「救いの確かさを否定する者は、信仰を拒絶する者である。」――ルター 「私はすでに得たわけではない。」――パウロ
キリストによる贖いは、直ちに実現するものであると同時に、将来実現するものでもある。個人は信仰によって、完全な、無代価の、現在の救いを得る。しかし、それにもかかわらず、この救いは同時に、きわめて効果的な複合的反作用の中でのみ経験されるものである。
一.完全な、無代価の、現在の救い
パウロは自分のクリスチャン経験を絶えず新たな色彩で特別に描き出す。彼は法律的思考が好きなので、法律の領域から取られた五つの主要な絵図の組によって、それを描写する。彼にとって、それは義認、贖い、赦し、和解、子とされることである。使徒にとって、自分の救いの経験は澄んだ輝く太陽のようであり、それ自体明るさ――キリスト――に満ちている。しかし、この経験には五本の主要な光線があり、それらの光線はそこからあらゆる方向に発し、無制限で、計り知れない。
パウロにとって、この五つの主要な絵図はみな、たんなる神学的観念ではなく、何よりもまず、純粋にローマ――ギリシャの法的生活の常套句である。特に:
ディカイオシス(dikaiosis)、無罪放免――義認 アポリトロシス(apolytrosis)、買取――贖い アフェシス(aphesis)、借金の免除――赦し ヒュイオセシア(huiothesia)、子とすること、子として受け入れること――子たる身分
理論的「教義学」のようなものは、パウロには縁遠いものだった。「彼は学識ある解釈学者や哲学的神学者というよりは、むしろ断然、祈りの人、証し人、信仰告白者、預言者だったのである」。
1.義認においては、罪人は被告人として神の御前に立ち、自由を宣言される(ロマ八・三三)。 2.贖いにおいては、罪人は奴隷として神の御前に立ち、贖い代によって自由を受ける(ロマ六・十八~二二)。 3.赦しにおいては、罪人は負債者として神の御前に立ち、負債免除を受ける(エペ一・七、四・三二、マタ十八・二一~三五を参照)。 4.和解においては、罪人は敵として神の御前に立ち、平和に導かれる(二コリ五・十八~二〇)。 5.子とされることにおいては、罪人はよそ者(あるいは奴隷)として神の御前に立ち、子たる身分を受ける(エペ一・五)。
しかし、この五つの主要な絵図はどれも、同じ救いの経験のもう一つの面を示す。
1.赦しは、われわれの生活の結果、個々の行い、諸々の罪に関するものである(エペ一・七、ロマ三・一~三一を参照、ロマ四・一~二五)。 2.贖いは、われわれの生活の根幹、その状態すなわち罪の下にある隷属状態に関するものである(ロマ六・十八~二二、五~八章) 3.義認は赦しと贖いの総計である。第一に、つまり狭義の根本的意味によると、義認は諸々の罪の咎から無罪放免されることであり(ロマ三・二三~二四)、赦しと等価である。しかし次に、義認はまた、 罪の力からの解放宣言(ロマ六・七、六・十)、すなわち解放である。4.和解は平和の締結、敵意の除去である。和解は意志及び思いを新しくすることと関係している(ロマ五・十)。 5.子たる身分は全体の中で最も偉大なものである。それはわれわれの立場と関係しており、天的威厳を与える(ロマ八・十七)。
このように、すべてが成就されているのである!単数形の罪と複数形の罪、根と木、罪の力と罪の咎、心の状態と心の地位――これをみなキリストはその十字架の下に運ばれたのである:「恵みを受けた罪人ほど聖い者はいない」(ツィンツェンドルフ)。
だがしかし!すべては成就されているのだが、すべては――義認を除いて――将来成就されるのである。キリストが戻って来られる時まで、信者は――信者自身から見ると――あるきわめて効果的で、強力な、複合的反作用を経験するのである。
二.反作用
未来と現在、地位と状態、神の働きとわれわれの働き、天と地、永遠と時、霊と体――これらのものがみな、信者の中で、重大な闘いを活発に続けて、決着がつかない。
