第一章 その歴史的事実性

エーリッヒ・ザウアー

神の王的支配が救済史の最終目標である。「それは神がすべてのすべてとなるためである」(一コリ十五・二八)。したがって、王国は聖書の真の基本的主題である。

古い地における神の可視的王国を信じる信仰は、もともと、すべてのクリスチャンが共有する霊的財産だった。カトリック主義の成長の始まりと共に、この信仰は失われた。例えば、クレメント、オリゲネス(紀元二五〇年頃)、アウグスチヌス(四〇〇年頃)の場合がそうである。しかし、この数世紀の間、この信仰が再び燭台の上に据えられてきた。

いわゆるキリアズム(千を意味するギリシャ語の clilioi から派生した言葉)、すなわち、千年王国の教理は、一世紀から三世紀の間、例えば、パピアス、ユスティヌス、テルトゥリアヌス、エイレナイオス、ヒッポリュトスらが信奉していたし、それが一般的であった。「千年王国(Millennial Kingdom)」という句は、ラテン語の millennium に由来する。millennium は、千を意味する mille と年を意味する annus が組み合わさった言葉である。
例えば、細部では異なっているが、コメニウス、ラバディー、ベンゲル、ラバター、V.ホフマン、フランク、Th.カルマン、クルツ、エブラルト、ベック・オーベレン、スティア、バウムガルテン、ベテックス、シュペーナー、フランツ・デリッチ。さらに挙げるべきは、マット・ハーン、クルシウス、[B.W.ニュートン、J.N.ダービー、Wm.ケリー、ジョージ・ミュラー、R.ガボット、G.H.ペンバー、A.T.ピアソン、他多数]。

事実、聖書を解釈するとき三つの基本的間違いを犯さないかぎり、この聖書的真理を見落とすことはありえない:その間違いとは、イスラエルと教会を混同すること、現在と未来を早まって取り違えること、王国に関する旧約預言を一方的に「霊解」することである。

これに対して、栄光の可視的な地上王国に対する原始キリスト教の希望は、五重の不動の岩の上に立つ。その岩とは:

1.地上王国だけが、約束に対する神の真実さと契約的忠実さを、適切に確証できること。
2.地上王国だけが、旧約のメシヤ預言の論理的解釈であること。
3.地上王国だけが、終末の歴史を主イエスとその使徒たちの言葉と一致するように解き明かせること。
4.地上王国だけが、神が救済史において自らの義を示される完全な帰結であること。
5.地上王国だけが、人類史を現在の段階から御父の永遠の王国における目標へと進ませるのに必要な手段であること。

一.地上王国だけが、約束に対する神の真実さと契約的忠実さを、適切に確証できる

「神の恵みの賜物と召しは変わることがない」(ロマ十一・二九)。アブラハムの肉の子孫で信仰を持つ者に対して、神は土地を約束された(創十五・四~七、十八)。この約束はモーセと共に始まったのではなく、アブラハムと共に始まった(創十二・一~三、十三・十五)。したがって、律法ではなく約束に基づく(ロマ四・十三~十五)。それゆえ、イスラエルの失敗によって無効になることはありえず、変わることなく残る。これは神の誉れ(エゼ三六・二二~二三)と神の真実さ(ロマ十五・八)のためであり、神の友であるアブラハムのためである(創二六・二~五、レビ二六・四二)。聖書が示すところによると、これは以下のもののように確かである:

山々の堅固さ(イザ五四・十)、
自然の秩序(イザ五四・九)、
昼と夜の行路(エレ三三・二〇~二一、三三・二五~二六)、
太陽と月と星々の法則(エレ三一・三五~三七、詩八九・三六~三七)、
新しい天と新しい地の永続性(イザ六六・二二)。

