第二章 反キリストの組織

エーリッヒ・ザウアー

黙示録一三・一~一八によると、神に敵対する人の組織の頭として、反キリストが現れる。

この組織は、神の三位一体に公に対立しつつも、それを真似たものであり、三つの三位一体が合わさったものである。

三つのパースン:龍、獣、預言者
三つの都:エルサレム、バビロン、ローマ
三つの原則:政治的、経済的、宗教的世界統一

この組織は、悪魔的三位一体を頂点にいただく、三つの面を持つピラミッドのようである。それは、歴史の最終的完成における「バベルの塔」である。したがって、再び散らして裁くことが、人類のこの挑発に対する神の答えである(黙一九・一一~二一、創一一・七を参照)。それに応じて、反キリスト主義の性質は(この三つの都は別として)以下のように現れる:

a.パースンの三位一体
 (ⅰ)反神、(ⅱ)反御子、(ⅲ)反御霊
b.文化的三位一体
 (ⅰ)政治的統一、(ⅱ)経済的統一、(ⅲ)宗教的統一

A.パースンの三位一体

三つのパースンがこの組織の霊的頂点である(黙一六・一三、二〇・一〇):悪鬼的権威である「龍」(黙一二・三、一二・九、一二・一七、一三・二):政治的権威である獣(黙一三・一~一〇):宗教的権威である「偽預言者」(黙一六・一三、一三・一一~一八)である。龍は反神、獣は反御子(反キリスト)、偽預言者は反御霊である。

黙一三・一~八の二匹の「獣」のうち、第一は反キリストであり、第二はその預言者である。これは、「反御子」と「反御霊」に関して前述したことからわかる。さらに、この二匹の獣のうち、第一の獣が常に前面に立っている(黙一三・一二)。第二の獣には第一の獣の権威しかない(黙一三・一二)。六百六十六という数字は、ちょうど獣の「像」と同じように(黙一三・一四、三・四を参照)、まちがいなく第二の獣ではなく第一の獣と関係している(黙一四・一一、一五・二、一九・二〇)。著名な注解者のほとんどがそう説明している。黙一六・一三、二〇・一〇によると、反御霊、第二の獣は「偽預言者」である。

一.反神

龍は御父と対照をなすものである。龍はこの地獄の三位一体の「第一の」パースンであり(黙一六・一三)、この組織全体の首謀者・誘惑者であり、敵の頭であり、「悪魔やサタンと呼ばれている、いにしえの蛇」(黙一二・九、ヨハ八・四四)である。獣に対する龍の立場は、神格における御子に対する御父の関係に似ている。

御父が御子を世に遣わされたように(ヨハ六・五七)、サタンは、天から追放された後、反キリストを遣わす(黙二・七~一二、一三・一~二)。
御父が御子にあらゆる権威を賜ったように(ヨハ一七・二、マタ二八・一八~二〇)、龍は「自分の権力と王座」を獣に与える(黙一三・二、一三・四)。
御父が御子を通して、その復活の後、すべての誉れをお受けになるように(コロ一五・二八、ヨハ一二・二七~二八、ピリ二・一一)、龍は獣を通して、その蘇生の後、人類の礼拝を受ける(黙一三・四)。

二.反御子(反キリスト)

獣は、この悪鬼的三位一体の「第二の」パースン(黙一六・一三)、敵対者(二テサ二・四)、キリストの大いなる道化である。

1.その起源。キリストは「天から」(ヨハ六・三八、ピリ二・六~八)下って来られたが、反キリストはアビスから上って来る(黙一一・七)。

2.その到来。キリストは御父の御名によって来られたが、反キリストは自分自身の名によって来る(ヨハ五・四三)。

3.その性質。キリストは「聖なる者」(マコ一・二四)であり、真理の化身であるが(ヨハ一四・六)、反キリストは不法の者であり(二テサ二・八)、偽りの化身である(二テサ二・九、二・一一)。

