来たるべき神の王国は、世界的「再生」(マタ十九・二八)の時である。地上の全被造物がその可視的栄光にあずかる:イスラエル、諸国民、そして――全体を支配する天的貴族階級としての――教会もである。
主の栄光はためらいつつ宮を離れた(エゼ十・十八~十九、十一・二二~二三)。主は突然再び現れて、ご自分の宮に来られる(マラ三・一、エゼ四三・一~五)。一方の出来事は「異邦人の時」(ルカ二一・二四)の始まりであり、他方の出来事はその終わりである。目標は「主はそこにおられる」(エゼ四八・三五)、「神の幕屋が人と共にある」(黙二一・三)である。
一.キリスト、神の王
1.その個人的な栄光。「人々の統治者、神を畏れる支配者、太陽が昇る時の夜明けの光のようであり、雨上がりの陽光の中、地面から若草が芽生える時の、雲のない朝のようである」――贖い主キリスト、ダビデの子でありダビデの主でもある方は、そのような方である。このように、この子孫の先祖自身が証ししており、型としてのダビデが本体であるダビデを証ししている(二サム二三・二~四)。キリストにより、王の理想がことごとく成就された。
キリストはインマヌエル(イザ七・十四、マタ一・二三)、大いなる勝利者(ピリ二・十一)、勝利の英雄(ゼパ三・十七)、万物の唯一の頭である(エペ一・十、ホセ一・十一、エゼ三七・二四、ゼカ十四・九)。
外から見ると、キリストは:
ご自分の民を一つにする方である―― これは真のダビデとしてである(エゼ三七・二二~二四、三四・二三~二四、ホセ三・五)。 王座についた平和の君である―― これは先祖の主としてである(ルカ一・三二、マタ二二・四五、イザ九・六~七)。 諸国民の旗である―― これはエッサイの根としてである(イザ十一・十)。 諸国民の高くそびえる木である―― これは神の香柏のてっぺんの枝としてである(エゼ十七・二二~二四、十七・四)。
内から見ると、キリストは:
七重の霊で浸透された方である―― これはエッサイの株から出た芽としてである。イザ十一・一~二で、預言者はメシヤの七重の霊的備えについて述べている。 金銀の冠を戴く祭司―王である―― これはゼマク、主の枝としてである(ゼカ六・十一~十三)。1 「われらの義なるエホバ」である―― これは神の王また贖い主としてである(エレ二三・五~六、三三・十五~十六)。
1 ゼマク(枝)としてメシヤは: (a)王である(エレ二三・五):マタイによる福音書を参照せよ。 (b)僕である(ゼカ三・八):マルコによる福音書を参照せよ。 (c)人の子である(ゼカ六・十二):ルカによる福音書を参照せよ。 (d)神の子である(イザ四・二):ヨハネによる福音書を参照せよ。
このように、キリストは真に栄光のナザレ人であり、ナザレから出た nezer(ヘブル語で芽という意味)である(イザ十一・一)。なぜなら、「彼の下で芽を出し」(ゼカ六・十二。なおイザ二七・六、三五・一~二、ホセ十四・六~八を参照)、彼は神の宮と「ダビデの倒れた幕屋」を再建されるからである(アモ九・十一)。
しかし、これはみな神からである(ホセ十四・八)。メシヤの基本的事実はその永遠の神性である。それゆえ、メシヤは根であると同時に芽でもあり、起源であると同時に冠でもあり、ダビデの王家の始まりであると同時に目標でもある(黙二二・十六、五・五)。また、約束であると同時に成就でもあり、夜の星であると同時に夜明け、すなわち、「輝く明けの明星」でもあり、永遠の日の出の使者であると同時にそれをもたらす者でもある(黙二二・十六)。
2.人類によるキリスト礼拝。「日が昇る所から沈む所まで、わが名は異邦人の間であがめられるようになる。また至る所で、香と清いささげ物がわが名のためにささげられるようになる。これはわが名が異邦人の間であがめられるようになるからであると、万軍の主は言われる」(マラ一・十一)。このとおりに、宮が再びエルサレムに建てられる(エゼ三七・二六、二八、四三・七)。そこで主要な供え物――燔祭、素祭、酬恩祭、罪祭――がすべてささげられるようになる(エゼ四三・十八~二七、四四・十一、十五、二七、二九、四五・十七、ゼカ十四・二〇~二一)。特定の祭りが執り行われるようになる。例えば、過越(エゼ四五・二一)と仮庵の祭り(ゼカ十四・十六)である。安息日が守られるようになる(エゼ四四・二四、四五・十七、四六・三)。また、祭司職はザドクすなわち「義なる者」の子らの手に渡る(エゼ四〇・四六、四三・十九、四四・十五)。とにかくエゼキエルは、メシヤの救いについての預言の中で、未来の供え物の奉仕について、非常に多くの詳細な取り決めと一緒に描写しているし(例えば、四五・二三~二四、四六・四~十五)、また、未来の宮についても、非常に多くの詳細な説明や寸法と一緒に描写しているので(四〇・六~十五、四一・一~四、四三・十三~十七)、これらはたんなる比喩や霊的なものにすぎないと理解するのは、ほとんど無理のように思われる(エゼ四〇・一~四九、四一・一~二六、四二・一~二〇、四三・一~二七、四四・一~三一)。1
1 聖書は全部で八つの神の宮について述べている: (a)モーセの幕屋(紀元前一五〇〇年~一〇〇〇年)。 (b)ソロモンの宮(紀元前一〇〇〇年~五八六年)。 (c)ゼルバベルの宮(ヘロデによって再建された。ヨハ二・二〇。紀元前五一六年~紀元七〇年)。 (d)イエスの体の宮(ヨハ二・二一)。 (e)霊の宮である教会 (ⅰ)全教会(エペ二・二一)、 (ⅱ)地方教会(一コリ三・十六~十七)、 (ⅲ)個々のクリスチャン(一コリ六・十九)。 (f)終わりの日の宮(黙十一・一~二)。 (g)エゼキエルの宮(四〇~四四章)。 (h)宮である新しいエルサレム(黙二一・三、二二)。「見よ、神の幕屋が人と共にある」。
