第七章 律法による命の道

エーリッヒ・ザウアー

「律法は魂を新鮮にする。」(詩一九・七)

神の王国におけるイスラエルと神との間の関係を示すこと、そして、諸々の型によってキリストの御業を預言すること――これがユダヤ人の神殿礼拝が持つ二重の意義だった。一方には象徴的意義があり、他方には予型的意義がある。

象徴は見えないものの目に見える覆いであり、より高次の真理の物質的衣であり、霊的・超感覚的なものの印・表現である。

預言的象徴であり、キリストとその贖いの御業とを示す人・物・制度・出来事であり、「来るべき良いものの影」であって(ヘブ一〇・一、九・一一、コロ二・一六、一七)、予め「天の事柄」を示すものである(ヘブ九・二三)。

こういうわけで象徴はそれ自身の時代に関するものであり、旧約聖書に限られていて、イスラエルに関係している。型はキリストについて告げ、未来を指し示し、メシア預言である。象徴は律法の中にとどまり、型は恵みを仰ぎ見る。型は旧約聖書の中にある福音の一片であり、旧約のただ中における新約の一片である。

型を解釈する権利と義務が、旧約聖書の性質から生じる。旧約聖書はそれ自体、救いを準備するにあたっての神の啓示である。また、この権利と義務は、聖書の一般的・有機的・歴史的一体性からも生じる。さらに、これはとりわけ主イエスご自身(ヨハ三・一四、六・三二、三三)、また特にパウロ(一コリ五・七、八、一〇・四、一一、ロマ五・一二~一九)、そしてヘブル人への手紙(特に五~一〇章)によって確立される。

このように、旧約の神礼拝は二重の特徴を示す。

A.象徴的。旧約的な神との交わり
B.予型的。新約的な神との交わり
後者については
(a)いけにえによって――
 救いの新約的基盤
(b)幕屋によって――
 救いの観点から見た新約的世界観
 救いの新約的仲保者
 救いの新約的交わり

このように、旧約の神礼拝は、予型的取り決めの四つの群を果たすことによって、その任務を遂行する。

(1)神礼拝の場所、すなわち、至聖所、聖所、前庭。これに引き続き、旧約には神礼拝の三つの場所があった。幕屋、ソロモンの神殿、ゼルバベルの神殿(ヘロデによって拡張された)である。

(2)神礼拝に携わる人々、すなわち、大祭司、祭司、レビ人。レビ人にはコハテ族、ゲルション族、メラリ族の三つの区分があった(民四)。

(3)神礼拝における行為。供え物(血を伴うものと伴わないもの)。清めに関する指針(例えば誕生、死、らい病)。宗教的行為(例えば割礼、誓い、断食)。

(4)神礼拝の時季。安息日、七つの主要な祭り、安息の年、ヨベルの年

A――旧約の神との交わり

この四重の絆を通して、主はご自身を御民と結び合わされた。道徳的規定は、聖なる方と罪人との間に存在する隔たりを示した。しかし、神礼拝の儀式の主な目的は交わりだった。いけにえによって、確かに毎年「罪が思い出され」た(ヘブ一〇・三)――そしてそれに関する限り、いけにえは道徳律法と同じ水準にあった。しかし、それにもかかわらず、いけにえの主たる全き意義は罪の赦しにあったのであり(レビ四・二〇、五・一〇)、その結果として、それに伴ういと高き方との交わりにあったのである。それゆえ、祭司たちもまた「近づく者」と呼ばれた(レビ一〇・三)。また、神礼拝の場所は「共に集まる天幕」すなわち「神とイスラエルとが共に集まる天幕」と呼ばれた(出三三・七、四〇・三四)。たんなる「集会の天幕」ではなかった。それゆえ、契約の箱の覆いは、礼拝全体の中心であり、最も聖なる器だった。「その場所で、私はあなたと共に集まり、あなたに語る――贖罪所から、証しの箱の二つのケルビムの間から語る」(出二五・二二)。