キリストは敬虔の奥義であり(一テモ三・一六)、贖い主であるが、反キリストは不法の奥義であり(二テサ二・七)、滅ぼす者である(ダニ七・二五)。

神の御子であるキリスト(ルカ一・三五)は、御父の輝きであるが(コロ一・一五、ヘブル一・三)、滅びの子である反キリストは龍の完全な似姿である。

龍と獣は両方とも、象徴的には、七つの「頭」と十の「角」とを持つ怪物である(黙一三・三。なお一三・一を参照)。

4.その活動。キリストはイスラエルで三年半奉仕されたが(ヨハ二・一三、六・四、一三・一)、反キリストは三年半世界を支配する(黙一三・五)。

5.その蘇生。キリストは死者の中からよみがえらされた方であるが、反キリストは致命傷を癒された者である(黙一三・三)。

6.その領域。キリストは教会、エルサレム、花嫁を持つが(エペ五・三一~三二、ガラ四・二六、黙二一・九)、反キリストは世界帝国、大バビロン、淫婦を持つ(黙一七・一~一六)。

キリストは生ける材料から一つの有機体を建造されるが(エペ一・二三、四・一二~一六)、反キリストは死せる材料から組織を建造する(黙一三・一七、エペ二・一)。

キリストの教会は「われわれが祝福する祝福の杯」(一コリ一〇・一六)を持つが、反キリストの世界都市は「淫行の杯」(黙一七・四、一八・三、一八・六)を持つ。

7.その運命。キリストはご自分の者たちを永遠の命の中に導かれるが(ヨハ三・三六)、反キリストは自分に従う者たちを滅びと裁きの中にもたらす(二テサ二・一二)。

キリストご自身は天に上げられたが(ピリ二・九)、反キリストは火の池の中に投げ込まれる(黙一九・二〇)。

三.反御霊

この悪魔的三位一体の「第三の」パースンは「偽預言者」である(黙一六・一三)。偽預言者は、聖霊の偽物であると同時に聖霊の正反対であり、黙示録一三・一一~一八の第二の獣である。

偽預言者は一人の預言者である(黙一三・一一、一六・一三)。これは、神の御霊がすべての預言の生命力であるのに似ている。

偽預言者はすべてを反御子から受ける(黙一三・一二、一三・一五)。これは、神の御霊がすべてを御子から引き出すのに似ている。「御霊は私から受けて」(ヨハ一六・一四)。

偽預言者は反御子をあがめる(黙一三・一二、一三・一六)。これは、神の御霊がキリストに栄光を帰すのに似ている(ヨハ一六・一四)。

偽預言者は獣の像に命を与える(黙一三・一五)。これは、神の御霊が信者に命を与えるのに似ている(ヨハ六・六三、ロマ八・一一、ガラ五・二五)。

偽預言者は人々に獣のしるしをつけさせる(黙一三・一六)。これは、神の御霊がわれわれの証印であり、保証であることに似ている(エペ一・一三、二コリ一・二二)。

偽預言者は獣礼拝を促進して強める(黙一三・一二)。これは、神の御霊が聖なる方への礼拝を促すのに似ている(ヨハ四・二三~二四)。

このように全体が地獄的三位一体であり、霊と魂と体を持つ、地獄からの一つの怪物的生命体である。龍は霊であり、獣は体であり、偽預言者は全体の魂である。そして、神格の三つのパースンに関して言うと、龍は悪鬼のであり、獣はサタンのメシヤであり、偽預言者は汚れた悪魔的である。

しかしその結果、悪魔の経歴の最後はその始まりとつながっているのである。なぜなら今や、次のことは明白だからである。すなわち、この反キリスト的組織は、あらゆる悪魔的反逆の極致にほかならず、「神のようになりたい」という悪魔が願ってやまない目標を遂げるためのものであって、「あなたは神のようになる」という悪魔自身の自惚れを極めて冒涜的な形で示すものなのである(創三・五、イザ一四・一三~一四、エゼ二八・二、二八・六、二八・一七)。

