キリストの霊はすべての預言の知識と力の源である(一ペテ一・十一、二ペテ一・二一)。キリストはすべての預言の内容・目標であるだけでなく、その起源であり固有の力でもある。預言者たちにあって、「ロゴス」(=言葉、ヨハ一・一、十四)であるキリストがご自身に関して語られたのである。このロゴスはメシヤのパースンと御業について語る。預言者たちは「来るべきキリストの御名の中で」(ルター)語り、行動した。
三つの主な領域で、預言はその使命を隈なく果たす。
一.過去に光を当てること。特に歴史文書として。 二.現在を裁くこと。特に警告と悔い改めへの召しとして。 三.将来について予め告げること。特に警告と慰めとして。すなわち、 (1)イスラエルに対する裁き (2)世の諸国民に対する裁き (3)イスラエルの回心 (4)世の諸国民の回心 (5)メシヤとその王国
一.過去に光を当てること
神の「語り手」「口」として、明らかに預言者たちは将来のことを予め告げる者であるだけでなく、同時に、過去と現在に対する神の裁きを宣告する者でもある。それゆえ、神の光の中で歴史を記すことが、彼らの本質的な主要な義務の一つである。だからサムエル、ナタン、ガドは各々、ダビデの生涯の年代記を書いた(一歴二九・二九)。シロ人アヒヤと先見者イドはその続きを書いた(二歴九・二九)。シマヤはレホボアムの時代の年代記者であり(二歴十二・十五)、エヒウはヨシャパテの時代の年代記者だった(二歴二〇・三四)。それゆえ、ヘブル語聖書では、歴史書はそれ自身の区分に分けられておらず、きちんと「預言書」の間にある。
しかしイスラエルの歴史書は独特の様式で書かれている。それは歴史の理論的提示というよりは、むしろ、歴史の実際的教訓である。過去の諸々の光景は、現在のための鏡である。「当時についての言葉は、今日について述べている」。預言記者たちは、歴史を国粋主義的に描写することが全くない。国民の最大の英雄たちの場合ですら、失敗や罪が容赦なく述べられている。(それゆえルターは「真の歴史家は卓越した人でなければならず、真実をひるまずに書く獅子の心を持っていなければならない」と言った。)彼らは聖人たちの心躍る伝説を示さないし、神格化された英雄たちを拝さない。彼らにとって、英雄ですら神の御手の中の道具にすぎず(例えばクロス、イザ四五・一)、また国家の「救済者」や解放者は主によって「起こされた」者たちである(士三・九、二歴十三・五、ネヘ九・二七字義訳)。彼らには悪人の生涯のうちにあった良い点について述べる公平さが十分にあったし(例えばアハブの悔い改め、一歴二一・二七~二九)、また、善人の生涯のうちにあった悪について黙っていない正直さも十分にあった(例えばアブラハムの嘘半分、モーセの短気、ダビデの姦淫、ソロモンの偶像崇拝、エリヤの落胆)。
それゆえ後世の人々はその祖先たちの歴史から学ぶべきであり、昨日の物語は今日に訴えかけるものとなる(例えば二歴十七・七~二三)。聖書では歴史は生ける歴史であり、過去の中に閉じ込められて「横たわっている」たんなる出来事ではなく、現在のわれわれに絶えず「臨む」神の行動である。そして、預言の物語は「説明というよりはむしろ呼びかけであり、他人事ではなくあなたに関することであり、昔々のことではなく今のことである」。それは効力のある言葉であり、知る必要があるだけでなく応答する必要もある。「これが起きる所でのみ、神の御言葉が実現し、真の歴史が生じる」。
二.現在を裁くこと
