神は永遠なる者であり、世界の創造主である。神はすべての時間的存在の超時間的原因である。「主なる神よ、あなたは永遠に私たちの避け所です。山々がまだなく、地と世界がまだ造られていなかったとき、永遠から永遠まで、あなたは神です」(詩九〇・一、二)。
この「永遠の神」が諸々の時代を生じさせられた(ヘブ一・二)。神から、「御旨の奥義」として(エペ一・九)、創造と贖いの勅令が発する。「ご自身の自由意志から発した勅令にしたがってすべてを成し遂げる」御方が(エペ一・十一)、「ご自身の中で」この計画を決定された(エペ一・九字義訳)。それゆえ、神は宇宙の創造主であるだけでなく、「世界の諸期間(諸時代)の王」でもある(一テモ一・十七字義訳)。神は始めである。神はアルファである。「万物は神から出て、神によって成る」からである(ロマ十一・三六)。そして、それから最後に再び神に戻って「神がすべてのすべてとなる」のは(一コリ十五・二八)、終わりが始めの中に在り、オメガがアルファの中に在るからにほかならない。「万物は神に帰すのである。神に栄光が永遠にありますように!アーメン」(ロマ十一・三六)。
しかしこの神の最終目標――万物をひとりのかしらの下に集めること(エペ一・十)――を、神は一度で完全に啓示されたのではない。反対に、神の知恵はもともと「隠されて」いたものであり(一コリ二・七)、その勅令の「奥義」は「永き世々にわたって沈黙のうちに保たれて」いた(ロマ十六・二五、エペ三・五、九、ヨハ十六・十二、十三)。ただ段階的導きによって、神は救済史の中で御計画を知らされたのである。それゆえ、昔の聖徒たちが尋ね求めたが知ることを許されなかったことを見ているわれわれの目と、聞いているわれわれの耳は幸いである(マタ十三・十六、十七、一ペテ一・十、十一)。
また、この導きは一定の速さで進む形――上昇する直線のような形――を取ったわけでもない。むしろ、上へと導く階段の段のように、定まった境界を持つ幾つかの時代区分の形を取った。ある期間のあいだ、神は人々がある道を行くのを許された。その後、神が介入して、新しい一連の出来事を開始された。最初、神は人類全体にご自身を啓示して、人類を二千三百年のあいだ一つの単位として取り扱われた。しかしそれから突然、神は人類を放置して、ご自身のために一人の個人(アブラハム)を選び、彼と共に全く新しい歴史の道筋を開かれた。四百三十年後、神は所定の律法を加え、千五百年のあいだイスラエル国家はそれに従わなければならなかった。しかしその後、この期間の終わりに、神は次のように宣言された。すなわち、この律法はもはや拘束力を失ったこと、また、きわめて厳格に命じられていたこと(例えば割礼)ですら今やきわめて厳しく禁止されたことである。神の以前の民は退けられて、すべての諸国民の中から一つの新しい民が形成された。しかし最終的に、これらすべてにもかかわらず、最初の民は再び受け入れられるであろう。そして、何世紀もの長きにわたって退けられた後に、復権させられるであろう。神の二番目の民は天の栄光を与えられ、全人類は目に見えるかたちで祝福されるであろう。
こうして古い世界から新しい世界に移り、その最終目標として、火の裁きの後、究極的完成が臨む。
このように救いの行程は、豊かな色彩を帯びた時代区分の連鎖、上に導く階段として自らを示す。それは、一つの歴史的有機体のきわめて多様な連結された部分に分かれている。確かに、この漸進的性格が救いの計画全体を大いに支配しているため、この漸進的性格は救いの計画全体の主要な外的・可視的特徴であり、啓示の歴史の構成全体を貫く原理である。
