「文字は殺す。」(二コリ三・六)
律法は有機体であり、したがって、不可分な単一体である。「たとえ律法全体を守ったとしても、どれか一つでも罪を犯すなら、その人は全く有罪です」(あるいは、それ全体に対して責任を負う)(ヤコ二・十、ガラ三・十)。
それゆえ、道徳「律法」と祭儀「律法」を区別することはみな間違いである。なぜなら、それにより、二つの律法があるような印象を与えるからである。すなわち、片方の「祭儀」律法はキリストによって成就されえたが、他方はそうではない、という印象である。道徳あるいは祭儀「律法」(複数形)について話すのが正しいのは、両方の領域における個々の決まりや「戒め」という意味の場合だけである(ヤコ二・八参照)。
それにもかかわらず律法は、すべての有機体同様、肢体に分けることができる。この意味において、律法には三つの関連する法規群がある。道徳上の決まり、神礼拝の決まり、社会的規則である。これらのうち、最初の二つには救いの物語において特別な霊的意義がある。
それでも、社会的決まりの大部分にも、救済史における意義があることがしばしばである。救いに関する新約聖書の諸々の真理の預言的・予型的予表であることが度々あるのである。例えば、ヨベルの年(レビ二五、ルカ四・十九)、近親者による贖いに関する律法(ルツ)、逃れの町(ヨシ二〇)等。このような事例では、社会的規定は予型的祭儀法規と同列に立つ。
律法は知識を生じさせる(ロマ三・二〇、七・七)。すなわち、
(1)的外れ、違反、反逆としての罪を知る知識。 (2)自分の罪深さ、無力さ、失われた状態を罪人自身が知る知識。
一.罪を知る知識
これは三つの段階で進む。罪は
1.的を外すことである。「罪」を表す新約聖書の言葉(ギリシャ語 hamartia ハマルティア)は、元々「的を外すこと」を意味した。こういうわけでホメロス(紀元前九〇〇年)の中にこの語が約百回現れるが、それは戦士が槍で敵を突きそこなった時に用いられている(七十人訳の士二〇・十六参照)。あるいはトゥキディデス(紀元前四五〇年)では、人が道を見失った時に用いられている。アリストテレス(紀元前三五〇年)以降になって初めて、この語は霊的・道徳的領域に転用されるようになった。
全体的な意味においては、「罪」はただ神だけに対するものである。「あなたに対して、ただあなただけに対して、私は罪を犯しました」(詩五一・四)。しかし、罪人は盲目である(エペ四・十八、十九)。罪人の良心は欺きに満ちている(使二三・一。一テモ一・十三、一歴四・四参照)。そして、罪人には神の理想がわからない。それゆえ、罪は罪人に対して啓示により間違えようがないほど明らかにされなければならない。これは律法を通して実現する。世界史の舞台の上に、律法は模範として与えられた。律法は人々の徳行のために、神の御旨によりイスラエルを通して示されたものである。1こうしてまず、「的を外すこと」の何たるかが明らかにされる。
1 人の「心のかたくなさ」(マタ十九・十八)のゆえに、神がなさった諸々の譲歩とは別である。
しかし、罪はそれ以上のものである。「無知」(使十七・三〇)、「間違い」(ヘブ九・七)、「敗北」(ロマ十一・十二)、「堕落」(エペ二・一、字義訳)以上のものである。罪は容赦なく暴露されなければならない。罪は
2.不従順、違反、不法である(ロマ十一・十二、ヘブ二・二、一ヨハ三・四)。それゆえ、律法は理想を描写するだけでなく、理想を命じなければならない。理想を義務付け、命令し、人が果たすべきものとして要求しなければならない。「律法」たらなければならない。
しかしこれにより罪の性格が深刻化する。なぜなら境界線がないところでは、その境界を「踏み越える」ことについて述べるのは不可能だからである。「律法のないところには、違反もない」(ロマ四・十五)。しかし、そのような線が存在するところでは、それを守らない場合、違反が生じる。モーセ以前、時折、また場合に応じて、「命令と違反」があった(ロマ五・十四、十八、一テモ二・十四)。しかしモーセ以降初めて、組織的・教育的制度ができて、罪と違反とを知る知識を教え、幾世紀にもわたって連綿と途切れることなく、言葉(特に出二〇)と象徴(ヘブ十・三、九・七)により機能してきたのである。
このように、律法は罪の存在を示すよりは、むしろ、罪とされる可能性を示す。「律法がなければ、罪とされることはない」(ロマ五・十三)。律法は罪を「造る」のではなく、「罪」を「違反」とする。しかしこれにより、穏やかに罪を咎めることは不可能になる。「律法は怒りを招く」(ロマ四・十五)。