1.未来と現在。われわれは贖われているが(エペ一・七、コロ一・十四)、贖いを待っている(ロマ八・二三)。それゆえ、「贖いの日」は依然として将来のことである(エペ四・三〇)。
われわれは永遠の命を持っているが(ヨハ三・三六)、永遠の命をこれからとらえるのである(一テモ六・十二)。 われわれは神の子であるが(ロマ八・十四)、子たる身分を待ち望んでいる(ロマ八・二三)。 われわれはすでに王国の中にあるが(コロ一・十三、ヘブ十二・二二)、王国の中にこれから入るのであり(使十四・二二)、将来王国を嗣ぐのである(一コリ六・九~十、エペ五・五、一テモ二・十二)。 神はわれわれに栄光を与えてくださったが(ロマ八・三〇)、将来われわれに栄光を与えてくださる(ロマ八・十七)。
これが現在と未来との対比、今あるものとこれから来るものとの対比、持っていないものと、それでも持っているものとの対比である。「信仰は未来の豊かさを現在の貧しさの中にもたらす」。初穂であるキリスト(一コリ十五・二〇)は、ご自分の者に、今でも初穂の賜物を与えてくださる(ロマ八・二三)。
われわれは現在を楽しむが、それと同時に、それはまだ成就されたわけではない。われわれは「望みによって救われて」(ロマ八・二四)いる。重心は過去――ゴルゴタ――にあり、頂点は未来――栄光の現れ――にある。しかし、未来こそ新約の思想全体の背景である。目標を見つめることこそ、聖化と救い全体の鼓動である。なぜなら、キリストは約束の具体的表現であるだけでなく、実現の具体的表現でもあるからである。
すべてが明らかになる(コロ三・四、ロマ八・十九、一ヨハ三・二)という新約の観念は、これに由来する。なぜなら、すでに存在しているものだけが、明らかになりうる(覆いを取り去られうる)からである。忠実で時間を超越している神は、未来をすでに現在のこととして、然り、過去にすでに起きたこととして、われわれに保証してくださっている。「彼はわれわれに栄光を与えてくださいました」(ロマ八・三〇)。
このように、われわれはすでにすべてを持っているが、われわれの享受は部分的なものにすぎない。体の贖いの時まで、われわれが成年に達するまで(ロマ八・二三)、われわれの投下資本は天に蓄えられている(一ペテ一・四、二テモ一・十二、コロ一・五)。そして、われわれがすでに持っているものは、総資産がわれわれのものであることの証拠であり、したがって、われわれの現在の所有は未来の保証であり、収穫全体の初穂であり(ロマ八・二三)、手付け金であり、来たるべき総計の担保であることの証拠である(エペ一・十四、二コリ一・二二、五・五)。
しかし、まさにこの「今」の確かさこそ、「まだ先のこと」と著しい対照を成すものなのである。われわれの今日の素晴らしさこそが、さらに素晴らしい未来をわれわれに待望させるものなのである。われわれの待望こそ祝福に満ちた享受であり、満足することによってわれわれの飢えは増すのである(ピリ三・十二、マタイ五・六)。
2.地位と状態。
われわれは死んでいるが(コロ三・三、ガラ二・十九~二〇、五・二四、ロマ六・六)、自分の肢体を死に渡す(コロ三・五)。 われわれは新しい人々であるが(コロ三・十、エペ四・二四、二コリ五・十七)、新しくなる(コロ三・十、エペ四・二三)。 われわれは光であるが(一テサ五・五)、光として輝くべきである(エペ五・九、マタ五・十六)。 われわれは神の聖徒であるが(コロ三・十二、エペ一・一)、聖くなる(一テサ五・二三、ヘブ十二・十四、二コリ七・一)。 われわれは完全であるが(コロ二・十)、完成を追い求める(ピリ三・十二)。 キリストがわれわれの内に住んでおられるが(コロ一・二七)、彼は私たちの内に住まなければならない(エペ三・十七)。
