第一章 神の新しい民

エーリッヒ・ザウアー

「福音宣教は、いま世界で行われている最も偉大な働きである。それは僕の姿を取った大きな力である。」

十字架のメッセージは世界中を行き巡っている。現在の時代には特別な意義がある。その目的は教会を召し出すことである。そのすべてはこの目的に向けられている。

一.この召しの目的

今日のための計画は、人類を造り変えることやキリスト教国家を創造することではない。これは神の王国が目に見える形で到来するまで実現しない(イザ二・三、四、一九・二一~二五)。神の現在の働きは、「諸国民の中から御名のために民を召し出すこと」(使一五・一四)、つまり、諸民族をクリスチャンにすることではなく、諸民族に福音を伝えることである。その目的は、神の国家的民を召し出すことである(マタ二八・一九、マコ一六・一五)。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく(中略)しかし、あなたたちはみなキリストにあって一つなのである」(ガラ三・二八、コロ三・一一)。

以前、人類は二つに分かれていたが、こうして三つの区分が生じた(一コリ一〇・三二)。イスラエルとこの世の人々に、「第三の種族」として教会が加わったのである。その時以来、新約的意味でクリスチャンでない人は(使一一・二六)、ユダヤ人か異邦人かのいずれかである。四番目の可能性は存在しない。

一般的な名ばかりのキリスト教を、新約聖書は是認しない。それはキリストから堕落したものであり、結局のところ、「奇怪な心理的幻想」(キルケゴール)にすぎない。

新たに勝ち取られるべきこの神の民のことを、聖書はエクレシア(ecclesia)と名付けている(マタ一六・一八、エペ一・二二)。それは贖われた者の群れである。彼らは、福音の宣べ伝えによって(一テモ二・七)、ユダヤ人や異邦人の中から召し出された者たち(エペ二・一一~二二)、天の市民権を享受して(ピリ三・二〇)神の子となる権威を与えられている者たち(ヨハ一・一二~一三)、将来、天の王国の「法定執政団」となる者たちである(一コリ六・二~三)。彼らはキリストと共に高く上げられて栄化される。彼らは「天からであり、天の中におり、天のためである。その性質は永遠である。教会は永遠の中に起源を持ち、永遠のためであり、時間の中から取り出されたものである」。

旧約の下で、イスラエルはすでにエクレシアと呼ばれていた。この言葉は七十人訳(旧約聖書のギリシャ語訳)に約百回出てくるが、これは新約聖書の中に出てくる回数とほぼ同じである。後者では、この言葉は全教会について十回用いられており(特にマタ一六・一八、エペ一・二二、三・一〇、三・二一、五・二三~三二、コロ一・一八、一・二四)、地方教会について九十回以上用いられている(例えばマタ一八・一七)。七十人訳のほぼどの箇所でも、この言葉はヘブル語のカハル(kahal)の訳である。カハルは「一緒に集まること」(ヨシ一八・一、二二・一二等)「集めること」(申四・一〇、三一・一二等)を意味する動詞 khl に由来する。このように、例えば一サムエル一七・四七、エレミヤ二六・一七のように、この言葉はほぼあらゆる種類の集会にあてはまる。しかし、この語はイスラエルの神エホバとの関連で特別な意味を帯びるようになった。神に召集された神の民イスラエルはカハル・エホバ(kahal Jehovah)、神のエクレシアである(申二三・二、三・八、詩二二・二五等)。この性格を帯びた目に見える現れは荒野に見いだされる。「十二部族の人々の天幕は、決まった順番で幕屋の周りに張られた。使者の召集で、民は天幕の前の空き地に集まり、神のとしてそこに立ち、神の命令と祝福を受けたのである」。新約聖書でも、イスラエルはエクレシアとして描写されている(使七・三八)。この言葉は選民としてのイスラエルの観念的一つを表す言葉であり、宗教的共同体として同じ場所に集まっていない時でもそうだった(出一六・三、民一五・一五)。