ゴルゴタの完成された御業の後で、しかもヘブル書の教えにもかかわらず(十・十、十四、八・十三、七・十八)、供え物の奉仕が再開されるようになるというのは、難しい問題である。しかし、この難問はおそらく、これらの供え物を今日のバプテスマや主の晩餐と同じように見なすことによって解決できるであろう。つまり、これらの供え物は、贖いの完成された御業を示す記念のしるしであり、過去を振り返るための象徴なのである。これは、十字架によって廃棄された旧約の諸々の供え物が、将来成就される贖いの御業――当時の立場からすると贖いの御業は依然として将来のことであった――を仰ぎ見ていたのと同じである。
しかしいずれにせよ、この宮はソロモンの宮とは異なる:この宮に契約の箱はないし(エレ三・十六~十七)、燭台、供え物のパンの机、聖所と至聖所を隔てる幕もない(ヘブ九・八を参照。マタ二七・五一)。
ネブカデネザルのエルサレム破壊以降、イスラエルにはずっと契約の箱がなかった。これはゼルバベルの宮(紀元前五一六年~紀元七〇年)にとって大きな損失であった。契約の箱がなければ、宮は種のない鞘、住人のいない家にすぎないからである。契約の箱は主の「王座」であり、主の臨在の象徴であり、至聖所の中で最も聖なる物だったからである(出二五・二二)。
しかし、将来の宮にとって、この欠如はまさに大きな益である。その理由は他でもない、今や主ご自身が臨在して、エルサレムが主の王座となり(エレ三・十七)、神の臨在がシェキナ(shechinah)、栄光の雲となるからである(イザ四・五、出四〇・三四~三八)。こうして象徴は成就され、今や実体に場所を譲れるのである。
契約の箱の不在は、まさに千年王国の性質を表している。すなわち、千年王国は永遠へと至る救いの移行期間なのである。天のエルサレムには、もはや宮は全くない。すべてがキリストにあって成就されているからである(黙二一・二二)。しかし千年王国では、最初に一部分が、まさに主要な部分が姿を消すが、「鞘」――古い世界――はまだ除き去られてはいない。このように、千年王国はこの預言の成就であると同時に、究極的完成への入口なのである。この一時的状態の結末であって、同時に永遠の夜明けなのである。
こういうわけで、千年王国は栄光の最も完全な型である。主要な問題は、実際のところ神の地上王国ではなく、すべてが完成される永遠の王国である。「こちら側」の歴史の輝かしい期間ではなく、「あちら側」の最終目標の完全な開示が重要なのである。古い地の締めくくりの時代ではなく、新しい地における永遠が重要なのである。メシヤの王国の本質は新しい世界なのである。
しかし、この二つは互いに関連し合っている。序論と本論、前準備と最終的成就、玄関ホールと王宮のように、関連し合っている。この二つは新創造によって隔てられている。つまり、世界の滅亡、裁き、変容によって隔てられている(黙二〇・七~十五、二一・一)。これらが、地の「こちら側」と「あちら側」との間の隔ての壁なのである。
しかし、旧約の預言者たちは時間と永遠を一つのものと見なした。彼らにとって、最初の一歩と終点、終わりの時と彼岸、地のエルサレムと天のエルサレムは、合流して一枚の壮大な絵図になっている。1こういうわけで、イザヤは新しい天と新しい地について述べているが(六五・十七、六六・二二)、それにもかかわらず、例外的にではあるが、そこにはまだ罪と死が残っているのである(六五・二〇)。これが言及しているのは、栄光の地上王国でしかありえない(黙二一・四を参照)。他方、終わりの時のエルサレムについて、「太陽も月も必要ない。主がその光となられるからである」(六〇・十九)とイザヤは述べている。しかしこれは、新約聖書に照らして見ると、間違いなく天のエルサレムを暗示している(黙二一・二三)。
1 こうしてまた、預言者たちはキリストの初臨と再臨を一枚の絵図の中にまとめて見ていた(イザ六一・一~三。ルカ四・十八~十九を参照)。また、第一の復活と第二の復活についてもそうである(ダニ十二・二。黙二〇・五を参照。一ペテ一・十一)(預言的遠近法の法則の百四十二ページを参照)。
このように預言者たちは、「こちら側」の終結と永遠の「あちら側」を、「こちら側」の性質を帯びた一本の連続的な線として見ている。また、彼らは究極的に完成された新創造を、旧創造の栄光の王国の色彩で描いている(例えば、イザ五四・十一~十二、黙二一・十八~二一)。ここではもちろん、最も崇高な気高い意味で、「霊的解釈」が妥当である。時から永遠を分かつ明確な対角線を引いているのは、新約聖書だけである。
二.イスラエルの民
1.イスラエルの帰還とカナン集結。「わたしは集める、あなたを集める、ヤコブよ、全く集める。わたしは集める、そうだ、イスラエルのレムナントを集める」(ミカ二・十二、イザ二七・十二~十三、六〇・四、ホセ十一・十~十一)。たとえ「あなたが天の果てに散らされていても、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される」(申三〇・四)。
諸国民や王たちの介添えにより(イザ四九・二二~二三、六〇・九~十、六一・五、六六・二〇)。 目に見えるしるしや不思議をもって(ミカ七・十五、イザ十一・十五~十六、三五・五~十、ゼカ十・十一)。まさに 主ご自身の指導の下で(イザ五二・十二、ミカ二・十三、ホセ一・十一、エレ三一・九)――こうして、イスラエルの民は彼らの土地に帰還する。
この将来の帰還に関しては、バビロンからの帰還がその実際の成就の型である。これは序文と本文の関係のようである(エレ二三・七~八を参照)。しかし事実、この「第二の」決定的出来事は、あらゆる点でずっと強力である。
