第三章 神の新しい契約

エーリッヒ・ザウアー

教会のあらゆる祝福は、それを一緒にすると、「新契約」(マタ二六・二八)の下における救いの内容の極致をなす。これはアブラハムとの契約の天的な召しであり(ヘブ一一・一〇、エペ一・三)、キリストの計り知れない富である(エペ三・八)。

一.旧契約と新契約

しかし、新契約が「新しい」のは、ただ「旧」契約との関係においてだけである(ヘブ八・一三)。旧契約はイスラエルにのみ与えられ(詩一四七・一九~二〇)、諸国民は「約束の契約に関してはよそ者」(エペ二・一二)だった。こうして、「新しい契約」「新しい遺言」という名称自体が、教会は古い遺言の約束という土台から分け得ないことを示している。「救いはユダヤ人から出る」(ヨハ四・二二、ロマ九・五)。「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのである」(ロマ一一・一八)。にもかかわらず、神の王国は異邦人にも開かれたので、その祝福の享受に関して、もはや「区別」は存在しない(使一五・九、一一・一七、一〇・一七)。そして、諸々の民から信者になった者は、イスラエルから信者になった者と全く同じように、新契約の救いの恩恵にあずかる者たちなのである。

その内容に関して言うと、新契約は旧契約よりも無限に偉大である。ヘブル人への手紙がこれを特に示している。七重の対比により、ヘブル人への手紙はこの新しい遺言の卓越性を示す。旧約の四人の人(あるいは人々の団体)及び旧約の三つの制度と特別に比較することによってである。

この点で、ヘブル人への手紙は二コリント三・一~八に似ている。二コリント三・一~八も新契約の七重の栄光を浮き彫りにする:(1)石――肉(三、七節)、(2)文字――霊(六節)、(3)死――命(六、七節)、(4)劣る――優る(八~一〇節)、(5)罪定め――義(九節)、(6)過ぎゆく――残る(一一節)、(7)覆いをかける――覆いを取り除く(一二~一八節)。

ヘブル書では次のことが示されている。

A.キリストは次のものよりも偉大である

(1)御使いたちよりも偉大である――御使いたちは旧契約の天的な仲保者だった(一、二章)。ヘブル二・二を使徒七・五三と比較せよ。

(2)モーセよりも偉大である――モーセは旧契約の地上の仲保者であり、預言者的指導者だった(申三四・一〇)。

(3)ヨシュアよりも偉大である――ヨシュアは旧契約の安息を与える者であり、政治的指導者だった(四章)。

(4)アロンよりも偉大である――アロンは旧契約の大祭司であり、祭司的指導者だった(五~九章)。さらに、ヘブル書では次のことが示されている。

B.キリストは次のものよりも偉大である

(5)契約そのものよりも偉大である――この契約は旧契約の救いの内容だった(八章)。なぜなら、ヘブル八・八~一三とエレミヤ三一・三一~三四によると、キリストは(a)その主権を内なる規則とし、(b)預言職を普遍的なものにし、(c)祭司職を完全なものにされるからである。

(6)幕屋よりも偉大である――幕屋は旧契約の下では啓示の場所だった(九章)。

(7)諸々のいけにえよりも偉大である――これらのいけにえは旧契約の下では救いの手段だった(一〇章)。このように、キリストは旧契約の内容全体よりも偉大である。なぜなら、キリストにあってわれわれは以下のものにあずかるようにされるからである:

1.さらに優れた契約――七・二二、八・六
2.さらに優れた仲保者―― 一・四、三・三
3.さらに優れたいけにえ――九・二三、一二・二四
4.さらに優れた祭司職――八・六、七・七
5.さらに優れた所有――六・九、一〇・三四
6.さらに優れた約束――八・六、一一・四〇
7.さらに優れた望み――七・一九
8.さらに優れた復活―― 一一・三五
9.さらに優れたふるさと―― 一一・一六。