しかし、統一国家としてのイスラエルは、あまりにも早々と背教の道に踏み込んでしまった。事実上、「神の民」としての性格を失ってしまった。ロー・アンミ、「私の民では無い者」(ホセ一・九)になってしまった。ほんの一部分、忠信な人々の小さな群れだけが、自分たちの神に忠実であり続けた。それゆえ、救済史において、彼らはこの民族の核となった。彼らはその使命を推進し、真のイスラエル、神のまことの民、旧約におけるエクレシアの概念を実際上本質的に体現する者となった。それゆえ彼らに、神の王国の約束がすべて与えられた。不信仰なイスラエルは、全体として、律法の裁きの下に陥ったが、忠信な人々のこの群れは、レムナントとして、裁きから救い出された(イザ六・一三、マラ四・一~二、ホセ一・一〇)。同時に彼らは、神の民を生み出す計画を遂行・成就するための基盤ともなった(ミカ二・一二、四・七)。「それゆえ預言者たちにとって、『レムナント』という言葉は、終末における神の民、エクレシアを示す、直接的かつ特別な言葉となったのである」。そのようなものとして、レムナントは生き残った「切り株」「聖なる裔」であり、彼らから新しい命が芽生える(イザ六・一三)。彼らは「小さな群れ」だが、ついには偉大な王国を受ける(ミカ二・一二)。この旧約の本質的核であるエクレシアの存在と歴史は、それゆえ、終末における神の民の前提であり備えである。

初代のクリスチャンたちは、「自分たちは終末における神のこの民である」と宣言した。彼らは旧約史の目標であり(一コリ一〇・一一)、メシヤの教会であり、「終末の時代」に救われた者である。メシヤの時代(クリスチャンの時代)に生きるわれわれに対して、メシヤ以前の(クリスチャン以前の)諸々の時代の「終点」、すなわち、メシヤ的な完成の時が臨んでいる(一コリ一〇・一一)。

「目標点」(ギリシャ語 ta tele)

こういうわけで、宗教的交わりを表す他の言葉が身近にあったにもかかわらず、彼らはそうした言葉――例えば、コイノス(koinos)、シロゴス(syllogos)、チアソス(thiasos)、シノドス(synodos)――を自分たちにあてはめなかった。初期のキリスト教を取り巻いていた世界では、これらの言葉が宗教団体を表す言葉だった。今日キリスト教界で、われわれが諸教会、自由教会、交わり、組会について話すのと同じである。しかし、このクリスチャンたちは、これらの言葉のどれも、自分たちの主要な名称として選ばなかった。彼らはむしろ、ギリシャ語の旧約聖書から取られた、馴染み深いエクレシアという言葉を大いに用いた。この言葉は昔の信者の共同体の名称であり、忠信な者である「レムナント」が歴史的にその核であり、継続であり、化身だった。

しかし、この初代のクリスチャンたちは、「まさにパウロが行った通りのことを行ったのである。なぜなら、パウロはクリスチャンたちのことを、御霊によるイスラエル、神のイスラエル(ガラ六・一六。一コリ一〇・一八を参照。ガラ四・二九)、アブラハムの(真の)子孫と言ったからである。また、ペテロがしたことをしたのである。なぜなら、ペテロは出エジプト一九・六とイザヤ四三・二一の栄誉ある称号をクリスチャンの共同体にあてはめて、彼らを『選ばれた種族、王なる祭司の体系、聖なる国民、所有の民』(一ペテ二・九)と呼んだからである。主ご自身の御業によって、弟子たちはこの観念に親しんだにちがいない。なぜなら、主が使徒としてちょうど十二人選ばれたことは、彼らにとってまさに次のことを意味したにちがいないからである。すなわち、昔の十二人の族長のように、この人々が新しい民の祖先となるべきだったのである。(中略)イスラエルの過越のように、主の晩餐はこの新しい民にとって素晴らしい食事だった。また、バプテスマは紅海徒渉に対応するものだった(一コリ一〇・一)」。

この教会、長子たちの教会を召し集めることが、今の時代の正当な主要目的である。これが意味するのはまさに、王家、すなわち、代々の時代にわたる来たるべき王国で統治する貴族の創造である(一コリ六・二~三)。「恐れるな、小さな群れよ、あなたたちに王国を賜ることが、あなたたちの父の御旨だからである」(ルカ一二・三二)。