これが地位と状態、威厳と義務、現実と実現、恵みの立場と性格の対比である。貧困にあえぐ乞食は、その惨めな小屋から連れ出され、皇子たちの間に立てられたが、次に、皇子として振る舞うよう強い勧めを受ける(エペ四・一)。この貴人は気高くなければばらない。立場が義務を課す。ここで、肉と霊(ガラ五・十七)、古い人と新しい人(ロマ六・六、六・十一)の戦いが始まり、信仰の絶えざる働き、すなわち聖化が始まる。
しかし、まさにここで、われわれは次に続く対比を続けて経験するのである。それは力と関係している。
3.神の働きとわれわれの働き。すべての働きをなさるのは神であるが、われわれも働き人である。それはみな賜物であるが、すべてを努力によって獲得しなければならない(二ペテ一・三、コロ四・十二)。聖潔は全く神の働きであるが(一テサ五・二三、一コリ六・十一)、全く私の働きでもある(ヘブ十二・十四、一ヨハ三・三)。全く贈り物であるが、全く命令でもある。全く賜物であるが、全くの義務でもある。
召された者の選びに関しては、代々の時代の前のことだった(エペ一・四~五、二ペテ二・十)。 選ばれた者の聖化に関しては、諸々の時代の過程においてである(ヨハ十七・十七、二コリ七・一)。 聖化された者の栄化に関しては、諸々の時代の終わりのときである(ヨハ十七・二四、二テモ二・五)。
この調和の取れた対比は確かである。「恐れとおののきとをもって、あなたたち自身の救いを成し遂げなさい。なぜなら(!)御旨にしたがって、あなたたちの内に志を立てさせてそれを行わせてくださるのは神だからである」(ピリ二・十二~十三)。
説明しようとする人の試みは、ここでは全く不適切である。人の説明はどれも、特に極論まで突き詰めたとしても、問題の核心は未解決のまま残ることを示すことしかできない。ローマ八・二九や一ペテロ一・一~二ですら、この問題の最終的答えを与えない。人の意志の自由(マタ二三・三七、黙二二・十七)と、人は自由に欠けていること(ロマ九・十一、九・十五~十六、九・十八、十一・五、十一・七、使十三・四八)とは、神の王国の一つの奥義である。これらは二本の平行線であり、それが交わるのは無限遠のみである。この対比を説明することはできないが、信仰はこれを受け入れる。この対比が存在する、ということだけで十分である。この対比は、神の恵みの選びと人の責任、自由の欠如と被造物の意志の自由、恵みと報いの対比である(ロマ四・二~六、一コリ三・十四、四・五、コロ三・二四、二コリント五・十)。
次の対比は天と地との対比である。
4.天と地。キリストは天に上げられた方であるが(エペ一・二〇、四・十、ヘブ七・二六、八・一)、同時に地上でわれわれの間に住んでおられる(エペ三・十七、ガラ二・二〇)。1
1 これはキリストの超越性と内在性の間の神秘的・超越的な両極性である。それゆえ、パウロは「キリストにあって」という句を百六十四回、「御霊にあって」という句を十九回用いている。また、例えば、キリストの平和(コロ三・十五)、キリストの祝福(ロマ十五・二九)、キリストの信仰(ロマ三・二二)、キリストの愛(二コリ五・十四)、キリストの従順(二コリ十・五)、キリストの割礼(コロ二・十一)等のような、パウロ書簡の神秘的属格(genetivus mysticus)を用いている。
クリスチャンはこの下界の地上に生きている(ヨハ十七・十一、十七・十五、ピリ二・十五)が、同時に天の所に共に座している(エペ二・六、一・三、ヘブ十二・二二、ピリ三・二〇)。1
1 「天の所に」(en tois epouraniosis)というこの表現は、エペソ書にのみ見られ(五回)、常に場所を表すものとして理解しなければならない。これは特にエペソ一・二〇(二・六を参照)、また三・十と六・十二によって証明される。クリスチャンはキリストと共に十字架(ガラ二・十九)と復活(コロ三・一)を経験しただけでなく、御霊によってキリストの昇天も経験したのである(エペ二・六)。それゆえ、エペソ一・三は「天的所有」ではなく「天の所」と訳されるべきである。
