第一章 新しい天と新しい地

エーリッヒ・ザウアー

「永遠の理念は神のものであり、それについての移ろいゆく思想は人のものである。」(ベテックス)

「そして、私は新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去ったからである。海はもはやない。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように、神から出て天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人々と共にあり、神は彼らと共に住まわれる。彼らは神の民となり、神ご自身が彼らの神となられる』」(黙二一・一~三、イザ六五・一七)。

新しい世界が古い世界の炎の中から現れる。脆い塵の世界の代わりに、天の光り輝く物質で形成された新しい被造物が現れる。罪の舞台の代わりに、聖なる完全な素晴らしい世界が現れる。生成と消滅の代わりに、永遠の存続と進展が現れる。「しかし、義が宿る新しい地を、われわれは待ち望んでいる」(二ペテ三・一三)。これが、クリスチャン信仰の天的な究極的期待である。

ここではこれを、五つの二重の関連で考える:この五つの関連とは、古い世界と新しい世界、天と地、永遠と時間、霊の体と(不)可視性、永遠の世界と象徴である。

一.古い世界と新しい世界

新しい世界は古い世界と無関係ではない。来たるべき地は「別の地」ではなく、「新しい」地である。そうでなければ、それを「新しい」とは呼べなかったであろう。ヨハネは新しい「天」と新しい「地」を見た。これは、永遠においても、われわれの天体と天上との区別は、何らかの方法で残り続けることを立証する。すっかり変化・変容するにもかかわらず、この完成された宇宙の設計図は、何らかの方法で古い設計図と対応しているのである。

間違いなく、物質も組み込まれる。しかし今は、その仕組みはまったくわからない。神は御手の業を放棄されない。さらに、神はご自分の輝かしい物質を大敵であるサタンに渡して、それをサタンに所有させて破壊させることはなさらない。天と地の新創造は、個々の魂の新創造と、とてもよく似ている。キリストにあって、各個人は「新創造である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(二コリ五・一七)。しかし依然として、同じ自己と同じ魂を持つ同じ人である。「その人」は新しくなった(黙二一・四~五を参照)。このように、神はご自分の宇宙の物質を火で焼いて、それを基本要素に還元し、原子を分解して、それをあらゆる制約から解放し、万物を造り変えられる。こうして、神は新しい設計図にしたがって、旧構造の石を組み込んで新構造を建造される。これはまるで、一塊の汚い石炭が炉の中に封じ込められて、高熱で気体となり、その後、再び結晶化して素晴らしいダイヤモンドになるかのようである。このように、神は消滅させるのではなく「変化」させるのである(詩一〇二・二六)。拒絶するのではなく贖うのである。滅ぼすのではなく整理するのである。廃棄するのではなく新たに創造するのである。荒廃させるのではなく造り変えるのである。

主な証拠については、「来たるべき霊の体:その必要性と実際性」の百六~百九ページを参照。

二.天と地

地だけでなく、天も贖いにあずかる。ゴルゴタの供え物は、その影響を宇宙史にまで及ぼす。人類の救いは、世界を包み込む神の御旨の一部にすぎない。人類の救いは神の御旨の中心だが、全体を占めているわけではない。「天にあるもの」も、ご自身をささげられたキリストの犠牲によって清められる(ヘブ九・二三)。天上の「清め」が必要である。それは、天上が堕落した霊どもの住まいだったからにほかならない(エペ六・一二、二・二)。また、その霊どもの頭であるサタンが、代々にわたって、天の世界の最も高い領域に出入りしていたからである(ヨブ一・六、二・一、一列二二・一九~二三、黙一二・七~九。なお、ヨブ一五・一五、イザ二四・二三を参照)。

いと高き方は、ご自分の贖う愛という永遠の思想を、われわれ人間において結晶化させることを良しとされた――人類の救いの歴史がなければ、救いの歴史がまったくないようにされたのである(ロマ八・一九)。というのは、世界の贖い主であるキリストは、人の子として贖いの御業を成就されたからである。しかし、天にあるものと、この宇宙にあるものは、人の贖いと密接に関係している。それは現在のわれわれの思考力のまったく及ばないものであり、神の御言葉の中に暗示的に述べられているだけである。ここで、われわれは永遠を前にして頭を垂れて、自分の無知を告白する。

