第四章 反キリストに対する裁き

エーリッヒ・ザウアー

人類史の輝かしい絶頂は、同時に崩壊の転換点でもある(ダニ二・三四~三五)。主ご自身が裁きを執行されるのである。

一.大艱難

裁きの恐怖が全地を揺り動かす(黙三・十)。特にユダヤの地を揺り動かす(マタ二四・十六、ルカ二一・二一)。この「大艱難」(ダニ十二・一、マタ二四・二一、二九、黙七・十四)――「ヤコブの悩みの時」(エレ三〇・七)――が人類に臨む(黙六・一~十七、七・一~十七、八・一~十三、九・一~二一、十・一~十一、十一・一~十九、十二・一~十七、十三・一~十八、十四・一~二〇、十五・一~八、十六・一~二一、十七・一~十八、十八・一~二四、十九・一~二一)。この破局は熾烈である:

七つの封印が破られ、七つのラッパが鳴らされる(黙六・一~十七、七・一~十七、八・一~十三、九・一~二一、十・一~十一、十一・一~十九)。
七つの雷が轟き(黙十・四)、激怒の七つの杯が注ぎ出される(黙十六・一~二一)。
黙示録の騎士たちと来たるべき世界大戦(黙六・九、十三・一~十八、十四・一~二〇、十五・一~八、十六・一~二一、十七・一~十八、十八・一~二四、十九・一~二一、二〇・一~十五、二一・一~二七)。
エルサレムの破壊(ゼカ十四・二)と、大いなるバビロンの破壊(黙十七・十六)。
オリエントの遠征と「決断の谷の争乱」(黙十六・十二~十六、ヨエ三・十四)。

もちろん、詳細が示されていないものも多い。例えば、終わりの時の多くの預言は、比喩的表現なのか、それとも文字どおりのものなのか等:

ダニエル九・二四~二七の七十週は成就されているのか、それともまだ成就されていないのか。
オリーブ山上での主の談話(マタ二四・一~五一)が、終わりの時に関する他の新約預言に対して持つ関係。
近い将来と遠い将来に関する諸々の預言が織り交ざって、諸々の特徴が交じり合いつつ、一枚の調和のとれた全体図になること。
神に敵対する七丘のバビロンの都と、この都がそれ以上に神に敵対している反キリストによって滅ぼされること(黙十七・十六)。
獣が支配する地域と、その数六百六十六の秘密(黙十三・十八)。
パレスチナのユダヤ国家と、諸国民の侵入による荒廃(黙十一・七、ゼカ十四・一~二一)。
ハルマゲドンの決戦(黙十六・十六)と、ヨシャパテの谷での諸国民の裁き(ヨエ三・十二)。
これらはみな預言的象形文字であり、これまで確固たる確かさで解読した人はだれもいない。

しかしついに、最後の打撃が臨む:主が栄光のうちに現れて、ハルマゲドンで反キリストの軍勢を滅ぼされるのである(黙十九・十一~二一、十六・十六)。

これらすべてを通して、思いがけない形で、偉大な世界征服者であるナポレオンの、「世界の歴史が決するのは、西洋ではなく東洋においてである」という言葉が成就される。「ハルマゲドン(Har-Magedon)」は「メギドの山(ヘブル語ハル har)」を意味する。メギドはカルメル山の麓にあるエズレエル平原の主要都市であり、ユダヤの歴史で最も重要な戦場である。

二.主の出現

天が開かれる。人の子のしるしが現れる(マタ二四・三〇)。主が天の軍勢を伴って、白い馬に乗る騎士として来臨される。その口からは鋭い両刃の剣が出て、主ご自身が全能者である神の怒りの酒ぶねを踏まれる(黙十九・十一~十六)。

鉄の杖を持ち(黙十九・十五、詩二・九)、
血に染まった衣を着て(黙十九・十三)、
酒ぶねを踏む者として(イザ六三・一~六、黙十九・十五)、
収穫場で脱穀する者として(ミカ四・十二~十三、マタ三・十二)、
神の裁きの鎌で刈り取る者として(ヨエ三・十三、黙十四・十七~十八)――
こうして蔑まれたナザレのイエスが再び出現されるのである!