エクレシアという言葉についての注記

 誰が最初にギリシャ語のエクレシアを新約の教会にあてはめたのかは、今はもうわからない。一方において、イエスはアラム語を話されたが、マタイ一六・一八と一八・一七の御言葉は元々その中に含まれていたものである。他方、エクレシアというギリシャ語を用いるパウロの用い方は、彼の活動期間の前にこの言葉が使われていたこと(ガラ一・二二)、実に彼の回心の前にも使われていたこと(ガラ一・一三、ピリ三・六、一コリ一五・九)を前提としている。それゆえ、クリスチャンの共同体をはじめてエクレシアと呼んだのは、パウロが回心する以前の、ギリシャ語を話すユダヤ人だった、というのがおそらく最も真相に近いであろう。ルカもまた、パウロ以前のクリスチャンの共同体のことをエクレシアと呼んでいる。使徒六・一と六・九からわかるように、エルサレムのまさに最初の教会時代には、ヘレニスト、すなわち、ギリシャ語を話すユダヤ人の会堂があって、その会員の中から多くの人がクリスチャンになったのである。

 ギリシャ語のエクレシアは、「~から(ek)」と「私は召す(kaleo)」から派生している。しかし、この語源をあまり強調してはならない。つまり、この語源のゆえに、信者たちの交わりを表す新しい表現としてこの言葉が選ばれて、信者たちを「主に召し出されたもの(団体)」と呼ぶようになったわけではないのである。様々な箇所で、この言葉は共鳴して響き渡り、特にぴったりで結構であるように思われるかもしれない。しかし原則として、ある言葉の由来(語源)と意味(定義)は、必ずしも常に同じとは限らない。福音によって教会が罪、この世、死、裁きから召し出された団体であることは、確かに事実である。しかし、この事実は別の形や方法で表現されており、エクレシアという言葉を選んだことによって第一に表されているわけではない。さもなければ、その語源であるエカレオー(ekkaleo)という動詞が、少なくとも一度は新約聖書の中で用いられていたにちがいない。しかし、そのような節は新約聖書全体を見ても一つもない。この動詞が極めてうってつけだと思われる特定の節ですら、この動詞は用いられていないのである(一ペテ二・九、一・一五、二テサ二・一四、ロマ八・二八以下)。

 ギリシャ語ではエクレシアという言葉は、まず第一に、人々が折に触れて集まる集会を表していた。使徒一九・三二と一九・四一では、そのような意味で用いられている。しかし、ギリシャの自由諸国の政体においては、この言葉は正規の立法議会を意味した。その議員たちは大使によって一般民衆――投票権を持つ、非の打ち所のない、すべての自由市民――の中から召し出された。「神のエクレシア」と、この古代ギリシャのエクレシアとの共通点は、以下に示すように主として四つある。

 1.福音の大使のメッセージによる召集(ピリ三・一四、二テモ一・九)。宣べ伝える=ギリシャ語のケリセイン(keryssein)、布告すること。ケリクス(keryx)大使と比較せよ。

 2.この世からの召し出し(ロマ一一・七、二ペテ一・一〇)。

 3.エクレシアに入るための三つの条件
市民権:「われわれの国籍は天にある」(ピリ三・二〇)。

自由:奴隷はギリシャのエクレシアに入れなかった。「あなたたちは罪の奴隷であった」(ロマ六・二〇)。「あなたたちは自由へと召された」(ガラ五・一三)。

非の打ち所がないこと:犯罪者はギリシャのエクレシアに出入りできなかった。「恵みにより無代価で義とされた」(ロマ三・二四)。
 4.エクレシアの目的:国家の公的な諸問題を処理すること、すなわち、行政の仕事。「聖徒たちがこの世を裁くようになることを、あなたたちは知らないのですか?」(一コリ六・三。なお五節を参照)。

 それにもかかわらず、この類似点がどれほどぴったりだったとしても、また、さらに緊密な関係がおそらくあったとしても、新約聖書におけるこの言葉の用法はギリシャの国家生活に由来するのではない。すでに見たように、その由来はむしろ七十人訳にある。というのは、初代クリスチャンたちのこのギリシャ語の旧約聖書では、この言葉はすでにイスラエルの民を意味していたからである(申四・一〇、詩二二・二二、二二・二五、使七・三八)。それゆえ、イエスとその使徒たちの時代でも、カハル(=エクレシア)という言葉は、「神の民」という観念を表す聖書的な神政上の表現として、すでに用いられていたのである。その結果、人々はこの言葉を造り出す必要はなかったのであり、ごく自然にこの言葉を七十人訳から受け継いで、新約の神の民に適用できたのである。