その規模はずっと大きい。バビロンからの帰還は、一つの民の間からの帰還だったが、今の離散からの帰還は全諸国民からの帰還である(申三〇・三、イザ十一・十一~十二、四三・五~六、六〇・九、エレ二三・八、二九・十四、三一・八~十、三二・三七、エゼ三四・十二)。バビロンからの帰還を経験したのは、主に二つの部族だった。すなわち、ベニヤミン族を合わせたユダ王国である(エズ二・一~七〇)。しかし、今の離散からの帰還には、イスラエル王国を含めた十二部族すべてがあずかる(エレ三・十八、三〇・三、三一・一、六、三三・七、五〇・四、ゼカ十・六、イザ十一・十三、エゼ三七・十五~二四、ホセ一・十一)。
その継続期間はずっと確固たるものである。バビロンからの帰還は、エルサレムの破壊とローマ人によるユダヤ人のパレスチナ追放と共に終わった(紀元七〇年と一三五年)。将来の帰還は最終的な永遠のものである。霊的に刷新されたエルサレムとそのレムナントは「安全に住まい」(ゼカ十四・十一、エレ二四・六、三〇・十、三二・三七、三三・十六、ホセ二・二〇)、「その地から再び引き離されることは決してない」(アモ九・十五)。歴史の流れの中で二十回以上破壊されたこの都は、その時以降、地が存続するかぎり、もはや破壊されることはない(エレ三一・三八~四〇、イザ五四・十五、三二・十八、五二・一、ヨエ三・十七)。
その内的状態はずっと霊的である。バビロンからの帰還は一つの覚醒と関係していた。その時から、イスラエルは二度と偶像崇拝に陥らなかった。しかし、将来の帰還はメシヤの完全な救いと関係している(イザ四九・八~十三)。その時以降、偶像崇拝はイスラエルから姿を消すだけでなく(ホセ二・十七)、全地から姿を消す。また、最初の覚醒は衰退して正統主義や死せる頭脳的信仰になってしまったが、この最後の覚醒は真心のこもった信仰と活発な霊の命から成り立っている。
以上のことから、これらすべての預言を紀元前五三六年のバビロンからの帰還と関係づけるのは無理であることがわかる。なぜなら、
(a)イザヤは、世界の諸国民の間からイスラエルが「二度目に」集まることを、はっきりと預言しているからである(イザ十一・十一)。 (b)ゼカリヤは紀元前五二〇年頃、したがって、紀元前五三六年のバビロンからの帰還の後に、全イスラエルが将来離散から帰還することについて述べたからである(ゼカ九・十一~十三、十・八~十)。そして、 (c)預言の規模、持続期間、内容が、多くの点で紀元前五三六年の出来事とは一致しておらず(前述)、したがって、その成就は先のことだからである。
これからこう言うことができる。多くの預言はこの二つの出来事を一つの出来事として見ているが、他の多くの預言はもっぱら後の出来事しか見ていないのである。
2.イスラエルの主への回心。
反キリストの時代の前に、イスラエルの民は自分たちの土地に戻っているであろう。これは以下の事実によって証明される。
反キリストが彼らを迫害するのは、まさにユダヤにおいてである(マタ二四・十六~二二、黙十一・一~十四)。 反キリストは荒らす憎むべきものを「聖所」に設置する(マタ二四・十五、ダニ九・二六~二七、十一・三一、十二・十一)。 ユダヤ人に対する戦争で、反キリストはパレスチナに侵攻して荒らす(ゼカ十四・一~二、十二・二、ヨエ三・十二)。 天から降臨するとき、メシヤはハルマゲドン1での勝利により、ご自分の民を解放される(黙十六・十六)。 メシヤはヨシャパテの谷で諸国民を裁くことによって、ご自分の民を解放される(ヨエ三・十二~十八、ゼカ十四・三~五、十二・三~九)。
1 ハルマゲドンは「メギドの丘」を意味し、カルメル山の麓のエズレル平原の北パレスチナで終わっている。
しかし、(最後の出来事を除き)これはみな、イスラエルがまだ信じていない間に起きる。「神の民」としてではなく「ユダヤ国民」として、彼らはパレスチナに戻る。その動機は宗教的なものではなく、政治的なものである。エゼキエルが見た枯れた骨は、イスラエル国民を意味するが、命の息、すなわち、主なる神の御霊がその中に入る前に集結する(エゼ三七・七~八、十二~十四)。
次いで、パレスチナで諸々の出来事が相次いで起きる。
(1)メシヤの出現。「見よ、彼は雲と共に来られる。すべての目、特に彼を刺し貫いた者が、彼を見る」(黙一・七。なおゼカ十四・四、マタ二六・六四を参照)。
(2)嘆き。その時、「その地のすべての部族が、彼のゆえに嘆く」(黙一・七、ゼカ十二・十)。「自分の一人子のために嘆く者のように、自分の長子のために嘆く者のように嘆く」(ゼカ十二・十~十四)。
(3)悔い改め。彼らは自分たちの罪を嘆き、特にメシヤを殺害したことを嘆く(ゼカ十二・十)。ユダヤ人は、ユダヤ国民の下劣さが忌むべきものであり、憎むべきものであることを、自ら認める(エゼ三六・二一)。そして、自分の罪のせいでエホバに忌み嫌われるようになった者たちは、今や、自分たちの有様を見て自分たちを忌み嫌うようになる(レビ二六・三〇、エゼ二〇・四三、三六・三一)。しかし、「彼らは泣き続けながら、自分たちの神である主を求めるようになる」(エレ五〇・四、ホセ三・五、エレ三一・九)。
(4)告白。その時、彼らは自分たちのメシヤであるキリストについて、こう言うようになる。「われわれも彼を尊ばなかった。われわれは思った、彼は神に打たれ、叩かれ、苦しめられたのだと。しかし、主はわれわれのすべての罪を彼の上に置かれた。われわれの咎のために彼は傷つけられ、われわれの不義のために彼は打たれた。われわれが平安を得るために彼は罰せられ、彼の傷によってわれわれは癒された」(イザ五三・三~六)。これが、旧約預言の偉大な中心的章であるイザヤ五三・一~十二の直接的意味である。これはイスラエルの悔い改めの告白であり、終わりの時に、イスラエルは自分の盲目さを恥じて、主が現れる時にこのように悔い改めの告白をするのである。