3.反逆。律法が存在するだけで、悪は真の姿を現すよう、ますます挑発されているように感じる。「禁断の実は甘い」。禁止によって欲望が燃え上がり(ロマ七・八)、罪が「生き返る」(ロマ七・九)。罪が「死」から目覚め(ロマ七・八b)、「欲望」と「行い」になる(ロマ七・八)。そして、罪(単数形)は諸々の罪(複数形)となって現れる(ロマ七・五)。このように律法は「罪の力」であり、悪が内側から外側に現れるよう強いる(一コリ十五・五六)。罪そのものは、灼熱してはいないが柔らかく輝いている鉄のようなものであり、最初は気づかれることなく静かに燃えているが、水を振りかけられると、ジューと音を立てて逆らうのである。こうして、罪(複数形)は律法により増し加わる。
しかしまさにここで、罪は言わば律法を助けるのである。なぜなら今や、罪を暴露するものとしての働きを全うする機会が増えるからである。こうして罪が律法に反して罪を犯せば犯すほど、ますます、罪は罪を犯すことにより嫌々ながら律法のために奉仕することになる。こうして律法により、罪の発現はすべて善のために役立てられる。そして、サタンは自らに反して働かなければならないのである。
しかし、罪はこれを望まなかった!罪は神の律法を「機会」として誤用し(ロマ七・八、九)、人類をさらに大きな不幸の中に突き落とすための手段としようとしたのである!人の弱さだけでなく、それにもまして特に「命に至るよう私に与えられた戒めが、私にとっては死に至るものであることがわかりました。なぜなら罪は、戒めによって機会を捕らえ、戒めによって私を欺いて殺したからです。それでは、善なるものが私に死をもたらしたのでしょうか?断じてそんなことはありません!罪が、善なるものを通して、私に死をもたらしたのです」(ロマ七・十~十三)。しかしこれは次のことを意味する――神のこの命の賜物が罪を殺人の武器に変えたのであり、いと高き方の支配の杖を短剣に、目を見えるようにする軟膏を毒に変えたのである。聖なるものをもって、罪は人類を殺そうとした!聖なるものが罪に仕えるものとされなければならず、神の啓示がサタンの道具となったのである。
しかしまさにここにおいて、特に輝かしい方法で神の支配が明らかになる。なぜなら今や、罪の性質が初めて正確に暴露されるからである。罪は神に対する反逆であり、いと高き方への敵意であり、霊の王国における革命であり、その意図は、世界に対する神の主権の御座を強奪することである!
しかし神がこれをすべて許されたのは、罪が「罪」として示されるだけでなく、「極度に罪深い」ものとして示されるためだった(ロマ七・十二、十三)。「律法が来たのは、違反が満ち溢れるためです」(ロマ五・二〇)。こうして悪は善なるものを自分に仕えさせようとしたが(ロマ七・十三)、その逆のことが起きた――善なるものが悪を自分の用のために利用したのであり、神の忍耐はただ罪をますます厳しく裁く結果になったのである。
二.罪人の自己に関する知識
しかし、目標への道はなおもますます暗くなる。律法は罪の有罪性を示すので、同時に罪人の責任をも示す。罪は「或る」咎ではなく、「その人の」咎である。行為と行為者は一つである。これによって初めて、律法のメッセージは個人的なものになる。第一に
1.罪人の罪深さを示し、死に至る咎を自覚させることにより、人生の享受を消し去る。律法は行為者の責任を大いに増した。それにより、律法は罪人を「呪い」(申二七・二六、ガラ三・十)の下に置いた。「律法は怒りを招く」(ロマ四・十五)。
それと共に、命は罪人にとって全く「命」ではなくなった。「私にまだ律法がなかった時、私は『生きました』。しかし、戒めが来た時、罪がよみがえりました。しかし、私に臨んだのは――死でした」(ロマ七・九、十)。今やこの魂に残っているのは、悲惨な予感、義なる裁きに対する恐るべき予感だけである。「文字」である律法は「殺し」た(二コリ三・六)。律法の性格は「聖」であり、その宣告は「義なる」ものであり、その目的は健全であるが、それにもかかわらず、律法は「死と裁きの僕」(二コリ三・七、九)であることが判明した。律法は死の原因ではなかったが、罪人に死をもたらした。
2.罪人の無力さ。しかし、この人の中に善に対する「意欲」、志向、好みが目覚める(ロマ七・十八)。すなわち、より良い自我、知性が考え始める(ロマ七・二五)。それは悪に対して戦い、律法に「喜んで同意する」(ロマ七・十六)。確かに、「内なる人」は神の戒めを「喜ぶ」(ロマ七・二二)。
