第一章 反キリストのパースン

エーリッヒ・ザウアー

一.反キリストが来ること

キリスト教の最終目標はイエス・キリストである。名目上のキリスト教圏の行き着くところは反キリストである。歴史の到達点は歴史の所産ではないこと、神の王国が支配権を得るのは成長や向上によってではなく、世界的な崩壊と大惨事の後であることを、聖書はまぎれもなく教えている。不法がはびこり、多くの人の愛が冷める(マタ二四・十二)。そして、人の子が来臨される時、彼は地上に信仰をほとんど見いだされない(ルカ十八・八)。世界をキリスト教化した結果、文明がキリスト教化するのではない。むしろ、世の敵意が増加して、文明がキリスト教を排斥するに至る――これが聖書預言が予告する道程である。

したがって、キリストがまだ来臨していないのは、この世が十分にキリスト教化されていないからではない。キリストがまだ来臨していないのは、この世が十分に不信仰になっていないからである(二テモ三・一~四、四・三~四、二ペテ三・三、一テモ四・一~三)。この世を治める神の統治の基本原則は、すべてのものが、善も悪も(マタ十三・二九~三〇、黙十四・十五、十八)、成熟に達しなければならない、ということである。ただ悪に対してのみ、神の忍耐はいっそう厳しい裁きという結果になる。「だれにも惑わされてはならない。まず背教があって、罪の人が現れないかぎり、主の日は来ないからである。この者は滅びの子、敵対者、悪しき者であり、この者を主イエスは、その来臨の時に、御口の息で滅ぼされるのである」(二テサ二・三~四、八)。

このように、この戦いは和解で終わらず、最後まで激しさを増す。人は発展して栄光に至るのではなく、滅びに至る。神と文明との間に同盟が成立することはなく、神の王国がこの世の王国を粉砕する(ダニ二・三四~三五、黙十九・十一~二一)――このようにして、主の御業が勝利するのである。歴史の終わりは歴史の自然的完成ではない。その「上昇」線は、たちまち散り散りに引き裂かれる。天を荒らす者どもは、天から投げ落とされる(創十一・四、十一・六、黙十八・一~二四)。

最初は確かに、すべてがこれとは逆に見える。聖書の証しによると、数千年にわたる人類の願望をすべて満たすように見える文明の体制が生じることになっているからである。一人の強力な支配者がその頭になる。その者は組織に対する才能を持っており、すぐに世界の支配者かつ保護者となる(黙十三・七、十三・四、十一・十)。また、戦争の危険から諸国民を守る諸国民の助言者(一テサ五・三)、群衆の絶望的混沌状態に秩序をもたらす組織者となる。彼は、人の偉大さの極致として、人々を大いなる情熱で煽り立て、あらゆる企てを導く至高の指導者として、安息感や安心感を生じさせ、支配する頭として、神々しい栄誉を受ける(黙十三・三~四、十三・十二)。こうして、彼はこの世の精神を最高に高める。そして、この世の文化にとって、それは最も大いなる向上と光輝の時となる。

しかし、これはみな神抜きでなされる。恵みは排斥され、ただ自信のみで行われ、人は自分自身の力を誇るようになる。そして、人の精神が神格化されるようになる(二テサ二・四)。

それゆえ、いと高き方はその返答を保留されず(エレ十七・五)、ご自分の栄誉を他の者に与えることも、ご自分の賞賛を塵から生まれた反逆者どもに与えることもなさらない(イザ四二・八)。反キリストの挑発に対するいと高き方の返答は、ご自分のキリストを遣わすことである(使三・二〇)。そして、その「現れ(パルーシア parousia)がサタンの力による」者を、キリストは「その現れの輝きにより」(そのパルーシアのエピファニーにより)滅ぼされる。それは、「燃える炎」によってであり、「神を知らない者どもと、われわれの主イエス・キリストの福音に従わない者どもとに、彼が報復される時」(二テサ一・八)である。こうして、文明の絶頂がその歴史の終幕となり、この世の夕焼けを通して、まるで炎のように、次の言葉が裁きのしるしとして輝くのである。

「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」
「数えた、数えた、量った、軽すぎた」
(ダニ五・二五~二七)

二.反キリストの諸々の名

「反キリスト」という名称はヨハネの書き物にだけ見られる。そこでは五回、三重の意味で使われている:個人としての反キリスト(一ヨハ二・十八)、反キリストの霊(一ヨハ四・三)、その反キリストたち(複数形、一ヨハ二・十八、二・二二、二ヨハ一・七)。この「反キリスト」という言葉でヨハネが間違いなく言わんとしているのは、パウロが「罪の人」、「滅びの子」、「不法の者」、「反抗者」(二テサ二・三、二・八)と呼んでいる者と同一人物である、と昔の人(例えばアウグスチヌス)は述べている。この者は、黙示録によると、人民の海から現れる獣であり(黙十三・一~十)、ダニエルの預言によると、四番目の世界帝国から起こる「小さな角」である(ダニ七・八、七・二三~二五)。このように聖書は、この同じ悪しき者に全部で七つの主な名称を与えており、この悪魔的反逆者の神に対する反抗を七重に描写している。