B.文化的三位一体

一.政治的世界統一

黙示録一三・一~一八によると、「地に住む者たちはみな」獣を礼拝し(八節)、大きな者も小さな者も「皆が」獣のしるしを受け(六節)、そうしない者は誰も売買することができず(一七節)、獣の像を礼拝することに反対する者は全員殺される。これは、ある人間的組織がやがて生じることを意味する。この組織は、政治的にも社会的にも世界のすべての民を含み、極めて厳しく組織されていて、一人一人の個人を監視する。また、この組織は強行して、いかなる反対も容赦せず、絶対的権限を行使する。

これは、聖書預言が前もって次のことを告げていることを意味する。すなわち、地上のすべての部分が協力して、すべての組織から成る一つの巨大な文明の体系、一人の頭をいただく人類の普遍的統一体が生じるのである。「彼に、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威が与えられた」(黙一三・七)。敵対する者も一つになる。この統一体は、恐れを伴う(黙一三・五)狂信によるものであり(黙一三・四)、無慈悲な厳しさを伴う(黙一一・七、一三・一〇、一七・六)全体的福祉によるものであり(黙一一・七~一〇、特に一〇節)、専制政治を伴う理想的文化(黙一七・六)によるものである。全体の求心力が各部の遠心力に打ち勝つ。この統一体は、終末のバビロニア人たちが大胆不敵にも建設する塔であり(創一一・一~四、黙一三・七を参照)、神抜きで自分を贖おうとする人類のあらゆる企ての頂点である。

それゆえ、黙示録の比喩的言語もまた、終末時のこの世界情勢を、次のようなものとして描写している。すなわち、預言に出て来たそれ以前のすべての世界帝国の結集及び頂点として、数千年にわたって人類が繰り広げてきた神なき世界のあらゆる努力の最終的結果として、ダニエルの預言のすべての「獣」の帝国の総計としてである。

バビロニア帝国は獅子、
ペルシャ帝国は熊、
ギリシャ帝国は豹、
四番目の獣は恐ろしい獣であった(ダニ七・二~八)。

しかし、反キリストの獣は、同時にこれらすべての獣なのである。その姿は豹、その足は熊、その口は獅子の口のようであり、全体としては龍によって命を吹き込まれた一匹の怪物である(黙一三・二)。

この同じ観念が頭と角の数からも生じる。バビロニア帝国の獅子には一つの頭があり、ペルシャ帝国の熊もそうであった。ギリシャ帝国の豹には四つの頭があった。そして、四番目の恐ろしい獣には一つの頭がある。こういうわけで、全部で七つである。それから角については、最初の三つには一本もなかったが、最後の獣には本ある。こういうわけで全部で七つの頭と十本の角があることになる。まさに黙示録の第一の獣の数である(一三・一)。しかし、この獣は同時に、同様に七つの頭と十の角を持つ龍(黙一二・三)の生き写しである。このことから、以下のことは明らかである。すなわち、その発展過程全体を「この世の神」が支配してきたのであり、人間問題の迷宮全体の背後には龍が立っているのである(一ヨハ五・一九)。また、罪人の歴史は悪魔の自己顕示であって、「あなたはあなたの神であるサタンのようになる」という昔の蛇の福音の衝撃的倒錯なのである。

しかし、これらから次のことが明らかになる。反キリストの支配は最初から全世界を網羅しているわけではなく、彼はまず自分の政治的地位のために戦わなければならないのである。反キリストは、昔のローマ帝国に以前属していた地域の一つから台頭し、政治的権力で隣接する国々を凌駕し、その支配をさらに遠くの土地にまで広げる。そして特に、終末の時代にダニエルの第四の世界帝国の領域にある諸国団に対する至高の権力を獲得する(黙一七・一二)。これらの国々はネブカデネザルの像の十本の足の指に相当し(ダニ二・四一)、ダニエルの幻の第四の獣の十本の角に相当する(ダニ七・七、七・二四)。

この十本の角の間から、反キリストは最初、ただの小さな角として現れる。しかし遂には、この角の大きさと権力は他のすべての角を凌駕するようになる。自分独自の領域であるこの十本の角の王国により、反キリストの影響は他のすべての人々にも及ぶようになる。もっとも、これらの人々は最初から反キリスト自身の独自の王国に組み込まれるわけではない。