その時、偉大な奇跡が起きる:
(5)新生。「その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる」。神は彼らの咎を赦し(エレ三三・八、五〇・二〇)、彼らの不義を覆い(イザ四四・二二)、彼らの汚れを洗い流し(イザ四・四)、彼らの背信を癒される(ホセ十四・四)。彼らの石の心を神は取り去り(エゼ十一・十九、三六・二六)、彼らの欲得ずくの精神を消し(ゼカ十四・二一)、彼らの血の咎を清め(イザ四・四)、彼らの「枯れた骨」を生かされる(エゼ三七・九、ホセ六・二)。神は彼らに清い水を振り注ぎ(エゼ三六・二五~二八、レビ十四・一~七)、彼らの上に恵みと嘆願の霊を注ぎ出される(ゼカ十二・十)。しかり、ご自分の聖霊を彼らの内に置かれるのである(エゼ三七・十四、三九・二九、イザ四四・三、ヨエ二・二八~二九)。
これはイスラエルの霊的再生である。イスラエルはロルハマ(Lo-ruhama)からルハマ(Ruhama)になる。愛されない者ではなく、愛される者になる(ホセ一・六、二・一)。ロアンミ(Lo-ammi)ではなくアンミ(Ammi)になる。「わが民」ではない者が「わが民」になる(ホセ一・九、二・一、二三)。イスラエルは霊的に刷新されて、新しい契約の中に(エレ三一・三一~三四、三二・四〇)、エホバとの幸いな「婚約」及び「婚姻」の祝福の中に入る(ホセ二・十八~二〇、イザ六二・五、六一・十)。
これはみな、イスラエル自身の土地で、中東のパレスチナで、すべて一日のうちに起きる。「エズレルの日は大いなるものとなる」(ホセ一・十一)。主は迅速に新創造の御業を遂行される(イザ六〇・二二)。こうして、「一日で全土が新創造の世界にもたらされ」、「一時で」一つの国家が誕生する(イザ六六・七~九)。「主がシオンを回心させるのを、彼らはその目で見る」(イザ五二・八)。
(6)聖潔。その時以降、イスラエルは聖なる民になる。「シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、命の書に記された者1は、聖なる者ととなえられるようになる」(イザ四・三)。「彼らは、わが聖なる山のどこにおいても、もはや悪を行うことはなく、不正を働くこともない。水が海の底を覆っているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イザ十一・九)。実に、馬の鈴の上に「主に聖なる者」という大祭司のための言葉が記され(ゼカ十四・二〇。出二八・三六を参照)、エルサレムとユダのすべての鍋が万軍の主に対して聖なる物となるほどである(ゼカ十四・二一)。
1 [つまり、生きて滅びない者として神の書に登録されている人のことである。]
こうして、イスラエルの義は完全で、明確な、輝かしいものとなり、その救いは燃える松明のようになる(イザ六二・一)。その純粋さは金銀のようになり(ゼカ十三・九、マラ三・三)、その美しさはその神の御手の中にある王冠のようになる(イザ六二・三、二八・五~六)。
その首都は聖なる都であり(ヨエ三・十七、イザ五二・一)、その民は義しい国民であり(イザ二六・二)、パレスチナは全世界の飾りであり(エレ三・十九)、個々のイスラエル人はその郷土の土の上に燦めく宝石のようである(ゼカ九・十六)。
エルサレムは真理の都ととなえられ(ゼカ八・三。なおゼパ三・十三を参照)、その壁は救いととなえられ(イザ二六・一、六〇・十八)、その門は讃美と名づけられ(イザ六〇・十八)、その真中におられる王は主、とこよの岩である(イザ二六・四)。
すべての人の心が喜びに満ちるのも不思議ではない(イザ六五・十九、十二・一~六)。
(7)祝福。「主に贖われた者は戻って来て、大喜びでシオンに来る。その頭には、とこしえの喜びをいただき、悲しみとため息は逃げ去る」(イザ三五・十、五一・十一)。
「彼らは終わりの日におののきつつ、主とその恵みに立ち返り」(ホセ三・五)、主なる神が彼らに賜る「すべての恵みとすべての平安のゆえに、おののいて身をふるわす」(エレ三三・九、イザ六〇・五、ホセ十四・五~七)。「見よ」と主は仰せられる、「あなたたち、嵐にもてあそばれ、慰めを得ない、不幸な者たちよ。わたしはアンチモニーであなたの石を据え、サファイヤであなたの基を置き、ルビーであなたの尖塔を造り、ざくろ石で門を造り、あなたの城壁をことごとく宝石で造る」(イザ五四・十一~十二)。ここで預言者が輝かしい形容の言葉で描写しているのは、天の都、上なるエルサレム、黄金の都であることは確かである(黙二一・一~二七)。また、千年王国のシオンの背後には、さらに偉大なさらに輝かしいシオン、究極的に完成されたエルサレムが控えていることも確かである。以前のエルサレムは、究極的に完成されたエルサレムの象徴にすぎない。しかしここでは、まず第一に、預言者は地の都について述べている。なぜなら、天の都は惨めだったことや、慰めがなかったことは一度もないからである。また、明らかに、地の都は「大王の都」(マタ五・三五、詩四八・二)であり、「イスラエルの聖なる御方のシオン」(イザ六〇・十四)だからである。それゆえ、主はこの地の都を再建し(ルカ二一・二四、イザ五八・十二)、「その栄光の家」を再び輝かされる(イザ六〇・七、十三)。
その時、エルサレムは安らかである(エレ二四・六、三二・三七、ゼカ十四・十~十一、エゼ二八・二六、エレ二三・六)。他国人がそこを通ることはなく(ヨエ三・十七、イザ五二・一)、病に脅かされることもなく(申七・十五、イザ三三・五~六、六五・二〇~二三)、災厄がその家や住まいを破壊することもない(イザ六〇・十八)。危険はすべて払拭され、いかなる苦痛も近づけない。まさに、この都は真に、サレム(Salem)という大昔の名称が示すとおりの都、すなわち、平和の都になるのである。
