向かうことになる。そして彼岸はもはや昔のように暗くて喜びのない影の世界ではなく、その逆のものになった。地上での生活は影であり、彼岸が現実の実在となった。今や人は体を魂の「牢獄」と見なし、死を解放として、「永遠の誕生日」として賛美するようになった。ストア派の哲学者であるセネカが述べたとおりである。彼はネロの教師であり、ガリオの兄弟だった(使十八・十二)。
そして、現在から来世へのこの転向と共に、外面から内面への転向も加わった。此岸は確かに目に見えるものだったが、失望に終わった。それゆえ、彼岸を見つめる眼差しは、同時に目に見えないものにも向けられた。そして目に見えないものから内面へと、内面から人自身の心へとさらに向かっていった。そして、常に隠れて存在してきたもの――人の魂の内的不調和、善と悪との間の闘いが、今やさらに詳しく精査されるようになり、しばしば悲しい自己観察の対象ともなった。罪の意識が成長していった。特に紀元二世紀と三世紀、初期の皇帝たちの騒乱の時代の後、言わば一種の悔悟の姿勢が地中海世界に臨んだ。
しかし、目に見えない内面的なものへの転向は、超越的・神秘的・奥義的なものへの接近と結びついていた。そして、過去のすべての経験に対する失望感のゆえに、この奥義的なものは、悲しい陰鬱な性格を帯びずには済まなかった。そして特定の環境下では、この両者はこの世に対する恐れとそれからの逃避、懺悔と苦行にまで高まっていき、自虐や自発的自傷に至ることすらあった。しかもこれはみな、ただ魂の平安を勝ち取るためだけになされたのである!
こうして幾万もの人々が東方の神々に向かった。この神々は人々が望んでいる解放を彼らに約束したからである。
命に対する抑圧と、死そのものを、個人生活の中で征服しなければならなかった。これらのオリエントの宗教はそれを実現するかに見えた。東方の神々は自然界に見られる死と消失の神格化であっただけでなく、死に対する輝かしい勝利と死の中から甦る新しい命の神格化でもあったからである!そして人は、消失しても常に再び甦る、この同じ自然複合体の一員である(とされた)。それゆえ必然的に、人の解放は宇宙の法則とつながることによって実現される。しかしこれが意味するのは――異邦人による自然の神格化という意味で――死んで再生する自然神との奥義的合一であった。
古いものは「死」ななければならない――それゆえ、改悛、禁欲、自己苦行をやめなければならない。そして、新しいものが「生き返」らなければならない――それゆえ、聖餐、神秘的叙階、浸礼、1秘儀をしなければならない。
1 例えば、小アジアにおけるキュベレーの秘儀である「タウロボリウム」では、恐るべき血のバプテスマが行われた。受洗者は、板で覆われた穴の中に立った。その板の上で一匹の雄牛が殺された。そして、その血は板の隙間を通って、下に立っている人の上に流れ落ちた。
死の征服、再生、不死、永遠の幸福――これがオリエントの秘儀宗教が目指した救いの祝福だった。"In aternum renatus"――「永遠の再生」――ペルシャのミトラ神の信奉者の墓石にはこのような献辞が彫られている。「汝ら敬虔なる者よ、慰めを受けよ。神が救われたように、汝らもまたすべての苦しみから救われるからである」と小アジアのアッティス宗教の式文は述べている。
(4)諸民族の待望。しかしこれにより、間もなく完全な解放が訪れるという予感が、広範囲に広まった。そしてこれに関連して、人々の眼差しも東方に向けられた。そこから助けが来るにちがいなかった。この予感はしばしば異教の衣をまとっていた。時代は一巡した、と言われた。黄金の時代から銀の時代が生じ、鉄の時代がこれに続く。しかし今や、この鉄の時代もその行程を走り終えようとしている。それから、再びこの循環が始まるであろう。サトゥルヌスが再び支配して、黄金時代が帰って来るだろう。
しかし時として、この予感はユダヤ教的色彩を帯びることすらあった。その起源がイスラエルの預言にあることは明らかである。スエトニウスとタキトゥスの両名は、広まっていたある噂について述べている。その噂とは、オリエントが強くなって、ユダヤ人からある強力な動きが生じる、というものである。この二人の歴史家が紀元一二〇年頃に記したところによると、ユダヤ人の子孫たちが世界の覇権を握るであろうと古代の聖典の中に記されているとのことである。(タキトゥス「同時代史」五・十三とスエトニウス「ウェスパシアヌス」四を見よ。)
特に注目に値するのは、この諸々の予感が、紀元前一世紀に、ローマの詩人ウェルギリウスの第四牧歌の中に響いていたことである。この牧歌の中で詩人は、黄金時代を取り戻す一人の子供について歌う。この子供は天から下る。その後、平和が地上を治める。土地は労せずしてその産物を生じる。雄牛はもはや獅子を恐れることはない。耕作する家畜からくびきは取り去られる。ぶどう収穫者はもはや額に汗せず働くようになる。
しかし、これは来るべき平和の王国に関するイザヤの預言にほかならない(九・六、十一・六、七)。そして、外の世界にいる諸民族の間では、メシヤ預言のこだまが明瞭な音色で響いていたのである。
そしてついに、東方から、日の昇る方角から、素朴な証し人たちの口から、世界を制覇するこの宣言の響きが、ますます強まっていった。すなわち、
キリストは―― 人類のための贖い主であり、 すべての罪人を救う救い主であり、 イスラエルが心から待ち望んでいた者であり、 世界の諸民族が無意識のうちに切望していた者である。 キリストは出現された!
このようにキリスト以前の全救済史は、人類を世界の贖い主に導くものである。イスラエル民族の備えは、歴史的啓示によってなされた。世界の諸民族の備えは、政治的出来事と文明によってなされた。
旧約聖書は約束と待望であり、新約聖書は成就と完成である。旧約聖書は神の戦いに赴く軍勢の集結であり、新約聖書は十字架につけられた方の勝利である。旧約聖書は薄明と夜明けであり、新約聖書は日の出と永遠の真昼である。