このように、モーセのいけにえによる礼拝の基本思想は、贖罪だけでなく和解でもある。法的正しさによる償いだけでなく、贖いの愛による交わりと交流の回復でもある。しかし、モーセのいけにえがこの和解を可能にしたのは、罪を「覆うこと」によってだった。われわれの聖書で「贖い(atonement)」という語が現れる時は常に、ヘブル語聖書では カファール(kaphar)という動詞が使われている(創六・一四の「覆う」と同じ言葉である)。この同じ動詞からカポレト(kapporeth)という語も来ており、これは文字通り罪を「覆うもの」すなわち贖罪の覆い(契約の箱のふた)を意味する。確かに、いけにえの体系は罪を取り除けなかった。「雄牛や山羊の血は罪を取り除くことができない」(ヘブ一〇・四、九、一一)からである――キリストの犠牲だけが罪を取り除くことができた(ヘブ九・二六)――しかし、ゴルゴタを仰ぎ見つつ、弱さによって生じたこれらの罪を覆うこと、そして、こうして言わば主の目からそれらの罪が見えなくなるのを許すことが、いけにえの体系の務めであり、また、それが持つ十字架との関係により、いけにえの体系の長所でもあった。

目的を持って考慮した上で、「高く上げた手」により、意識的に故意に犯された罪に対しては――旧契約では石打ちがあるのみだった(民一五・三〇逐語訳。レビ二四・一〇~二三)。この点に関しては、シナイ契約の特異性を見なければならない。このように、モーセのいけにえは、キリストの犠牲と関係していたにもかかわらず、罪に対する完全な赦しを仲裁できなかった。それは常に外側の清めだけであり、弱さや「過失」によってなされた旧契約の法規に対する違反を取り除くだけだった(民一五・二二~二九)。それゆえ、もっぱら、真の赦しを予め示す影だったのである。

だから、ゴルゴタ以前、人類全体としては、神の「忍耐」(ロマ三・二五、ギリシャ語 paresis)があるだけだった。しかしイスラエルには、その諸々のいけにえに基づいて、罪の赦しがあり(ギリシャ語 aphesis。詩三二・一)、比較的限定的な神との交わりもあった。それゆえ、旧約聖書においてすら、預言者たちや詩篇作者たちは、律法の祝福と命を与える効力とを喜んだ(詩三二・一一、三三・一、六八・四)。彼らにとって律法は、咎を暴露するものや絶望へと導くものであるだけでなく(ロマ七参照)、「心の喜び」(詩一九・八)、「喜び」(詩一一九・四七、三六・九)、「祝福」(詩三二・一)でもあった。

「罪を知る知識」とパウロは言う(ロマ三・二〇)。
 「恵みを被らせること」についてダビデは語る(詩一〇三・四)。
「文字は殺す」と使徒は言う(二コリ三・六)。
 「律法は回復させる」(生き返らせる)と詩篇作者は言う(詩一九・八)。
「なんと惨めな人だろう」とローマ人への手紙にある(ロマ七・二四)。
 「なんと幸いな人だろう」と詩篇作者は言う(詩一・一、三二・一)。
「呪い」について、かつてパリサイ人だった者は述べる(ガラ三・一三)。
 「主はあなたを祝福される」と大祭司は言う(民六・二四)。

しかし、両者とも同じ律法について述べているのである!さらに、両者とも正しいのである!なぜなら、律法は二つの磁極を持つ磁石の針のようだからである。それは自らの外側にある唯一の目標たるキリストを指し示すが、同時に、その中の二つの磁極は調和している。この二つの磁極とは、行いに対する要求の中にある愛のこもった聖さと、神に対する奉仕の中にある聖なる愛である。その道徳律法の中にある隔たりと、祭儀律法の中にある交わりである。律法の行動規定は束縛するが、その祭司的規定は自由にする。一方には権威があり、他方には贖いがある。一方では覆いは取り除かれ、他方では覆いをかけられる。一方には宥めがあり、他方には和解がある。要するに、道徳律法は裁きの間・王宮であり、祭儀律法は宮である。

それでも、両者は磁石の磁極と同じように一つのまとまりである。霊の命には必ず、新契約においてすら、両極性という特徴がある。なぜならそこには、モーセを唯一の仲保者とし、キリストを唯一の目標とする、唯一のイスラエル律法があるだけだからである(ヤコ二・一〇)。

しかし、キリストは両者を成就される。道徳律法に関しては罪の赦しという「恵み」をもたらし、祭儀律法に関しては影に代わる実体という「真理」をもたらす(コロ二・一七、ヘブ一〇・一)。こうして「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して来た」(ヨハ一・一七)。