旧約聖書はユダヤ人の知性の産物とはかけ離れており、むしろ、ユダヤ人の生活方法に反対して戦いさえする!預言者たちは民の罪を容赦なく激しく批判する(イザ五八・一)。例えば強欲、強奪(イザ五・八、アモ六・四~六、ミカ二・二)、行き過ぎ、高利貸し(エゼ二二・十二、十三)、貧しい者を食い物にすること(イザ一・十七、ミカ三・二、三、アモ二・七、四・一、五・十一、八・四~六)、やもめや孤児を虐げること(イザ十・二、エレ五・二八)、裁判での賄賂(イザ一・二三、五九・四)、不正なはかりによる商売詐欺(ミカ六・十一、エゼ四五・十~十二)、生活の傲りと高ぶり(イザ二・十二~十七、三・十六~二四)、偶像崇拝と外国の習わし(エゼ八、ホセ七・十一、五・十三、十一・二、イザ二・六)、聖人ぶった態度(イザ五八・二~五、エレ七・四、ホセ七・十四、ミカ三・十一)、自己義認(マラ一・六、二・十七、三・十三)、死せる形式(イザ一・十一~十七、マラ一・十、アモ五・二一~二三、ホセ六・六)。
彼らは民を「背教者」(エレ三・八、十一)、その香を「忌むべきもの」(イザ一・十三)、そのいけにえを「人殺し」(イザ六六・三)、その供え物を「豚の血」(イザ六六・三)として描写する。その心は「石」(エゼ三六・二六)であり、その手は「血に満ち」(イザ一・十五)、その舌は「まむしの毒」(詩一四〇・三)に満ちていると描写する。
エルサレムは「遊女」(イザ一・二一、エゼ十六・二三、ホセ一~三)であり、その国は「ゴモラ」(イザ一・十、エゼ十六・四六)であり、その指導者たちは「誘惑者」(イザ九・十六)である。その君たちは「反逆者と盗人の仲間」(イザ一・二三)、人殺し(イザ一・二一、エゼ二二・六)、「ソドムの君」(イザ一・十)である。
「彼らの最も良い者もいばらのようであり、最も正しい者もいばらのいけがきのようだ」とミカは述べている(七・四。出三・二参照)。イザヤは当時のユダヤの民に宣言している。
「災いなるかな、罪深い国民、咎を負う民、悪をなす者の裔、堕落せる子ら」(イザ一・四)。そして最終的に、数世紀の忍耐の後、旧約の神であるエホバは、エルサレムに関して、「この都はそれが建った日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきた」(エレ三二・三一)と仰せられた。
このように預言者たちは「鉄の柱」「青銅の壁」(エレ一・十八)、「岩よりも堅いダイヤモンド」の額を持つ人々(エゼ三・八、九)として立つ。彼らは決して柔らかい枕を縫わない(エゼ十三・十八)。決して壊れた壁に水しっくいを塗らない(エゼ十三・十)。「平和がないのに、平和だ、平和だ」と叫ばない(エレ六・十四、エゼ十三・十)。
しかしそれでも、彼らには自分の民に対する燃えるような愛があった。また、事実、彼らは愛国者の中で最善の者だった(ロマ九・一~三)。しかし、だからといって、彼らはその諸々の罪に対して黙っていなかった。そのせいで彼らの心が張り裂ける時でもそうだった(エレ四・十九)。明らかに、彼らは嘘つきの預言者ではなかったし、「金目当てで」預言することもなかった(ミカ三・十一、ダニ五・十七、エゼ十三・十九)。内なる圧力が彼らの上にのしかかっていた。彼らは主に「説き伏せられた」(エレ二〇・七)。彼らの奉仕は職業ではなく召命であり、自分自身の意思によるものではなく「必要に迫られて」上から彼らに課せられたものだった。彼らがメッセージを所有していたのではなく、メッセージが彼らを所有していたのである!「もし宣べ伝えないなら、私は災いである」(一コリ九・十六)。
彼らは国の預言者ではなく、神の王国の預言者だった。大衆の預言者ではなく、御霊の孤独な山頂だった。そして、実際のところ彼らは本物の真の愛国者だったが、大衆は彼らを愛国的なユダヤ人らしからぬ他国人と見なした。悲観論者、反啓蒙主義者(一列十八・十七)、祖国の敵(一列二一・二〇)、裏切り者(エレ三七・十三、十四)と見なした。