「主はこう言われる、『わたしは太陽を与えて昼の光とし、月と星とを定めて夜の光とする者である。(中略)もしこの定めがわたしの前で廃れてしまうなら、イスラエルの子孫も廃って、永久にわたしの前で民であることはできない」(エレ三一・三五~三六)。「『わたしが造る新しい天と新しい地はわたしの前にながくとどまる』とエホバは仰せられる。『それと同じように、あなたの子孫とあなたの名もながくとどまる』」(イザ六六・二二)。王国に関するこれらの預言は文字どおりの意味だった。これらの預言を霊解して他の何らかの団体的組織にあてはめることは、神の約束に関する神の契約をこっそり破ることにほかならない。しかし、それは不可能である。

さらに、王国に対する原始キリスト教の希望は、旧約のメシヤ預言の唯一の論理的解釈である。

二.地上王国だけが、旧約のメシヤ預言の論理的解釈である

キリストの初臨についての諸々の約束は文字どおり成就された。再臨についての約束は、これらの同じ文の中にしばしば現れる。したがって、これらを「霊的に」しか受け入れないことを誰が正当化できよう?(例えばルカ一・三一~三三)。キリストは文字どおりベツレヘムから現れ(ミカ五・二)、文字どおりロバに乗ってエルサレムに入り(ゼカ九・九)、文字どおり銀貨三十枚のために裏切られ(ゼカ十一・十二)、その両手両足は文字どおり十字架に釘づけられた(詩二二・十六)。文字どおり彼の骨は砕かれず(詩三四・二〇)、文字どおり彼の脇腹は槍で貫かれた(ゼカ十二・十)。彼は文字どおり死んで葬られ(イザ五三・八~九)、また文字どおり三日目に復活された(詩十六・十、ホセ六・二)。

キリストの初臨についての以下の預言とその文字どおりの成就についてさらに参照せよ。詩四一・九(ヨハ十三・十八)、ゼカ十三・七(マタ二六・三一)、詩三五・十一(マタ二六・六〇)、イザ五六・六(マタ二六・六七)、ゼカ十一・十三(マタ二七・七~十)。

したがって、キリストが栄光のうちに来られることに関する予測をたんなる比喩にしてしまうのは、なんと馬鹿げた矛盾であろう。「イエスが十字架で死なれたのはたんなる比喩だったのだろうか?彼が飲まれた酢は霊的なものでしかなかったのだろうか(詩六九・二一)?また、くじが引かれたのは、彼の霊的衣のためでしかなかったのだろうか(詩二二・十八)?神がご自分の民を諸国民の間に散らされたのは、たんなる比喩だったのだろうか(申四・二七)?そして現在、彼らに『王もなく、王子もなく、いけにえもなく、祭壇もなく、エポデもなく、聖所もない』(ホセ三・四)のは、象徴だというのだろうか?否、すべて文字どおり実際に起きたことなのである」(ベテックス)。したがって、イスラエルの民を世界中の諸国民の間から新たに集めて彼らの父祖たちの地に連れ帰ると、神が預言者たちによって繰り返し断言しておられるのだから、それらはみなたんなる比喩的表現にすぎないと仮定するのは、どうして正しいわけがあろう?ユダヤ人をクリスチャンと、エルサレムを教会と、カナンを天と解釈する権利を、いったい誰がわれわれに与えたというのか?「ダビデの王座」が天にあったことがあるか(ルカ一・三二)?また、「この」地とレバノン、それから、主がその民を再びお植えになるギレアデの地が(エレ三二・四一、ゼカ十・十)、地上の近東以外の場所だったとでもいうのだろうか?