これらすべては次のことを示している。すなわち、旧約は新約へ至るための第一段階にすぎない、と思うのは完全な誤りなのである。旧約の聖徒たちですら力強い信仰を持っていたのであり、この力強い信仰を旧約は直ちに生み出したのである。「聖霊は律法の隠れた魂だった」(一ペテ一・一一、ヘブ三・七、出三一・三を見よ)。旧約の会衆の詩篇が新約の原始共同体の詩歌集になりえたのは、ただこの理由による(一コリ一四・一五、二六、エペ五・一九、コロ三・一六)。こういうわけで旧約は二重である。その目標からすると旧約は新約に従属しているが、それ自体としては独立している。新約無き旧約は「尖塔無き建物」であり、旧約無き新約は「空中楼閣」である。

こうして旧約は権利を保ち、新約も特権を保つ。新約は旧約の中に隠されているが、すでにその中にかなり含まれている。旧約は新約の中で除幕されると同時に、輝かしく拡張される。「旧約の中に新約が隠されており、新約の中に旧約が啓示されている」(アウグスチヌス)。「旧約はつぼみであり、その中にそのすべての輝きがすでに存在しているが、閉じ込められている。新約は満開の花であり、その輝きを示し、その香りを楽しませてくれる。旧約と新約は一つであり、しかしながらそれぞれ別である」。

B――旧約における新約の救い

旧約聖書の明確な根本的主張は、「あなたの神である主は唯一の神である」ということである。古代オリエント、特にエジプトやメソポタミアの多神教、及び、古典古代、特にギリシャやローマの同様の多神教とは対照的に、この知識はますます明るく、神の旧約聖書の啓示の光の輪の中で輝き渡った。それと同時にこの輪の中では、堕落した人類の性質の有限性と罪深さが、極めて重大なものと見なされた。神は永遠の御方であり、われわれは一時的な存在である。神は聖なる方であり、われわれは罪人である。神は生ける方であり、われわれは死の下に落ち込んでいる。それにもかかわらず、神とわれわれとの間に合一を生じさせようとするなら、この場合、神が全く自発的に、この時空世界のどこかの場所に何か永遠のものをもたらすことを通して、この合一を創造しなければならない。

これは旧約を確立することによって成就した。それ以降、神が人類と「一体になる」結合点があるようになった(出二五・二二)。この結合点は世界の出来事の道徳的中心であり、これによって初めて歴史全体に生き生きとした連続性と目標とが与えられる。また、この結合点は時間と永遠とが接する点であり、そこで罪人は聖なる方の臨在の中に入る。しかし、罪人がこの臨在の中で滅ぼされないようにするには、この点はとりわけ、それ自身の中に二重の要素を含んでいなければならない。否定と肯定を含んでいなければならず、古いものをすべて取り壊して新しいものをもたらさなければならない。すなわち、罪の清めと聖化、赦しと新たな主権、和解と導き、もしくは、旧約聖書の言葉で言うと、覆いと指導、カポレト(kapporeth)とトーラ(thora)、宥めと律法の板である。それゆえ、これら二つは、旧約の神礼拝のあの象徴的・中心的器具である契約の箱と、極めて本質的に結びついていた(出二五・一七~二二、ヘブ九・四)。

「このように世界情勢が獲得したこの中心は、動くことのできる点であり、この点は歴史の進展と共に先に進んだ。イスラエルが荒野で放浪している間、この中心はイスラエルと共にさまよった。しかし、イスラエルが定住してからは、この中心は神殿の中に落ち着いた。しかしその後、滅びる定めにある石でできた神殿の代わりに、『生ける石』で建てられた『霊の家』である教会が登場した(一ペテ二・五)。このように、世界のこの生ける中心、道徳的中心は、歴史の中を進む。キリストは世の終わりまでご自身の教会と共にとどまられる」。

これにより、次のことが明らかになる。この発展はすべて、最初から最後まで、単一の大きな流れであり、一つのすべてに広がる神の和解の御業なのである。キリストの啓示は、アブラハム契約と共に始まったものの完成である。それゆえ、イエスは「キリスト」とも呼ばれる。これは、旧約聖書が預言した御方、イスラエルが待ち望んだ御方、神が賜った「油塗られた」御方(詩二・二、一サム二・一〇、ダニ九・二五)は、すでに旧契約の預言者たちにより、この呼称の下で描写されていたことを意味する。キリストという彼の称号は、旧約聖書における神の啓示との不可分な一体性を表している。