それゆえ、救いの発展に関して聖書を研究することは、これらの段階の各期間の特徴を描写することであり、救いの行程全体が発展していくその諸々の段階について明らかにすることであり、聖書の中に啓示されているその諸々の期間について調べることである。聖書は明らかに一つの霊的・神的・均一的な「塊」ではなく、一つの素晴らしい連結された歴史的・預言的な霊の有機体である。「聖書は有機的に、神の諸々の時代にしたがって、時代的方法で読まなければならない」。
これらの段階を「救いの諸期間」「諸時代」(累代)「諸経綸」(諸経済、ギリシャ語オイコノミアイ oikonomiai、エペ一・十、三・二、コロ一・二五、一テモ一・四)のどれで呼ぶかはあまり重要ではない。これらの言葉のどれにも、またそれ以外のどの言葉にも、聖書は決まった定義を与えていない。それゆえ、様々な時代(累代)や経綸を区分・分類することに関して、個々の注解者たちの間にも違いがある。重要なのは、どのような句や表現を使うかよりも、この事柄自体を見ることである。決定的に重要なのは、諸々の段階そのものを認識することであり、それらの違いと内的つながりを洞察することである。
救済史において、ある期間、あるいは特別な時間区分は、神の明確かつ特別な諸原則によって特徴づけられている歴史的期間である。それには常に特別な義務があり、神の救いの計画全体とのきわめて特別なつながりがある。救いの各期間は「御子の新たな偉大さと麗しさを示す。なぜなら、御子の中ですべての時代は巡るからである」(ヘブ一・二参照)。
これに関連して、このような一つの期間の多くの個々の諸原則は、時として、他の期間にも属していることがある。それゆえ、割礼は族長たちの時代にも有効だったのであり、次に続く律法の時代にも続き、その後はじめて廃止された。したがって、割礼は二つの特別な期間にわたって続いた。バベルでの裁きによる人類の経綸の原則は、塔の建設からメシヤ王国の設立まで続く。それゆえ、族長、律法、教会の経綸にわたって続く。
しかし、諸々の原則の一つの複合体としての、これらの特別な構成は、この構成が属している特別な期間の中に一度しか現れない。それゆえ、期間と期間は分けられており、各期間はそれ自身で一つの包括的な統一体なのである。したがって、新しい期間が始まるのは常に、その時まで有効だった諸々の原則の構成の中に、神の側からある変化が導入される時だけである。すなわち、神の側から次の三つの事が起きる時だけである。
1 それまで有効だったある規定の継続、 2 その時まで有効だった他の規則の廃止、 3 それまで有効ではなかった新しい諸原則の新たな導入。
したがって、現在の救いの期間が導入されたにもかかわらず、それ以前の期間の領域を支配していた一般の道徳的原則はまだ残っている(ロマ八・四、十三・八~十)。ただし、それは完全に新しい霊の中でである。なぜなら、律法は一つのまとまりであり(ヤコ二・十)、そのようなものとしての律法は全く廃止されたからである。
新しく導入されたのは、無代価の恵み(例えば、異邦人を無代価で受け入れること)、教会の建造、贖われた者の天的立場である。
廃止されたのは、神礼拝に関するモーセの規定である。割礼――これはアブラハム以来(創十七・十)霊感史の中に存在してきたものであり――モーセの律法によってきわめて厳しく命令されているものだが(出四・二四、二五)、義認及び救いの手段としては、新約の時代ではきわめて明確に禁じられている。「もし割礼を受けるなら、キリストはあなたたちにとって何の益にもなりません」(ガラ五・二)。旧契約には表面的ないけにえ、特別な祭司職、香、祭壇、祭司服があった。他方、今日では、信者たちの普遍的祭司職の原則が有効である(一ペテ二・九)。
これらの規則はみな、確かに神の規定だったが、経綸上の原則であって、ある定められた期間の間しか有効ではなく、「約束されていた子孫が来るまで」(ガラ三・十九)のものだった。しかし今や、それらはキリストにあって「成就」され、さらに高い霊の律法を通して廃棄されている(ヘブ十三・十、一コリ五・七、八等)。これから、神の救いの計画の中の諸々の経綸を区別する絶対的必要性の、計り知れない実際的意義がわかる。この区別をしないなら、律法的な自己聖別、混合、混乱という結果が必然的に生じることになる。