その住人たちは、気高い戦馬のような英雄たちであり(ゼカ十・三~五)、その中で最も弱い者ですらダビデのようである。また、ダビデの家は神のようであり、彼らの先頭に立つ主の御使いのようである(ゼカ十二・八、イザ三三・二四)。実に、エルサレムは開かれた都として人の住む所となる。なぜなら、「わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる」(ゼカ二・五、ゼパ三・十七)と主は仰せられるからである。
メシヤの王座の場所として(エレ三・十七、イザ二四・二三)、その宮の山は他の山々よりも高くなり、すべての峰よりも高く上げられる(イザ二・二、ミカ四・一、詩四八・一~二)。そこにダビデの王座、メシヤの王座が立ち(ルカ一・三二~三三)、その周囲をその十二使徒の王座が取り囲む(マタ十九・二八)。十二使徒は、外周にいる裁き司たちや部下の皇子たちの先頭に立って、御名において義の中で十二部族の人々を支配する(イザ一・二六、三二・一、六〇・十七、エレ二三・四、オバ一・二一)。
こうしてイスラエルは救いに達し、「非難を受けた諸々の土地で、讃美と名声を受ける」(ゼパ三・十九~二〇、イザ六一・九)。また、以前ユダヤ人が呪いだったように(エレ二四・九、二五・十八、二六・六。なお十九・二二を参照)、今度は祝福となる(ゼカ八・十三。なお創四八・二〇を参照)。そして、他の人の祝福を願う時、人は「主がシオンを祝福しておられるように、あなたを祝福してくださいますように!」と言うようになるのである。
この都は以下の名で呼ばれるようになる:
個人的には:祭司たち、神の僕たち、主に贖われた者たち(イザ六一・六、六二・十二。なお五八・十二を参照)。 団体的には:聖なる民、わが喜びの民(イザ六二・十二、六二・四)。 その国土は:主の配偶、エホバの花嫁、地の喜び(イザ六二・四、詩四八・三)。 その首都は:真理の都、義の山、忠信な都、聖なる山、イスラエルの聖なる御方のシオン、「エホバはそこにおられる」。実に、王ご自身――われらの義であるエホバ――の御名とまさに同じ名で呼ばれるようになるのである(ゼカ八・三、イザ一・二六、六〇・十四、エレ三三・十六、二三・六、エゼ四八・三五)。
しかし、これはみな神の御業であって、人の国家的力によるのではない。起源に関して言うと、イスラエルはどの国民よりも小さく(申七・七)、反逆に関して言うと、茨やぶのようであり(ミカ七・四、出三・二)、その罪について言うと、エホバにとって忌むべきものだった(レビ二六・三〇)。したがって、救いの新時代の始まりにあたってイスラエルが霊的に変容するのは、神の奇跡でしかありえない。それは、主の御名に栄光を帰して主の新創造の力を示すためである。「彼らは地の全諸国民の前で、わたしにとって喜びの名となり、讃美となり、飾りとなる」と主は仰せられる(エレ三三・九。なお十三・十一を参照)。肝心なのはイスラエルではなく、神とその誉れである(イザ十一・九)。人や人の救いではなく、神とその栄光である。「ああ、イスラエルの家よ、わたしがこのように行うのは、あなたたちのためではなく、あなたたちが異邦人の間で辱めたわたしの聖なる名のためである。あなたたちが異邦人の間で汚したわたしの大いなる名を、わたしは再びあがめられるようにする。それは、わたしが主であることを諸国民が悟るようになるためである」(エゼ三六・二二~二三、二〇・四四、三九・二五)。したがって、再度こう述べられている、「主なるエホバは仰せられる、わたしがこれを行うのはあなたたちのためではない。あなたたちはこれを知れ。イスラエルの家の者たちよ、あなたたちはむしろ、自分たちの振る舞いを大いに恥じて赤面せよ」(エゼ二六・三二。なお二〇節を参照)。
したがって、イスラエルの変容は全く主のためである。主のためにシオンは建てられる(エレ三一・三八)。主の祝福があらゆるものの中に見られる(イザ六一・九)。主の輝かしい御業がエルサレムで宣言される(イザ六〇・六)。ユダヤ人のためではなく「主の御名のために」、諸国民は一緒に集まって礼拝する(エレ三・十七)。主の御名がイスラエルの癒しによってあがめられ(イザ二九・二三、エゼ二八・二五)、主の栄光が全諸国民の目の前に示されるからである(エゼ三九・二一)。あらゆることで主はご自身の栄光を現される(イザ四四・二三)。
しかしこれにより、イスラエルが再び受け入れられた結果、神が世界的にあがめられるようになる。イスラエルの誉れの目的は、神の誉れである(イザ六〇・二一、四三・六~七)。イスラエルは完全に神のあわれみの象徴であり、その証しである(イザ四九・十、五四・十)。イスラエル自身は、その神の誉れを担う、謙った誉れある担い手にすぎない:「われわれにではなく、ああ、主よ、われわれにではなく、あなたの御名に誉れがありますように。あなたの恵みとあなたのまこととのゆえに」(詩一一五・一)。
3.イスラエルの福音伝道の奉仕。刷新されたイスラエルは諸国民に対する神の伝道者になる。「律法はシオンから出、主の御言葉はエルサレムから出る」(ミカ四・二、イザ二・三)。「わたしが造ったこの民は、わたしの誉れを示す」(イザ四三・二一、詩七九・十三)。「彼らがシオンでエホバの御名を告げ知らせ、エルサレムでその誉れを告げ知らせるためである。その時、諸々の民と諸々の王国は、共に集まって、主に仕える」(詩一〇二・二一~二二)。