諸々の千年期を結ぶこの歴史的一体性から次のことが導かれる。すなわち、旧約の時代ですら、神は来るべき救いをある程度進んだ形で示せたのであり、行為や事実、職務や制度、歴史的導きや個人的出来事という形で預言できたのである。それらはキリストとその贖いの御業を目標としていたのである。それゆえ、主とその使徒たちは何回も、旧約聖書の中にそのような予型的意義を認めた。その予型的意義は、その預言の時代に言及するものでありつつ、しかしながら、その目標という観点からすると、その実際の真の意味だったのである(コロ二・一七、ヘブ一〇・一)。それゆえ、青銅の蛇は十字架の型であり(ヨハ三・一四)、預言者ヨナは復活の型であり(マタ一二・四〇)、荒野におけるマナは命のパンであるキリストの型である(ヨハ六・三一~三五)。とりわけここで注目すべきは、旧約聖書のいけにえと祭司の制度である。キリストに先立つこれらの制度において、キリストの御業が諸々の象徴によって示された。それらはその本体である御方の似姿であり、その成就である御方のだったのである(ヘブ八・五、九・二三~二五)。

しかし、それ以上である。旧約のいけにえにおいて、キリストの御業はすでにその当時、実際に有効だったのである。それらは実際に救いの効力を持つ予型的行為であり、聖なる御方との交わりを予め示すものであるだけでなく、それを造り出すものでもあった。象徴であるだけでなく、典礼でもあった(レビ四・三一)。

にもかかわらず、これに関して、これらの祭司の行為自体には価値が無かった(ヘブ一〇・四)。これらの行為に価値があったのは、ただゴルゴタの一つのいけにえのみによった。これらの行為は無力だったが、それでも効力があった。貧しかったが、それでも多くの者を富ませた。無能だったが、祝福を与えた。言わば国立銀行の兌換紙幣のようなもので、それ自身は紙にすぎないが、それでも――その払い戻し日の観点からすると――支払期日のであっても、現金としての価値を持つ。そしてイエス・キリストは、十字架上の犠牲の死により、これらすべての旧約の「兌換紙幣」を完全にその額面通りに支払われたのである。

一.モーセのいけにえ

イスラエルの宮における神礼拝で、最も重要な行為はいけにえである。その根本理念は四つの主要な要求から成る。

1.供え物に欠陥があってはならないことは、主イエスの聖さを示す。彼はその奇跡的誕生により遺伝的罪(単数形)を免れており、また、その聖なる歩みによりあらゆる実際の罪(複数形)を免れている(一ペテ一・一九)。

2.供え物は、それをささげる人が両手をその上に置くことにより、その人と一つになる。これは、主イエスが咎を受け入れたことを示す。実際、罪無きキリストがご自身を「罪(複数形)の赦しのための悔い改めのバプテスマ」(マコ一・四)に渡された時、罪人の立場を受け入れて罪人と一つになり、人類の罪(複数形)を担う覚悟があることを、彼は予型的に宣言されたのである。そして、この覚悟の予型的宣言を、その後、彼は十字架上で歴史的に遂行されたのである(一ペテ二・二四)。

3.キリストがゴルゴタで刑罰を耐えられたことにより、いけにえを殺すことは十字架の預言となった(ヘブ九・一三、一四)。「血を流すことなく、赦しはない」(ヘブ九・二二)。

このようにいけにえのこれら最初の三つの要求は、地上におけるキリストの御業、われわれのためのキリストを示している。キリストは肉体にあった時、救いの獲得を成就されたのである(ヘブ五・一~九)。

しかし、獲得されたものは使用されなければならない。そしてこれが実現するのは、ただ信仰のみによる。その結果、債務者は引受人と有機的に一つとなる(ヨハ六・五五)。それゆえ、われわれのためのキリストは、われわれの内のキリストでもなければならない。また、地上における彼の祭司職に、彼の天的祭司職が加えられなければならない。今や、この有機的一体性を、いけにえを食することがまさしく予表していたのである。

4.いけにえを食すること。それゆえキリストは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はありません」(ヨハ六・五三~五七)と仰せられた。それゆえ、キリストの人性はその肉体の復活においても継続したのである。それゆえ、贖った者とこのように一つになるという目的のために、彼の御霊を遣わされたのである。それゆえ、各人の新生が必要であり、「かしら」と「肢体たち」との間の有機的交わりが必要なのである。

このように、モーセのいけにえはキリストの御業全体を含んでいる。誕生からバプテスマまで、バプテスマから十字架まで、そして十字架を越えて復活と、御霊の派遣まで含んでおり、実に、メルキゼデクの位による彼の永遠の大祭司職まで含んでいるのである。