 エクレシアという言葉自体は翻訳不可能である。その訳語に関する論争は不毛である。大事なのは、この言葉に正しい意味づけをすることである。

二.この召しの開始

主イエスの務めの初期の頃は、完全に新約聖書的な意味の教会はまだ存在していなかった。それゆえ、キリストは教会のことを将来のものとして話された。「私は私の教会を建てよう」(マタ一六・一八)。信者たちが最初に「一つ御霊の中で一つからだの中にバプテスマされた」(一コリ一二・一三)のは、ペンテコステの時だった。それゆえ、ペンテコステが教会の誕生日である。

とは言え、この新しい開始はユダヤ人の国家的基盤に完全に基づいていた。イスラエル人だけが御霊の受け手であり、ユダヤ人とその関係者(改宗者)だけが宣べ伝えの聴き手だった(使二・五~一一)。それに続く期間も、イスラエル国家に属する者たちと、完全にあるいは部分的にユダヤ教に帰依した者たちだけが、教会の中に迎え入れられた(使三・一二、三・二六、六・一、八・二六~四〇、一一・一九)。

こういうわけでサマリヤ人たちは(使八・四~二五)、国粋的ユダヤ主義者から憎まれていたが、少なくとも半分はユダヤ人であり(二列一七・二四~四一)、割礼と、彼ら自身のいわゆる律法の五書(サマリヤ人の五書)を持っていた。また、「エルサレムは『偽りの』場所であり、シケムとそのあたりこそ、エホバ礼拝の最も重要な真の場所である」と自負していた(ヨハ四・二〇)。使徒八・二六~四〇の宦官は改宗者であり、宦官として可能な限り、ユダヤ人の信仰と神に対する礼拝を受け入れていた。このように、キリスト教の最古の形態はイスラエル民族的だった。

まったくの異邦人をバプテスマすることのできる、いわゆる異邦人伝道は、まだ存在していなかった。何事も、イスラエルに加わってそれに適応することによって生じた。それゆえ、ペンテコステはまだ、あらゆる点で今の時代の始まりではない。実に、ペンテコステの後も、国家としてのイスラエルの基盤にもっぱら基づいて、ペテロは救いを提示したのである。「それゆえ、悔い改めて、立ち返れ。それは、あなたたちの罪が拭い去られるためであり、主の御前から更新の時期が到来して、あなたたちのために定められていたキリストを遣わしていただくためである。神が昔から聖なる預言者たちの口を通して語ってこられた万物復興の時まで、このイエスを天はとどめておかなければならないのである」(使三・一九~二一)。

このようにペンテコステの後も、新約の救いのメッセージは依然としてイスラエルを基盤としている。そして、その後イスラエルが退けられたのは、メシヤが地上に生きておられた時、彼らがメシヤを拒否したからではなく(使三・一七と比較せよ)、昇天して高く上げられたメシヤの栄光を彼らの前に示された聖霊を、彼らが最終的かつ決定的に拒否したからにほかならない。最終的にイスラエルは、聖霊に満たされて復活を証ししたステパノを殺害しさえした。これにより、「あなたたち、かたくなで心と耳に割礼を受けていない者たちよ、あなたたちは父祖たちと同じように絶えず聖霊に逆らっている」(使七・五一)というこの殉教者の言葉を証明したのである。

そして、異邦人を召すことが教会の本質的性質であるがゆえに(エペ二・一一~一二、三・六、ロマ一五・九~一二)、教会がすべてを含む完全な形で始まったのはエルサレムにおいてではなく(使二・一~四七)カイザリヤにおいてだった(使一〇・一~四八)、と言わなければならない。この過程はパウロへの啓示によって完成された。この奥義(エペ三・一~七)を教理的に示すこと、そして、諸国民の間でこの救いのメッセージを宣べ伝えることが(エペ三・八~九)、特別な方法でパウロに委ねられたのである。最初はユダヤ人に、次にギリシャ人にも――これが特にパウロの実行であり、救済史全般の行程でもあった(ロマ一・一六、使一三・四六)。

