第二章 キリストの計り知れない富

エーリッヒ・ザウアー

キリストとその教会の関係は極めて多彩である。特に以下の点に関してそうである。

一.教えることと学ぶこと(学び、学校)
二.導くことと従うこと(群れ、軍隊)
三.治めることと服従すること(国家、人民)
四.愛することと愛に応えること(花嫁、妻)
五.活かすことと活かされること(ぶどうの木、体)
六.土台を据えることと建て上げること(霊の家)
七.祝福することと祝福となること(祭司職、宮)

一.教えることと学ぶこと

キリストは教師であり、われわれは生徒である(マタ二三・八)。彼は模範である(ヨハ一三・一四~一五、一ペテ二・二一)。彼は「私から学べ」(マタ一一・二九、エペ四・二〇)と仰せられる。われわれの任務は、あらゆることでわれわれの救い主なる神の教えを飾ることである(テト二・一〇)。教会は学校であり、学びの場である。弟子という言葉のギリシャ語はマセテス(mathetes)であり、生徒を意味する。

二.導くことと従うこと

キリストは羊飼いであり、われわれは群れである。イスラエルの囲いと、この世の文明の囲いの中から、彼はご自分の者たちを一緒に集めて一つの群れとされた(ヨハ一〇・一六)。

良き羊飼いとして、彼はご自分の羊のためにその命をお捨てになった(ヨハ一〇・一一、一〇・一五、詩二二・一~三一を参照)。

大いなる羊飼いとして、彼は永遠の契約の血の力により、死者の中からよみがえった方である(ヘブ一三・二〇~二一、詩二三・一~六を参照)。
羊飼いの長として、彼は再来して、部下の羊飼いたちに誉れの冠をお与えになる(一ペテ五・四、五・二~三、詩二四・一~一〇を参照)。

しかし今の時代、彼は羊飼いとして七重の奉仕を果たしておられる:

われわれを召し(ヨハ一〇・三)、
われわれを導き(詩二三・三)、
われわれを養い(詩二三・二)、
われわれを知り(ヨハ一〇・一四~一五、一〇・二七)、
われわれを守り(ヨハ一〇・二八~三〇)、
われわれを癒し(一ペテ二・二四~二五)、
われわれを家に連れて行ってくださるのである(ルカ一五・五~六、イザ四〇・一一)。

三.治めることと服従すること

キリストは主であり、われわれはその僕である(一コリ四・一)。キリストは統治者であり、われわれはその部下である(ユダ一・四)。キリストは司令長官であり、われわれはその戦士である(二テト二・三~四、エペ六・一〇~一七も見よ、一テサ五・八~九、二コリ六・七)。贖われた者たちは一つの民である(使一五・一四と二コリ六・一六、一ペテ二・九、テト二・一四)。彼らは聖徒たちと同じ市民であり(エペ二・一九)、祭司の王国である(黙一・六、一ペテ二・九)。教会には一つの国家としての性質がある。その市民権は天にあり(ピリ三・二〇)、その市民たちは御子の王国の中にある(コロ一・一三)。彼らは神の王国を現すべきである(ロマ一四・一七、一コリ四・二〇)。それゆえ、彼らは王国を宣べ伝える(使二〇・二五、二〇・二八、二〇・三一、コロ四・一一)。

法律がこの王国に伴う。御子の王国の場合、それはキリストの律法である(ガラ六・二)。それゆえ、信じることは、同時に従うことでもある。それゆえ、信頼することは、信用できる者になることである。なぜなら、この二つの表現はギリシャ語では一つの同じ言葉ピスティス(pistis)だからである。「戒めを守ること」(一コリ七・一九)について述べているのは、自由の使徒であるパウロである。彼自身命じてもいる(二テサ三・六)。彼にとって不信仰は不従順と同じである(ロマ一〇・三)。回心は彼にとって従順と服従の行為であり(使二六・一九)、福音のメッセージは悔い改めを命じる命令である(使一七・三〇)。信者は「罪と死の法則」(ロマ八・一~二)から贖われ、モーセの律法からも解放されたが(ロマ三・二一、七・一~六、一〇・四)、決して律法がないわけではなく(一コリ九・二一、ガラ五・一三)、今や「キリストの律法の下に」(一コリ九・二一)ある。信者は「キリストの律法」(ガラ六・二)を満たさなければならず、「信仰の従順」(ロマ一・五、一五・一八、一六・二六)の中を歩まなければならない。恵みが「王として支配」(ロマ五・二一)する。この新約の律法は