それでも、この一事は今でもわかる。救済史は人類と関係しており、それと同時に宇宙とも関係しているのである。その中心的太陽は、御子キリストにあって現された神である。その輝きは人類を貫く。しかし個々の光線は、われわれにとっては無限の宇宙である広大な空間にまで及ぶ。

しかし、その結果として、贖い主の神聖な人性は、天と地における贖い全体の根本的原則である。人類の住まいであるこの地は、神の住まいとなり、万物の主の宇宙の首都となる。そしてこれにより、全宇宙の中心となる。神の御座は、今はまだ天にあるが(詩一〇三・一九)、その時、地上にあるようになる。そして、神の御座の「足台」である地は、それ自体が御座となる(マタ五・三四~三五)。天のエルサレムが地に降りてくる(黙二一・一〇)。彼岸が此岸となる。永遠が時を様変わりさせる。そして、贖いの舞台であるこの地は、神の宇宙的王国の宮殿となる。「神と小羊の御座がそこにある」(黙二二・三)。天が完成されるだけでなく(ヨハ一四・二~三)、天が地に臨む。実に、新しい地は、それ自体が天なのである。なぜなら、神の御座のある所が天だからである。

三.永遠と時間

永遠は、無限の時以上のものである。その継続性だけでなく内容に関しても、永遠は一時的なあらゆるものと本質的に異なる。永遠は時間に対して、たんなる時間的関係にあるのではない。したがって、時間の「前」「中」「後」にのみ存在するものではない。創造的な、生き生きとした、変容的な関係にあるのである。どの時も、永遠「から」発し、永遠の「中に」あり、永遠「へと」至る。

1.永遠は時間の起源である。時は神に由来するからである。「万物は神から発する」(ロマ一一・三六)。

2.永遠は時間の背景である。「見えるものは一時的だが、見えないものは永遠」(二コリ四・一八)だからである。

3.永遠は時間の深淵である。永遠のものはみな、例外なく説明不能だからである。「無限」の何たるかを、時間の中にある被造物は理解できない。

4.永遠は時間の本質である。一時的なものは、ただ永遠においてのみ、不動だからである(コロ一・一七)。われわれは神の中に生き、動き、存在しているのである(使一七・二八)。

5.永遠は時間に意義を与える。目に見えるものはみな、目に見えないものによって貫かれており、したがって、永遠の生地であり、似姿だからである。

6.永遠は時間の目標である。御手のわざはみな、創造主のために創造されたからである。万物は神「から」発するだけでなく、神「のため」であり、神「へと」至る(コロ一・一六、ロマ一一・三六)。「目に見えないものから、目に見える領域で生起するものが生じる。しかし、生起したものは、再び目に見えないものの中に帰るのである」(ベンゲル)。

7.永遠は時間が変容したものである。聖書は時間の停止ということを何も述べていない。むしろ、代々の時や時代について述べており、したがって、無限の永遠を、絶えず展開して行く時間の広がりや期間の無数の連なりに分けている。このように、対照的なのは「永遠と時間」ではなく、「永遠のものと一時的なもの」なのである。永遠は時間を否定するものではなく、むしろ、時間の本質的な形なのである。永遠においても、物事の時系列は有効である。なくなるのは、時間の制約、制限的狭さ、頼りにならない変転性、消えゆく儚さである。どうして神は、時間の法則というご自分の取り決めを破棄しなければならないことがあろう?神が時間の法則を生じさせたのは、罪ののことであり、罪が犯される前のことであって、「初めに神は創造された」時のことだったというのに。どうして神は、ご自分の時間の法則を永遠においてさらに変容させてはならないことがあろう?そしてそれを、天的な安息日やヨベルの年として、さらに大々的に輝かしく展開させてはならないことがあろう?どうして、時間のない永遠は時間に満ちた永遠よりも素晴らしいことがあろう?そんなことはない。時間が無いという意味で永遠なる方は神である。神は時間を超越しておられ、絶対的に自由である。神は支配者であり、初めにして終わりであり、アルファにしてオメガであり、最初にして最後である。時間の無い永遠は、したがって、ただ神だけのものであり、時間に満ちた永遠を神はその被造物にお与えになったのである。

