第五章 復活の勝利

エーリッヒ・ザウアー

キリストは復活された!この勝利の叫びと共に、福音は国々に行き渡った。十字架の福音は同時に復活の福音でもある(使一・二二、二・三二)。十字架の福音が無敵なのはこのためである。

贖い主が体の復活を伴わずに天に戻ることも、可能性としては考えられることだった。神の御子は、死んですぐ霊のまま父の栄光に戻っていたとしても、やはり生ける御方のままだっただろう。受肉以前、御子は人の体を持たずに永遠に天におられたが、それにもかかわらず、全被造物の命の源であり、その君だった(使三・一五、ヨハ一・四)。しかし、そうではない。死んだ後も存在し続けて天の御座に上ることは、必ずしも体の復活と同じではないのである。

しかし、この体の復活こそ、贖いを成しとげるための必要条件だった。なぜなら、体の復活だけが、

一.死に対する贖い主の勝利の完全な仕上げだったからである

もしもキリストが体の復活なしに天に戻っておられたなら、死を完全に征服した者として公に示されることはなかっただろう(詩一六・一〇)。死に対する彼の勝利は霊的・道徳的なものにすぎず、王者の装いをもって肉体の死に対する彼の勝利が前面に現れることはなかっただろう。彼の勝利はいわば「三分の二」の勝利であって、決して完全な勝利ではなかっただろう。なぜなら、人の三部分のうちの二つの部分すなわち霊と魂だけが彼の復活の勝利の中に含まれ、体は含まれなかっただろうからである。

しかし、さらにそれ以上である。体の復活がなければ、キリストが死の征服者として啓示されることは決してなかっただろう。なぜなら、死とは存在の停止ではなく、人間存在の解体だからである。死とは存在の消滅ではなく、霊と魂と体の結びつきが断たれることである。それゆえ、死を征服したことを示すには、この一体性を回復する必要があり、霊と魂と体のこの有機的結合を再確立する必要がある。これは体の観点から見ると、体を魂と霊に再結合することを意味する。それゆえ、体の復活がなければ、命の勝利は皆無であり(一コリ一五・五四~五七)、体の復活がなければ、勝利の明らかな実はない。体の復活によってのみ、死が征服されたことを示せるのである。そして、仮にイエスの墓が空であったことを四福音書が証ししていなかったとしても(マタ二八章、マコ一六章、ルカ二四章、ヨハ二〇章)、われわれはそのように確信しなければならないのである。さらに、体の復活は

二.贖われた者の内に信仰が生じるための前提であった

「信仰は聞くことによる」(ロマ一〇・一四~一七)。そして、これは期の信仰に遡る。各自は自分より先に信じた人たちの証しによって信じる。そして、先人たちの信仰は第一世代の信仰と切り離して考えることはできない(エペ二・二〇)。しかし、この信仰はまさに、キリストが十字架上で死なれた後、挫折した信仰であり(ヨハ二〇・一九、二五、ルカ二四・二一、二二、マコ一六・一四)、それが再確立される唯一の道は、主が肉体的に復活して、続いて復活した者として幾度も現れることであった(ヨハ二〇・八、二〇、一ペテ一・二一)。体の復活がなければ、十字架につけられた御方を信じようとは、思慮ある人なら誰もしなかっただろう。なぜなら、それではキリストの最後は、復活と勝利についてキリストご自身が以前なさった宣言と矛盾することになるからである(マタ一六・二一、一七・二三、二〇・一九。なお一二・四〇、ヨハ二・一九を参照)。

それゆえ主の復活は、御子のパースンと御業の上に御父が押された証印である(使二・三二)。復活によって、キリストは預言者であり神の御子であることが明らかにされたのである(ロマ一・四)。復活は次のものの証印である。