それゆえ、彼らは自分自身の国民性をきわめてしっかりと保持しつつも、布教のための特別な能力と、言語を習得する賜物と、すべての諸国民に適応する能力を持つ。これらの能力はみな、メシヤ王国における、諸国民に対する宣教のための国民的才能であることを理解する時、イスラエルは初めてその意義を理解するようになる。旧約聖書が述べているように、不信仰な状態にあるイスラエルは、諸国民の間で呪いでしかない(エレ十四・九、二五・十八)。しかしその時、神の使者として、イスラエルは自分の賜物を行使して諸国民に祝福を及ぼすようになる(ゼカ八・十三)。イスラエルは王国の良い知らせの担い手また化身となる(マタ四・二三、九・三五、二四・十四)。それゆえ、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、エホバの栄光があなたの上に昇ったから」(イザ六〇・一)。
しかし、諸国民の救われた者たちの中からも、神は世界の最果ての人々に使者を遣わされる。「わたしがすべての国民とすべての言語の民を集める時が来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの間に一つのしるしを立てて、のがれた者1を諸々の国に遣わす」(イザ六六・十八~十九)。
1 [すなわち、反キリストの軍隊が滅ぼされる時にのがれた者のことであり、したがってユダヤ人ではない(十五~十七節。なお黙一・九、十九~二〇を参照)。]
世界に対するこの宣教の奉仕により、イスラエルは千年王国の「パウロ」となる:
最初は信者たちを迫害する者であり、憎む者だった(使九・一~二、一テサ二・十五~十六)。 次に、主の出現によって、突然征服される(使九・四~八、マタ二四・三〇)。 最後に、異邦人に対するキリストの使徒また使者の長となる。
オリーブ山におけるイスラエルの「ダマスコの時」は――われわれとは対照的に――見ることによって信じるようになるのだが(ヨハ二〇・二九、二コリ五・七)、諸国民への世界宣教の始まりである(イザ十二・四)。その時から、イスラエルは人類に対する神の証し人(イザ五五・四)、地上における祝福(イザ十九・二四)、諸国民の間の露(ミカ五・七)となり、その首都であるエルサレムは多くの諸国民の出生地となる(詩八七・二~六)。
三.諸国民
しかし、神の目標はイスラエルだけではない。神の目標は人類である(一テモ二・四、イザ四〇・五)。「あなたがわたしの僕となって、ヤコブの諸々の部族を起こし、イスラエルの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを諸国民の光として立てて、わたしの救いを地の果てにまで至らせる」(イザ十九・六、四二・六~七、ルカ二・三〇~三二)。
1.世界の諸国民の回心。神の王国の知らせによって福音化された諸国民は(ミカ四・二、イザ四三・二一、詩一〇二・二一~二二、イザ六六・十八~十九)、統治者であり王であるキリストに従うようになる(イザ五九・十九)。偽りの神々はすべて廃棄され、人の宗教はすべて消え去り(ゼカ十三・二、エレ十六・十九~二一、イザ二・十八~二〇)、「主が全地の王となられる」(詩九六・十、九八・九、九九・一~二)。「その日には、ただ主だけが神となり、主の御名だけが崇められる」(ゼカ十四・九、イザ五四・五)。その時、主はシオンで、すべての諸国民がかぶっている顔覆いと、すべての諸国民を覆っている覆い物とを破られる(イザ二五・七)。そして、諸国民や諸部族が来てキリストに立ち返り、蔑まれたナザレ人であるキリストが栄光の王であることを悟る(詩二四・七~十、ピリ二・十一、エペ一・十)。全アッシリア、全エジプト、全イスラエルが来る(イザ十九・二一~二五、ロマ十一・二六)。主は彼らを受け入れ、祝福し、「わたしの民であるエジプト、わたしの手のわざであるアッシリア、わたしの嗣業であるイスラエルに祝福あれ」(イザ十九・二五)と仰せられる。
この聖書預言は、実際のところ、人の贖いの範囲に関して、最大限の範囲を提示している。なぜなら、ここで述べられている希望は、回心した異邦人たちが霊的に刷新された神の民に合併されることではなく、回心した神の民であるイスラエルの霊的救いと、回心した諸国民の霊的救いが、永遠の神聖な贖いという一つの基盤に基づくことだからである。こうして、イスラエルは自分の国土で(詩八七・四~六)、また、諸国民も自分の国土で、霊的かつ神聖な新生を経験する(詩八七・四~六)。そして、神聖な王として主が全地を支配され、義と平和が全人類を統治する。しかり、「多くの強い諸国民が来て」(ゼカ八・二二)、「主に加わり、彼らはわたしの民となる」(ゼカ二・十一)と主は仰せられる。
最終的に、全世界があまねくキリストに服する(詩二二・二八~二九、四七・四~九、五〇・一~二、七二・八~十一、八六・九、九九・一~二、一一三・三~四)。こうして、人類に対する宣教が全能者の王権の下でなされ、世界の福音化によって文明がキリスト教化され、王国の宣べ伝えによって全諸国民が勝ち取られる。このように、千年期は歴史の中で最も重要で最も現実的な宣教の期間であり、地上で初めて、聖書が意味するところのキリスト教国やキリスト教連盟ができるのである(イザ四五・二二~二四)。
まさにこの時、以前のように個々人が主に立ち返るだけでなく、国民全体が主に立ち返る。この事実には特別な理由がある。その理由とは、諸国民が自分の目で神の力強い御業を見ることである。教会の栄化、キリストの栄光の来臨、ハルマゲドンの決戦、ヨシャパテの谷における諸国民の裁き、イスラエルに対する神の救いと奇跡を見るからである。「主がシオンの捕らわれ人を解放されるとき、われわれは夢見るもののようであろう。(中略)その時、異教徒の間には、『主は彼らのために大いなることをなさった』と言う者がいるであろう」(詩一二六・一~二)。「あなたは立ち上がってシオンをあわれまれる。シオンに恵みを示す時だからである。(中略)その時、異邦人たちは主の御名を畏れ、地の王たちはみなあなたの栄光を畏れる」(詩一〇二・十三、十五)。これにさらに次の事実を付け加えるべきであろう。頑迷な者はハルマゲドンで殺されてしまい、とりわけ悪魔は縛られてしまうので、もはや諸国民を誤りに導けなくなるのである(黙二〇・二)。