黙示録一〇・六ですらそうである。この節は「もはや時はない」と述べているが、この「時」という言葉は、延期、遅延、繰り延べという意味で用いられている。「今から後、もはや遅れることはない。第七の御使いがラッパを吹き鳴らす時、神の奥義は成就される」。これは「今は時間がない」とわれわれが言うのと同じである。時間の廃止のようなことを、この御言葉は全く述べていない。黙示録のさらに後の箇所では、「日」(一二・六)、「月」(一三・五)、「年」(二〇・二~五)について述べられている。ベンゲル、ザーン、ランゲ、ダービーの見解も同じである。

四.霊の体と(不)可視性

1.有形性。永遠には「物質」があるであろう。「具現化が神のすべての道の目的である」。空間も時間も物質もない天というようなものを、聖書はまったく説いていない。聖書が説いているのは、魂のための青白い陰鬱なあの世や、思想や観念にすぎない精神構造ではなく、新しくされた光の体の中にある祝福に満ちた復活の命であり、物質的に変容を遂げた宇宙における聖なる変容である。たしかに今は、この想像を超えた永遠の「物質」について、絵図や比喩によって述べることしかできない。しかし、それはたんなる比喩以上のものであり、実際の、現存する、霊的に具体化された現実である。したがって、天のエルサレムの象徴として、聖書では宝石が用いられている(黙二一・一八~二一)。したがって、命の木、水晶のように透明な川、詩篇の歌人の琴、勝利者たちの勝利の棕櫚の葉について、聖書は述べている。ただこの理由によってのみ、天の栄光の象徴的描写が正当化されるのである。「神の輝きと光、パラダイスと天の園、祝福に満ちた祝宴、天の音楽について述べている箇所には、『霊的な』意味以上の意味がある。地の自然は一つの約束であって、完成を指し示しているのである」。

したがって、ギリシャ哲学から、特にプラトンから引き出された、肉体的要素を含まない理想的状態というこの教理は、極めて非聖書的である。「このような肉体を除き去った霊的解釈を、聖書の終末論はまったく説いていない。創造と復活節を信じる信仰には、この目に見える世界の変容を遂げた新創造に対する壮大な確信が伴う。(中略)神は、肉体的なものや、地的なものや、目に見えるものを造られた神である。(中略)神は、観念にすぎない王国や、炎の魂や不死の霊の王国を創造されたのではない。色彩や形を持つ世界を構成されたのである。肉体的なものや地的なものは深淵から発するのではなく、もともと素晴らしい善なるものである。(中略)したがって、自然は喜んで先に進んで行って、永遠の復活節を迎える。(中略)キリストが肉体になられたというまさにこの行為こそが、神が地とどれほど深く関わっておられるのかを示している。しかし、何ものにもましてこれを証明するのは、贖い主が肉体をもって復活されたことである」。

「ユダヤ教がメシヤ預言をもっぱらこの世界に当てはめたように、アレキサンドリアのヘレニズムはメシヤ預言を(もっぱら)来世の生活にあてはめてきた。しかしパウロの場合、現世の生活を強調することと来世の生活を強調することとが、調和のうちに結合されていたことがわかる」と述べられてきたのも、もっともである。聖書によると、体は魂のための「牢獄」や、堕落した霊のための矯正院ではなく、人の本性の一部を形成している(二コリ五・三~四)。したがって、聖書は体からの贖いではなく、体贖いを教えている(ロマ八・二三)。したがってまた、主イエスの肉体的復活を教えている(一コリ一五・一~五八)。多くの人は、一方において、肉と骨をもって復活し(ルカ二四・三九~四三)、飲み食いされた(使一〇・四一)キリストを信じているが、それにもかかわらず、他方において、この天的な性質はみな象徴や比喩にすぎないと考えている。これはなんと矛盾したことか。死者の中から肉体的に復活されたイエスは、この新しい世界の王である(マタ二八・一八~二〇)。したがって、この新しい世界は、肉体をもって天に昇られた御方(使一・九~一一)に相応しいものでなければならず、また、そのをこの御方ののように変容されることになる御民に相応しいものでなければならない。