例えば、エレ十六・十四~十五、ゼカ十・八・九、イザ二七・十二~十三、エゼ十一・十七、二八・二五。

確かに、預言者たちは詩的比喩をしばしば用いている。確かに、千年王国は永遠の型としての予見であるし、確かに、この地上王国に関して、神は同時にこれを教会の中に霊的に成就された。したがって、霊的解釈を全く退けることはできない。実のところ、永遠に目を留めるなら、霊的解釈にはきわめて重大な意義があるのである。

新約記者らの例が示しているとおりである:ロマ十五・十二(イザ十一・十)、一ペテ二・十とロマ九・二五~二六(ホセ一・十)、使二・十六~二一(ヨエ二・二八~三二)、一ペテ二・九(出十九・六)。

しかし、霊的解釈のみでは、聖書のごく単純な意味を誤るおそれがある。キリストの初臨についての諸々の預言を見ると、霊的解釈は恣意的であり不合理である。それは神の約束に関して神を偽り者とすることである。ユダヤ人はすでにパレスチナに戻りつつある。これは彼らの将来のための聖書の計画の一部である。

さらに、初期のクリスチャンたちが王国を期待していたことは、終末の歴史を主イエスとその使徒たちの言葉と一致させる唯一の解き明かしである。

三.地上王国だけが、終末の歴史を主イエスとその使徒たちの言葉と一致するように解き明かせる

1.キリストの証し。パリサイ人たちと彼らに誤導されたイスラエルに下した裁きで、キリストは仰せられた、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえに遣わされた人たちを石で打つものよ(中略)見よ、おまえたちの家は荒れ果てたまま残される。なぜなら、わたしはおまえたちに言うが、『主の御名によって来られる方に、祝福あれ』とおまえたちが言う時まで、今後再び、わたしに会うことはないからである」(マタ二三・三七~三九)。この御言葉で主が仰せになったのは、イスラエルの家はずっと荒れ果てたままではないということである。イスラエルの家は、しおれた魂とやつれた心のまま、永遠に裁きの下にとどまるわけではない。イスラエルがキリストをメシヤと認めて、喜びの歌と歓迎とをもって受け入れる時が来る。彼らはこうして回心して、心を尽くして自分たちをキリストにささげ、自分たちのメシヤであり神聖な王であるキリストを歓迎する。

主イエスの王国はこの世「の」ものではないが(起源や性格において)(ヨハ十八・三六)、確かにこの世のためのものである。主ご自身こう証ししておられる、「復興のとき(すなわち、可視的な神の王国の中で地的被造物が再生される時)、人の子がその栄光の座に座す時には、わたしに従ってきたあなたたちもまた、十二の座に座して、イスラエルの十二部族を裁く」(マタ十九・二八)。また、キリスト復活後、弟子たちが「主よ、王国をイスラエルに回復されるのは今でしょうか?」(使一・六)と尋ねた時、キリストは弟子たちの「肉的観念」を責めたりはされなかったし、弟子たちが言わんとした可視的な王国の到来を全面的に否定されたりもせずに、「時や時期は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたたちの知るかぎりではない」(使一・七)とだけ仰せになった。さて、この「時や時期」という預言的表現こそ、神の王国がいつの日か実際に設立されることを立証するものなのである(マタ八・十一、二六・二九を参照)。

2.使徒ヨハネの証し。ヨハネの黙示録は、この栄光の王国の到来を、反駁の余地がないほど証ししている。こう証ししている黙示録は、「千年期」(黙二〇・二~七)について明らかに告げる聖書唯一の書である。この問題の区分はキリストの出現と反キリストの打倒の後に位置する(黙十九・十一~二一)。このことから、この「千年期」はキリストの再臨から勘定すべきものであり、「第一の」復活と「大きな白い御座」との間にあることがわかる(黙二〇・十一~十五)。