しかし徐々に、反キリストは全世界の政治的、工業的、商業的生活だけでなく、宗教的、哲学的生活をも自分の支配下に置くようになる。反キリストは、全世界の内政問題や社会問題を解決し、全世界を熱狂させ、全世界の宗教を抑圧し(二テサ二・四)、全世界の崇拝を自分自身に集める(黙一三・四)。そして遂には、権力の頂点に達して、全世界の外面的生活と内面的生活を支配するようになる。その支配の仕方は、強制的であると同時に、神に対しては反抗的である(黙一三・七)。

しかし最終的に、人々に対するこの世界的魅力や魅惑的影響力は、ある程度衰えることになる。世界の様々な所で、この熱狂は衰退する。反逆する国々もある。戦争が勃発する。一つの統合体としての人類の団結は危うくなる。反キリストは、特にエジプトのような強力な敵に勝利するが(ダニ一一・四〇~四三)、しかし遂に、滅ぼされる時が来る。

反キリストの期間の最後におけるこのような軍事的出来事が、ダニエルの預言に示唆されている。一一章で預言者は、当時差し迫っていた将来の出来事、すなわち、「南の王」と「北の王」との間の戦争について述べた。この戦争は、紀元前二、三世紀のエジプトとシリアの政治的・軍事的衝突のことである。ダニエルは特にアンティオコス・エピファネス(紀元前一七五年~一六四年)について見ている。彼はイスラエルのエホバ礼拝の最大の敵であり、反キリストの特別な型である。

しかしこの預言は、型と最終的成就を見渡しつつ、終末の時代の実際の反キリストへと徐々に移って行き、「終わりの時」に起きることについて告げる。この「終わりの時」という表現は本文で二度用いられている(ダニ一一・三五、一一・四〇)。この言葉自体の自明な本来の意味は別として、預言者がこの言葉を実際の終末の時代と関連させていたことは間違いない。なぜなら、直近の文脈の中でダニエルはこう述べているからである。「その時、あなたの民の子らを守っている大いなる君ミカエルが立ち上がる。また国が始まってから、その時に至るまで、かつてなかったほどの悩みの時がある。しかし、その時あなたの民は救われる。(中略)土の塵の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠の命に至り、ある者は恥と永遠の恥辱に至る」(ダニ一二・一~二)。

この文脈から明らかなように、この預言者が幻の中で反キリストの型(アンティオコス・エピファネス)に言及していることは認めるにしても、彼は自分の預言をますます実際の反キリストの方に移していき、ますますはっきりと反キリストの終わりの時に自分のメッセージを焦点づけているのである。まさにこの文脈の中で、彼はこう述べている。「終わりの時に、南(エジプト)の王は彼(すなわち、反キリスト)と戦う。(中略)彼(反キリスト)は国々にその手を伸ばし、エジプトの地も免れない」(ダニ一一・四〇、一一・四二)。この全文は四四節と共に、これまで述べてきた反キリストの影響力の衰えを示唆している。そうでなければ、このような反逆は不可能であろう。とはいえ、反キリストはこれらの反逆に打ち勝つことができるのだが。

しかし遂に、反キリスト自身も「その終わりを迎える」(ダニ一一・四五)。反キリスト自身も、その中心的王国や、その多くの僕や家来たち全員と共に、キリストが天の軍勢と共に栄光と力のうちに現れる時、キリストによって滅ぼされるのである(黙一九・一一~二一、二テサ二・八)。

しかし、聖書はこれをもって、神は人類のいかなる統一にも反対しておられる、と教えているわけではない。それどころか、人類の極めて緊密で、霊的な、すべてを抱擁する交わりが、神の御旨である(ミカ四・一~四)。しかし、この交わりは御子キリストによる。キリストは神が定められた王である(詩二・六、エペ一・一〇、ヨハ一〇・一六)。この交わりの中心はキリストご自身である(ゼカ一四・九)。この交わりは世界最大の規模で人類に祝福を及ぼす。人々の相互理解、相互に対する敬意、相互の感謝、平和的協力――これはみな、少しも反キリスト的ではなく、まさに神の御旨である。反キリスト的であると聖書が称しているのは、外側の形のことではなく、魂の宗教的反逆、一致してキリストを拒否すること、神への反抗の意識的決意である。このように反キリスト主義は、本質的には、信仰の次元にある。文化(culture)そのものの次元にあるのではなく、崇拝(cult、人が神聖なものとして崇めるもの)の次元にある。歴史的展望の領域ではなく、宗教の領域にある。反キリスト主義は、キリストに対する憎しみ、いと高き方に対する反逆、世界の至高の主を退位させようとする試みの総計である。