その起源については――キリストの律法であり(ガラ六・二)、
その性質については――自由の律法であり(ヤコ一・二五、二・一二)、
その内容については――愛の律法であり(ロマ一三・八~一〇、ヤコ二・八を参照、一テモ一・五、ガラ六・二)、
その力については――御霊の律法であり(ロマ八・二)、
その効力については――命の御霊の法則であり(ロマ八・二)、
その価値については――完全な律法であり(ヤコ一・二五)、
その威厳については――王の律法である(ヤコ二・八)。

旧約では、人は天然の人として神の律法の下に立った。人は「肉の中に」あり、それゆえ律法は無力だった(ロマ八・三)。しかし、新しい契約では、人は新しい人で(二コリ五・一七)、「御霊の中に」あり、それゆえ勝利を得る(ロマ八・一~四)。

旧契約では、律法は外側から人に近づき、石の板の上に記され、殺す文字だった(二コリ三・三、三・六)。新契約では、律法は人の心の中に置かれ(ヘブ八・一〇、ロマ六・一七)、「生ける神の御霊により、心の肉の板」(二コリ三・三)の上に書き記された。

このように教会は一つの素晴らしい民、一つの「聖なる国」である。

その統治者は――主キリストであり(ユダ一・四)、
その律法は――彼の御旨であり(ガラ六・二)、
その富は――彼の栄光であり(エペ三・一六)、
その栄誉は――彼の誉れであり(一コリ一・三一)、
その民としての交わりは――彼の愛であり(ヨハ一三・三四)、
その領域は――地上全体であり(ロマ一〇・一八)、
その首都は――天のエルサレムである(ガラ四・二六)。

四.愛することと愛に応えること

キリストは愛する者であり、教会はキリストに愛されているものである(二コリ一一・二~三)。キリストは主であり、教会はその妻となるべきものである(エペ五・三一~三二)。許嫁としての教会は、純粋な待望する愛を持つ(二コリ一一・二~三)。妻として、教会は所有して楽しむ愛を持つであろう。

それはまるで奴隷市場で奴隷の少女を見た東洋の皇子のようである。皇子は突然愛に燃え上がり、高い値を払って彼女を買い取り、次に彼女を清め、輝かしい衣をまとわせ、最後に自分の妻として王座に上げた――キリストと教会もそうである。キリストは、以前罪の奴隷だった者を愛し、次に買い取る代金としてご自身を与え、今や「御言葉の水の洗い」によって清めておられる。そしてやがて、しみやしわのない「教会をご自分に迎えられる」。この教会は聖なるものであり、永遠に若々しい美しさを帯びる(エペ五・二五~二七)。

それゆえ、この結婚の絵図の中に、教会のためのキリストの御業がすべて示されている。

教会の選びは――キリストの愛によってであり(エペ五・二五)、
教会の贖いは――キリストの献身によってであり(エペ五・二五)、
教会の清めは――キリストの主権によってであり(エペ五・二六、五・二四、五・三三)、
教会の栄化は――キリストの帰還によってである(エペ五・二七)。

アウグスチヌスがすでに述べているように、「神は教会を

この世を創造する前にあらかじめ定め、また
この世から召し出し、
この世の中で義とし、
世が去った後に栄化される」のである(ロマ八・二九~三〇を参照)。

われわれの命は、それゆえ、ただキリストだけのものである。われわれの魂は初めの愛で永遠に輝かなければならない(黙二・四)。初めの愛とはすなわち、キリストとの結合が最初に始まった時の愛のことである。エペソ人への主の手紙の中で、初めの愛はパラダイスの命の木と関係している。なぜなら、愛は命であり、「愛さない者は生きていない。この命によって生きる者が死ぬことはありえない」(レイモンド・ラル、一三一五年没)からである。

旧約の時代ですら、エホバとその民との間には愛の関係が存在した。それよりも遙かに輝かしい度合いで、今日、この愛の関係がキリストとその教会の間に存在する。それゆえ神の御霊は、たいていの人が経験的に知っている最高の愛の関係を用いて、それをイスラエル(ホセ二・二一~二二、エゼ一六・一~六三、二三・一~四九、イザ六二・五、詩四五・一~一七、雅)と、教会(二コリ一一・二~三、エペ五・三一~三二)の両方にあてはめておられる。しかし、この両者の合わさったものが天のエルサレムである。やがて、イスラエルから贖われた者はこの都に住む(黙二一・一二)。また、この都は教会にとって「われわれ全員の母」である(ガラ四・二六、ヘブ一二・二二、黙三・一二)。