3.パウロの証し。コリント人への第二の手紙の中で、パウロは旧契約の栄光を新契約の栄光と比較して、その文脈の中で、盲目な時のイスラエルの不信仰について述べている。「しかし、彼らの思いは鈍くなった。今日に至るまで、モーセの書が読まれるたびに、覆いが彼らの心にかかっているからである。しかし、(イスラエルが)主に向くときはいつでも、その覆いは取り除かれる」(二コリ三・十四~十六。なお出三四・三四を参照)。使徒はここで、イスラエルがキリストに向く時を仰ぎ見ている。その時、この覆いは彼らの心から取り除かれ、彼らは栄光と真の自由に到達する。このようにこの節は、イスラエルが将来救われて受け入れられることをパウロが期待していたことを示す、明らかな証しである。「キリストはご自身をイスラエルに示してくださるというイスラエルに関する約束をパウロは受けていた。したがって、イスラエルが律法を闇雲にあがめるのをやめて、自分の意義と目的を理解する時が来るであろう。次に、イスラエルがイエスに向かう時が来るのである」。「モーセは神に向かうたびに覆いを取り除いた(出三四・三四)。こうして、旧約の神の民が主に向かって、イエスに回心する時もまた、この覆いは取り除かれるのである。その時、モーセの栄光は『恵みと真理とに満ちた父のひとり子』(ヨハ一・十四~十七)の栄光に比ぶべくもないことを、イスラエルは悟る。これが使徒が心に抱いていた生ける希望だったのである」。

二番目の主要な節は、復活の章である一コリント十五・一~五八である。この節で使徒は死者の肉体的復活について述べており、(二二~二四節の)特別な区分では、その諸々の段階の時と順序について述べている。その中で使徒は次の三つを区別している:

(a)初穂であるキリスト、
(b)「次に、再臨(パルーシア parousia)の時にキリストに属する者」。
(c)「それから最後に、キリストが父なる神に王国を渡される時」。

文脈によると、この「最後」の意味は、肉体的復活の最後でしかありえない。これが起きる時、それと同時に、キリストは王国を父に渡されるのである。こうしてパウロはまた、教会の復活と最後の全体的復活との間に位置するキリストの王国についても証しする:そして、黙示録によると、この「最後」は大きな白い御座と古い地の滅びに一致するがゆえに(黙二〇・十二~十三、二〇・五)、この使徒もまた、キリストが古い地で王として支配することを証しする証し人となる。この地上の栄光の時のあと初めて、歴史は永遠に入るのである。

しかし、ここで特に問題になるのは、自分の福音は救済史によって正当化されるとパウロが大いに論証している点である(ロマ九・一~三三、十・一~二一、十一・一~三六)。パウロは律法から自由な福音を、ユダヤ人と異邦人を区別せずに宣言した(ロマ三・九、三・二二~二三、十・十二、ガラ三・二九)。聖書を信じるすべてのイスラエル人の心の中に、「イスラエルが選ばれて独特な地位にあるというこの事実は、二千年間揺るぎないものだったが、この事実はこのメッセージが偽りであることを示しているのだろうか?」(詩一四七・十九~二〇、アモ三・二、出十九・五)という疑問が湧き起こったにちがいない。神がイスラエルに対する約束を破られたのか、あるいは――そんなことは決してありえないので(二コリ一・二〇)――パウロが宣べ伝えたこのナザレのイエスはイスラエルに約束されたメシアではないのか、そのどちらかが確かなのではないだろうか?

これに対してパウロは次のように答える:

(a)神の行動は自由である(ロマ九・一~三三)。世界史の舞台の上で、神は人々を御旨のままに動かされる。確かに神は信者に信じるよう強制されないし、不信者に信じないよう強制されない。しかし、多くの不信者の中から、神は特定の個人を選んで、ご自分の裁きの力を示す特別な例とされる(エジプトのパロのように、十四~十八節)。また、多くの信者の中から、神は他の者たちを選んで、救いを伝えるための特別な代理人とされる(アブラハム、イサク、ヤコブのように、六~十三節)。このように、ローマ九・一~三三が扱っているのは救いへの召しではなく、救済に係わる特定の目的なのである。個人の贖い主としての神よりも、歴史全体を導く方としての神について多く述べているのである。ここに出て来る個々人は、私人であるというよりは公人なのである。