この二つを結ぶものは御霊である。御霊は天から、「われわれの上におられるキリスト」から、天から、地に降臨された(使二・三三)。そして、御霊は「われわれの内なるキリスト」として、下から上へ、地から天へ導いておられる(コロ一・二七、二コリ三・十七~十八)。
しかし、すべての基盤は永遠と時との対比である。
5.永遠と時。永遠とは、たんなるかぎりない時を超えたものである。その長さだけでなく内容に関しても、永遠は束の間のものと本質的に異なる。永遠は何か別のもの、何かいっそう高いものであり、それゆえ、「前」や「後」だけではない。永遠とは、長さに関する観念であるだけでなく、とりわけ質に関する観念でもある。時の観念を永遠の観念の中に持ち込むことを警戒しなければならない。「時をいくら足し合わせても、永遠の観念には到達しない」。それゆえ、「永遠の命」は確かにかぎりない命であるが(マタ二五・四六を参照)、同時に不死を超えたものでもある。それは神の命なのである。
しかし信仰は今でも、常に時の制約下にはあるものの、永遠の神を経験する。信仰にとって、これは高くするものであると同時に、謙虚にさせるものでもある。神との交わりは常に、特に祈りによる神との交わりは、神の命にあずかることである。これにより、人は時のただ中で、永遠の中に立つ。変転のただ中に、堅固ないつまでも残るものが現れる。歴史の中で歴史を超えたものを経験する。
これが、信者はすでに永遠の命を持って「いる」、という聖書の教えの意味である。永遠の命は死後始まるのではなく、今日、地上で、今生において、すでに始まっているのである。「御子を信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハ三・三六、十七・三を参照:一ヨハ三・十四、五・十二)。
6.霊と体。それにもかかわらず、これはみな時の制約の中で起きる。われわれは「キリストにある」が、依然として「世にある」(ヨハ十七・十一)。「御霊にある」が(ロマ八・九)、以前として「体の中に」ある(二コリ五・六)。死を超越していると同時に、しかし死を免れない(二コリ四・十一、四・十六)。われわれの魂はなんと弱い器官であることか!われわれの体はなんともろい「天幕」であることか(二コリ五・一、五・四)!神の御霊と人、力と弱さ、中味と器のなんという対比か!われわれは「土の器の中」に途方もない宝を持っているのである(二コリ四・七)。
それゆえわれわれは、「用意の整った者である同時に待ち望む者であり、安息していると同時に急いでおり(ヘブ四・三、四・十、ピリ三・十二)、解放されていると同時に束縛されており、勝利を歌うと同時にうめいている」(ロマ八・三一~三九、二コリ五・四、ロマ八・二三)のである。われわれは「死に瀕しているが、見よ、生きており」、「悲しんでいるが、常に喜び」、「貧しいが、多くの人を富ませ」、「何も持っていないが、すべてを持っている」(二コリ六・九~十)。われわれが見つめるのは、上方の超歴史的なものとしての永遠であり、前方の歴史の終わりとしての永遠である。それは「今」であると同時に「すぐに」であり、所有であると同時に待望であり、今日であると同時に明日であり、信仰であると同時に望みである。これは同時に二重の経験をすることであるが(一ペテ一・二一)、両方とも永遠の愛から生じるのである。
しかし、この緊張のゆるむ日がついには到来する。キリストの再来により、すべての束縛は解かれる。今の時代の根本的な対立及び緊張は、ゴルゴタの勝利にもかかわらず、サタンの王国が現れて、神の王国が隠されていることである。しかし、キリストが現れる時、この問題はすべて解決する。その時、キリストの現れにより、
1.霊の体が現され、 2.教会は時の中から永遠の中に移り、 3.現在は未来によって様変わりし、 4.われわれの状態はわれわれの地位に完全にふさわしいものとなり、 5.神の働きがわれわれの人間的な働きをご自身によって完成し、 6.われわれは携え挙げられ、地から離れて天の世界に入るのである。