キリストの「からだ」である教会は「許嫁」や「妻」にはなりえない、という異論は、東洋の聖書的言い回しの多様性についての誤解に基づく。種蒔く者のたとえでは、畑は人の心だが(マタ一三・一九)、毒麦のたとえではこの「世界」(三八節)である。鳥はしばしば善の象徴であり(マタ六・二六、一〇・一六、三・一六)、他の箇所では悪を表す(マタ一二・四、一二・一九)。鷹は汚れた生き物であり、イスラエルの子らにとって忌むべきものだが(レビ一一・一三)、それにもかかわらず、神の力強い顧みの絵図として用いられている(出一九・四、黙四・七)。同様にパウロの絵画的言い回しも、すべて流動的で、生きており、動いている。奴隷の身分について述べると、われわれの神との関係はもはやそのようなものではないことを示すために用いられることもあるし(内心の離反や恐れに関して――ガラ四・七、ヨハ一五・一五)、そうであることを示すために用いられることもある(所有、従順、保護に関して)(ロマ六・一五~二三)。教会はキリストの「からだ」なのだから「花嫁」にはなりえない、と言うことは、教会は「からだ」なのだから「柱」や「家」にはなりえない(一テモ三・一五)、と言うのと同じくらい無謀なことである。これらの例はどれも、絵図の問題である。そして、「許嫁」と「妻」の絵図が確かに二コリント一一・二~三とエペソ五・三一~三二に示されている。しかし、このどの絵図の背後にも霊的実際があり、それが絵図によって説明されているのである。

五.活かすことと活かされること(命の一体性)

すべての基礎は、肢体たちのキリストとの命における有機的交わりである。これは結婚の絵図の中にすでに示されている:「二人は体となる(中略)私はキリストと教会について述べているのである」(エペ五・三一~三二)。この点についても、新約聖書には豊かな絵画的言い回しがある:

キリストは「ぶどうの木」であり、われわれはその枝である(ヨハ一五・一~五)。キリストはかしらであり、われわれはその肢体である(エペ一・二二~二三)。信者はキリストの中に根ざす一本の木である(コロ二・七)。各人はキリストと共に植えられている(ロマ六・五、字義通り)一つの植物である(マタ一五・一三)。彼らはみな「キリストに在る」。

A.かしらに対する肢体たちの関係

最も重要な絵図は「体」の絵図である。この絵図を用いているのはパウロだけである。この絵図は、他のどの絵図にもまして、クリスチャンの交わりの祝福を示す。

1.キリストのものである。教会はキリストの「からだ」である(エペ一・二三)。

2.従属的奉仕。体においては、ただ一つの意志だけが支配する。かしらがからだを統治する(コロ一・一八)。

3.直接的交わり。個々の肢体はかしらと直接的関係にある。いかなる人や御使いも、仲立ちになることはない(一テト二・五)。それゆえ、あらゆることでかしらに「しっかりとつく」(コロ二・一八~一九)べきである。

4.愛と顧み。「自分自身の肉体を憎む者はなく、キリストが教会になさったように、かえってこれを養い育むのである」(エペ五・二九)。「彼はからだの救い主である」(エペ五・二三)。

5.活かしと建て上げ。かしらは、からだが自らを建て上げる源である。地上の体においては、魂が体を建て上げる要素である。それゆえ、体の形と魂の力はつながっている。このようにまた、そのかしら「から」、キリストのからだは神が定められた増し加わりをもって成長する(コロ二・一九)。ただキリスト「から」のみ、からだは「愛の中で自らを建て上げる」(エペ四・一六)ことができる。このようにキリストは建設者であり(マタ一六・一八)、われわれもまた建設者である(一コリ三・一〇~一五)。新約聖書において、建造の絵図が用いられているのは、ただ教会だけであって、神の王国については用いられていない。

6.かしらの「豊かさ」。神聖なパースンとしてではなく、ただ「最後のアダム」としてのことだが、キリストはその「からだ」がなければ「完全」ではない:一粒の麦は、その実がなければ、「一粒」のままである(ヨハ一二・二四)。贖われた者がいなければ、贖い主は決して贖い主になることはなかった。こうして教会は「すべての中ですべてを満たしている方の豊満」である。つまり、「すべての中ですべてを完全に完成させる方の完全な完成である」(エペ一・二三)。

これらすべてにより、教会は

7.キリストの命を表す手段である。地上の命においては、体は霊が自らを示す器官である。霊の命においては、神の多種多様な知恵が知らされるのは教会によってである(エペ三・一〇)。高く上げられたかしらは、そのからだにより、地上でご自身の命を生き続ける。教会は「歴史の中の神の生命圏」であり、地上におけるキリストの受肉の継続である。御霊により、教会はキリストの命を地上で拡張する。教会はキリストの中にあるだけでなく、キリストもまた教会の中におられる(コロ一・二七)。教会においてキリストは形を得(ガラ四・一九)、その中で御性質を表し、かしらは肢体たちを通して自らを示される。

