著者の序言

エーリッヒ・ザウアー

救いの歴史が立つか倒れるかは――否、それは主イエスの権威と共に立つ。最も攻撃を受けている旧約聖書の諸々の箇所をキリストがはっきりと認められたことは否定できない事実である。例えば、アダムとエバの史実性(マタ一九・八)、洪水が実際に起きた出来事であること(マタ二四・三七、三八)、預言者ヨナの奇跡的経験(マタ一二・三九、四〇)である。極めて印象的なのは、キリストがダニエル書を認められたことである。というのは、不信仰者から今日大いに攻撃されているまさにこの書から、キリストはご自身のパースンの主な呼称を取られたからである(「人の子」ダニ七・一三、マタ二六・六四)。実にこの書こそ、キリストがかつて誓われた唯一の誓いをもってご自身を結びつけた書である(マタ二六・六三、六四。マタ二四・一五参照)。将来に関してキリストは、ご自身が栄光の内に戻って来ること(マタ二四・二七~三一)、預言者たちがあらかじめ告げたようにメシヤ王国を文字通り確立すること(マタ一九・二八、二五・三一後半、使一・六七)を予期された。キリストの使徒たちも同じである。旧約聖書に対するキリストの姿勢は使徒たちの姿勢でもあった。

エバンス博士によると、主イエスの聖書(ヨハ五・三九)、すなわち旧約聖書の中には、「主はこう仰せられる」という句が三、五〇〇回以上現れる。人格を持つ生ける「御言葉」であるキリストにとって(ヨハ一四、黙一九・一三)、書き記された御言葉の一点一画ですら、全星界や全宇宙の諸々の太陽系よりも大きな価値を持つものだったのである。「まことに私はあなたたちに言う。天地が過ぎ去るまで、律法の一点一画たりとも決して過ぎ去ることはなく、すべてが成就される」(マタ五・一八。二四・三五参照。ヨハ一〇・三五)――キリストの最大の使徒であるパウロはこう告白している、「律法と預言書に記されていることを私はすべて信じている」と。

神聖な啓示である聖書とその不滅の権威を信じる信仰は、したがって、文字を機械的に崇めることではないし、それに対する偏狭な非キリスト教的束縛に陥ることでもない。むしろ、救済史における偉大な霊的人物――それには神の御子であるキリストご自身さえも含まれる――もこの信仰の味方なのである。「この啓示は不動である。それどころか、われわれのために聖書の中に存在し続ける。それは存続する――これは必然である――聖書の本文の中に、その単語と文章の中に、預言者たちや使徒たちが自分たちの証しとして述べたかったこと、また述べたことの中に存続するのである」。

こうしてわれわれは救済史をその歴史のを基準にして解き明かす。全啓示は円であり、イエス・キリストはこの円の中心である。キリストは太陽であり、キリストから円全体は光で照らされる。

しかしもし誰かが、不信仰や半信半疑のゆえに、聖書に対してどっちつかずの態度を取るなら、特に、

聖書の冒頭の数章、
ダニエルの預言、
十字架の意義、
キリストが肉体を持って復活されたことと、
その個人的再臨

に対してそうするなら、そのような人にとって神の贖いの計画の始まり、中間、終わりは理解不能なものになり、救済史という素晴らしい神の宮はその人に対して閉ざされた建物であり続けるだろう。

救いの記録である聖書は、一つの完全なまとまり、命で脈打つ有機体、計画にしたがって歴史の中で成就した預言の体系である。聖書は「素晴らしい構造体であり、それに関してその基本計画が予め用意されていたものである」。聖書は調和のとれた、徐々に進展していくまとまりであり、そのすべての部分が完全な均衡と調和の内にある。そして、その目標はキリストである。神の王国の主旋律――漸進的に発展していく時期や期間というリズムを伴う――が、この荘厳な神の交響曲全体の基本旋律を導いている。

プロテスタント教会では、コッケイウス、ベンゲル、フランツ・デリッチのような人々がこれを強調した。特に歴史探究の世紀だった十九世紀は、神学の領域においては、神聖な啓示の歴史的発展についての特別な研究の世紀だった。

しかし、われわれは「注視しつつ注意深く服従しなければならない。もし受け入れられてきた現存する御言葉の調和を捉えたいと思うなら」。こうして、われわれは聖書を神の救いの計画の記録として解釈できるようになる。こうすることによってはじめて、聖書の本質的で真実な性質に対して正当な態度を示したことになる。聖書は「時代に応じて」読まなければならない。つまり、経綸、摂理、段階、分類に応じて読まなければならない。そうするとき、人の霊は登りうる最高の預言的ものみの塔の上に立つことになる。視野が広がって、諸々の世界や時代が視界に入るようになる。自分自身の人格という狭い圏内を越えて、国民性や文明という境界を越えて、然り、現在や時間という限界をすべて越えて、見渡すようになる。過去、現在、未来を一望して、今あるものやこれから生じようとしているものを一気に見渡すようになる。実に、その照らされた目は至高者の御心を見抜き、神たる方ご自身の深みをも見抜くのである。

この霊の中でわれわれは今われわれの任務に、この「巡礼」の概要を与える試みに取りかかることにする。この巡礼は神の救いの啓示の諸々の千年期を通るものであり、世界の創造から始まり、世界の贖い主であるキリストにまで進む

徹底的に述べようとはしていない。聖書の世界観と現代哲学の世界観を比較するつもりはないし、聖書全般に対する積極的姿勢と自由主義的・批判的姿勢を対比するつもりもない。本書は信仰擁護の書ではなく、救済史の書である。この課題の範囲をあまりに広げすぎていたなら、利用可能な紙面を超過してしまっていただろう。しかし、聖書の正しさを前提として、本書は大いに真剣に聖書の歴史的一体性を取り扱う。そして、聖書が示す救いの計画と人類の進歩――聖書の中にはこれらのものの調和的多様性、宇宙的普遍性、漸進的順序が示されているのである――を概観することを目指す。

本書の枠組みに関しては、すべてを網羅しようとはしなかった。楽に読めるようにするために、全体をいくつかの小区分に分けた。

本書で示したことが非常に不完全で欠け目があることは、大いに自覚している。しかし、私は本書を主とその恵みに委ねる。私は主に祈る。どうか主が本書をその聖徒たちの奉仕のために用いてくださいますように。そしていま主ご自身に、「諸々の時代の王、不滅の目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が永遠から永遠に至るまでありますように。アーメン」。

エーリッヒ・ザウアー

ヴィーデネスト、ラインランド、ドイツ