2.(不)可視性。

しかし、「物質性」そのものは可視性と等価ではない。可視性は物質性の本質に属するものではなく、まったくわれわれの目による。可視性は地的物質の本質的状態では少しもない。そのため、地的物質はその基本的特徴を一つも失わずに、いつでも可視性を失ったり取り戻したりすることができる。こうして、マイナス二百二度で、冷たい「目に見えない」空気は紺碧の液体に変わり、さらに低温では結晶の塊に変わるのである。こうして、熱によって「目に見えるもの」を目に見えなくすることができ、冷やすことによって「目に見えないもの」を目に見えるようにすることができるのである。

「可視性」は、もちろん、とても狭い概念である。数百万の色のうち(紫外線を考えよ)、光線の中に「見える」色は極めて僅かである。同様に、数百万の音のうち、「聞こえる」音はほんの少しである。「主なる神はわれわれの周りに、極めて素晴らしい絵を魔法のように描くことができる。しかし、それらのエーテル振動数が四千億から八千億の間にない限り、われわれには見えない。神はこの地球を絶妙な音楽で包むことができるが、それが聞こえるのは、それによる空気の毎秒の振動数が七万五千を超えない場合である。したがって、『天や御使いを見た者は誰もいない』という抗議は、何と愚かなことか。まるで、天や天使が存在しないこと、あるいは、その非物質性が、どういうわけかそれで証明されたとでも思っているかのようである。むしろ、天使に関して、われわれ人間は『盲目』であり、『つんぼ』であるにすぎない、というのが真相である。『可視性』や『不可視性』は、そもそもわれわれの視覚にまったくよるものだが、これは神の御旨によるのである」(ベテックス)。

しかし、それだけではない。可視性はそもそも、物質の低い状態にすぎないのである。冷却と凝固は物質の「死」であり、地的物質の力がすべて活動を停止することである。マイナス三百二十八度で、最強の酸でさえも金属を腐食できなくなる。物質を見えなくする熱だけが、物質を強め、解放し、その生命力を増す。したがって、物質を化学的に処理する時は、物質が温まるまで、物質が液体や気体になるまで、加熱するのである。こういうわけで、地的物質の高次の状態は目に見えない。これが自然界における科学的事実である。

天の物質も同じである、と聖書は述べている。ここでもまた、現代の自然科学が聖書的世界観にどれほどますます近づいているかが示されつつある。無知な人がそう思い込んでいるように、聖書的世界観からますます離れつつあるのではない。御使いや目に見えないものは「エーテル」の体を持っていると仮定したらどうだろう?その場合、最新の現代物理学はこう認めざるをえないだろう。すなわち、「レントゲン線や電波のような被造物がわれわれにまったく見えないだけでなく、そのようなものや御使いも、われわれの目にはとまらないけれども、われわれの地球や体をすり抜けて、ただよい、流れ、飛んでいるのである」。

さらに、天の物質はたんなるエーテルや目に見えない地的物質以上のものである。それは本質的により高次のものであり、より完全で天的なものなのである。それは栄化された物質であり、完全に霊によって支配されている。世界的、地的であって、思いもよらぬほど高いものである(二コリ一二・四を見よ)。その不可視性は、温度やわれわれの不完全なの盲目性によるものではなく、その本質的性質によるものであり、とりわけ、われわれの堕落したの視力の不能性によるものである。永遠になってはじめて、われわれの目は開かれるであろう。その時にわれわれは初めて、完全に知られているように、完全に知るであろう(一コリ一三・九~一三)。しかしその時、われわれは完全に知るであろう。この視力こそ真の「視力」であり、この聴力こそ真の「聴力」である。栄化された体にとって、霊の体は「目に見える」ものであろう。

五.永遠の世界と象徴

しかし霊の体の場合も、主要なものは肉体的要素ではなく霊的要素である。それが霊の体であるのは、まったく霊によって支配されているからである。永遠の自然界においても、霊が本質である。

萌芽的には、地的自然界においてもすでにそうであった。いかなる外的物体にも二つの特徴がある。一つは時間に由来する特徴であり、もう一つは永遠に由来する特徴である。一方は現されており、他方は隠されている。しかしそれでも、現されているものの本質を成しているのは、隠されているものである。

