第二章 壮年時代と逆境

柘植不知人

われ汝を腹につくらざりし先に汝をしり汝が胎をいでざりし先に汝を聖め汝をたてて万国の預言者となせり(エレミヤ一・五)

私は二十才の時、養家より帰りて暫く家庭にとどまり、専ら父について医学と普通学を学び、両親も非常に喜び、続いて極力準備せよと勧められたが、何とかして素志そしを貫徹せんものをと決心し、遂に父母の許しを得ずして飛び出し長崎の医学校に入りたく出かけたがこれまた資格がないので入ることが出来ぬ。ところが熊本の私立学校なら入れるとのことで行って見たがこれも学期途中で駄目である。遊んでいる内に私の郷里の人でしかも父の塾に学んだ人が執達吏しったつりをしている。私はこの人と共に執達吏しったつりの仕事を暫くしていた。ある時大きな酒屋の差し押さえに行った所が主人がしきりに刀を研いでいる。変な人だなと思ったが帰り道にその刀を携えて追いかけて来た。私は部下の者と命からがらで逃げて帰った。おりから郷里からはそんな仕事をしておってはならぬ、早く帰れと言われていたから、その機にこれを止めて帰ることになった。

金は儲けたのであるがいよいよ目的を遂ぐるみちなく自暴自棄になり、その頃から放蕩を始め、職を止めて帰る時は無一物であった。馬関ばかんの渡し賃が五銭であったがやっとそれだけ金があったという始末であった。帰っては来たものの父が厳格な人だから日中家に着くことが出来ないから山で寝て深夜に帰り、裏口から『お母さん』と小声で呼んだら、ぐに母の返事があった。父に知れないようにとて衣物きものを出してくれた。『お母さんよく早く分かりましたね』と言ったら、『多分お前が落ちぶれて裏口から帰って来るだろうと思って何時いつでもここにめさめて待っていた』と言われた。又言うようには『この母を助けると思って酒を止めてくれんか』と言うた。私はその言葉が骨に届く思いがして『必ず止めます』と誓った。その時が親の愛に感じた第三の印象である。

私は一ヶ月位にして再び家を出た。一方には誠実な立派な人になりたい、親にも孝行をしたいと願う心は山々であるが、一方には酒を飲むこと碁を打つことが習慣となり、どうしても止められない。

私は幼い時から貧乏したから、この世のもので安心の出来ないことはおぼろにも悟っていたから、幼少の時から老人の同行者のうちに入り、一向宗の信心を始めていた。又儒教の感化を受け、いわゆる悪衣あくい悪食あくろうを恥じずなどの教えを受けていたから人は高潔でなければならぬとの自覚がある。しかるに一方にはすでに放蕩を覚え、悪習慣は止まず、ああ我なやめる人なるかなとローマ書七章の経験とまで行かずともすでにその頃より内心のはげしい戦いをなしていたのであった。

その後私は色々考えて見たが、私はとても医者にはなれない。幸いに弟が医学校を卒業して帰ったから、私も無免許ながら医業に従事する決心をなし、それには新しき地に移った方がいと父に勧め、幸い親戚もあり、有志者の招待を受けて山口県熊毛くまげ塩田しおたあざ佐田さだに移住した。更に新開地なる門司もじにはいまだ病院がないから、そこに病院を設立して三人が活動せんと家も借り入れ、設備をなしている矢先弟が病気になり、重体となっている時、ある日父は往診先より帰宅すると共に突然急性肺炎にかかり、その翌日倒れてしまった。父の死後三十五日目に弟が死んだ。それで病院設立の件は瓦解がかいしてしまった。

父の存命中は多くの人々が頼って来たものであるが、さて父がなくなると誰も来る者はない。又父は先に述べたような性質であったから蓄財は更にない。自分の身も治まらぬ私は病弱な母と白痴の妹と幼少の妹二人をれて家計を立てて行かねばならぬ身となった。医者の家であるから何とか世間の体面も保ちたいと思うが、方法はない。親戚から資本を借りて呉服屋を始めたが、これも無経験の者に出来ようはずがない。失敗に終わってしまった。その後大阪にで、監獄の看守に奉職して糊口ここうしのぎの道を立てた。そのうちに母も病死し、二人の妹はかるあいだにも相当の教育をさせてそれぞれ他にとつがせた。私は白痴の妹をれて生活の道を立てることとなった。もっともこの妹は元は一人前の者であったが十九才の時結婚したところが夫が極端な放蕩者であったので苦痛のあまり遂にヒステリ狂となった。父が引き取って治療し、くなったが白痴たるを免れなかった。かかる者なれば父が最後の遺言はどうか我の代わりと思って彼を世話してくれとの一言いちごんであった。私は両親に仕えるつもりでこの妹を保護し、京都に移りて現在の妻と結婚した。

大正二年四月某日ぼうひ妹が突然家出して行方不明となった。各地の警察に保護願いを出し、自分もこれを尋ねて神戸に行った。特に神戸を指して行った理由は白痴ではあるが外面は別に変わった所はないように見えるから賎業婦せんぎょうふにでも売られておりはせぬかと思ったからである。大正二年九月二十日神戸に着いて各警察に依頼し、町から町へ尋ねて回る内に新開地に通りかかった。これが私の生涯の大転機となった時で、絶大無限の神の御摂理のあとを思うて感謝にえぬのである。

ここで私の生涯に不思議にも生命の助かる筈のない危険の時に守られた四の出来事を記して神の恩恵めぐみを覚えたい。その第一は私が十才の時であったが、私の郷里に鳥声とりごえふちという大きな渦巻きのする淵がある。大洪水の時に一人の友達と見物に行って淵のほとりに近づいて見ていると、大きな材木が水上に浮かび、左より右へ川辺かわべを舐め回り二人ともその渦巻きの中に投ぜられた。その瞬間に右より一本の材木浮かび上がり私を陸上に突き上げて私だけ助かった。

その第二は南原山みなばらやまに於いて車を引いていたとき烏冠岩えぼしいわという所で車と共にまろばり落ちた。車は二十けんほどの川淵かわぶちに落ちたが私は不思議にもかずらに足がからまりさかさにぶらさがって助かった。

その第三は呉河原石くれかわらいしより江田島えだじま和船わせんで渡るとき、激風のため船が転覆して三十名の乗客は皆死んでしまったのであるが、私と一人の船頭のみ、能美島のみじまかきうらに漂着した。その船の板の継ぎ目に人事不省となったまま指をかけていた。蘇生してこの事が分かった。

第四は福岡県焼山やけやま七曲ななまわりという所で自転車に乗り、読書しながら進行していた所が、下り坂になっていることに心気きづき、見れば千尋せんじんの断崖に差し掛かっていた。すは、大変だとうしろに飛び下りた時と自転車が谷底に落ちるのと全く同時であった。

それらの出来事を考え見るにすでに神は母の胎をいでしときより恩恵めぐみを以て召し、私を守り給うたことを疑うことは出来ぬ。