その時、地の全家族は泣き叫ぶ(マタ二四・三〇)。主の日(ヨエ一・十五、三・十四、アモ五・二〇)が到来したのである。それは「主の激しい怒りの日」(イザ十三・十三)、「大いなる恐るべき」日(マラ四・五)、「暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日」(ヨエ二・二、ゼカ十四・六)である。

その時、人々は裂け目や谷の中に潜り込む(黙六・十五)。その時、人々は岩の洞や地の穴の中に隠れる(イザ二・十九)。その時、人々は山々に向かって「われわれの上に倒れよ!」と呼ばわり、丘々に向かって「われわれを覆ってくれ!」と呼ばわる(ルカ二三・三〇、黙六・十六、九・六)。しかし、逃れることはできない。

なぜなら、主は稲妻の閃きのように来られるからである(マタ二四・二七)。主の戦車は暴風雨のようであり(イザ六六・十五)、主の目は火の炎のようであり(黙十九・十二)、主の声は獅子の声のようであり(ヨエ三・十六、イザ三〇・三〇)、主に殺される者は多い(イザ六六・十五~十六、詩一一〇・六)。

燃える炎の中で(二テサ一・八、イザ六六・十五~十六)、
赤々とした炉のように(マラ四・一、マタ十三・四一~四二)、
逃れられない罠のように(ルカ二一・三五)、突然の滅びが「すべての人を襲う」(一テサ五・三)。
それはノアの時代の洪水のようであり(マタ二四・三八~三九)、
ソドムとゴモラを襲った激しい裁きのようである(ルカ十七・二八~三二)。

主は以前オリーブ山から昇天されたが、このオリーブ山に主は再び最初に出現される(ゼカ十四・四)。すべての目が主を見る(黙一・七、マタ二四・三〇)。すべての反論は封じられる(マタ二二・十二、ヨブ九・三)。すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神に栄光を帰す(ピリ二・十一)。

三.サタンの三位一体の滅び

反キリスト主義の軍事勢力が粉砕された後、その三重の悪鬼的最高司令部が直ちに解体される(黙十六・十三を参照)。主は御口の息で不法の者をほふり、来臨の輝きでこの者を滅ぼされる(二テサ二・八、イザ十一・四、詩一一〇・六)。獣である彼と偽預言者は捕らえられて、火の池の中に投げ込まれる(黙十九・二〇)。いにしえの蛇である龍は縛られて、千年間アビスの中に投げ込まれる(黙二〇・一~三)。こうして悪魔の三位一体は粉砕される。その第一のパースンは千年間無害化される。第二と第三のパースンはついに永遠に裁かれる。

こうして、小羊は龍に勝利し、人の子は獣に勝利し、花嫁は遊女に勝利し、神の三位一体は悪魔の偽りの三位一体に勝利する。

しかし今、荒廃したハルマゲドンの平原に、健康をもたらす義の太陽が昇る(マラ四・二)。諸国民の反キリスト連合が粉砕された後、千年期の諸国民の交わりが現れる。人の偽りの努力がすべて崩壊した後、今や、神には何ができるのかが示される。

今や、神の王国への道は開かれている。悪魔を縛ることは霊の領域における一つの出来事であり、栄光の地上王国の前提条件である。しかし、決定すべき問題がまだ残っている。その問題とは、生存者のどちらがこの王国に入ることを許されるのかということである。これはヨシャパテの谷における諸国民の裁きで成就される。

四.ヨシャパテの谷における諸国民の裁き

人の子はその栄光の座に座して、地のすべての諸国民を裁かれる。彼らはみな彼の御前に集められ、羊飼いが山羊から羊を分けるように、彼は彼らをそれぞれに分けられる(マタ二五・三一~三二)。山羊は永遠の滅びに入り、羊は世の基が据えられた時から彼らのために用意されていた王国の中に入る(マタ二五・三四、四六)。

これは千年期開始時における諸国民の大いなる裁きである(マタ二五・三一~四六、ダニ七・九~十四、黙二〇・四)。この裁きを大きな白い御座の前での最後の裁きと区別することが重要である(黙二〇・十一~十五)。

1.その場所。この裁きがなされるのは、古い地が滅んだ後ではなく(黙二〇・十一)、古い地の土地の上で、つまりヨシャパテの谷においてである(ヨエ三・十二、マタ二五・三一)。

2.その時。この裁きが行われるのは、栄光の地上王国が終わった後ではなく、その開始時である(黙二〇・十一。なお七~十を参照。マタ二五・三一)。

3.裁かれる人々。裁かれるのは「死者」、すなわち、第二の復活でよみがえった人々ではなく(黙二〇・十二~十三)、その時に破滅的裁きから生き残っていて、死と復活を経過していない人々である(マタ二五・三二)。