したがってこういうわけで、イスラエルの選びもまた全く神の自由に基づく。ユダヤ人も含めて、人には神に何かを要求する権利はない。たとえ神の取り扱いが理解できない時でも、人は黙って神の自由を認めるべきである。陶器師が粘土に対して自由なように、神は自由なのである(十九~二五)。

例えば、神はアブラハムの代わりに、アブラハムの同時代人で「いと高き神の祭司」だったメルキゼデクを選ぶこともできたであろう(創十四・十八)。

(b)神の行動は常に正しい(ロマ十・一~二一)。神の自由は勝手気儘ではない。神があのようにイスラエルを取り扱われたのには、正当な理由がある。イスラエルは律法によって義とされることを望んだが(ロマ九・三〇~三三、十・一~三)、神は信仰による義を定められた。神は信仰による義を命じ、可能ならしめ(ロマ十・四~十三)、宣言された(十・十四~十八)。しかし、イスラエルは反対に、それを拒んだ。それで、イスラエルは不従順であり、咎があったために、自らを襲った裁きに値したのである(十・十九~二一)。

(c)神の行動は常に祝福をもたらす(ロマ十一・一~三六)。神は裁いてもご自分の民を「捨て去る」わけではなく、一時のあいだ脇にやるだけである(ロマ十一・一)。離散の間も、イスラエルには依然として望みがある(レビ二六・四四~四五、エゼ十一・十七)。イスラエルに対する神の取り扱いは万物に祝福をもたらす:

キリストを信じるレムナントに――彼らは赦しを得るからである(一~十節)、
世界全体に――世界全体が福音を受けるからである(十一~十五節)、
霊的に刷新されたときのイスラエルに――イスラエルは再び受け入れられるからである(十六~三二節)。

したがって、イスラエルがかたくなになったのは、「一部」だけであり、諸国民の数が満ちる時「まで」のことである(ロマ十一・二五)。その後、神の王国というオリーブの木から取られた枝々は再び接がれるであろう(ロマ十一・二三~二四、十六~十七)。「そして全イスラエルは救われる」(十一・二六)。

イスラエルの民の召しと、世界の諸国民から教会を召す召しとの間には矛盾があるように見えるが、その矛盾はこれによって解かれる。未来によってのみ、過去は現在と和解しうるのである。結末によってのみ、中間期が正当化されるのである。

これらの命題と共に、パウロの福音は完全に立ちもするし、倒れもする。したがって、イスラエルに関するこれらの預言を否定するものは、教会の基礎を否定することになる。その人が論理的思考の持ち主なら、契約を守る神の忠実さか、あるいは、福音は律法から自由であることのいずれかを否定することになる。つまり、エホバかパウロのいずれかを否定することになるのである。

したがって、千年王国の問題は終末史に関する問題であるだけでなく、同時に福音のまさに核心(律法からの自由、福音の普遍性、恵みの賜物)に触れるものなのである。千年王国を否定することは、預言に関して神を偽り者とするか、あるいは、われわれに関してパウロを偽証人とするかのいずれかである。ローマ九・一~三三、十・一~二一、十一・一~三六は、神を正当化するものであるだけでなく、パウロの義認の教理を正当化するものでもあるのである。

使徒の証しによると、イスラエルのこの復興は異邦人世界に強力な影響を及ぼす。復活した方の王国の中で、広範にわたる再生がなされる(マタ十九・二八)。パウロはこう述べている、「そこで私は問う。『彼らがつまずいたのは、倒れるためだったのか』。断じてそうではない!かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及んだのである。(中略)しかし、もし、彼らの罪過が人類の祝福となり、彼らがわずかなレムナントに減ったことが異邦人に対する祝福になったとするなら、まして彼らが全部受け入れられたなら、どれほど豊かな祝福があることだろう?もし彼らの捨てられたことが世の和解になったとするなら、彼らの受け入れられることは、死人の中から生き返ることではないか?」(ロマ十一・十二、十五)。