1.預言者たちの証し(詩一六・一〇、ホセ六・二、「ヨナのしるし」、マタ一二・三九、四〇、イザ五三・八~一〇)、
2.ご自身に対するイエスの証し(マタ一六・二一、ヨハ二・一九~二二)、
3.使徒たちの証し(一コリ一五・一五)、
4.イエスは神の御子であるという真理(ロマ一・四、使一三・三三)、
5.イエスの王権(使一三・三四)、
6.宇宙の審判者としてのイエスの完全な権威(使一七・三一)。そして復活は、
7.われわれ自身の未来の復活と栄光を保証する(一テサ四・一四)。

それゆえ、復活は救済史の中で最も信憑性と裏付けのある出来事である。最も過激な聖書批評家ですら、コリント人への第一の手紙は本物であると認めている。この手紙の中でパウロは、当時まだ生存していた数百の人々を証人として立てて、読者に――その中には反対者したがって批判者もいたのである(一コリ一五・六)――次の四つの主な証拠を示している:

ⅰ.経験上の証拠。コリント人たち自身、体の復活を実際に経験した御方に関するメッセージによって救われたのである(一コリ一五・一、二)、
ⅱ.聖書からの証拠。キリストは「聖書にしたがって」死なれただけでなく、また「聖書にしたがって」復活されたのである(一コリ一五・三、四)、
ⅲ.証し人たちの証拠。五百人以上の人々が実に様々な環境下で、キリストをその復活後に個人的に見たのである(一コリ一五・五~一二)、
ⅳ.救済史におけるこの出来事の必要性による証拠。「もしキリストがよみがえらなかったなら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたたちの信仰もまたむなしい。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(一コリ一五・一三~一九)。

したがって、十字架と復活は一つなのである。十字架につけられた御方は復活するために死なれたのであり(ヨハ一〇・一七)、復活した御方は十字架につけられた御方として永遠に生きておられる(一コリン二・二、黙五・六)。

一コリ二・二によると、パウロは「十字架につけられた」方としてのキリストを説いた。ここで完了分詞(estauromenon)は持続を示している。言いかえると、復活した御方としてのキリストは永久に十字架と結ばれていることを示している。こうしてトマスは復活のキリストに傷あとを見(ヨハ二〇・二七)、ヨハネは栄光の御座に「屠られたような」小羊を見たのである(黙五・六)。

それゆえ、贖いの救いの効力は常にこの調和した二つの事実と結びついていたのであり、こうして、この二つの事実の融和はキリストを信じる信仰に至るべきものであった(ロマ五・一〇)。この信仰は以下のことを信じる信仰である。

信者の内にある罪は除かれたこと(ロマ六・一〇、一一)、
贖い主との生ける交わり(一テサ五・一〇)、
キリストの主権(ロマ一四・九)、
キリストの天の祭司職(ロマ八・三四)、
将来キリストは栄光の教会と一つになられること(一テサ四・一四以下)、
天の御父の愛の永続性(ヨハ一〇・一七)。

以上のことが示しているのは、復活は十字架と共に

三.信者の新しい生活の基礎である

ということである。つまり、罪のための供え物であるキリストが咎ある罪人に恩恵を施せるのは、その人がキリストを信じる時だけなのである。キリストは上げられた蛇の本体であり(ヨハ三・一四)、世の罪を取り除いた神の小羊である(ヨハ一・二九)。このキリストを罪人は信じなければならない。しかし、この信仰を可能にするには復活が必要だった。なぜなら、復活の勝利によってゴルゴタの完全な勝利が明らかにされなければ、神の小羊に対する信仰は不可能だったからである。