二.商業的世界統一

黙示録一三・一七によると、獣のしるしを受けない「地のすべての者」は、もはや売買できなくなる。そうなるには一つの可能性しかない。すなわち、あらゆる社会的・工業的取り引きをしている商人全員が、一つの共同管理下に置かれるようになるのである。世界に一つの中心ができて、すべてが体系化・中央集権化され、すべての人が全面的に協力し合う。そして、この中心が世界貿易を絶対的に制御・支配するのである。これにより、新約聖書は人類の巨大な一つの組織について予告している。この組織は人類の各個人を含み、個々の労働者や小規模な雇用主も含む。そして、すべての人々に対して専売権を行使する。一つの共通の貿易局が商業生活全体を監督し、その商標を持たない者は商売を続けられなくなる。

このしるしを受けることを拒否して、それにより排斥され、処刑すらされる信者たち(黙一三・一三、一三・一七)は、間違いなく、そのほとんどが身分の低い者であろう(一コリ一・二六~二八)。

ここでもまた、反キリスト的なのは商業の形式ではない。そう主張するのは極めて重大な誤解である。商業生活の監督――文明的な個々の国が自由に行う監督――は、個々の国の生活に必要なものであり、社会的不正を防止するのに必要不可欠な方策である。正しく行われるなら、それは生活維持のための前提条件であり、進歩と向上のための前提条件である。終末の時代における神に対する反抗の大部分は、むしろ次の点にある。すなわち、聖書的キリスト教を破壊し、神への信仰を告白するすべての人を野蛮に迫害する点にあるのである(黙一三・一七、七を参照。一七・六、一八・二四、二〇・四)。

三.宗教的世界統一

1.人類の自己神格化。黙示録の預言によると、反キリストは礼拝されるようになる(黙一三・八、一三・一二、一四・九、一六・二)。彼は全地であがめられ(一三・三)、全地のすべての住人から賞賛され(一三・八)、大衆の熱狂を燃え立たせるようになる(一三・四、一一・一〇)。反キリストについて、「誰がこの獣のようであろうか?誰がこれと戦うことができようか?」(一三・四)と述べられている。彼は人類の極致、人類の最高の理想の化身、すべての人間的天才の可視的完成となる。まさに、最も高い意味で世界で「随一の人」になるのである。彼は自分自身の力を神格化することにより、自分をすべての神聖なものの上に高く上げ、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言するのである!(二テサ二・四)。

しかしこれにより、反キリスト礼拝は人類全体の礼拝となる。そして、反キリストに抵抗する者は誰でも、人類全体に抵抗することになる。彼は人の中で最悪の最もひどい違反者である。彼は反乱者、反逆者であり、したがって、滅びの判決の下にある。

これにより、反キリストの組織は、国家と宗教を接合した一つの政治的・宗教的連合体となり、対立する信条を一切容赦しない自己を神格化する一つの世界教会となる。こうして、宗教的自由はなくなり、宗教的強制が始まる。良心は計画的に奴隷にされ、尊敬すべき市民たちがただ良心上の理由で大量に虐殺される。

反キリストの宗教とはこうである。それは人間の神性についての忌まわしい教義、自分自身を信じること、自分自身の霊を神格化することである。それは、罪そのものを取り除かずに罪の諸々の結果から免れようとする極めて厚かましい試みであり、「進歩」とやらの最終的結果であり、神無き文明全体の総計及び完成である。