カトリック主義の多くの主要な原則は、この区別を順守しなかった必然的結果である。なぜなら、イスラエルに与えられた(!)モーセの経綸の諸々の原則を、今日の世界の諸民族に対しても(!)有効な規定と見なすかぎり――新約聖書の証しにもかかわらずそう見なすかぎり――当然ながら、特別な祭司職、香を焚くこと、他の多くの事柄の存在は「聖書的」であると正当化することが、唯一理に適ったことになるからである。これから次のことがわかる。救いの計画の中の諸々の特別な経綸を区別することは、非常に実際的なことであると同時に、教会の歴史・教理・礼拝にとって深い意味を持つものなのである。
次のような反論もありうる。「旧約聖書、あるいは少なくともその中の大部分、そして福音書の中の個々の御言葉さえも(例えばマタ十・五、六)、直接わたしたちに当てはまるものではないと解釈するなら、それは全聖書が私たちに与えられてきた事実と矛盾するのではないでしょうか?(二テモ三・十五~十七)」。もちろん、われわれはこう答える。「全聖書は私たちのものです。また、旧約聖書は最初から最後まで神の聖なる御言葉です(二ペテ一・二〇、二一)。しかし、すべてが私たちのために書かれているとは言っても、すべてが私たちについて、あるいは私たちに関して書かれているわけではありません!」。例えば、地上にいるご自分の契約の民であるイスラエルに神が与えられた王国に関する諸々の約束を全く「霊解」して教会に適用することは、根本的間違いであろう。聖霊がローマ九~十一章を記させた目的はまさに、このような誤解を招く意見に反対することだったのである!
旧約聖書に関して、また部分的に時々福音書に関しても(例えばマタ二一・四五)、次の二つの区別を守り続けなければならない。
1.われわれに対して常に、直接的に、直ちに適用されるわけではない、直接的解釈。 2.われわれに対して常に当てはまる、間接的・実際的な道徳的適用(二テモ三・十五~十七)。
この区別は、諸々の期間――救いと神の贖いの計画における漸進的啓示とに関する諸期間――を区別することと並んで必要なことであり、それと相補的なものである。
聖書は神のこの贖いの計画全体を、十字架から見た「遠近法」でわれわれに示している。つまり、十字架から――過去あるいは未来の方に――離れている期間ほど、その期間についての聖書の記述は短くなっているのである。他方、十字架に近い期間ほど、記述が多くなる。それゆえ、最も記述が多いのは律法の期間と教会の期間である。遠ざかるにつれて短くなり、近づくにつれてますます詳しくなる。その結末は始めとまさに同じで、「神がすべてのすべてとなるためです」(一コリ十五・二八)というこの一点である。しかし、その詳しい内容については、今のところ隠されている。「隠れた事は主に属す」(申二九・二九)。
しかし、次の一事をわれわれはすでに知っている。聖書はすべての時代について啓示しているわけではない。世界の歴史の開始の前にも諸々の時代があった(エペ三・九、一コリント二・七字義訳)。また、新しい世界の中には「代々の時代」(黙二二・五字義訳)があるだろう。聖書の中に含まれている内容は、それらの時代に関する詳細の限られた一部分、われわれの救いの方法、「われわれが救いの目標に到達するために必要な洞察力と展望」だけである。しかし神は次に、ご自身の無限の豊かさの中から、新しい諸々の時代をさらに生じさせられるだろう。そして、「キリスト・イエスにあって私たちに賜った慈愛によるその恵みの無限の富を、来るべき世の諸々の期間の中で示される」(エペ二・七)だろう。