それゆえ、キリストの力により、われわれは「新しい生ける道」(一〇・二〇)を歩むことができる。すなわち、

上を見上げる信仰により(一一章)、
先にあるものを見る望みにより(一二章)、
周りのものをすべて熟視する愛により(一三章)。

二.アブラハムやダビデとの契約

この新契約により、旧い遺言の二つの契約、すなわち、アブラハムとの契約とダビデとの契約が成就された。アブラハム契約には、万民に対する祝福という幅広さがあり(創一二・三)、ダビデ契約には、メシヤの王座という高さがある(一歴一七・一一~一四)。一方は拡張して周辺まで押し広がり、他方は集結させて中心に集中させる。それゆえ、両者はしばしば一緒に言及される。ガブリエルの知らせやマリヤの歌(ルカ一・三二、一・五五)、御霊に満たされたザカリヤの預言的賛美(ルカ一・六七、一・七三)、ローマ人へのパウロの手紙における義認についての主要な聖書的証拠(四・一~三、六)のように。

しかし、新しい遺言は旧い遺言とは逆の過程で成就された。まず、キリストはイスラエルの中に現れて、もっぱら割礼を受けた人々の間で、ダビデの子として働かれた(マタ一〇・五~六、一五・二四)。次に、世の諸民族の救い(使一三・四六、ロマ一一・二五)、諸国民の召し、そうして全人類を包み込むアブラハムとの契約の祝福(ガラ三・八~九、三・一四)の時が到来したのである。

三.契約と遺言

厳密には、それは「契約」というよりは「遺言」である。なぜなら、

1.契約は双方向的だが、遺言は遺言者の意志(「遺志」)による一方的措置だからである。しかし救いにおいては、すべてが一方から、すなわち神の側から発し、人の信仰はそれと対等なものではなく(「考慮に値する」ものではなく)、差し出されているものを掴む手にすぎないからである。

2.契約は死によって失効するが、遺言は死に基づいて法的に発効するからである。しかし、救いはまったく遺言であって、「遺志」としての意向である。十字架につけられた方の死によってはじめて、救いは発効して有効になった(ヘブ九・一五~一八)。その前提はキリストの死であり、その資産は永遠の嗣業であり、それ自身は聖なる神の定めである。それゆえ、ギリシャ語のディアセケ(diatheke、ヘブル語のベリス berith)という言葉が救済史においてこの意味で用いられている場合、「神の定め」と訳すのが最善の訳である。

四.契約の民と世界

対外的には、契約の民は自分が経験した契約の恵みの証人である。契約の民はまず契約によって生み出され、次に契約の器官となる。最初は救いの対象であり、次に救いの道具となる。世界に対するこの関係は、大祭司の祈りの章(ヨハ一七・一~二六)の中で、もっとも密接に述べられている。この章は、世から離れた内なる領域、すなわち聖所の中へと、何よりも導く。この箇所で主イエスは七つの主要な関係について述べておられる。彼の所有の民は:

1.その環境については――世の中に生きており(一一、一五節)、
2.その立場については――世から取られ(六節)、
3.その感情については――世から分離され(一六、一四、九節)
4.その奉仕と証しについては――世の中に遣わされ(一八、二一~二三)、
5.その待遇については――世に憎まれ(一四節)、
6.その勝利の力については――世から守られる(一五、一一節)。
その全体の基盤は
7.世の基が据えられる前の神の愛の計画である。

時が始まる前に、御父は教会を愛の贈り物として御子にお与えになった。そして、世の基が据えられる前の、御子に対する御父のこの愛が、世の終わりの時に教会が栄化される基盤である。「父よ、願わくは、あなたが私に賜った者たちが、私のいる所に私と一緒にいるようにしてください。それは彼らが私の栄光を見ることができるようになるためです。(中略)なぜなら、あなたは私を世の基が据えられる前から愛しておられたからです」(ヨハ一七・二四)。このように、時の前と時の後のいと高き方の愛は、虹のように弧を描いてすべての時を覆う。最後は最初に戻る。なぜなら、最初が最後を保証するからである(ロマ一一・三六)。

しかし今は、聖徒たちは世に対する神の使者である:

1)「真理の柱また基礎」である(一テモ三・一五)。
2)彼の証人である(使一・八)。
3)彼の「手紙」(二コリ三・一~三)である。
4)世に対する彼の大使である(二コリ五・二〇)。
5)「命の言葉を示す者」(ダービー、darstellend、ピリ二・一六)である。
6)暗夜における彼の星である(ピリ二・一五)。
7)彼の七つの金の燭台であり、彼ご自身がその間におられる(黙一・一二~一三)。