B.肢体たちの相互の関係

クリスチャンたちの交わりについても、「体」が最も表現力のある絵図である。主な節は一コリント一二・一~三一である。贖われた者たちは、

1.一つである。この一つは、いかなる国家的交わりよりも深く、いかなる国際的交わりよりも広い(ガラ六・一〇)。贖われた者たちは互いに会ったことはなくても、互いを知っている(二コリ六・九)。まったくのよそ者同士かもしれないが、互いに愛し合っているのである!(コロ二・一~二、一・九)。「体には多くの肢体があっても一つであるように、キリストも同様である」(一コリ一二・一二)。教会は有機体であって組織ではない。法人ではなく、からだである。キリストのからだである。神の創造であって、人のわざではない。かしらであるキリストが、からだを一つにされる。キリストのからだは「ひとりの新しい人」である(エペ二・一五)。

七つの特別な特徴が、からだの一つを構成する。「からだは一つ(ロマ一二・五、エペ二・一六)、霊は一つ(エペ二・一八、一コリ一二・一一、一二・一三)、あなたたちが召された召しの望みは一つ一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ、われわれすべての神また父は一つ。この方はあなたたちすべての上におられ、あなたたちすべてを貫き、あなたたちすべての内におられるのである」(エペ四・四~六)。

教会の一つは三重である:

の(命の)一つはすでに存在している。それはすでに現実であり、われわれは信仰によりそれを持つ(エペ四・三)。
の一つがなければならない。それはわれわれの義務であり、われわれはこの義務をによって成就する(ピリ一・二七、二・一~四、四・二)。
知識の一つがあるようになる。これはわれわれの目標であり、われわれの希望の一部である(エペ四・一三)。

命の一つは、われわれが持っているものである。これは基礎であり、過去を、ゴルゴタの御業を振り返る(ヨハ一一・五二)。

思いの一つは、われわれが持つべきものである。これは現在、われわれに課せられた責務である。これは目的の一つであり、必ずしも意見の絶対的一つではない(ロマ一四・一~七)。

知識の一つは、われわれが「完全に」持つようになるものであり(エペ四・一三)、将来達成される。

しかし今のところ、アウグスチヌスの言葉が有効である。「必要なことについては一致し、疑わしいことについては自由を認め、すべてを慈愛をもって行う」。

In necessariis unitas, in dubiis libertas, in omnibus caritas.

2.多様性。「体は一つの肢体から成るのではなく、多くの肢体から成っている。体全体が耳だったら、聞くところはどこか?体全体が耳だったら、嗅ぐところはどこか?」(一コリ一二・一四、一二・一七、ロマ一二・四~八)。大祭司の胸当ての上には、イスラエルの十二部族を表す十二の異なる宝石が輝いていた。それと同じように、新契約の肢体たちはメルキゼデクの位による大祭司の胸にいだかれている。彼らはみな異なるが、みな輝いており、その光の一つはその太陽の一つである。

3.相互依存。われわれ一人一人は片面にすぎない。それゆえ、一人一人が全員を必要とする。「目は手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできず、また、頭は足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできない」(一コリ一二・二一)。否、肢体はみな互いに依存し合っているのである。最も大なる肢体ですら、最も小なる肢体に依存している。そして、神は最も卑しい肢体を、いっそう大いなる栄誉で覆われた。「それは肢体たちが互いに同じ顧みを持つためである」(一コリ一二・二二~二五)。

4.相互の同情。「一つの肢体が苦しむなら、すべての肢体がそれと共に苦しみ、一つの肢体が栄誉を受けるなら、すべての肢体がそれと共に喜ぶ」(一コリ一二・二六)。

5.共同の奉仕。各肢体は他の肢体に奉仕し、肢体たちはみな体全体に仕える。こうして、体全体は「節と筋とによって供給」(コロ二・一九)され、「すべての節々の助けによって結び合わされ、各肢体に割り当てられた個別の活動にしたがって奉仕するのである」(エペ四・一六)。すべての肢体に義務がある。一つの肢体といえども、離れて立つことは許されない。神の王国における交わりは、働きにおける交わりである。そうであって初めて、彼らは勝利のうちに交わりを持つのである。

6.共同の成長。しかしこれはみな、「われわれが信仰の一に、神の御子を知る知識の一に到達し、完全に成長した人の円熟に到達して、キリストの豊満の身の丈の度量に到達するまで」(エペ四・一三)のことである。