二.幕屋

イスラエルには連続する三つの主要な神礼拝の場所があった。荒野とシロにおけるモーセの幕屋(一サム一・三、紀元前一五〇〇~一〇〇〇年)、モリヤ山上のソロモンの神殿(一列六・一、紀元前一〇〇〇~五八六年)、捕囚からの帰還後のゼルバベルの神殿(エズ三・八)である。ゼルバベルの神殿はヘロデによって完成された(ヨハ二・二〇、紀元前(五三六)五二一~紀元七〇年)。本質的には、これら三つはみな同じ設計に由来するものであり(出二五~二七と三〇)、救いの計画において同じ意味を持っていた。幕屋の使命は、まず第一に

1.宇宙の象徴であることであり、これは神の王国の観点から見たものだった。

イエスと同時代のユダヤ人である、アレキサンドリアのフィロは、幕屋を宇宙の型としてすでに解釈しており、ヨセフスもそうだった。この適用が特に明らかになるのは、大祭司が大いなる贖いの日に至聖所の中に入る時である。この贖いの日は新約でキリストが成就されたものと結びついていた(レビ一六、ヘブ九・二三、二四)。

幕屋の諸々の器は天にあるものの写しだった(ヘブ九・二三)。しかしゴルゴタの後、キリストは「真の聖所の写しにすぎない、人の手が設けた聖所の中に入ったのではなく、天そのものの中に入られた。それは今やわれわれの救いのために、神の御顔の前に現れるためである」。しかしこれは、地上の聖所は天の聖所の写しであることを意味する。また、贖いの日に、アロン族の大祭司が、前庭にある全焼のささげ物の祭壇からの血を携えて、聖所を通って至聖所の中に入ったように(レビ一六・一一~一四)、メルキゼデクの位による祭司であるキリストも、ゴルゴタの「青銅の祭壇」からのご自身の血を携えて(ヘブ九・一二)、地から「諸々の天を通って」(ヘブ四・一四)行かれた。それは「諸々の天を超えた」宇宙の「至聖所」で(ヘブ七・二六、エペ四・一〇)、神の「恵みの御座」の前に現れるためだった(ヘブル四・一六)。

このように前庭はゴルゴタがあった地であり、聖所は天であり、至聖所は神の御座である。

上で神は二重の働きをされる。贖われた者を義とすること聖化することである。それゆえ、前庭には二つの器があった。全焼のささげ物の祭壇と、清めの洗盤である(エペ五・二五、二六参照)。

には、そして、天の諸霊の間における永遠者への礼拝とがある。これらのものを証しするのが供えのパンの机(命のパン、ヨハ六・四八)、燭台、香壇(詩一四一・二、黙八・三)、並びに、契約の箱の覆いと幕に描かれていたケルビムの姿である(出二六・一)。

しかし「諸々の天を超えた」ところに神ご自身の御座がある。律法の石板が至聖所の中にあったように(一列八・九)、そこに宇宙を治める律法がある。そこにはまた、罪を赦す恵みがあり、それにより神の主権の御座は「恵みの御座」となる(出二五・一七、ヘブ四・一六)。またそこには、とりわけ、神の栄光の光がある。この光はシェキナの雲のように他のすべてのものを照らす(出四〇・三四、三五、一テモ六・一六)。

しかし、そのすべての愛の御計画を、神はキリストにあって遂行される。そしてそれゆえ同時に、幕屋はキリストを指し示すものとなる。すなわち、幕屋は

2.世界の贖い主の型である。

事実、キリストは肉体となった言葉として、われわれの間に「幕屋を張」られた(ヨハ一・一四)(ギリシャ語 eskenosen = 幕屋を張る。skene 幕屋から派生)。このキリストにおいて、そのすべての型は成就された(一六六九年に亡くなったライデンの改革派神学校教授のコッケイウスがすでにそう述べている)。

キリストは

われわれの義認――全焼のささげ物の祭壇――であり(一コリ一・三〇)、
われわれの聖別――清めの洗盤――である(一コリ一・三〇)。

彼はわれわれを

天上」(エペ一・三、二・六)――天の写しとしての聖所(ヘブ九・二四)――に置かれた。

そして彼処のわれわれの天の場所において、キリストは

われわれの――七つの枝を持つ燭台――であり(ヨハ八・一二)、
われわれのパン――供えのパン――である(ヨハ六・四八)。

また

われわれのために嘆願してくださる、メルキゼデクの位による大祭司――金の香壇――である(ヘブ七・二六、詩一四一・二、ヨハ一七参照)。

しかし最終的に、キリストはわれわれを

彼の臨在(至聖所)の中に導かれる。そしてそこで、屠られた小羊として(黙五・六~一四)――血を注がれた宥めの蓋を伴う契約の箱の成就として(ロマ三・二五)――彼はご自分の民から永遠の礼拝をお受けになる。

