第一章 世の贖い主の出現

エーリッヒ・ザウアー

福音は天の軍勢の凱歌に包まれて、地上世界という舞台に現れた。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、御心にかなう人々に平和があるように」。こう、あの夜、ベツレヘム・エフラタの野に響き渡った(ルカ二・一四)。

父祖たちがあれほど永いあいだ待ち望んでいた方が、御民イスラエルの真中に、その「希望」として(使二六・六)、それからその「慰め」として(ルカ二・二五)現れた。「肉体において現れた神」。なんと偉大な敬虔の奥義!(一テモ三・一六)。彼が僕のかたちをとって来られたこと(ピリ二・七)、そして貧しいへりくだった身分で来られたこと(二コリ八・九。ギリシャ語では ptochos)は事実だが、この外観は彼の固有の神性の「幕屋」にすぎなかった(ヨハ一・一四。ギリシャ語では eskenosen = 幕屋を張られた)。死の領域でも、彼が命の君であることに変わりはなかった(使三・一五)。なぜなら、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」からである(ヨハ一・四)。

一.時代の変化を告げる神のメッセージ

1.キリスト――神の御子。最初の告知は宮で祭司ザカリヤに告げられた(ルカ一・八~一三)。この告知は旧約の最大かつ最後の預言と直接つながっていた(マラ四・五)。その預言は先ず、道を備える者すなわち第二の「エリヤ」の誕生について語り、次いでこの「エリヤ」を先駆者とする者が実に主にほかならないこと、イスラエルの神ご自身にほかならないことを述べていた。「イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。 彼はエリヤの霊と力をもって、みまえに先立って行き」(ルカ一・一六~一七)。マラキが霊に感じてその来臨を予見し、「万軍のエホバ(Jehovah Zebaoth)がたちまちその宮に来る」と言ったのは、この主なる神のことだった(マラ三・一)。それゆえ、この頂言が今や成就しようとしていることが宮で祭司に告知されたのは、いかにももっともなことだった。

2.キリスト――ダビデの子。第二の告知はダビデの家の敬虔な処女マリヤに告げられた(ルカ一・二六~三八)。御使いはダビデに対する契約をもって告知を開始した。その契約は実に預言者ナタンがダビデ自身に与えたものであり、メシヤを神の子またダビデの子として示した最初の第一の契約だった(一歴一七・一一~一四)。それから御使いは、「彼は大いなる者となり、いと高き者の子ととなえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになります」と付け加えた(ルカ一・三二)。こうしてこの場合も、御使いの告知はその受け手に実にふさわしいものだった。

3.キリスト――救い主。第三の告知はヨセフに対してなされた。彼はダビデの子孫であるにもかかわらず、物語には父として登場せず、ただ養父として登場するのみであり、したがって贖い主をただ自分の家に迎えるように定められた、信仰と悔悟の心を持つ一イスラエル人として登場するのみである。それゆえこのヨセフには、贖いを必要とする敬虔なイスラエル人に対するメシヤの意義について述べられている。メシヤはイザヤの預言した「インマヌエル、神われらと共にいます」である(イザ七・一四)。「その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからです」(マタ一・二一~二三)。ここに贖い主の役目と御業がまさしく述べられている。そしてこれは実に重要な点である。なぜなら、キリストは神の子またダビデの子となるために贖い主になったのではなく、贖い主となるために神の子またダビデの子として現われたからである。それゆえ、イエス――主は救いである――は彼特有の名であって、人としての名が「救い主」であったほど、贖い主であることが彼の本質的な最も深い在り方なのである。

御使いのこの三つの告知は、しかし、あの夜ベツレヘムの野の牧者たちが聞いた天の軍勢の告知の中にすべて含まれている。すなわち

「あなたたちのために救い主がお生まれになった」――これはイザヤの預言と、ヨセフに託された「イエス」という名の成就であり、
「この方こそ主なるキリストである」――これはザカリヤが反復した主なる神の来臨についてのマラキの預言の成就であり、
「ダビデの町に」――これはダビデの子についてのナタンの預言の成就であり、マリヤに与えられた通りに成就したものである。

御使いたちの口を通して直接、天から告知された以上の四つの証言とともに、敬虔な人々の口を通して間接的に御霊の七つの証言が響いた。ザカリヤ、牧者たち、シメオン、東の博士たちが、エリサベツ、マリヤ、それからアンナと共に、代々の時代の転換点にあって、門を照らす燃える松明のように立って、を指し示す。彼は来たるべき方、上より臨む朝の光(ルカ一・七八)、ダビデの子孫である大いなる解放者である。