三.反キリストの人格

反キリストは人であると同時に組織でもある。個人として、反キリストはある組織の個人的頭であり、人の反逆全般の指導者及び化身である。霊感や傾向として、反キリストは常に現存している(一ヨハ二・二二、二ヨハ一・七)。すなわち、「不法の奥義」(二テサ二・七)、「反キリストの霊」(一ヨハ四・三)としてである――そのため、数千年にわたって、その先発者たちや先駆者たち、その反キリストたち(複数形、一ヨハ二・十八)の系譜が連綿として続いているのである。しかし、終末におけるその完全な現れとして、反キリストは一人の個人であり、悪魔的天才であり、人であり、悪魔のメシヤである。活動が普遍的だからといって、個々の活動家がいてはならないことにはならない。それどころか、この世の顕著な進展はどれも、個々の人々によってもたらされたのである。「ある国民の歴史は、その偉人たちの伝記である」(カーライル)。それゆえ、反キリスト主義が一個人により完成されるのを初期のクリスチャンたちが予期したのは、全く歴史的に真実な確信だった。「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、他の人が自分自身の名によって来るなら、その人を受け入れるであろう」(ヨハ五・四三)。この「わたし――他の人」という対比から、間違いなく、この「他の人」(反キリスト)は、ここでご自分のことを「わたし」と述べておられるキリストと同じように、一個人であるにちがいない。

「反キリストはユダヤ人なのか、それとも異教徒なのか?」という問題に関しては、様々な説がある。「反キリストはユダヤ人であり、明らかにダン部族の出身である」と、エイレナイオスは述べている。その根拠は、エレミヤ八・十六と、黙示録七・五~八にこの部族の名がないことである。ヒッポリュトスは、申命記三三・二二と創世記四九・十六~十七に基づいて、また、「反キリストはキリストに対立する者であるから、イスラエルから出なければならない」という考察に基づいて、ユダヤ人説を主張した。アンブロシウスはヨハネ五・四三に、シャラッター教授は二テサロニケ二・四に言及して、「反キリストは偶像の宮ではなく、神の宮に座す」と述べている。他の者たちによると、反キリストは異教圏から出る。なぜなら、その主要な型であるアンティオコス・エピファネスはギリシャ・シリア人で、異教の王だったからである(ダニ八・八~十二、十一・二一以下)。また、反キリスト自身、黙示録十三・一~十八の第一の獣として、「海」の中から、すなわち、諸国民の中から起こるからである(黙十三・一、十七・十五、イザ十七・十二~十三を参照)。

これはさらに、マルコ十三・十四に見られる将来に関するキリストの教えからも導かれる。この節を厳密に読むと、「荒らす忌まわしいものが立ってはならない所に立つのを見たら(読む者は注意せよ)、ユダヤにいる者は山々に逃げよ」となる。この「荒らす忌まわしいもの」は明らかに反キリストの期間と関係している。しかし印象的なことに、原文では「忌まわしいもの」という名詞は中性だが、それに従属する分詞「立つ」は中性形ではなく男性形なのである。

ギリシャ語 to bdelygma(中性)…… hestekota すなわち男性対格であって、hestekos 中性対格ではない。(改訂訳では、「彼が立ってはならない所に立つのを」と訳して、これを示している。)

これはまぎれもなく、「荒らす忌まわしいもの」はたんなる像や、何かそのような他の物体や行動ではなく、一人の人物、一人のが聖所に立つことを意味する。このように、一人の個人が聖所を汚すことになるのである。この者は、偶像的な忌まわしい人として、偽りの神として、真の神の敵となり、自分を神として礼拝するよう要求する(二テサ二・三~四)。

最後に、反キリストが一人の個人であることは、次のさらなる事実からもわかる。すなわち、反キリストにはキリストと同じように、パルーシア(parousia、到来)があるのである。反キリストの「到来(パルーシア)はサタンの働きによるものであり、あらゆる力としるしと偽りの不思議を伴う」(二テサ二・九)。そして、キリストが一人の個人として、今の隠されている期間の後、神の時に現される(アポカリプス apocalypse、二テサ二・七)のとまさに同じように、キリストの偽物である反キリストも、一人の個人として、しかるべき時に(その時はサタンの時であると同時に神の時でもある)現される(アポカリプス apocalypse)のである!「この不法の者が現れるであろう」(二テサ二・八)。

四.反キリストの先駆者たち

1.聖書の歴史の中では、とりわけ以下の者たちである:

カイン――宗教戦争の創始者――反アベル。最初の「戦争」は、言わば宗教戦争だった(創四・四~八)。この時代の最後の戦争も、反キリスト教戦争であろう(黙十九・十九)。
ラメク――「自己」を神格化した自惚れ屋――反エノク。自己を神格化することは、反キリスト教圏のラメク的性格である(創四・二三~二四、黙十三・一、二テサ二・四)。
ニムロデ――世界的強国の創設者。バビロニアの世界的権力の歴史は、ニムロデに始まり、反キリストで終わる。ユーフラテス河畔のバベルはローマ帝国の先駆者であり、ローマ帝国は反キリスト的な終末時代の先駆者である(創十・八~十二、黙十七・一~十四)。
バラム――姦淫に誘う者――律法学者たちが言ったように、反モーセである(民三一・十六、二ペテ二・十五、黙十七・四、十七・十五、十八・三~四、十九・二)。
ゴリアテ――冒涜的な人気の弁士――反ダビデ、代表的テロリスト。律法学者たちもそう言った(一サム十七・八、十七・十、十七・二五、ダニ七・二五、黙十三・六)。
アンティオコス・エピファネス――聖所を荒らす者。そのような者として、彼は三番目の世界帝国の「小さな角」である(ダニ八・九~十四)。反キリスト自身が四番目の世界帝国の「小さな角」であるのと同じである(ダニ七・二三~二五)。ダニ十一・二一~四五で、この二人は融合して一つになる。

2.教会史と世界史の中では、以下の者たちが先駆者である:

ネロ――クリスチャンの迫害者(黙十三・七、十七・六)。初代のクリスチャンたちは彼を反キリストと見なした。「Neron Kesar」(ネロ皇帝)をヘブル文字で書くと、数字の六百六十六になる。
ローマの皇帝たち――世界的権力の代表者(黙十七・三、十七・九)。Kesar Romin 「ローマ人たちの皇帝」もヘブル文字では六百六十六に等しい。
モハメッド――偽預言者。中世の始まりのときに、多くの信者がそう見なした。
法王制度――偽物の宗教。中世初期の福音的諸教会(ワルドー派、ウィクリフ派、フス派)は法王を反キリストと見なした。ダンテ、ルター、改革者たち、ベンゲル等もそうである。
ナポレオン――世界征服者。急進主義から生じた絶対的支配を代表するかぎりにおいて、ナポレオンは確かに反キリストの型である。
「Lateinos」、「Roman」も、ギリシャ文字で書くとそうなる。エイレナイオスはそう述べた(紀元二〇〇年頃)。さらに、「巨大な」を意味するギリシャ語の「titan」も六百六十六に等しい(エイレナイオス)。「淫婦」(黙十七・一、十七・三、十七・九、十七・十五)もそうである。この淫婦は七つの丘と多くの水の上で座についているが、まちがいなく、「全地の集い」である七つの丘の都(urbs septivillis)のことである。
法王のラテン語の名称である Vicarius filii Dei(神の御子の代理人)は、ラテン語では六百六十六に等しい。
さらに、「獣」を表すギリシャ語をヘブル文字で書くと、六百六十六の数字になる。しかし、六百六十六という数字を解き明かそうとする様々な試みに、あまり大きな価値を置いてはならない。

これらの者たちはみな、反キリストの前触れである。

二つの系譜が人類史を貫いて走っている。キリストの系譜と反キリストの系譜、女の裔の系譜と蛇の裔の系譜である。キリストの系譜はアダムと共に始まり、ゴルゴタを通って、天のエルサレムに至る。反キリストの系譜はカインと共に始まり、バベルを通って、火の池に至る。今日われわれは、各々、このどちらかの系譜に属しており、それと同時に、自分自身の将来を備えつつある。自分自身の最終的完成に向かって邁進しつつあり、一人一人がその型であり予表である。各自はキリストに属するか、反キリストに属するかのいずれかである。

アダムは、来たるべき女の裔の良い知らせをすぐに信じた(創三・十五)。これは、あの最初の約束のすぐあとに、そして確かにパラダイスから追放される直前に、彼が妻(Ischa、女、創二・二三)につけたエバ(ヘブル語 Chavva、命)という名からわかる(創三・一~二四、文脈)。「死の中に沈んでいたにもかかわらず、アダムはこれほど誇り高い名を妻につけたのである」(カルビン)。そして、そうすることによって、命が死を征服するという確信を、彼は表明したのである。このように、「アダムが妻をエバと名付けたのは信仰の行為」(デリチェ)であった。そしてその時から、彼女の名は人類にとって「神の恵みの約束の記念」(mnemosymon gratia Dei promissa、メランヒトン)となった。この最初の約束についてルターが述べたように、「アダムはこれを信じて、それで堕落から救われたのである」。