それゆえ、十字架上でわれわれのために勝ち取られた救いは、復活昇天した仲保者によってのみ得られる。栄光に上げられた小羊によってのみ、恵みは万人に対して開かれる。こうして、われわれは信仰を通して罪の赦しを受け、それにより、神の裁きにおいて義とされ、神の子とされたのであり、ゆえに、神は御子の御霊をわれわれの心の中に送ってくださったのである(ガラ四・六)。それゆえ、神の御子の犠牲の死と和解によって、次の幸いな成果がもたらされた。すなわち、信者はキリストと有機的に結合され(ロマ六・五、ガラ二・一九、二〇、コロ三・三〇)、贖われた者は贖い主の死と命にあずかるようになったのである。それは言わば、彼の肉を食べ、彼の血を飲むことであった(ヨハ六・五三、三二~三五、四八~五八)。われわれはこれを旧約の型と比べることができよう。旧約では供え物を食べることについて記されているが、それは型なのである(レビ七・三二~三四、出一二・三以下、一コリ五・七、ヘブ一三・一〇)。こうしてわれわれのためのキリストは、われわれの内のキリストとなり、栄光の望みとなる(コロ一・二七)。

このように、身代わりの教理で聖書が扱っているのは、引き算や足し算といったたんなる知的処理ではない。また、咎と功徳を機械的に勘定して繰り越すことでもないし、借り方や貸し方の項目に入れるかどうかといった事務的商取引の類でもない。それより遙かに崇高なものを聖書は扱っているのである。聖書が扱っているのは、全く新しい命の原理、神聖で個人的なすべてを貫く命の原理が、信者の内に編み込まれることなのである。

与え主であるキリストが賜物を与えることができるのは、ただご自身に在ってのみである。ただこうすることによってのみ、キリストは真に与え主となられるのである(二コリ九・一五)。キリストは道を備えて示してくださるだけではない。彼ご自身が道なのである(ヨハ一四・六)。なぜなら、キリストは宥める御方であるだけでなく、宥めでもあり(一ヨハ二・二、四・一〇)、贖い主であるだけでなく、贖いでもあるからである(一コリ一・三〇)。人のことを物として述べているのは、その物が人であることを示すためである。それゆえ、キリストを信じる信仰とは、外面的に同意することだけではない。キリストとの人格的合一へと至らせる信仰、すなわちキリストとの交わりへと至らせる信仰でもあるのである。パウロ及びすべての贖われた人々にとって、「キリストに在って」という標語は、彼らの救いの経験の起源と本質を言い表す言葉なのである。

ギリシャ語 pisteuein eis(例えば使一〇・四三、ピリ一・二九、一ペテ一・八)。

パウロの場合、「キリストに在って」という表現は百六十四回でてくる。例えば「キリストに在って義とされ」(ガラ二・一七)、「彼に在る神の義」(二コリ五・二一)。この幸いな、命を浸透させる秘訣について、パウロの手紙はどれも、それぞれ独特な特に際だった面から述べている。すなわち、

ローマ書では――キリストに在る義認、
コリント書では――キリストに在る聖化、
ガラテヤ書では――キリストに在る自由、
エペソ書では――キリストに在る一つ、
ピリピ書では――キリストに在る喜び、
コロサイ書では――キリストに在る豊満、
テサロニケ書では――キリストに在る栄化。

それゆえ、宥めの供え物であるキリストが咎ある罪人に対して恩恵を義しく施せるのは、その人が同時に新生によって聖なる贖い主に結合されるときだけなのである。しかし、同じ性質を持つかしらと肢体が一つになることによってのみ、この有機的結合が生じる(ヘブ二・一四~一七)。それゆえ、キリストは永遠に人のままでいなければならない。キリストは人であってはじめて、人の有機体のかしらになれるのである。

しかし、体は人にとって不可欠なものである。体はプラトンやアリストテレスやオリゲネスが考えたような「魂の牢獄」ではなく、まさに人であるための要件である。体がなければ人は「裸」であって、衣をまとっていない(二コリ五・三)。それゆえキリストも、人であり続けなければならないため、永遠に人の体を必要とされる。体の復活がなければ、キリストは言わば人の状態から離れておられただろう。そして、受肉によってなされた贖いの働きを完成・栄化する者となれなかっただろう(ヘブ二・一四)。