ザカリヤは神がその民を顧みてくださったことを讃めたたえ(ルカ一・六八、七六~七九)、
牧者たちは救い主を讃めたたえ(ルカ二・二〇。なお一一節を参照)、
博士たちは王として拝し(マタ二・一一。なお二節を参照)、
シメオンは世を照らす光を讃めたたえ(ルカ二・三一、三二)、そして三人の女たちのうち
エリサベツは幸いをたたえ(ルカ一・四一~四五)、
マリヤは憐れみをたたえ(ルカ一・一四、五〇。なお四八節を参照)、
アンナは贖いをたたえた(ルカ二・三八)。

二.歴史的事実としての受肉

神の御子が地上に現れる前、天上の世界には大きな変化があったにちがいない。聖書は幕をわずかしか上げていない。しかし聖書は、御子がこの世に来られるときに交わされた三位一体の神の間の会話の中から、御子が御父に語られた言葉を一言知らせている。

「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを備えてくださった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、『神よ、わたしについて、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」(ヘブ一〇・五~七)。

そして次に、到底理解できないことが起きた。御子は天の栄光を捨てて、実際にわれわれと同じ人になられたのである。あらゆる世界を超越する神の永遠のかたちを捨てて、自らの御旨に基づいて、神はこの世の人間関係の中に入られた。御子はその自由で何ものにも制約されない、世界を支配する神のかたちの絶対性を捨てて、被造物が受けている時間と空間の制約の中に入られた。永遠のロゴスが人となり、自らを空しくして、支配者として世界を支配する権力を脇にやられたのである。自己追及の人の心は、不正な方法で手に入れた他人の物でも、これ幸いと固く保とうとするものだが(ピリ二・六)、愛の源である御子は、もともとご自分の正当な所有物だった神のかたちや神の位ですら、いかなる犠牲を払っても固持すべきものとは思わず、それをわれわれの救いのために引き渡してくださった。彼はわれわれを贖って共に天の高い所に携え上るために、「地の低い所まで」降りてくださった(エペ四・九)。人が神を知ることができるようになるために、神は人となられた。彼の貧しさによってわれわれが富む者となるために、彼は貧しい者となられた(二コリ八・九)。

キリストの個人的な、意識を有する、実在としての先在については、ヨハネ八・五八、一七・五、ピリピ二・六~八が明白に教えている。それによると、神の御子は世が始まる前に、自由意志による活動をしておられた。したがってこれは、ただの「観念的」先在などというものを排除する。なお御子を「遣わすこと」及び御子が御父より「出て来られた」ことについて扱っている節を参照されたい。さらにミカ五・二、ヨハネ一・一四、特にその一~五節、ヘブル一〇・五~七などを参照。

人の救いの歴史は、その中心であるキリストの出現に集中する。キリスト以前に生起したことは全くただキリストを予期して起きたのであり、キリスト以後に生起したことはキリストの名においてなされたのである。プリズムのさまざまな色彩は、それぞれ異っているにもかかわらず、同一の光源から出た光線である。それと同じように、啓示の歴史もそれがどれほどさまざまな仕方で与えられていたとしても、同一の生命原理の所産である。仲保者キリストは全建築の隅のかしら石である。地上におけるキリストの事業は、すべての発展の転回点であり、彼のパースンの歴史はすべての歴史の本質的内容である。それゆえ、キリストの受肉はすべての存在の神的基盤が視野に現れたことであり、歴史の主が歴史そのものの中に入られたことである。そしてベツレヘムの馬槽はゴルゴタと結びついて、永久に

「すべての時代の 転回点であり、
 すべての愛の 最高点であり、
 すべての救いの 出発点であり、
 すべての礼拝の 中心点である。」

しかしキリストにおいて、この二つすなわち彼の神性と人性がどのようにして一つに結合しているのか、それを説明することは誰にもできない。キリストの自己謙卑の秘義は永久に不可解である。キリストは奇蹟を行われただけではない。彼自身が奇蹟である、実に奇蹟中の奇蹟である、パースンをもった奇蹟の本源である。われわれにはいまだに「時間」なるものが解らない、それはわれわれにとって謎である。「永遠」なるものに至ってはさらに解らない、それは時間より遙かに謎である。それならわれわれは、謎の中の謎である、これらの対立する二つの秘義が一つになるのを、二つの並行線が時間のなかで交叉するのを、無限と有限が調和的に一つになるのを、どうして理解できよう。実際この場合、われわれにはただ一つ、次のような告白が残されているのみである。

