さて、四〇章から始まるエゼキエルの預言についてです。四〇章から始まる六つの章を読むと、この章とこの区分が新しい日付で始まることがわかります。預言者エゼキエルが日付を示す時、それはたいてい新しい局面と関係しています。それは一つの局面が終わり、別の局面が始まりつつあることを意味します。三九章は直接的予測と称せるもので終わり、四〇章は黙示と称せるもので始まります。ここに神の御旨の成就に関する啓示が示されています。その日付は捕囚の二十五年後であることがわかります(エゼキエル四〇・一)。私たちは捕囚が七十年続いたことを知っています。七十年のうち二十五年が経過したということは、まだ四十五年残っていることになります。これは心に留めるべきことです。なぜなら、この区分は遙か未来を展望するものだからです。「なぜこの幻は捕囚が終わる四十五年前に与えられたのでしょう?」と尋ねてもいいでしょう。その答えは一般的考察を進めるにつれて明らかになります。
さて、解釈の問題に直面せずに、この区分に入り込むことはできません。おそらく、この区分ほど論争を引き起こす区分は、聖書の中にほとんどないでしょう。解釈の多くの学派があり、それぞれがこれに関する独自の見解を持っています。ですから、私たちはこの解釈の問題に行き着くことになります。冒頭で解釈の諸原則について何を述べたか、あなたたちは覚えておられるでしょう。聖書の解釈には五つの重要な原則があります。それは(1)神の永遠性、(2)キリストの包括性、(3)聖書の解き明かし手は聖霊である、(4)最後の記述、(5)唯一真の価値があるのは霊的なものである、という原則です。これらの原則はエゼキエルの預言全体にあてはまると述べました。これは正しいのですが、これらの原則はとても特別な形で預言のこの区分に適用される必要があります。私はあなたたちに勧めます。四〇章に取りかかる前に、この解釈の諸原則の概要を取り上げて、この区分をもう一度読み返してください。なぜなら、これらの原則は特別な形で預言のこの区分に対する鍵だからです。
さて、この六つの章の解釈についてです。私たちは神の家、次に川、嗣業、土地の分配、最後に都について見ます。そして、「これをみなどう解釈すればいいのか?」と問うことにします。この区分に記されていることはみな、何か霊的なものを示す型であり、象徴であると信じます。私たちは信じていますが、これはみなキリストにあって成就されました。このすべてのいけにえはキリストの一つのいけにえによって成就されました。この祭司職はみなキリストの内に集約され、キリストによって成就されました。すべての型や絵図はキリストによって成就されたと私たちは信じます。これはいけにえ、祭司職、神の家にあてはまると私たちは信じます。新約聖書はこれを教えていることを、私たちは信じているだけでなく、知っています。
キリストの奥義と教会はすべての預言書の中に隠されていたことを、パウロは私たちに明確に教えています――この奥義は預言者のすべての書き物の中に隠されていました。それはあらゆる時代と世代にわたって隠されてきましたが、この経綸において、この奥義は御霊によって明らかにされました。これが状況全体に対する鍵であると思います。エゼキエル書のこの区分に記されていることは霊的原則の体系なのです。この宮は文字どおり過去に建造されたことはありませんし、建造されるよう計画されたわけでもなく、将来建造されることも決してないでしょう。この宮は、この経綸に霊的な形で獲得されるものを象徴的に表しているのです。これがこれらの章を解釈する唯一信頼できる堅実な方法です。ですから、私たちはこのような方法でそれに迫らなければなりません。今やこの奥義が啓示されているのを私たちは見ているのですから、エゼキエルは自分が理解していたことよりも遙かに偉大なものについて述べたことがわかります。