神の「聖徒たち」(黙一三・七、一七・六、一八・二四)、「証し人たち」(黙一一・三、一一・七)、「預言者たち」(黙一六・六)。
この意味で、六百六十六という純粋に象徴的な数字が反キリストの標語である。六という数字は人の数字だからである――六日目に人は創造され、六日目(金曜日)に人はゴルゴタで贖われた。しかし、六百六十六は一から三十六までの総計であり、三十六は六の二乗である(6x6=36:1+2+3+4+…35+36=666)。

2.国家宗教。このように、反キリストの国は非宗教的なものではなく、キリスト教と宗教的に正反対のものである。宗教を抹殺するのではなく、一つの国家宗教を確立するのである。宗教を見くびるのではなく、宗教に非常に重きを置くため、国家の権威がそのために行使されるのである。たんなる異教国ではなく、超異教国である。聖書的キリスト教を征服して排斥する異教主義である。それは姦淫の世代(マタ一二・三九、ピリ二・一五)が自己を崇めて礼拝することである。それは自己を神とすることであり、したがってまったく神を排斥することであり、この世のあらゆる忌むべきものと偶像崇拝の絶頂である。「それは肉ではなく霊であり、愚かなものではなく知恵であり、弱さではなく力である。人間的なものではなく悪鬼的なものであり、単純なものではなく神秘に満ちており、暗闇ではなく目が眩むほどの輝きである」。

外面的には、この国家宗教は一つの宗教的な世界連合として、商業・政治・宗教の一つの連合体として現れる。貿易と外交と宗教との混合として現れる。国家と商業と教会の一つの統合体として、つまり、すでに結集していた三本の生命線の一つの結集体として現れる。その頭は一人の傑出した人物であり、独創的な無比の統率者である。「国政・科学・芸術・社会経営の天才であり、宗教的な人で、不可視の世界のオカルトの力を与えられているのである」(二テサ二・九)。

しかし、この国家宗教の中身は虚ろで空っぽであり、最初の人のいちじくの葉の哲学にほかならない(創三・七)。最初の殺人者の自己救済の哲学、最初の偽り者の「あなたは神のようになる」という蛇の福音にほかならない。

そしてその総計として、この国家宗教は人の反逆の頂点であり、蛇の裔の文明の絶頂である。地的な天の王国であり、神抜きの「神」の支配であって、それゆえ、歴史上のあらゆる宗教の中で、真の福音に最も敵対的なものである(黙一三・七、一七・六)。

3.宗教の頂点。反キリスト自身はキリストに「敵対する」者である。なぜなら、彼は「偽りの」キリスト、似非者の偽キリストだからである(マタ二四・五、二四・二三~二四)。彼はキリストを迫害するだけでなく、キリストに取って代わろうとする。人の文化に関して彼は、クリスチャンたちがナザレのイエスその人に寄せている一般的期待を直ちに否定することはしない。それどころか、彼はこの期待から出発して、この期待をあてにするのである。しかし彼は、自分こそその成就であると称し、それによって本物のキリストを無用にする。このように、彼は知的にはキリストというこの観念を認めるが、さらに進んでキリストの「代わり」として進み出るのである。しかし、彼は預言されているキリストその方を否定する。したがって、「反対者」(二テサ二・四)であり、「反」キリストなのである。

この二重の性格は、「似非キリスト」(偽キリスト、マコ一三・二二)と反キリスト(キリストに対抗する者)という二つの名に対応する。反キリストとして、彼はキリストに対抗する。偽キリストとして、彼は自分のことを、言わば「キリスト」であると宣言する。彼は同時にこの二つの者なのである。なぜなら、彼はキリストの知的「代用品」だからである。

このように彼は、言わばこの世のメシヤ、この世の文化的救い主、この世を救う頭である。彼は自分のことを、この世の秩序の重心、この世の希望の中心、この世の発展の目標として、世の前に示す。そして、「キリストにあってになられた」というこの天の真理に反対して、彼は「自分によっては神になった」という悪鬼的嘘を示す(二テサ二・四)。

このように、この宗教は信仰を現世に据え、天的なものを地的なものにし、神の観念を人間化する。逆に言うと、この宗教は人間の知性を神格化し、人は神に等しい者であると主張し、実に、神に取って代わることを目論む。それゆえ、この宗教は究極的な完成された罪なのである。