この奇蹟を黙想するとき、
わが霊は恭しく待ち望む。
神の愛は限りなし――
その高さを見る時、わが霊は礼拝する。
(ゲルレルト)
この場合、いかなる推論も、たとえ最善の意図によるものだとしても、いかに不充分であるかは、四世紀から七世紀にかけてのキリスト論の論争が十分に証明している。例えば、永遠の「ことば」(ロゴス、Logos)が神に対して持つ「三位相互間の」関係についての議論(アリウス)や、受肉した神の御子の神的「性質」と人的「性質」の人における内的関係についての一性論及び一意論の論争(アポリナリス、ネストリウス、ユーテクス)である。

三.受肉と復活

しかし、受肉が救いに対して持つ意義をさらにはっきりと認めて感得するには、受肉を主の復活と結びつけて考えなければならない。これについては次の三つの対比で考えることができる。

1.謙卑と高揚(昇天)、
2.救いの獲得と救いの完成、
3.歴史的形態と永遠の観念。

1.けれども実際のところ、受肉は天の高い所からの降下ではあるが、いと高き神の子にとっては、受肉そのものが無限の謙卑ではなく、罪の結果恥辱の中に沈んでいる人のすがたをとったことこそ、無限の謙卑だったのである。もちろん、神の子は罪の肉として現われたわけではないが、本当に「罪の肉の様で」現れたのである(ロマ八・三)。なぜなら、もしも人そのものに成ることが神の子にとって謙卑だったなら、神の子の高揚はその人性をことごとく栄化することでは決してなく、人性を完全に棄て去ることだったはずだからである。けれども聖書が明らかに教えているように、昇天のイエスは人のすがたを失わずに持っておられる。したがって彼の復活と昇天は実に彼の人性を、たとえその方法はわれわれには全く解らなくても、変容・栄化したすがたに永遠化したことを意味する。彼は実に、現在の低くされた状態にある人のすがたである「僕のかたち」(ピリ二・七)をとられた。けれども彼はその贖いの御業により、この「僕のかたち」を高く揚げて変容されたので、もはや御父の右に座しておられるご自身の本来の栄光とも矛盾背反しえないのである。なぜなら、変容した人である天のキリスト・イエスの栄光は確かに、受肉する以前に永遠の御言葉が持っておられた栄光に、決して劣るものではないからである。彼ご自身、「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせてください」と言われたのである(ヨハ一七・五)。

ヨハ二〇・一五、二五、ルカ二四・一三以下、三六~四三、使一・一一、黙一・一三、ピリ三・二一。

2.しかしそれ以上である。神の子の人性の永続性は、彼の御業を完成・保持するのに欠かせない条件である。なぜなら、栄化された人だからこそ、彼は「最後のアダム」(ロマ五・一二~二一、一コリ一五・二一、二二、四五)、「新しい人」のかしら(エペ四・一五、コロ二・一九、エペ二・一五)、贖われた人の有機体である彼の教会のかしらになりえたからである。そうであるからこそ、救われた者が「キリストに在る」ことが可能になったのであり、彼の「からだ」の「肢体」として、「かしら」である彼との有機的な命の交わりに入ることが可能になったのである(一コリ一二・一二、二七、エペ一・二三)。それゆえ、キリストが人であり続けることが必要であり、彼の高揚の大切な部分なのである。復活と昇天によってのみ、ベツレヘムの奇蹟は本来の聖書的光の下に照らし出される。

3.キリストがになられたのは、「最後のアダム」となるためである。これが、キリストが被造物のすがたで現れたことの恒久的かつ基本的意味である。その意味で、これはご自分のパースンを贖い主として栄化することである。それでも、彼は低くされた人だった。それは罪人の身代わりとなることによって、受難を経てこの最後のアダムの栄光に至るためだった。それが彼がこの世に来られた歴史的形態だった。そしてこの点において、それは彼がご自分の栄光を自ら捨て去って空しくなることだったのである。

しかし、歴史的形態は永遠の観念を実現する手段にすぎなかった。彼は仕えるために、多くの人の贖いとして自分の命を与えるために、この世に来られた(マタ二〇・二八)。彼に召されて悔い改めた人々、彼が尋ね求めて救った人々を、ゴルゴタ上の彼の「時」によって永遠に救うためであった(ルカ一九・一〇)。そして、われわれが自らの命である彼に合併されることにより、天のキリストはわれわれの内でますます勝利の度量を増し加えてくださる。こうしてこの過程は進展し、彼の聖い性質が贖われたわれわれの内に受肉し続けるようになる(二ペテ一・四)。「御子の受肉は宇宙の歴史の中心点であると同時に、われわれの個人的経歴の中心点ともなり、われわれの未来の目的地ともなるのである」。