2.諸国民の聖化。回心に聖化が続く。「その時、わたしは諸々の民に清い唇を与え、彼らに主の名を呼ばせ、心を一つにして主に仕えさせる」(ゼパ三・九、エレ三・十七、ミカ四・二)。もはや戦争はなく(イザ二・四)、権力闘争もなく、他人を虐げて略奪しようとすることもない。平和な取引と円満な交流により、彼らは互いに自主的に尊敬し合い、高め合い、万民の共通の主であり神聖な王である方に仕える(イザ十九・二三、六六・二三、ゼカ十四・九)。体の健康(イザ三五・五~六)、有益な労働(イザ六五・二一~二三)、社会正義(イザ十一・三~四)、共同体内の相互扶助(イザ五八・七)、巨大都市の忌避(ゼカ三・十)、正しく定められた境界線(使十七・二六)、神によって定められた権利の平等(イザ十九・二五、マタ八・十一、ゼカ二・十一)、全面的武装解除(ミカ四・三)――これらが、万民が日々享受する祝福である。このように諸国民は各々の国民生活を続けるが、それと同時に、共に一つの円満な有機体を形成する。体の肢体のように、彼らは相互の福祉を促進する。また、諸々の民から成る一つの家族のように、多様性に富んでいるがそれでも一体である。
しかし、聖化は献身であり、神を追い求めることであり、最初にわれわれを愛してくださった方に心を傾けることである。こうして、ダビデの根から出た芽は「諸国民の旗」として立ち、「諸国民はこの方に尋ね求める」(イザ十一・十)。御名のゆえに「彼らは一つになって集まり」(エレ三・十七)、「水が海の底を覆っているように、地は主の栄光を知る知識で満ちる」(ハバ二・十四)。
3.諸国民の礼拝。主を知る知識は礼拝へと導く。「日の昇る所から沈む所まで、異邦人の間でわたしの名はあがめられるようになる。また、どこでも香と清いささげ物が、わたしの名のためにささげられるようになる(中略)と万軍の主は言われる」(マラ一・十一)。それだけでなくさらに、「新月ごとに、安息日ごとに、すべての肉なる者はわたしの前に来て礼拝する」(イザ六六・二三)。そして、彼らは主に願い求め(ゼカ八・二一~二二)、主に贈り物をささげ(イザ五六・七、六〇・七)、仮庵の祭りを祝い(ゼカ十四・十六)、ただ主だけに仕える(詩一〇二・二一~二二、七二・十一)。
4.諸国民の王。インマヌエル、神聖な王が万物の中心となる。「ひとりの子供がわれわれに生まれた。一人の男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は『不思議、助言者、力、英雄、永遠の父、平和の君』ととなえられる」(イザ九・六)。彼は義によって諸国民を裁く(詩六七・四、九六・十、七二・一~二)。彼は卑しい者のために正義を執り行い(詩七二・四、十二~十四、イザ十一・三~四、二九・十九~二一)、へりくだる者に恵みを与え(一サム二・八)、諸国民に安息を与え(イザ二・四)、全世界のために幸福をもたらされる(詩九六・一~三、一〇〇・一~二)。彼は諸国民の調停者(イザ二・四)、平和の守護者(ゼカ九・十、ミカ四・三)、地の王たちの君(黙一・五、十九・十六、十一・十五)、万物の頭(エペ一・十)である。こうして「公平は荒野に住み、正義は実り多き畑に宿る」(イザ三二・十六~十七)。そして、「地が芽をいだし、園が蒔いたものを生えさせるように、主なる神は義と誉れを、すべての国の前に生えさせる」(イザ六一・十一)。
5.諸国民の祝福。こうして、世界の諸国民は約束の祝福に達する。そして、以下のことが実現する:
彼らは(約束の祝福に)あずかることを最終的に許される―― それはヨシャパテの谷における裁きによってである(ヨエ三・十二、マタ二五・三一~四六)。 彼らは霊的に刷新される―― それは国家的回心によってである(イザ二・三、十九・二一、十九・二四、二五・一~十二)。 彼らは政治的に整えられる―― それは神聖な贖い主によってである(黙一・五、イザ二・二、四五・二二~二三)。 彼らは国際的に和合する―― それは世界の王の裁定によってである(イザ二・四、ゼカ九・十)。 彼らは社会的に調和する―― それは正しい社会的基準によってである(イザ十一・三~四、二九・十九~二一)。 彼らは外面的に幸福になる―― それは日々の祝福によってである。1 彼らは内面的に聖化される―― それは永遠なる方との交わりによってである(ゼパ三・九、ハバ二・十四、イザヤ十一・十)。 彼らは共同で礼拝する―― それは巡礼と神聖な奉仕によってである(ミカ四・二、ゼカ八・二一、十四・十六、イザ五六・七、六〇・三、六六・二三)。
1 例えば、体の健康(イザ三五・五~六)、族長たちのような長寿(イザ六五・二〇)、上首尾の労働(イザ六五・二一~二三)、巨大都市の忌避(ゼカ三・十)、実り多い自然(イザ三〇・二三~二四、四一・十八~十九、四三・二〇、五五・十三)。
四.教会
しかし、千年王国の間、教会はどこにあるのか?常に地上にあるのではなく、キリストと共に天にあるように見受けられる。携挙以降、教会は「常に主と共にある」(一テサ四・十七)ようになる。
かしらは肢体たちに結ばれており、肢体たちはかしらの主権と栄光にあずかる(二テサ二・十四、コロ三・四、一コリ一・九)。彼らはキリストと共に治める(二テモ二・十二、黙二〇・四~六、一コリ六・二~三)。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう」(黙三・二一、マタ十九・二八)。
