教会の高貴な地位について述べることにする。「栄光と徳により」召された教会は、きわめて大きな約束を受けている(二ペテ一・三~四)。この今の時代に、キリストの計り知れない富を知らせてもらえるのである(エペソ三・八)。
教会の天的祝福にはあまりにも多くの面があるので、たった一つの描写では表現できない。それゆえ、神の御霊はきわめて多彩な絵図や比較を用いて、プリズムのように、その永遠の光の輝きを別々の光線に分ける。
教会は、神の本質の三つのパースン、御父、御子、御霊と関係がある。神との関係においては、教会は「家族」である。神は「父」であり(ロマ八・十五、ガラ四・六、ヨハ二〇・十七)、贖われた者たちは神の家族の構成員である(エペ二・十九、ガラ六・十)。義務に関して言うと、彼らは神の奴隷であり(一ペテ二・十六)、特権に関して言うと、彼らは神の子である(ロマ八・十四)。
一.贖われた者の奴隷としての地位
神のためにイエス・キリストの血によって買い取られ、銀や金をもってではなく(一ペテ一・十八)、キリストの命という代価によって(一コリ六・二〇、七・二三)、ゴルゴタの「贖い代」によって(マタ二〇・二八、一テモ二・六)買い取られたのだから、贖われた者はもはや自分自身のものではなく(一コリ六・十九)、神の奴隷であり(ロマ六・二二)、キリストの奴隷である(ロマ一・一、エペ六・六)。彼らは永遠に彼のものであり(テト二・十四)、彼がお使いになる道具であり、1彼の奴隷である。もう決して売られることのない印として、2彼は御霊をもって彼らに「印を押」されたのである(エペ一・十三、四・三〇、二コリ一・二二)。彼らの贖いは同時に買い入れでもあり、彼らの解放は義務を課すものであり、彼らの奴隷としての地位は同時に、
個人的所有(一ペテ二・九)、 従順(ロマ六・十七~十八)、 保護(ガラ六・十七、ヨハネ十・二八~二九)
の条件である。
1 奴隷は生きている道具であり、道具は生きていない奴隷である(アリストテレス)。 2 アブラハム(=アムラフェル、創十四・一)と同時代のハムラビ法典まで遡ると、主人は、奴隷に焼き印を押すことによって、奴隷を決して手放さないことを宣言した。
ギリシャ語のドゥーロス(doulos)は、僕ではなく奴隷を意味する。僕は自分自身のものであり、したがって自分の賃金を受け取る。奴隷は持ち主のものであり、賃金を貰う権利はない(ルカ十七・九~十)。僕は主人に労働力を売るだけであり、大抵は一時だけである。奴隷は人として永久に主人のものである。キリストの僕であるだけでなく、キリストの奴隷であることを、パウロは自分の「栄光」と見なした(一コリ九・十五~十八)。訳すとき、この言葉をもっと正確に訳すべきである。
二.贖われた者の子としての地位
しかし、神の救いの計画は、さらに高い。罪の束縛から解放された者たちは、滅びから贖われて御旨を行う神の奴隷であるだけでなく、神は彼らをご自身にあずかる者、ご自分の神聖な性質にあずかる者とされる(一ペテ一・四)。彼らは子供(children、ロマ八・二一)、子(sons、ロマ八・十四)となり、まさに長子にすらなるのである(ヘブ十二・二三)。
1.子供。聖書が贖われた者たちのことを「神から生まれた者たち」と述べる時、その意味はこれにほかならない。恵みの下にある者たちを子の地位に引き上げることは、子として正式に宣言すること、法的に地位を高めて認定すること、言わば法的に養子とすることではなく、実際に産むこと(ヤコ一・十八)、実際に再び生まれること、神から有機的に生まれることである(ヨハ三・三、三・五、一ペテ一・二三、二・二、一ヨハ二・二九、三・九)。「見よ、われわれが神の子供と呼ばれるために、なんという愛を御父はわれわれに示してくださったことか。われわれはそのような者なのである!」(一ヨハ三・一)。