4.その判決。これは、滅びか、それとも、たんに永遠の天の王国かの問題ではなく(二テモ四・十八を参照)、滅びか、それとも、まずは栄光の地上王国かの問題である(マタ二五・三四、四六)。

千年王国開始時のこの裁きは、最後の裁きと共に、一枚の絵図を成していると確かに見ることができる(そう見えるし、預言の遠近法にもかなっている)。したがって、この先行する裁きと最後の裁き、部分的裁きと完全な裁きは、融合して一枚の壮大な織り交ざった完全な絵図を成すのである。

同様に、旧約の預言者たちは、キリストの一番目と二番目の来臨を一枚の絵図として見ている(例えばイザ六一・一~三、ルカ四・十八~十九を参照)。また、千年王国の前と後の二つの復活を、パウロとヨハネは時間的に分けているが(一コリ十五・二三~二四、黙二〇・五、十二)、イエスご自身の預言では、この二つの復活は一つの壮大な預言にまとめられていて、時間的なずれに関しては特に強調していない(ヨハ五・二八~二九。ダニ十二・二~三を参照)。

五.栄光の王国の確立

これはみな、「主の臨在の輝き」、主のパルーシア(parousia)のエピファニー(epiphany)である。これは十字架につけられた方の勝利(マタ二六・六四)、主の栄光の現れ(一ペテ四・十三)、主の王国の出現(ルカ九・十一)である。主の御使いたちが主に随従し(マタ二三・三一、二テサ一・七)、主に贖われた者たちが主と共にいる(二テサ三・十三、ユダ一・十四)。そして、主はご自分のすべての聖徒たちの間で崇められる(二テサ一・十)。全世界が主に仕え(イザ六〇・一~三)、主は反対を受けることなく統べ治める(黙十二・十)。なぜなら、彼は「王の王、主の主」(黙十九・十六、一・五)だからである。

しかし、がもたらされる王国は神の王国である。それは地的創造物ではなく天的創造物である(ルカ十九・十二、ダニ七・十三~十四)。それは「進歩」によって到来するのではなく、粉々に打ち砕くことによる(ダニ二・三四、四四~四五)。人の努力の結果ではなく神の賜物である。

1.外側から見ると、それはネブカデネザルの巨像を粉砕するちっぽけな石である。しかし、それは後に一つの大きな山になって全地を満たす(ダニ二・三五、四四~四五)。

2.内側から見ると、それは人の子の王国である。それは、ダニエルの世界帝国の血に飢えた獣どもを終わらせる。そして、聖書の言う真の人間性、すなわち、神のかたちであり似姿である人間性を、国際的な歴史の王位にまで高める(創一・二七、ダニ七・十三、二・七、マタ二六・六四を参照)。

3.から見ると、それは天の王国である。それは天から下って来る。したがって、それはこの地的世界に天的性質と天的幸福をもたらす(ダニ四・二三を参照)。

4.しかし、あらゆる点で、それは神の王国である。神の王国は:

(1)まさに最初から計画され(マタ二五・三四)、
(2)代々を通じてそのために努力がなされ(マタ六・十)、
(3)キリストによって設立され(ヨハ十八・三六~三七)、
(4)キリストに従う者たちによって宣べ伝えられ(使二〇・二五、二八・三一)、
(5)人類が待望し(ロマ八・十九)、そして今や、
(6)古い地の上に設立される(黙十一・十五、十九・六)。そして、これまで存続してきた世界が最終的破局を迎えた後も、
(7)存続して永遠の新創造に至る(黙二一・一~二七、二二・一~二一)。

これらすべてのことから、次のことに気をつけなければならない。多くの箇所で聖書の預言は、古い地上における可視的な神の王国(すなわち千年王国)と、新しい地と新しい天における永遠の栄光の王国(すなわち永遠の状態)の代々とを、まとめて一枚の絵図として見ているのである。したがって、この絵図から一面的な固定観念を形成することは避けなければならないし、千年期を強調しすぎることも避けなければならない。古い地における可視的な栄光の王国は、預言が待望する真の主たる目標ではない。それは王宮の玄関ホールのように、完成への最終段階である。王宮では、玄関ホールは王宮の中に造り込まれて王宮に属しているが、王座の間と同格ではない。それと同じように、千年期は栄光の王国に属していて、それ自体栄光の王国ではあるのだが、それでも、その栄光の主たる輝きと完全な無制限の勝利とは、キリストと神との王国の千年間の彼方にあり(黙二二・一、エペ五・五)、古い地の最終的破局の後、世界の更新と変容の後のことなのである(黙二一・一~二七、二二・一~二一)。