彼らは栄化されているから、彼らが持っているのはもはや地的な体ではなく、天的な光の体である(ピリ三・二一、一コリ十五・四〇~四九)。したがって、霊的な体を持つ者として、イスラエルや諸国民とは異なる。地上での彼らの外見は、したがって、復活後の主の外見と明らかに似通っている。栄化されているので、彼らは天的な世界に属する。しかし、主と同じように、彼らも地上生活を送ることができ、おそらく、飲み食いすることもできる(マタ二六・二九、ルカ十四・二九~四三、ヨハ二〇・二七)。しかし細かな点になると、これらの問題はわれわれの思考力や理解力を遙かに超えている。われわれは来たるべき栄光を喜ぶ。その詳細はすべて神にお任せする。
このように、教会はイスラエルよりも遙かに優位にある。ユダヤ人はキリストに服するが、教会の構成員はキリストと共に治める執政官である(二テモ二・十二、マタ十九・二八)。ユダヤ人は王国に属すが、教会はキリストの妻である。ユダヤ人は神の地的民だが(イザ六〇・二一)、教会は神の天的民である(エペ一・三)。そして、天が地よりも高いように、教会の霊的祝福は、ついに回心したイスラエルの民の地的祝福よりも高い。
こういうわけで、千年王国全体は強力な三位一体の有機体である:諸国民は体であり、イスラエルは魂であり、教会はキリストと共に霊である。諸国民は外庭であり、イスラエルは聖所であり、栄化された教会は内住のキリストと共に至聖所である。
しかし、至聖所から神の祝福は聖所や外庭に流れ出るのである。
天のエルサレム、栄化された教会から(ガラ四・二六、ヘブ十二・二二)、主は恵みと平和を地のエルサレムに注ぎ出し、地のエルサレムから地の諸国民に注ぎ出される(イザ二・三)。
五.自然
人類と共に、その住む所も祝福される。全地がその主の栄光にあずかる。神の子らの現れと共に、全被造物は「腐敗の縄目」から解放される(ロマ八・十九~二二)。
1.植物の世界。人のために呪われた野は、その呪いから解放される(創三・十七、ロマ八・二〇~二一)。その時以降、平原や野原を行き交う無言の「祈り」はかなえられるようになる(ホセ二・二一~二二)。うめく被造物の「切なる望み」は栄光の内に成就される(ロマ八・十九)。「乾いた土地の荒野と草原は喜び、スイセンのように花咲く。(中略)これにレバノンの栄光が与えられ、カルメルとシャノンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われらの神の麗しさを見る」(イザ三五・一~二)。そして、「わたしは裸の山に川をひらき、谷の中に泉をいだし、荒野を池となし、乾いた地を水の源とする」(イザ四一・十八)。そして、「これは主の誉れとなり、永遠の記念となって、絶えることはない」(イザ五五・十二~十三。なお三二・十五、三五・六~七、四三・十九~二一、ヨエ二・二一~二三を参照)。
カナンは特に「乳と蜜の流れる」地となる(ヨエ三・十八、エレ十一・五)。[古代エジプトにおけるこの句の用法から、この句は豊穣な地域を表す慣用表現であることがわかる。]カナンはパラダイスの園のようになり(イザ五一・三)、いにしえのエデンのようになる(エゼ三六・三五)。
花咲く園があり(アモ九・十四)、 実り豊かな畑があり(エゼ三六・二九~三〇、三四・二七、詩七二・十六)、 トウモロコシと新しい酒と油とで溢れる山々があり(ヨエ二・十九)、 祝福の雨があり(エゼ三四・二六、レビ二六・四、イザ三〇・二三)、 溢れるほどの収穫があり(レビ二六・五、ヨエ二・二四、アモ九・十三~十四)、 平野や野原や森には喜びがある(イザ五五・十二)――この地は今や格別に喜ばしい地になる。そして、他のすべての地は、ある程度その繁栄にあずかる。
したがって、「天よ、歌え、地よ、喜べ。諸々の山よ、声を放って讃美せよ!主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ」(イザ四九・十三)。
2.動物の世界。動物間の平和。「狼は小羊の客として宿り、豹は子供のそばに伏し、子牛、若獅子、肥えた雄牛は共に住み、幼い子供に導かれる。雌牛と熊は共に牧場に行き、その子らは共に伏し、獅子は雄牛のようにわらを食べる」(イザ十一・六~七、六五・二五。なお三〇・二三~二四、ヨエ二・二二を参照)。
人と動物との間の平和。「その日には、わたしはまた彼らのために、野の獣、空の鳥、地の這う物と契約を結ぶ」(ホセ二・十八)。そして、わたしは「その土地から有害な獣を失せさせる。彼らが荒野の中でも安全に住まい、森の中で眠れるようになるためである」(エゼ三四・二五、レビ二六・六)。実に蛇ですら、それ自体はまだ贖われていないにもかかわらず(イザ六五・二五、創三・十四)、もはや毒がなくなる。なぜなら、「乳飲み子は毒蛇の洞に戯れ、乳離れの子はその手をまむしの穴に伸ばす」(イザ十一・八)からである。
3.星々の世界も、何らかの方法で贖われる:「主がその民の傷を包み、その打たれた傷を癒される時には、月の光は日の光のように明るくなり、日の光は七つの日の光のように明るくなる」(イザ三〇・二六。なお二四・二三を参照)。
このように、これは宇宙大の贖いである。被造物の新生であり(マタ十九・二八)、「主の御前から臨む回復の時期」(使三・十九)であり、「神が昔から聖なる預言者たちの口によって語って来られた万物復興」(使三・二一)である。
「天よ、喜べ、地よ、楽しめ。 海とその中に満ちるものよ、鳴りどよめけ。 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。 その時、森の木々はことごとく主の御前で喜び歌う。 主が来られるからである。 主が地を裁くために来られるからである。 主は世界を義をもって裁き、 もろもろの民をまことをもって裁く。」(詩九六・十一~十三)。