彼らは憎まれ、蔑まれた(二歴三六・十六)。投獄され(エレ三八・二八)、獅子の巣に投げ込まれた(ダニエル)。石で打たれ、鋸で引かれ、あるいは他の方法で殺された。彼らは荒野や峡谷、地の洞穴の中をさまよった。それにもかかわらず、彼らは尊い人々であり、地は彼らが住むのにふさわしくなかった(ヘブ十一・三七、三八)。
イスラエルの預言者たちはこのような人々だった。ユダヤ人の悪い点を拒絶するとき、預言者たちの作である旧約聖書をも否定するのは、誤りにほかならない。旧約聖書ではなくタルムードこそが、ユダヤ精神の所産である!旧約聖書は聖霊の所産である!(一ペテ一・十一、二ペテ一・二一、ヘブ三・七)。この二者の間には、イエスとパリサイ人の間にあったような隔たりがある。旧約の神であるエホバがエゼキエルに、「あざみといばらがあなたと共にあり、また、あなたはサソリどもと共に住んでいる。(中略)これは強情な家だからである」(エゼ二・六)と仰せられたとおりである。イスラエルを通してではなく、イスラエルにもかかわらず、主はいつの日か勝利される。旧約聖書はユダヤ人の国民性に合致するユダヤ人の国家宗教の書ではなく、神の書である。また、この宗教に反対して戦う、神の啓示の書である。ユダヤ・タルムード・パリサイ的道徳と旧約聖書は同一の同じものではない。しかしおそらく、神がこの民を選ばれたのはまさに、そのうなじのこわさとご自身に対する敵対という背景により、ご自身の厳しい裁きの厳粛さとご自身の赦しの恵みの深さとを、いっそう鮮やかに示すことができたからであろう(使七・五一、ルカ四・二五~二七、マタ八・十、十一・二一、二三、十二・四二、ロマ二・二四)。
なぜならイスラエルの行程は、世界史という公の舞台の上に与えられた教育的実物教材であり、すべての国民に警鐘を鳴らす実例、各個人のための鏡だからである(一コリ十・十一)。「パリサイ人にならないようにしようではないか!姦通者や密通者、臆病者や嘘つき、偽証者や人殺しが見つかるのはユダヤ民族だけではない。そのような人々は常にどの国民の中にもいたし、将来も依然としているだろう。しかし、旧約聖書の目的は、ユダヤ人の歴史のみを記した本となることでも、敬虔な道徳的物語を集めた書となることでもない。人の――すべての人の――諸々の罪に対する、また、悔い改めて信じる罪人を赦す神の恵みに対する、聖霊の証しとなることである。われわれ自身の救いと祝福のために、旧約聖書がわれわれに告げることを願っているのは、如何にして臆病者や嘘つき、偽証者や人殺しや同様の罪人たちが神に召されて立ち止まり、神の方法で新しい生活を始めたのかということである」。
これはまた、旧約聖書の中にある「不快な」諸々の物語の目的でもある。そして、まさにその物語の預言的無頓着さこそ、そのすべてが清廉であり真実であることを示しているのである!まさにこの理由により、聖書は人類の書である。なぜなら、聖書は人類の絵図だからである。そしてこの人類の絵図は、現実を描写しているがゆえに、確かに非常に「不快」である!(詩十四・二、三)。それゆえ、様々な人種の間にどれほど違いや不一致、優劣があったとしても、いかなる自己神格化によっても取り消しえない判決が残る。「これには何の違いもありません。彼らはみな同じように罪人なのです」(ロマ三・二二、二三、九)。「では、人の誇りはどこにあるのですか?それは取り除かれました!」(ロマ三・二七)。