異邦人に対して、旧約の契約の民と等しい立場が与えられた。これが同時に意味するのは、ユダヤ人の特権的立場が無効になり、国家としてのイスラエルは退けられた、ということである(ロマ一一・二五)。救済史に占めるイスラエル国家の観点から見ると、今の時代はこのように間奏的である。異邦人は今、汲む許可をユダヤ人から得るまでもなく、公の救いの井戸から飲むことができる(ロマ一〇・一二~一三)。イスラエルの一部がかたくなになったが、その「堕落」は世の富となった(ロマ一一・二五、一一・一一~一二)。遠かった者は近くなった(エペ二・一一~一三):信じる異邦人は信じるユダヤ人と同じ身分を得た。彼らは共に相続人であり、共にからだの肢体であり、共に約束にあずかる者であり、共に聖徒たちと同じ市民である(エペ三・六、二・一九)。彼らは霊的所有にあずかる者たちであり(ロマ一五・二七)、「ひとりの新しい人」「キリストのからだ」は彼らと共にある(エペ二・一五・一六)。それゆえ、教会の中にはもはや区別がない。「まるで誰かが二本の柱を造ったかのようである。一本は銀で、もう一本は鉛で。次に、この二本の柱を一緒に溶かしたところ、奇跡により、一本の金の柱が出来上がったのである」(クリソストム)。

三.この召しの奥義

この素晴らしい建物をはっきりと見た旧約の預言者は誰もいなかった(一ペテ一・一〇~一二、マタ一三・一七)。永遠の昔から神によって決定されていたが(エペ三・九)、その構造は沈黙のうちに代々の時代から、秘密として、「奥義」として隠されていた(ロマ一六・二五、エペ三・五、一コリ二・七)。それゆえ、新約聖書的性格を帯びた教会を、旧約聖書の中に直接見いだすことはできず、ただ型として、エバ、レベカ、雅歌、幕屋として、間接的に見いだせるだけである。ペンテコステ、ペテロのカイザリヤ派遣以降、特にパウロに独立して与えられた啓示以降(ガラ一・一一~一二、エペ三・三)、教会の構成、召し、立場、希望に関する新約聖書の秘密が、人の子らにはじめて知らされたのである。その時から、この秘密は「預言的文書」を通して知らされ、福音の布告者たちは「神の奥義の執事」(一コリ四・一)となったのである。

これは約の預言者たちを意味する(ロマ一六・二六、エペ二・二〇を参照、エペ四・一一、使一三・一、一五・三二、二一・一〇)。
その基盤はキリストの御業である――敬虔の奥義(一テモ三・一六)、
その建物――教会、キリストの奥義(エペ三・三~四、三・九、二・一一~二二)、
その楽しみ――主の交わり、愛の大いなる奥義(エペ五・三一~三二)、
その――キリストの内住、「あなたたちの内におられるキリスト」(コロ一・二六~二七)の奥義、
その期待――造り変え、携挙の奥義(一コリ一五・五一)。

そして、たとえイスラエルの一部が頑なになるという奥義が進行中だったとしても(ロマ一一・二五)、また今日、世の諸国民が荒れ狂い、彼らの間に不法の奥義が働いていたとしても(二テサ二・七、黙一七・五)、それでも目標は確かである。神はついにはすべてを一つかしらの下で一つにされるのである(一コリ一五・二八)。これが「御旨の奥義」であり、神の最終目的であり、永遠の勝利である(エペ一・九~一〇、ピリ二・一〇~一一)。

その時まで、われわれは十字架につけられたキリストを宣べ伝え、至る所で「キリストを知る知識の香り」(二コリ二・一四)を知らせる。われわれのメッセージは、

その起源については、の奥義であり(コロ二・二)、
その仲保については、キリストの奥義であり(コロ四・三)、
その宣言については、福音の奥義であり(エペ六・一九)、
その経験については、信仰の奥義である(一テモ三・九)。

そして信仰は、これらすべての神の奥義に対する鍵である。信仰にとって、これらの奥義はもはや隠された事柄ではない。「なぜなら、御霊はすべてを探り、神の深い事柄さえも探られるからである」(一コリ二・一〇)。

「キリストの奥義」についての注記

 エペソ三・一~二一の「キリストの奥義」を厳密に解釈すると、教会そのもののことではなく、教会内における異邦人信者の地位の同等性のことである。「諸国民からの者たちが(イスラエルからの信者たちと共に)キリスト・イエスにあって、共に相続人となり、共にからだの肢体となり、共に約束にあずかる者となることである」(六節)。パウロが言うには、彼はこの奥義を記したばかりであり、それにより二・一三~一九を振り返る。そこでもまた、ユダヤ人と異邦人との間に違いはないことについて、彼は述べている。救いにあずかる権利に関して違いはないし、両者ともキリストの「一つからだ」、ひとりの「新しい人」の中で一つであり、同等の権利を持っている。それゆえ、「隔ての中垣」としての律法が撤去された後、かつては「遠かった」異邦人は近い者とされ、「近かった」者たち、キリストを信じるイスラエル人たちと共に、互いに、そしてキリストと共に、一つの有機的結合体を形造るのである。

