第三章 完成された神の宮

エーリッヒ・ザウアー

「見よ、神の幕屋が人々と共にある。」(黙二一・三)

栄光は聖潔の輝きである。聖潔は栄光の本質的基盤である。したがって、全き栄光は同時に全き聖潔でもなければならない。

1.立方体の形。この理由により、昔の幕屋と宮では、全き栄光の完全性は至聖所の立方体の形によって象徴されていた(出三六・一五~三〇)。立方体は完成を表す図形だからである。新しいエルサレムも立方体として示されている(黙二一・一六。なおエゼ四八・一六を参照)。これが教えているのは、新しいエルサレムは完全な天の至聖所だということである。

2.宮がないこと。旧契約の下では、都の中に一つの宮があった。完全な状態では、その都そのものが宮となる。昔は、都の存立基盤は常に、宮と宮でないものとの区別、祭司的基盤と非祭司的基盤との区別、全く聖なるものと全くは聖ではないものとの区別にあった(エゼ四五・二〇を参照)。宮は一区画、切り分けられた区分、限られた領域、永遠の世界の地的世界への投影であり、しかも、それは影や型にすぎなかった(コロ二・一七、ヘブ一〇・一)、しかし、ここではすべてが全く聖である。ここには最も純粋で最も霊的な礼拝がある。ここでは神の幕屋が人々と共にある(黙二一・三、ヨハ四・二四)。したがって、そこには分離された宮の領域はありえない。「私はその中に宮を見なかった」(黙二一・二二)。この新しい都の中にもし宮があったなら、その宮は新世界のただ中にある旧世界の残滓となっていたであろう。完全のただ中に不完全さがあることを示すものとなっていたであろう。本質的世界のただ中に影の世界の原則があることになっていただろう。したがって、宮が姿を消したことは、宮の思想が完成されたしるしなのである。これはさらに、次のことからも分かる。

この「宮」という言葉の由来は、ギリシャ語の temno 「私は切る」である。

3.宝石の土台。旧契約の下では、大祭司の胸当ての上にあった十二の異なる宝石がイスラエルの十二部族を表していた(出二八・一七~二一、二九)。この天の都の十二の土台石も、十二の輝かしい宝石で飾られている。これが意味するのは、地上のエルサレムがそうだったように、天のエルサレムは大祭司職を基礎としているということである。しかし、この都にはアロンの大祭司職の基礎だけでなく、メルキゼデクの大祭司職の基礎もある(ヘブ七・一~二八)。この都は永遠の大祭司である御方のパースンと御業によって支えられている。これらすべてのことから、新しいエルサレムは完成された神の宮であることがわかる。したがって、ここにはまた

4.もはや契約の箱はない。神の御座がこの都の中にあるからである(エレ三・一六~一七、黙二二・一、三)。したがって、また

5.もはや太陽の光もない。至聖所の中には造られた光が決してなかったからである。聖所にのみ光があった。すなわち、七つの枝を持つ燭台からの光である。至聖所は暗闇だった(一列八・一二。なお出二〇・二一を参照)。神は「誰も近寄れない光の中に住んでおられる」(一テモ六・一六)からである。神の不可視性は、造られた光が全くないことによってのみ、比喩的に表されうる。つまり、絶対的光は象徴的暗闇によってのみ表されうるのである。しかし新しいエルサレムでは、人々は御顔を仰ぎ見る(黙二二・四、マタ五・八、一ヨハ三・二)。それゆえ、この至聖所はもはや暗闇ではなく、まばゆい輝きに満ちている(黙二一・一一)。「主なる神が彼らを照らされる」(黙二二・五)。「太陽や月がこの都を照らす必要はない。神の栄光が都を照らし、小羊がその光だからである」(黙二一・二二、二二・五)。したがって、

6.神の御名が栄化された者たちの額にある。大祭司がそうだったように、一人一人が神にささげられているからである(黙二二・四、出二八・三六、ゼカ四〇・三四~三八)。したがって、

7.輝く碧玉のシェキナである。神の栄光が天の宮全体を照らすからである(黙二一・一一、イザ四・五、出四〇・三四~三八)。

「シェキナ(Shekinah)」(ヘブル語の shachan に由来する。定住する、住む、とどまるの意)は、神の栄光の輝く雲を表すのにラビたちが用いた言葉だった(出一四・一九、四〇・三四、一列八・一〇を参照)。

しかし、宮の観念はパラダイスの観念と関係している。至聖所とパラダイスと天は一緒のものである。

宮には命の象徴である供えのパンがある――パラダイスには命の木がある。
宮には知識の象徴である燭台がある――パラダイスには知識の木がある。
宮には美の象徴である花々がある――パラダイスには花盛りの壮麗さがある。
ヨハ六・四八~五一を参照。それから、契約の箱の中のマナの壺も参照(ヘブ九・四、黙二・一七)。
特に、七つの枝を持つ燭台という光の木にあった、杯、花、アーモンドの花がそうである(出二五・三一~三四、逐語訳)。さらに、供えのパンの机、香壇、契約の箱の周りの金の飾り縁(あるいは花輪模様、花飾り)がそうである(出二五・二四~二五、三〇・三~四、二五・一一)。また、大祭司の衣服についていたざくろもそうである(出二八・三三~三四)。また、契約の箱の中にあった、芽吹いたアロンの杖を参照せよ(ヘブ九・四)。神の聖所の中の命は、「花咲く」命である(詩九二・一三~一四)。

宮は閉ざされていた。これは分離の象徴である――パラダイスの前にはケルビムが立っていた(創三・二四)。

聖所の中に入れるのは祭司たちと大祭司だけだった。至聖所の中に入れるのは後者だけであり、しかも一年に一度だけだった(ヘブ九・六~八)。

しかしキリストにあって、すべては完成されて新しくされた。キリストは道を備える偉大な御方であり、扉を開く御方である。キリストにあって、パラダイスと至聖所は開かれたのである。

今や、すべてが成就されている。天は開かれている。しかし、天はエルサレムであり、エルサレムは至聖所であり、至聖所は天の栄化されたパラダイスである。