さて、これをすべてエゼキエルに解き明かしたのは「御霊」だったことに注意してください。御霊はエゼキエルの理解を超えたものをエゼキエルに示されました。御霊によって私たちはこれらのことを理解するようになったことを、新約聖書は教えています。霊的理解力の意味は、御霊が常に示そうとしてこられたものを見ることです。全聖書はキリストを焦点としており、どの経綸でも聖霊の御業はキリストと関係しています。これが私たちの解釈の原則の一つです。聖霊の働きはこれまで決して、この地上の束の間のものを最終目的としたことはありません。聖霊の働きはこれまで常に神の永遠の御旨と関係していたのであり、キリストを中心としています。ですから、エゼキエルのこれらの章に記されているのは、キリストとその教会の象徴的表現なのです。
エゼキエルのこの箇所には、注意すべきいくつかの予備的な点があります。第一に、エゼキエルの後の幻は一章二八節の最初の幻によって支配されています。「そのまわりにある輝きの様は、雨の日に雲に起こる虹のようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。私はこれを見た時、顔を伏せて、一つの声が話すのを聞いた」。さて、四三章三節に行きましょう。「私が見た幻の様は、彼がこの町を滅ぼしに来た時に、私が見た幻と同様で、これはまた私がケバル川のほとりで見た幻のようであった。それで私は顔を伏せた」。この御言葉は一章の幻をこの区分に導入することがわかります。ですから、一章の幻について述べたことがすべて、この区分を支配しているのです。この最初の幻の詳細を全部振り返ることはできません。しかし、私はあなたたちに勧めます。この最初の幻の概要を取り出して、この区分と照らし合わせてください。そして、概要の項目の一つ一つがどのようにこの啓示の特別な部分にあてはまるのかを見てください。一言で言うと、この区分はみな、御座の人によって支配されているのです。ですから、これに続くものは御座の人の表現であると結論を下すのは正しいことです。先に進むにつれて、私たちは様々な形でこの事実に出くわします。さて、ここで二つの支配的要素に注意してください。この二つの支配的要素は二つの言葉で表せます。一つは「栄光」であり、もう一つは「御霊」です。この二つの言葉に下線を引くと、「栄光と御霊」という別の言葉になります。これを新約聖書に適用すると、新約聖書では栄光を受けたキリストという根拠に基づいて、御霊により、教会が啓示されることがわかります。すべての始まりは御座についておられる栄光を受けたキリストです。そこから使徒行伝は始まります。御霊が来臨されたのは、キリストが栄光をお受けになったからです。また、御霊の働きは教会と関係しています――教会の形成と教会の啓示と関係しています。栄光の幻、御座についておられる栄光を受けた人、御霊の来臨、神の家の導入――これらのものをここにはっきりと見ることができます。
「神が私をそこに携えて行かれると、見よ、一人の人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻の縄と、測りざおとを持って門に立っていた。」
この御言葉で、手にさおを持つこの人と御霊とを分けるのはとても困難です。四〇章の御言葉を読むと、両者を分けるのはとても難しいことがわかります。御霊について述べられており、手に測りざおを持つ人について述べられています。その後、「彼」について述べられています。この「彼」とは誰でしょう?「御霊」でしょうか、それとも、「手に測りざおを持つ人」でしょうか?これは明らかにされていませんが、読んで行くと、両者は同じ方であるように見えます。原則として、この両者は同じ方だと思います。手に測りざおを持つこの人は御霊であり、御霊は手に測りざおを持つこの人と関係しているのです。
黙示録の第一章を見るなら、おそらくこれを理解できるでしょう。ヨハネは言いました、「私は御霊の中にいた(中略)そして私は見た」。彼は何を見たのでしょう?手に測りざおを持つ一人の人です。それはキリストが来臨して、教会、諸教会を裁く幻でした。御霊とこの神の人は、両者とも一緒に動いておられ、彼らの働きは一つの働きであって――神の家を測るためです。これは解釈上のささやかな要点にすぎませんが、エゼキエル書のこの箇所に、またもや新約聖書の真理が示されているのを見る助けになります。