 したがって、この箇所の「キリストの奥義」は、神秘的キリストの存在そのもの―― 一つの有機体としての教会――のことではないし、肢体たちが互いに有機的に一つであり、かしらとも有機的に一つであることでもない。異邦人がこのエクレシアに何の差別も受けずにあずかることであり、キリストを信じるイスラエル人たちと共に、復活・昇天した方との関係により、同じ身分にあずかることなのである。この句はこのように、ユダヤ人信者よりも、異邦人信者から形成される教会の一部と関係している。この句はエクレシア全体よりも、エクレシアの中の、信者であるからだの肢体仲間たちの問題について扱っている。したがって、世の人々の中から信者たちを受け入れる諸条件と、彼らが救いの交わりによって祝福を享受することについて扱っているのである。

 キリストご自身がすでに述べておられたように、クリスチャンたちはキリストご自身との生ける有機的関係の中に入る。とはいえ、キリストは体の比喩は用いずに、ぶどうの木のたとえを用いられた(ヨハ一五・一~二七)。しかし、ここでの主要な問題は比喩ではなく霊的実際であり、これをキリストは明確に宣言されたのである。

 したがって、「キリストの奥義(mystery of Christ)」という表現における属格の「の(of)」を説明の属格として解釈して、「奥義的キリスト」のことをまるで「キリストの奥義」(一コリ一・一三を参照、一コリ一二・一二)であるかのように解釈することはできない。そうではなく、これは神秘的関係の属格である。これは、キリストのパースンや御業と有機的につながっている奥義であり、ただキリストを通して、キリストと共に、キリストにあってのみ存在するのである。

 エペソ五・三二から、パウロは教会のことを「偉大な奥義」として描写している、と教えられてきた。しかし、厳密に解釈すると、この箇所ではそうではない。使徒がここで述べているこの「秘密」は教会のことではなく、教会とキリストとの間の愛の関係のことであり、この関係は人の婚姻関係になぞらえられている。「こういうわけで人はその父と母を離れ、その妻と結合して、二人は一体となるのである。この奥義は偉大である。しかし、私が述べているのはキリスト教会についてである」。このように、「奥義」という言葉がここで述べているのは、教会――教会そのものの存在――のことだけではなく、教会キリストのことでもある。つまり、贖い主と贖われた者との間の天的関係、愛による合一について述べているのである。「ユダヤ人と異邦人の両方のクリスチャンたちから成る教会を生み出す計画は、旧約聖書の中にどれくらい隠されていたのか?」という問題について、使徒はここでは何も述べていない。

四.この召しへの入口

贖いは素晴らしく、救いに入ることも素晴らしい。罪人は贖い主の三つの職務を、適切な歴史的順序で、ことごとく経験する。

預言者としての職務――その召しと照らしにおいて、
祭司としての職務――回心と義認において、
祭司・王としての職務――聖化と栄化において。

罪人はまず、キリストの預言的奉仕を経験する。

1.救いに導くこと:御言葉による召しと御霊による照らし。覚醒:「信仰は宣べ伝えによる」(ロマ一〇・一七)。目覚めた良心の訴えにより警告を受け、神の御言葉の下で打ち砕かれ、自己を罪に定めて、人はキリストの福音によって救いが示されていることを理解することを許される。次に、祭司の奉仕、ゴルゴタの経験が臨む。

2.回心と再生により救いに入ること。罪人は祭司のいけにえに基づいて咎を赦され、新しくされ(テト三・五)、造り変えられ(一コリ六・一一)、生かされ(エペ二・五)、神から生まれる(一ヨハ三・九、四・七、五・一、五・四、ヨハ三・五)。

再生はそれゆえ、贖いの中に実際に入ることである(テト三・五)。それはキリストが人となられたことと対をなし、死んでいたわれわれに彼の命を分与することである(コロ一・二七)。ただそれによってのみ、われわれは「新しい」人々(エペ四・二四、コロ三・一〇)、「最後のアダム」の肢体たちとなるのである。