旧約史の中の抗争、一夫多妻、奴隷制度、特に過酷な戦争については、しばしば非難されてきたが、次の事実に注意しなければならない。新約聖書に向かう一つの教育的段階である旧約聖書は、新約聖書の道徳的教えという完全な光を啓示していなかったのである。そしてそれゆえ、主ご自身の証しによると、「人の心のかたくなさのゆえに」(マタ十九・十八)諸々の妥協を含んでいたのであり、この妥協をキリストは「しかしわたしはあなたたちに言う」という威厳ある御言葉によって無効にされたのである(マタ五・二二、二八、三二、三四、三九、四四)。
さらに。カナン人はイスラエル人によって殲滅されなければならなかったが、そうである以上、第一に次の点を見落としてはならない。諸民族は各々有機体であり、いくつもの世代にわたって、自分の民族の魂に相当する不変的生活を続けており、そしてそれゆえまた、一つの単位として神によって責任を問われるのである。第二に次の点を見逃してはならない。カナン人の場合、その物語がここで扱っているのは裁きの機が熟した人々であり、彼らの罪の枡目が満ちた時に滅ぼされたにすぎない。それゆえ、アブラハムに対するその地の授与の約束と(創十五・十八~二一、ガラ三・十七)、モーセとヨシュアによるその地の征服との間には、執行猶予の四百年があったが、この期間について旧約聖書は予め次のような言葉で族長に説明していた。「なぜなら、アモリ人の罪と咎の枡目が今はまだ満ちていないからです」(創十五・十六)。「神がご自分の友人たちに対して恵み深くあるためには、それと同時に、ご自分の敵に対して義しくなければならない。それゆえ、神の諸々の約束の成就にはしばしば時間がかかるのである」。だから、イスラエルがカナンを獲得する条件はカナン人に対する裁きであり、カナン人に対する裁きの条件は、まず罪が完全に熟すのを許す神の義だったのである。
三.将来について予め告げること
(1)イスラエルに対する裁き。悔い改めなくして救いなし!各人が神の御前で身を低くすることなくして、国家が興隆して永続的な繁栄と真の祝福に達することは決してない。「禍いなるかな、罪深い民族、咎を負う民、悪をなす者たちの裔、堕落した子ら」(イザ一・四)。「ギベアで角笛を吹き、ラマでラッパを鳴らせ(中略)敵があなたの背後にいるからだ、ベニヤミンよ」(ホセ五・八)。「イスラエルは善を退けた。敵が彼を追うだろう」(ホセ八・三)。
「滅亡」(イザ一・二八、ホセ四・六)、「蹂躙されること」(イザ五・五)、「衰退」(エゼ六・四)、諸国民によって「散らされること」(イザ三〇・十四。五・二五参照。エゼ二三・二二、二三)、自然災害による荒廃(ヨエ一・二~十二、アモ四・九、十)、神の御顔から「捨てられること」(エレ六・三〇、七・十五、三二・三一)――これが背信のユダヤ人の不幸な運命である。このように旧約の預言者たちは宣言する。その証拠は百倍にも増やせただろう。国家の没落(エレ二五、エゼ四)、各人に対する不興(エレ二九・十八)、諸国民からの軽蔑と憎しみ(エレ二四・九、二五・十八、二六・六)、燃える炎のような神の激怒(エレ四・八)、洪水のような御怒り(ホセ五・十)、その姿は――恐ろしく(イザ二・二一)、彼ご自身は――獅子であり(ホセ五・十四)――それでも、これはみな実際の「主の日」(ヨエ二)の序曲にすぎない。このように預言者たちはユダヤ人に対して預言する。「ただ律法と証しに求めよ!この言葉にしたがって語らなければ、彼らに夜明けはない!」(イザ八・二〇)。