誤解の余地のない言葉で、「イスラエルは全部回心する」という信仰をパウロはここで告白する。そして、それによりきわめて大きな祝福に満ちた影響が人類に流れ出すことをパウロは解き明かす。神のこれらの新しい賜物と、さらに崇高な御霊の豊かさの生ける力が、その時、諸国民に行き渡る。これと比べると、以前の諸国民の生活は完全に死んだもののようにしか見えず、以前の諸国民の富は貧困にしか見えず、以前の諸国民の幸福は不幸にしか見えないであろう。

しかし、これによってパウロが宣言しているのは、「イスラエルは将来霊的・国家的に救われる」という彼の信仰だけではない。同時に、この出来事の意義をも示しているのである。この出来事は、国家的であると同時に超国家的であり、世界史と救済史に影響を及ぼすものなのである。それは世界の諸国民のための「救い」であり、諸国民のための「富」であり、まさに、人類全体のための霊的復活の祭典であって、「死から生き返る」ことなのである。

これは直ちに、この来たるべき神の王国の意義についての問題に触れる。「このような可視的王国の目的は何か?」という疑問が依然として生じるからである。なぜ神はこのような約束をイスラエルにお与えになったのか?神の贖いと救いの御計画の中で、この来たるべき王国にはいかなる意味があるのか?

これに対してわれわれは、この可視的な栄光の王国は、

四.神が救済史において自らの義を示される完全な帰結である

と答える。

1.キリストに関して。いと高き方は、その油注がれた王に、次のことを立証する機会を与える義務があるのではないだろうか?すなわち、この王は最善の立法者にして裁き主であり、統治者にして世界の支配者であり、そして、かつて地上にいたいかなる強大な偉人にもまして世界情勢を導くすべを理解している者であることである。特に、これらの偉人たちがその中で生活して、王であるこの方を拒絶した、旧創造の枠組みの中で、そのような機会を与える義務があるのではないだろうか?また、サタンは数千年にわたって、自分がどれほど偽りを言い、人々を欺いて、腐敗させられるのかを全世界に示してきたが、その後で、今度は神の側が、この同じ古い世界の土地の上で、キリストにあってどれほど祝福と救いと平和を施せるのかを示してしかるべきではないだろうか?

2.人類に関して。「この千年王国の信仰を偏見なく考慮すると、こう認めざるをえない。すなわち、神がこの哀れな地球とそれに寄生している疲れた人類に、重荷と労苦の六日間の後で、大いなる安息日を与えてくださるとは、なんと偉大な素晴らしい思想であることか。この大いなる安息日の間、キリストは罪深い人の手から手綱を取って、一時の間、神の律法に則った公正と正義によって、自らこの世界を支配されるのである」(ベテックス)。主ご自身が地上の真ん中に住んで王座につかれるとき、この地上でどれほど人々が幸福になれるのか、どれほど栄光に満ちうるのかは、かつて一度も示されたことがない。神の王国はこの古い地でも依然として可能である。これは、実際のところ、世界を変容させる黙示的思想である。そして神はこれによって、人々が互いに平和に暮らしていけないのは、環境や基本的能力の欠如のせいではなく、人の罪と悪魔による腐敗のせいにほかならないことを証明されるのである。

さらに、この王国の最後から、人が生来いかに絶望的に堕落しているのかが示される。というのは、完全な神の統治の千年間の後に、人類は一体どうするのか?人類は主に反逆して、数百万の軍勢をもって、いと高き方に対して戦いを仕掛けるのである(ゴグとマゴグ、黙二〇・七~十)。このように、神の最後の試みによって、人の絶望的邪悪さが示されるのである。