しかし、キリストにあってわれわれもまた彼の似姿に同形化される(ロマ八・二九、一ヨハネ三・二)。それゆえ、幕屋は同時に、

3.救いの道及び交わりの型である。

信じる者たちは

から見ると――暗闇と罪の力から義とされている。すなわち、全焼のささげ物の祭壇である。
内側から見ると――御言葉の洗いを通して聖別されている。すなわち、清めの洗盤である。エペ五・二六。
外側から見ると――彼の証しを掲げる発光体として輝いている。すなわち、燭台である。黙一・一二、二・五、ゼカ四参照。
から見ると――彼らは礼拝の香をもって祈る。すなわち、金の祭壇である。黙八・三、詩一四一・二。
すべての面を見ると――命のパンで力づけられる。すなわち、供えのパンである。ヨハ六・四八。
を見つつ――彼らは御座の前に現れるために急いでいる。すなわち、契約の箱である。

これらすべてにより、イスラエルの神礼拝はその目標を示す崇高な預言となった。それは旧約律法の中で最も預言的な要素であり、そういうわけで律法と預言とを結ぶ絆である。

4.新約の地位の優位性

しかし、これらすべてに関して、その成就はあらゆる型よりも遥かに優っている(マタ一三・一六、一七)。

(a)旧契約では一部が全体として通用した

十二分のが十二分の十二として通用した――祭司の部族であるレビ族のように(民八・一六~一九。これは出一九・六の代わりである)。
十分のが十分のとして通用した――十分の一税の貢ぎ物をささげることにより(レビ二七・三〇)。
七分のが七分のとして通用した――安息日を聖別することにより(出二〇・八~一一)。

しかし、新契約には全体が見いだされる。

一つの部族だけが祭司なのではなく、民全体が祭司である(一ぺテ二・五、九)。
十分の一ではなく、全部である(コロ三・一七)。
一日ではなく、週全体である(コロ二・一六、一七、ロマ一四・五、七、八)。
そして、週については年、年については一生、時については永遠となる。

(b)旧契約には「影」しかなかったが、新契約では「本体」が出現する(コロ二・一七、ヘブ一〇・一)。「恵みと真理(本質、実際を意味する)はイエス・キリストを通して来た」(ヨハ一・一七)。

(c)旧契約では「心のかたくなさのゆえに」(マタ一九・八)譲歩があった。特に殺人に対する復讐(ヨシ二〇)、複婚(創三〇、申二一・一五、一列一一・一~三)、奴隷制度(レビ二五・四四~四六)、訴訟(出二一・二四、マタ五・三八~四〇)。

新契約では「しかし、私はあなたたちに言う」という厳かな御言葉が示される(マタ五・二二、二八、三四、三九)。

(5)旧契約では多くのいけにえがあった。その年間の公式の数は一、二七三匹を下らない(民二八と二九による)。それゆえ、モーセからキリストまでを合わせると、約二百万匹となる。これには無数の数えきれない個人的なささげ物は含まれていない(レビ一・三、四、五)。

しかし、キリストについてこう述べられている。「一つのささげ物によって、彼は聖別されつつある者たちを永遠に完成されました」(ヘブ一〇・一四)。

こうして、キリストは律法に含まれているすべてのものを成就して凌駕される。律法は垣根、手綱、規則、障壁、鏡だった。しかし、キリストの十字架はその証印であって、永遠に有効である(ダニ九・二四)。「それゆえ、あなたのうぬぼれや感覚を捨てよ。そしてこの聖書を、最も高くて気高い至聖所と見なせ。最も豊かな富の鉱山と見なせ。その富を探り尽くすことは決してできない。それは、あなたが神の知恵を見いだせるようになるためである。神はこの知恵をこの書の中にとても平易に示しておられるが、それはすべての高ぶりを消し去るためである。この書の中にあなたは、キリストがその中に横たわられた産着や飼い葉おけを見いだす。それは天使たちが羊飼いたちをそれに向かって導いたものである。それらは貧相で粗末な産着だったが、貴いのはその中に横たわっている宝、すなわちキリストなのである」(ルター「旧約聖書への序文」一五二三年)。