2.子。しかし、そのような者として、われわれは同時に成年に達した者でもある。これこそまさに旧約の時代との主な違いである。というのは、子たる身分をすでにイスラエルは持っていたからである(ロマ九・四、申十四・一)。啓示された歴史の中に示されているように、イスラエルは諸々の民の間で神の長子だった(出四・二二)。旧約聖書はすでに神の父たる身分について教えていた(申三二・六、イザ六三・十六、六四・八、マラ一・六、イザ一・二を参照、イザ三〇・一~九)。しかし、旧約の子たる身分は創造の行為(イザ六四・八、申三二・六)と、イスラエルのエジプトからの国家的贖い(イザ六三・十六)に基づいていた。新約の子たる身分は、各人が個人的に神から生まれて、子たる身分の霊を受けることに基づく(ガラ四・五~六)。
それゆえまた、イスラエルは依然として「養育係」、少年たちの訓練者(ギリシャ語パイダゴゴス、paidagogos)、律法(ガラ三・二四)の下にあった。「しかし、今や信仰が現れた以上、われわれはもはや養育係の下にはいないのである」(ガラ三・二五)。イスラエル人にとって信者になることは、成年に達すること、養育係からの独立、すなわち律法からの解放を意味する(ガラ四・一~五)。そして今、教会の中にユダヤ人と異邦人の区別はもはや存在しないのだから、諸国民出身の信者たちもこの同じ自由にあずかる。したがって昔と比較すると、われわれは成年に達した者であるが、他方、未来に関して言うと、われわれは依然として子とされることを待っているのである(ロマ八・二三)。しかし、われわれは子供や子であるだけでなく、
3.長子でもある。この時代に贖われた者たちは「被造物の中で初穂のような者」(ヤコ一・十八)であり、「天に登録されている長子たちの教会」(ヘブ十二・二三)である。「長子」という言葉が御使いではなく人々を意味することは、「天に登録されている者たち」という追加の表現からわかる(ルカ十・二〇、ピリ四・三を参照)。
長子として、彼らは
祭司の地位(出十三・二、十三・十五、民八・十六~十八、一ペテ二・五)、 王の威厳(一コリ五・一~二、黙一・六)、 嗣業の二倍の分1(申二一・十五~十七、エペ一・三)
を持つ。
1 父が死んだとき、例えば六人の子供がいたとすると、その財産は七つに分けられ、長子がその二つを取ったのである(英訳者注)。
こうして、子としての彼らの地位は、長子の権により完成される。彼らは子供として神の命を持ち、子として地位と威厳を持ち、長子として神の栄光を持つ。
このように、子供としての身分という観念と、子としての身分という観念は、全く同じものではないが、相補的なものである。「子供としての身分」は、奥義的、有機的、形而上学的な点を強調する。「子としての身分」(=子として受け入れること、子とすること)は法的宣言を強調する。子としての身分という観念はパウロに顕著であり(ガラ三・二六、四・七、ロマ八・十四、八・十九)、子供としての身分という観念はヨハネに顕著である(一ヨハ三・一~二、三・十、五・二)。パウロが新約聖書の主要な法理的著者であるように、ヨハネは奥義的―形而上学的な著者である。この二つの異なる言葉(テクナ tekna = 子供たち、ヒュイオイ huioi = 子たち)を、はっきり分けて訳すべきである。
しかし、これらすべてをもってしても、御子(the Son)と子たち(sons)、長子たる方(the Firstborn)と長子たち(firstborn ones)との間には、永遠に無限の隔たりがある。彼はいと高き方のひとり子であって神性の中におられるが(マコ十四・六一~六二)、彼らは天の父の多くの子たちであって造られた宇宙の中に在る。彼ご自身は唯一の御子(ヨハ一・十四、一・十八、三・十六)、万物の相続者(ヘブ一・二)、「万物の上におられる、永遠にほむべき神」(ロマ九・五)である。彼らは罪と不幸の中から救われた、恵みの対象である。それゆえ、主は決して「われらの父」という表現を、ご自身とご自分の民とを結び合わせる表現として使われず、ただ「わたしの父またあなたたちの父」(ヨハ二〇・十七)とだけ言われた。しかし彼は、彼らのことを「兄弟たち」と呼ぶことを恥とされない。なぜなら、聖める方と聖められつつある者たちとは、どちらもみな、ひとりの方(御父)から出ているからである(ヘブ二・十一~十二)。教会の構成員たちが長子たちであるのは、贖われた残りの被造物との関係においてのみである。永遠及び宇宙全体に関しては、キリストが長子なのである。