(2)世の諸国民に対する裁き。しかし、諸国民もまた激怒の下にある。「暴虐」(ハバ一・九)、略奪に対する嗜好(ナホ二・十二、十三、ハバ二・八)、流血(ナホ三・一)、野獣のような性質(ダニ七・三~七)、自己を高く上げて自分自身の力を神とすること(イザ十・十二~十五、十四・十三、エレ五〇・三一、三二、ナホ三・八、エゼ二七・三、二八・二~五、三一・一~十四、ハバ一・十一、エゼ二八・九)、イスラエルに対する憎しみ、主に対する軽蔑(アモ一・十一、オバ十一、イザ十・五~七、四七・六、エレ四八・二七、五〇・七、エゼ二五・三、六)――これらすべてにより、諸国民に対する裁きの機が熟した。彼らの諸々の宗教は幻想であり(イザ四四・九~二〇、エレ五〇・三八)、彼らの神々は空しく(詩十四・二、三)、彼らの行いはことごとく罪で貫かれている(詩十四・二、三)。それにもかかわらず、彼らは向う見ずにも、自分たちの信念は主を敬うことよりも優っていると主張する(イザ三六・十八~二〇、十・十、ダニ五・三、四)。それゆえ、彼らは星界の主に対して反乱・反逆する(イザ四〇・二六)。それでも彼らは――全員まとめても――「桶の中のひとしずく」、「はかりの上の小さな埃」にすぎない(イザ四〇・十五)。
このゆえに主の判決が下る。「わたしはわたしの名によって呼ばれている都に裁きを下す。どうしてあなたたちは罰を逃れられよう?あなたたちは罰を逃れられない。わたしは地のすべての住民たちに対して剣を呼び寄せる」(エレ二五・二九)。「禍いなるかな、アッシリア」(イザ十・十五)、この「火の竜」(イザ十四・二九、二七・一)よ。剣がエジプトに臨む(エゼ二九・八)、ナイルのこの怪物よ(イザ二七・一、エゼ二九・三)。穴と罠がモアブに臨む(エレ四八・四三)、この空しく誇る者よ(イザ十六・六)。「わたしの手から、激怒のぶどう酒で満ちたこの杯を受け取って、わたしがあなたを遣わすすべての国民にそれから飲ませよ」(エレ二五・十五、十六)。アンモンは駱駝のための牧場となり(エゼ二五・五)、ツロは「裸の岩」(エゼ二六・四)となる。エラムは死に絶え(エゼ三二・二三、二四)、エドムは「死のように静かな」(Dumah)場所となる(イザ二一・十一、六三・一~六)。そして特にバビロン、この「主の鎚」(エレ五一・二〇~二三)は永遠に「ソドムとゴモラのように」なる(イザ十三・十九、二〇。エレ五〇・四〇)。このように預言者たちは同時に諸国民に対する預言者となる。旧約聖書は世界に対する警鐘なのである。
こういうわけで最大の預言者たちが長い一連の「演説を諸国民に対して」行っている。イザ十三~二三、エレ四六~五一、エゼ二五・三二、ダニ二、四、七、八、十一、アモ一、二。
(3)イスラエルの回心。「しかし苦しみにあった地にも、闇がなくなる」(イザ九・一)。裁きを通してシオンは贖われる(イザ一・二七)。「レムナント」が「戻ってきて」(イザ十・二一、エレ二四・七、ホセ三・五)、メシヤの出現を通して、新しくされた民となる(イザ十一・一、四・三、六・十三、エゼ三七・二六~二八)。
預言者たちはこの来るべき救いを、溢れるほど豊かに、きわめて輝かしい鮮やかな色彩で描く。彼らはそれについて数百の箇所で述べている。しかし常に、彼らの救いの預言は、回心して新しくされたイスラエルに言及する。回心していない、搾取的なヤコブに対しては、それが依然として約束の地に住んでいる場合でも、あるいはその諸々の罪のゆえに諸国民の間に散らされている場合でも、旧約聖書は主権と祝福の約束を一つも与えていない。