聖霊が来られる時、聖霊が何を行われるのかについて、主が語られたことを私たちはすべて覚えています。御霊が来られる時、御霊の働きはすべて主ご自身と関係していることを、主は語られました。「聖霊はわたしから受けて、それをあなたたちに示します」。御霊の働きはキリストを示すことであり、「キリストの長さ、広さ、高さ、深さ」、キリストのすべての寸法を示すことです。これが主が御霊の働きとして話されたことであり、まさにそのとおりのことを御霊は行われました。まず第一に、御霊はキリストを示し、次に続けて、キリストの寸法、キリストがどれほど大きいのかを示されました!――キリストはあまりにも大きくて、地上のどんなエルサレムにも閉じ込められません。キリストはあまりにも大きくて、地上のどんな神殿にも閉じ込められません。ですから、この箇所に記されているものは、この古いエルサレムとこの古い国のあらゆる束縛を打ち破ります。これがこの書のこの区分に明確に示されている霊的真理だと思います。
御霊が示されるものを実際に見ることができるのは、私たちが天的立場に立つ時だけです。エペソ書に記されているような主とその教会を見るには、あなたは天の地位についていなければなりません。「神は私たちをキリスト・イエスにあって、キリストと共によみがえらせ、キリストと共に天上に座らせてくださいました」。この天の立場から、パウロは私たちにキリストとそのからだの啓示を与えたのです。
万物はこの人によって統治される
今朝、もう一点述べましょう。エゼキエル書四〇章にこう記されています、「神が私をそこに携えて行かれると、見よ、一人の人がいた。その姿は青銅の形のようであった」。私たちはこの節のなかば、「見よ、一人の人」でやめなければならないと思います――ここで再び私たちは人という思想を見いだします。万物を支配するのは人というこの思想であることがわかります。これはこれまで何度も繰り返し述べてきたことです。「そこに一人の人がいた」。とても多くのことがこの御言葉に集約されています。万物はこの人の寸法にしたがったものになります。この言葉を再び述べておくことにします。「その姿は青銅の形のようであった」。この御言葉もまた私たちを最初の幻に連れ戻します。あなたたちはケルビムたちの幻を覚えておられるでしょう。「彼らの足は精錬された青銅のようであった」。黙示録第一章の「人の子」の描写を見ると、十五節に「その足は精錬された青銅のようであった」とあります。聖書で青銅が何を表しているのかはご存じだと思います。青銅は義なる裁きを表します。ですから、この箇所では象徴的に、この人の活動や道はすべて義なるものであることが示されているのです。不義な人は裁かれて取り除かれました。神の家には不義な人のための場所はありません。
大きな祭壇が青銅から造られ、すべてはこの大きな祭壇の上で焼き尽くされました。これは義なる裁きの象徴です。それは義によってすべてを裁く神の象徴です。肉のための余地はありません。すべては灰にされます。ですから、この方は別の人であり、義なる人です。すべては義にしたがって測られます。これについてどれほど多くの御言葉を引用できることでしょう!主イエスについてこう記されています、「(彼は)私たちに至る義とされました」、「主はお選びになった人により、この世界を義によって裁かれます」、「義人イエス・キリスト」。もっと多くの御言葉を引用することができます。キリストの性格が神の家の標準です。ですから、この家の特徴は「主に対して聖なるもの」であると、総括的に述べられているのです。
後でこの点に戻ってきます。しかし、この家に天然の人のための場所はないことは、全く明らかです。この家の中に場所を持つのは、この義なる人だけです。この家の中にいるのは、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」を持つ人です。そこで、主が望まれるなら、明日の朝、これについて引き続き扱うことにします。そして、この「測量」について述べることにします。しかし今のところ、何か霊的に価値あるものをあなたたちは見始めていると、私は切に希望します。あるいは、こう言ってもいいでしょう。あなたたちはある御方を見始めているのです。なぜなら、あなたたちの目に映っている御方は、御霊によって啓示されるキリストだからです!
どうか主が私たちにこれらの神の幻を見せてくださいますように!