それゆえ、体の復活は次のことを意味した。すなわち、贖い主は完全に人の性質に戻られたのであり、ご自分の人性を変容・栄化された形で不滅のものとされたのである。これはまた次のことを示していた。すなわち、キリストは「最後のアダム」(ロマ五・一二~二一)であり、天からの「第二の人」(一コリ一五・四五、四七)なのである。そして、キリストは天で神の右におられ(使一・一一、ダニ七・一三、黙一・一三、ピリ三・二一)、贖われた霊的人類の創始者及び有機的「かしら」(エペ一・二二)なのである。

ここで同時に、われわれの思考力に加えられる途方もない重圧にわれわれは直面する。なぜなら、贖い主は栄光の中に上げられた後も、どうしてまだ「人」でありえるのか?その上、どうして変容した体の形で?彼ご自身、「見よ、私は常にあなたたちと共にいる」とご自分の者たちに言われたのではなかったか?それに何よりも、彼は神格の第二のパースンではないのか?ここでまた新たに永遠の深淵が現れる。空間と時間を超越したものは、われわれにとってまったく説明がつかない。聖書は「物質的」「肉体的」なものについて述べているが、ここでわれわれがそれについて同じように述べたとしても、われわれにとって全く理解不能な意味があるのである。しかし、この「永遠」こそ、まさにキリストが入って行かれた領域なのである。

それにもかかわらず、聖書は贖い主のこの永遠の人性を教えている。まさにこの事実こそ、彼の御業の働きと永続性を保証するものなのである。彼が死に勝利されたからには、彼の人性は永遠に続かなければならない。「多くの兄弟たちの長子」であるからこそ(ロマ八・二九、コロ一・一八以下、ヘブ二・一一以下)、キリストは「永遠の救いの源」たりうるのである(ヘブ二・一〇、五・九、六・二〇)。そうであるからこそ、個々の人を新しくすることや、贖われた人が「キリストに在って」存在することが可能となるのである。そうであるからこそ、彼らは「新たに生まれて生ける望みに至」り(一ペテ一・三)、肢体として教会に結合されるのである(エペ四・一五、一六)。こうして彼らは今や「キリストの復活の力」を経験することができ(ピリ三・一〇)、キリストと共に甦った者として、またキリストと共に生かされた者として(エペ二・五)、命の新しさの中で御前に歩むことができるのである(ロマ六・五~一一)。そして、生ける神に生き生きと仕えることができるのである(ヘブ九・一四、ロマ七・四~六)。

以上のことはみな、次のことを示している。十字架につけられた御方を復活させることは、御父が御子の上になさった御業であるが、それだけにとどまらない。また、それは御子が御業を成就された後に、御子のパースンに証印を押して承認すること(使二・三二)、したがって「御父の栄光によって復活させること」(ロマ六・四)であるが、それだけにとどまらない。同時にそれは、これらをすべて超えるものであって、必要不可欠な要素だったのである。事実、それは御子ご自身の御業の中で最も輝かしい驚異だったのであり、言わば、ご自身の命の力を自発的に行使することによって成就した自己復活だったのである(ヨハ二・一九)。「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛してくださるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハ一〇・一七、一八)。

復活においてキリストは受動的であると同時に能動的でもあった。受動的な面では、復活節の奇跡は御父の働きであり、能動的な面では、復活は御子の働きである。受動的な面では証拠が重要であり、能動的な面では有機的なものが重要である。しかし、この二つは同じ出来事の異なる面にすぎない。