六.土台を据えることと建て上げること

聖書において、体の絵図と密接に関係しているのは家の建造の絵図である。この二つの絵図は、まさに織り交ぜられている:この家は成長し(エペ二・二一)、この体は建て上げられる(エペ四・一二)。

キリストは隅の石であり、われわれは上部構造である(一ペテ二・六)。教会は神の家、宮である。この絵図は三重に成り立つ――全教会について(エペ二・二一~二二、一ペテ二・四~五)、地方教会について(一コリ三・一六~一七、一テモ三・一五)、個々のクリスチャンについて(一コリ六・一九、エペ三・一七)。

1.その土台は主ご自身である。「すでに据えられている土台以外の土台を据えることは誰にもできない」(一コリ三・一一)。初代の証しはキリストについて告げる。それゆえ、それに続くものはみな、「使徒たちと預言者たちの土台の上に建て」(エペ二・二〇)られる。ペテロが告白した真理は教会の土台石である:その真理とは、ナザレのイエスの神に対する超歴史的な子たる身分と、歴史的なメシヤ職とである。「あなたはキリスト(メシヤ)、生ける神の子です」――「この岩の上に私は私の教会を建てる」(マタ一六・一六~一八)。

2.その石々。これらの石は二つの採石場、ユダヤ人と異邦人(エペ二・一一~一二)から出る。そして、共に結ばれて一つの聖なる宮となる(エペ二・二一~二二)。彼らは死んだ石として唯一の御方のもとに運ばれ、その命の御霊により生かされる(一ペテ二・四)。キリストに在るin Christ)彼らの信仰は、同時にキリストに基づくon Christ)信仰である(一ペテ二・六、ロマ九・三三)。また、シオンの隅の石に対する応答であり(イザ二八・一六)、キリストの上に建て上げられることである(エペ四・二九、ユダ一・二〇、一コリ一四・一二~二六)。

それゆえ、新約聖書は、キリストに在る信仰(faith in Christ、pisteuein eis Christon)だけでなく、キリストに基づく信仰(faith on Christ、pisteuein ep'auto)についても告げる、ロマ九・三三、一ペテ二・六。

3.その目的。この家の目的はとなることである。それは霊の家であり(一ペテ二・五)、その壁の「石々」は同時に祭壇の祭司たちでもある(一ペテ二・五、ヘブ一三・一〇)。そして、その指導者たちは、彼らの神の宮の「柱」である(ガラ二・九、黙三・一二)。

これにより、教会が祭司団であることはすでに示された。

七.祝福することと祝福となること

キリストは大祭司であり、われわれは祭司である(ヘブ八・一、黙一・六)。教会は「聖なる」民である(一ペテ二・九)。祭司として、その構成員たちには四重の奉仕がある:

1.彼らはささげる。

彼らの命は――供え物である(ロマ一二・一、一五・一六、ダービー)
彼らの献身は――燔祭である(マコ一二・三三)
彼らの奉仕は――注ぎの供え物である(二テモ四・六改訂訳欄外、ピリ二・一七)
彼らの行いは――霊の供え物である(一ペテ二・五、ヘブ一三・一六)
彼らの祈りは――香のささげ物である(詩一四一・二、黙八・三~四)
彼らの礼拝は――賛美のささげ物である(ヘブ一三・一五)。

2.彼らは祈る。彼らは他の人々のために祈り、他の人々のために感謝をささげる。静かな部屋で、彼らは全世界をいだく(一テモ二・一~二)。そして天では、御霊が言い表せない呻きをもって彼らのためにとりなし、彼らの祈りに神聖なエネルギーを分け与えてくださる(ロマ八・二六~二七)。

3.彼らは証しする。「祭司の唇は知識を保ち、御口からの律法を求めるべきである。祭司は万軍のエホバの使者だからである」(マラ二・七)。

4.彼らは祝福する。「アロンとその子らに語って言え、このようにあなたたちはイスラエルの子らを祝福しなければならない。(中略)彼らが私の名をイスラエルの子らの上に置くとき、私は彼らを祝福する」(民六・二三~二七)。このように、「祝福すること」は「誰かの上に神の御名を置くこと」を意味する。それゆえ、言葉と歩みによって、他の人々を神との接触にもたらす人だけが、祝福なのである。

しかし、新契約には普遍的な祭司職がある。彼らはみな、祭壇で祭司としての分を享受する(ヘブ一三・一〇、一コリ九・一三)。彼らはみな、イスラエルがなるべきだった「祭司の王国」(出一九・六)である。そして、彼らのうちの最も小さな者ですら、「私はあなたを祝福し、あなたは祝福となる」(創一二・二)という約束の成就が可能なのである。