こうしてはじめて、象徴が生じる。聖書の比喩的言語、主イエスのたとえ話、それから、総じて人の霊による描写や比較はみな、何から発しているのか?「目に見えるものは目に見えないものの影であり、観念の外套であり、他の方法では知覚できないものの表示である」というこの事実だけから発しているのである。したがって、象徴化は観念を物質の形で知覚することであり、天と地の間の「ヤコブの梯子」のようなものなのである。

しかし、これは同時に、「目に見えるものはみな、象徴を超えたものである」と言うことでもある。目に見えるものは、永遠が宿る家なのである。「永遠がその中に宿っている」。「地は天に満ちている」(プラトン)。永遠のものは、一時的なものの意義であるだけでなく、その本質、その源、その根幹、その状態、その「魂」でもある。天的観念は「事象のメロディーである」(カーライル)。そして、事象それ自体は、それ自身の未来の「覆われた」姿である。

しかしそれなら、永遠の性質だけが真の性質たりうる。天上が本質であり、この下界はその反映である。天上が至高であり、この下界はその影である。天上が原型であり、この下界はその似姿である。この逆ではない。全世界の内面的意義は、すべての知覚力から隠されているだけでなく、それを超越している。「事象の原型は天にある」。真の飲食、真の視力、真の聴力は天にある。真の宮、真の祭壇、真のパラダイス、真の御座は天にある。この下界でわれわれがそう称しているものは、それ自体は実際のものであっても、比較するなら、貧弱な断片にすぎない。天上に由来しないものは、この下界には何もない。

それにもかかわらず、あの命の「木々」は、この地上の粗末な物質の木々のどれとも、まったく別物であろう。それにもかかわらず、あの「川」は、此岸のどの水や川とも、まったく別物であろう。それにもかかわらず、あの「透明な金」(黙二一・一八)は、王たちの宮殿の中にある下界の金のどれとも、まったく別物であろう。

それでも、ある種の関連性は存在する。この関連性がいかなるものかは分からない。天のものは地のものの原型であり、地のものは天のものの預言であることしか分からない。そうだとしても、この一点は常に確実である。天上でわれわれは実在の中に生きるであろう。それも、地上における最も実在的なものを遙かに超えた実在の中に生きるであろう。われわれはより高次の物理的自然界の中に生きるであろう。われわれの今の世界は、その世界の貧弱な影絵にすぎない。また、われわれは真理の王国の中に、天の王国の中に生きるであろう。この王国では、地の万物は、本体に対する影のようなものでしかない。

われわれの知覚力では、さらに正確な知識を得ることはできない。永遠の世界は totaliter aliter つまり、全く別物なのである。二コリ一二・四を参照。

しかし、天的なものの完全さは、まさに象徴の完全さを意味する。地的なものでは、象徴は断片にすぎない。霊は浸透しておらず、物質は可塑的ではない。浸透されておらず、完全に制御されているわけでもなく、霊に十分浸透されているわけでもない。永遠の観念を部分的にしか知覚できない。地的なものが、永遠のものを示すだけでなく、覆ってしまってもいるのである。

永遠のものはそうではない。そこでは霊が自由に支配する。そこでは霊が物質を形成し、その本質を浸透させる。そこでは、霊が物質の寸法と形と性質を決定する。そこでは、霊が制約を受けることなく完全に自らを表す。そしてそれによって、肉体的なものを、霊的なものの天的似姿とする。

したがって、象徴は永遠である。したがって、永遠になってはじめて、象徴は真に実在するようになる。それ以前のものはみな、初期段階の象徴、損なわれた象徴、待望的象徴にすぎない。しかし今はじめて、霊的なものが肉体的なものによって完全に見えるようになる。今、自然界の本質が、まさにすべてのものから分かるようになる。今、贖われた神の宇宙全体が、御霊の永遠の力の物質的に変容を遂げた衣服となる。

したがって永遠においても、天的事物のあらゆる物質性と共に、その中にある象徴が主要な特徴である。天的事物の霊体の現実性を堅く保持しつつ、それでも、語句の比喩的性質を第一に強調しなければならない。天のエルサレムでさえ、「実際の」都であって――適切に「都」と呼べる最初の都であるが――それにもかかわらず、同時に、栄化・完成された命の、霊的に具現化された象徴なのである。