しかし、この新生は回心と不可分に結びついている。つまり、向きを変えることと結びついている(使三・一九、一五・一九、二六・一八)。再生は神の面であり、回心は同じ経験の人の面である。人は両方を同時に経験する。しかし、回心は再生の条件であり、再生は回心に対する神の応答である。人の責任は回心であり、神に向きを変えることである。再生は神の働きである。回心では人は能動的である。「向きを変えよ」――これは命令である!(使三・一九)。再生では人は受動的である。人は再生された者に「なる」のである。

回心自体は(一テサ一・九)二重である。ある方向から転じて、別の方向に向かうことである。悔い改めと信仰である(マコ一・一五)。悔い改めは否定することであり(消極的)、信仰は肯定することである(積極的)。悔い改めは内側を見ることであり、信仰は見上げることである。悔い改めはわれわれの惨めさを見、信仰はわれわれの解放者を見る。

しかし、これらすべてにもかかわらず、罪人が神に向かうこの最初の転換は、一度きりの行為である。新約の回心はどれも突然であり、根本的である。人は死から命へと「過ぎ越す」のである(ヨハ五・二四)。こうして人は「昔」と「今」とを知る(エペ二・二、二・一一、二・一三)。この分断は当初のクリスチャンのバプテスマによって象徴的に示されている。バプテスマは、キリストと共に死んでキリストと共に復活したことを告白する、信者の告白だったのである(ロマ六・一~一一)。

悔い改めは(マタ三・二、使一七・三〇)一つの三重の行為である。悟性では――罪を知り、感情では――痛みと悲しみを覚え、意志では――心を変えて(ギリシャ語ではメタノイア matanoia)方向転換することである。一般的には、悔い改めは洞察力を得ることであり、自分自身に絶望することであり、自力による救いを完全に放棄することである(ロマ七・二四)。

信仰もまた、一つの三重の行為である。悟性では――成就された贖いを確信することであり、感情では――救いの愛に信頼して安息することであり、意志では――個人的な救い主にささげることである。このように、信仰は神の御手を握る人の手である。信仰は、感情を働かせることや、自分を苦しめることや、罪滅ぼしをすることではなく、キリストとの個人的関係であり、彼の恵みを意識して受け入れることであり、「かしらにある」幸いな「生活である」(ツヴィングリ)。「悔い改めは飢え渇くことであり、信仰は口を開けることであり、キリストは生ける糧である」(ヨハ六・一四、六・五五)。信仰は現在のキリストを此処彼処で経験する。信仰は今日ですら、堅固な永遠の足台であり、それゆえ、「目に見えない現実の顕現」(ヘブ一一・一)となる。

これがすべて揃う時はじめて、キリストの王職が始まる。

3.救いの保持と進展、つまり、聖化。「義と宣告」される者(義とされた者)は、実際にはまだ「完全に義」ではない。「聖なる者たち」(聖徒たち)は「聖」にならなければならない(聖化されなければならない、一テサ五・二三)。恵みは「王として統べ治める」(ロマ五・二一)。新生によって信者の内に植え付けられる新しい性質は、そこから新しい命が人の全存在を征服する出発点である。ただこれによってのみ、贖い主は造り変えを完成させることができる。

この救いの過程を経験するすべての人の名が、「小羊の命の書」の中に記されている。彼らは、

あらかじめ知られていた人々である――なぜなら、命の書は世の基が据えられた時から存在するからである(黙一三・八、一七・八)、
血で買い取られた人々である――なぜなら、それは小羊の命の書だからである(黙二一・二七)、
新生した人々である――なぜなら、それはの書だからである(黙二〇・一五)、
幸いな人々である――なぜなら、彼らの名は天に記されているからである(ルカ一〇・二〇)、
聖なる人々である――なぜなら、そこに記されるものはみな「聖」と呼ばれるからである(イザ四・三)、
喜びに満ちた証し人たちである――なぜなら、彼らは反キリストをも拒否するからである(黙一三・八、一七・八、ピリ四・三)、
勝ち誇る人々である――なぜなら、彼らは勝利者だからである(黙三・五、ダニ一二・一)、
栄化された人々である――なぜなら、彼らは天の都に入るからである(黙二一・二七)。