しかしメシヤが出現される時、イスラエルはパレスチナで(エレ十六・十五)、大いなる国家的悔い改め(ゼカ十二・十~十四、黙一・七)と霊的再生を経験する――これはイスラエル自身の国家的力によってではなく、ナザレのイエスによる!その時、ユダヤ人の奇跡が起きる。今はとても汚れていて、聖くないこの民が、とても聖くて、清らかな、様変わりした民となる。そのためすべての物が、もっとも小さな物まで、主にささげられる。「その日には、馬の鈴の上に『主に聖なるもの』と刻まれる。そして、エルサレムとユダにあるすべての鍋は万軍の主に対して聖なる物となる」(ゼカ十四・二〇、二一)。 このようにイスラエルの死者の中からの霊的・国家的「復活」(エゼ三七・一~十四)はその来るべき聖潔と結びついており、その聖潔はその祝福と結びついており(イザ六〇・十八、六一・十)、その祝福は神の栄光と結びついている(イザ四〇・五、四六・十三)。「万軍の主の熱心がこれをなす」(イザ九・七)。
(4)諸国民の回心。しかし、諸国民もまた祝福される。なぜなら、神はユダヤ人だけの神ではなく、諸国民の神でもあるからである(ロマ三・二九)。イスラエルの預言は諸国民を一つの家族と見ており、すべての諸国民が共にメシヤの救いにあずかる。それゆえ主はいつの日か「万民を覆っている覆いと、すべての諸国民を覆っている覆いを取り除く」(イザ二五・七)。その時、諸民族は諸民族のまま回心し(エレ三・十七、ゼカ八・二〇~二二、イザ二・三、ミカ四・二、イザ四二・四)、歴史上初めて、聖書的な意味でクリスチャンの諸国家と諸族が生じる。現在の時代(ペンテコステからキリストの再来まで)の目的は諸民族をクリスチャン化することではなく、「すべての民族の中から」個人を召し出すことであり、それによってユダヤ人と異邦人の中から教会を形成することである(使十五・十四)。
「その日、エジプトの地のただ中にエホバをまつる一つの祭壇が立ち、その境の近くにエホバをまつる一つの柱が立つ。そして、エジプト人はアッシリア人と共にエホバに仕える。万軍のエホバは彼らを祝福して言われる、『さいわいなるかな、わが民なるエジプト、わが手のわざなるアッシリア、わが嗣業なるイスラエルよ』」(イザ十九・十九、二三、二五)。
事実、イスラエルの預言はここでその最高のものを提示する。なぜなら、それが示しているのは、回心した異邦人が、新しくされて神の民となり今や希望となったイスラエルの中に組み込まれることではなく、「同じ神の贖いに基づいてイスラエルと諸国民との間に結ばれる兄弟同盟」だからである。
そしてマラキによって神は仰せられる、「日の昇る所から日の沈む所まで、わが名は異邦人の間であがめられる。またあらゆる所で、香と清い供え物がささげられる。わが名は諸国民の間であがめられるからである」(マラ一・十一)。これにより旧約の預言者は――ただ旧約的色彩によってだが――イエスがサマリヤの女に語られた新約の真理を予示する。すなわち、御父は霊と真理による礼拝をお受けになるのであり、これはこの町やあの町においてではなく、地上のあらゆる場所においてなのである(ヨハ四・二一~二四)。このように、それゆえ、イスラエルは自分の地で、そして諸国民も自分たちの地で、霊的で神聖な再生を経験する(詩八七・四~六)。そして、主は神聖な王として全地を統治し(ゼカ十四・九)、義と平和が全人類を治める。
(5)メシヤとその王国。イスラエルと諸国民の回心はメシヤの出現を通してもたらされる。彼はすべての預言の冠であり、輝く星である。「預言者たちは星々であり月である。しかし、キリストは太陽である」(ルター)。彼について「すべての預言者は、『その御名を通して、彼を信じる者はみな、罪の赦しを受ける』と証ししている」(使十・四三)。キリストは旧約聖書の主題である。彼ご自身がそう仰せられた(ヨハ五・三九、ルカ二四・二五~二七、四六)。そう彼の最大の使徒は証しした(一コリ十五・三、四、使二六・二二、二三)。ただ聖書の王によってのみ、彼に先立つ使者たちの証しを理解できる。ただ新約聖書によってのみ、旧約聖書に関する疑問は自ずと解けるのである。