きわめて理想的な経済的・政治的状況にもかかわらず、いと高き方の恵みを示すきわめて豊かな証拠にもかかわらず、まさに主ご自身の直接統治にもかかわらず、諸国民はほとんど何も学ばないのである。そしてついには、悪魔に誘惑されて、人の反逆の中でも最も恐ろしい反逆に諸共に突入するのである(黙二〇・八)。こうして次のことが明らかになる。人は理想的状況を造り出せないだけでなく、理想的状況があってもよくなれないのである。こうして、人類史で最も輝かしいこの期間は、罪人の堕落した状態を示す最も破滅的な証拠となる。そして、人の贖いの問題に関して、神が人自身の力を徹底的に排除されたのは正しかったことが、疑いの余地なく立証される。今や、神の正しさの証明はその頂点と結論に達した。また、そもそも最初から、人類を平和へと導く道は一つしかないこと、すなわち、ただ神の恵みとゴルゴタの十字架しかないことが、全世界の前で公に証明されたのである。

しかし最後に、歴史の結末における、御子の栄光の可視的王国は、

五.人類史を現在の段階から御父の永遠の王国における目標へと進ませるのに必要な唯一の手段である

世界情勢の全行程にわたって、最初のうちは複製と原型が入り交じっているが、その後の情勢により、本質的特徴がますますはっきりと前面に現れてくるようになる。これは事実であり、新約の救済史において特に明確である。

神の王国は現在は隠れた性格を帯びているが、ついには全世界の前に現れる。「彼(御子)はすべての敵を足の下にするまで支配しなければならない」(一コリ十五・二五)。これは最終的に現される王国であり、地上にある可視的な万物の究極的完成であり、その歴史で最も輝かしい期間である。

しかし、御子は御父ではなく、御父の栄光の輝きであり(ヘブ一・三)、目に見えない神のかたちである(コロ一・十五)。したがって、御子のパースンにおいて、神のかたちが地上で神の可視的王国の中に現存するようになる。したがって、歴史的移行期間が必要である。神の王国の歴史を御父ご自身へと移す移行期間である。これが千年王国が持つ主要な、正しい、最も深い神聖な意義である。「千年王国におけるキリストの活動は、啓示の歴史をこの最後の準備段階から最後の至聖所へと、御父との直接的交わりへと導く」。

それゆえ、使徒ヨハネの弟子ポリュカルポスの弟子エイレナイオス(紀元九〇年頃)は、新約の救いの啓示における三つの主要な段階を正しく理解したのである。この三つの段階は神格の三つのパースンに対応しており、新約の啓示の発展段階は完全に歴史的証印と三位一体的証印を帯びているのである。

つまり:

現在は聖霊の時代である。聖霊はこの地上で、贖い主が天に行かれて不在の間、贖い主に栄光を帰し、教会を召して建造される(ヨハ十六・七~十七、一コリ十二・三~十三)。

これに続いてキリストが再臨し、千年間、可視的な神の王国、すなわち御子の王国を設立される(一コリ十五・二五)。

しかし最後に、御子は王国を御父に渡し、御父に服し、永遠の究極的完成である御父の王国が現れる。その時、が「すべてのすべて」となられる(一コリ十五・二八)。

この文脈の中で、千年王国だけが、人類史を御子の指導の下から御父の王国へと進ませる唯一の手段である。その時、「義人は、彼らの御父の王国の中で、太陽のように輝く」(マタ十三・四三)。

このように聖書預言は、来たるべき神の王国の輝かしい二つの主要な進展、二つの主要な力の表出をわれわれに示す。それらは、御子と御父という二つの神聖なパースンと関係している。

御子の王国の出現は、千年王国の開始時であり、その舞台は古い地である。
御父の王国は、究極的完成の勝利のうちに現され、新しい天と新しい地においてである。

世界を刷新するこの主要な二つの段階は、人類の二つの復活に対応している。一つは千年王国の前であり、他方は後である。また、悪人と悪魔的三位一体に対する裁きの二つの主要な法廷とも対応している。これらをみなまとめて考えるときはじめて、最終的な究極的完成は、キリストが再臨して千年王国を開始される時ではなく、その千年であるという事実とその理由を、われわれは理解できるようになるのである(黙二〇・一~十五、二一・一~二七)。