最後に復活は、

四.世界の変容の基礎である

そのようなものとして、復活は絶えず広がり続ける三つの円を描いて展開する。復活は次のものを保証する。

個人の命については――体の復活を、
地球の命については――栄光の王国の出現を、
宇宙の命については――変容した新創造を保証するのである。

1.体の復活は主イエスの復活によってのみ可能である。彼の復活は、初穂である彼にあって人性が変容を遂げたことを意味する(一コリ一五・二〇、二三、コロ一・一八)。彼が復活された時、旧約の多くの聖徒がよみがえったが(マタ二七・五三)、これは贖われた者の復活の道が開かれたことを示す。彼が死に対して勝利されたことは、われわれ自身もまた復活することの保証である(ロマ八・一一、一テサ四・一四)。彼の栄光の体はわれわれ自身の未来の体の模型であり型である(ピリ三・二〇、二一、一コリ一五・四九)。「初穂」の復活はすべての復活の基礎である(ヨハ五・二六~二九)。

裁きの復活さえも御子に委ねられている。それはまさに「彼は人の子である」(ヨハ五・二七、二九)という理由による。それゆえ、すべての人が復活すること、信者と未信者の両者とも復活することが、最後のアダムの復活によって保証されているのである。「それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死ぬのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」(一コリ一五・二一、二二)。さらに、

2.千年王国は完全に主イエスの復活に基づく。なぜなら、ダビデに与えられた約束は、変容した人間の永遠の王国について述べているからである(二サム七・一三)。しかしそのためには人である永遠の王が必要である。それこそまさに人の子であって、天の雲に乗って現われる(ダニ七・一三、マタ二六・六四、黙一・一三)。復活においてキリストが人であり続けたのは、このように原理的に言って、ダビデに与えられた王国の預言の成就なのである。王の復活はメシヤ王国「再生」(マタ一九・二八)の基礎である。そして、キリスト再臨の時に起きる出来事は、キリスト初臨の時以降すでに「成就」されていたことの歴史的顕現にほかならないのである。

それゆえ、パウロは言う、「神は彼(イエス)を死者の中からよみがえらせて(中略)『わたしは、ダビデに約束したゆるぎない祝福を、あなたたちに与える』と宣言された」と(使一三・三四、イザ五五・三。なお使二・三〇、三一を参照)。イスラエルは霊的に復活し(エゼ三七・一~一四)、諸国民は霊的に再生され(詩八七・四~六、イザ二五・七、八、一九・二一~二五)、自然は新しくなり(イザ四一・一八、五五・一二、一三)、動物界からは野獣の破壊的力が消し去られ(イザ一一・六、七)、生命力と人のよわいは増し加わる(イザ六五・二〇~二二)――このようにして復活した御方の生命力がやがて全地を満たし、メシヤの可視的支配により地の被造物は再生されて新しい命を得るのである(マタ一九・二八)。

しかし、千年王国ですら前奏にすぎず序曲にすぎない。最終目標は、

3.大いなる白い御座の後に現れる新しい天と新しい地である(黙二一・一。なお二〇・一一~一五を参照)。その時、魂と霊だけでなく、物質や自然も全く変容する。天のエルサレムには、「ガラスのように透明な」純金がある(黙二一・一八~二一)。被造物に霊だけでなく霊の体をも与えることが、神の諸々の道の目的である。

しかし新しい天と新しい地においても、その創造の根拠は復活節の出来事である。万物の相続者の復活こそ、新しい天と新しい地の保証である。この御方の復活した体の中で、物質は初めて栄化された(ヨハ二〇・二七、特にルカ二四・三九~四三)。そしてこの復活した体によって、物質は原理的に栄化されうることが救済史の中で啓示され、保証されたのである。この点においてもキリストは初穂である(一コリ一五・二〇、二三)。その時から、天地の栄化は贖い主の体の復活にまったくかかっている。そして大きな白い御座の後、この復活した御方の生き生きとした活動が限りなく宇宙的な方法で現される。それゆえ、復活の究極的かつ最も包括的な重要性は、「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する」(イザ六五・一七、二ペテ三・一三)ということなのである。

以上、一から四に挙げた復活の意義は次の通りである。
 1.キリスト論的―宇宙的意義、
 2.主観的―護教的意義、
 3.客観的―有機的意義、
 4.終末論的―宇宙的意義。