きわめて痛ましい劇的な方法で、魂のこの戦いがローマ七章に示されている。この章が述べているのは、回心後のクリスチャン経験ではないし(アウグスチヌス、ヒエロニムス、宗教改革者たちはそう説明している)、回心前の律法の下でのパウロの経験でもない(例えばネアンデルはそう説明している)。むしろパウロは、仮に自分が「自分自身の中に」あったとした場合の自分自身について述べている(二五節の autos すなわち自我は、聖霊から離れて「自分自身の力によって立っている私」のことである)。ローマ七章においては、彼は常に「自分自身の中に」あるが、ローマ八章では常に「キリストの中に」ある。こういうわけで、この二つの章が取り扱っているのは、二つの連続する経験ではなく、二つの状態、この問題を考察する二つの方法なのである。再生されたクリスチャンでも(実に異常なことだが)時として(あるいは頻繁に)、経験に関して言うと、ローマ七章に落ち込むおそれがある。他方、立場に関して言うと、常にローマ八章の中にあるのであり、確かにローマ八章の中を歩み続けるべきである。
この戦いに勝利するのは簡単なように思われる。善は「身近にある」(ロマ七・十八、ギリシャ語 parakeitai)。しかし!その結果は――果てしない敗北である(ロマ七・十五、十六)。最終的に、人は自分のことがもはやわからなくなる。「私は自分のしていることが全くわかりません」(ロマ七・十五)。自分自身が自分の行動を決めているのではなく、自分の内に罪が宿っていることを、人は悟る。自分自身の家の主人ですらないのである(ロマ七・十七、二〇)。人は内的に散り散りに引き裂かれる――なぜなら自分の欲することはせずに、自分の欲しないことをするからである(ロマ七・十五、十六)。人は一切の善をなしえない(ロマ七・十八、使十五・十)。罪の下に「売られて」いる(ロマ七・十四)。のみならず、罪は一つの「法則」であり、人はその奴隷である。
人の魂という砦を占領するための戦い1が、二つの霊の王国、すなわち、「神の法則」と「罪の法則」との間で荒れ狂っていて、「肢体にある法則」――これは人格という戦場に展開している、罪の法則の軍勢の前線部隊である――が、神の法則という軍勢の部隊である「思いの法則」に対して常に勝利を収める。こうして魂は常に征服されて罪に同意する(ロマ七・二三)。そして、これは強制的にそうなるので、これもまた「法則」(ロマ七・二一)として述べられている。「モーセの律法」は助けにならず(ロマ八・三)、鏡のようにこの混沌を照らすだけである。しかしこうして、自分は失われている、という意識が人の内に生じるのである。
1 ローマ七・二一~二三でパウロが示している戦い。「~に対して戦う」(antistrateuomenon)「戦争捕虜として引いて行かれる」(aichmalotizonta)という句が示しているのは、軍隊生活の絵図である。ローマ七・二一~八・三でパウロは六つの法則について述べており(上述参照)、それに「キリスト・イエスにある命の霊の法則」が七番目として加えられている。
3.失われていること。人は希望しつつ絶望し、絶望しつつ希望する。そして、内心恥じつつ、外や上を見て、「ああ、私は惨めな人です!誰が私をこの死の体から解放してくれるのか?」と叫ぶ(ロマ七・二四)。
しかし、これこそまさに律法の結果である。すなわち、解放者の必要性を悟り、解放者の聖さと神聖さとを悟るのである。解放者の来臨と共に、それゆえ、律法は消え去ることができる。律法の「目標」であるキリストは、同時に、律法の「終わり」でもある(ロマ十・四)。
こうして、旧約の律法の目的から新約の自由が生じる(ロマ七、ガラ三)。それによって律法が罪人を導いた恐るべき死の道は、キリストにあって、同時に、律法に対する罪人の「死」ともなった。「私は律法を通して律法に対して死にました」(ガラ二・十九。ロマ七・一~六参照。コロ二・二〇、二一)。律法は罪人を下に向かって導き、絶望にすら至らせて、死を感じるようにさせた。しかし、まさにこれにより、律法は罪人を上に向かって導き、命を手に入れさせたのである。救いをもたらすのは、この敬虔な悲しみの道だった(二コリ七・十)。今、自己を知る地獄的な知識へと下降した後、救いとキリストとを知る知識の天的上昇の始まりが可能になる。いっそう正確にキリストを証しすること――これが宮や祭司職における神聖な奉仕が定められた目的だったのである。