凡て労れたる者又重きを負える者は我に来たれ我汝等を息せん(マタイ十一・二十八)
私の救われた時は大正二年九月二十一日午後十時であった。妹を尋ね求めつつ新開地に通りかかりてマタイ伝十一章二十八節の言を記した横看板を発見した。その時私の心を引いたのは我に来たれとの言であった。注意して見るとキリスト教の伝道である。私の感じたのは釈迦も孔子も道は説いたが我に来たれとは言わなかった。さすがはキリストである、大胆なことを言うものだな、一つ聴いて見ようと天幕なる会場に入り、忘れもせぬが前から六脚目のベンチに腰を掛けた。私は前章に述べた如くこの世のあらゆる苦痛を味わい、宗教的に安心立命を求めかなりの素養があるから、もしも説教者が自分の知っている真宗よりも劣ったことでも言ったら議論の一つもしてやろうと傲然と構えて聴いていた。
その時の説教者は西洋人(ウィルクス氏)で流暢な日本語で神の存在と罪の性質と十字架の救いの三綱領を語られた。第一私の心に響いたことは神の存在の例話に聖書を出しこの本を造った人なしと否定しうる者があるか、この本の存在は即ちその造った人があることを証明しているのではないか、故に造られたる万物が存在する限り造り主の在ることを証しているのである、即ちこれが天の父なる神にして人類を愛し、これを保護し、之を養い給う御方なりと語られたる時、私はその真理を否定すること能わず、心魂に徹し神の存在を認めるに至った。
第二の問題について人には原罪と犯罪の二種あり、人は元来万物の霊長として神の像にかたどって造られ、魂と肉体とより成り一面には物質界に住むと共に他方には霊界に住み、神と自由に交わり、神を知り、神を崇め、神に従うものである。然るに始祖アダム、エバが罪を犯すや、人類悉く罪の性質を持って生まれ、その罪の性質が外界の誘惑によりて犯罪を構成し、その思いと言葉と行為に於いて神に対し人に対し自分に対して罪を犯しつつある。何故に今日の如く悩み、苦しんでいるかと言えばこの罪のためであると語られ、その時一つの例話を引かれた。汽車が神戸を発し、東京に安着するには線路を走るからである。即ち人類にも正義人道の道がある。これを歩む者は目的地に達することが出来るがもし神に対する敬虔の態度が狂っている時は脱線した汽車に大珍事が起こる如く罪を免れる者でない。皆さんは胸に手を置き過去二十年、三十年あるいは五十年の生涯を静かに顧みよ、この神に従いおらばその内に安定があるが、もし従いおらずば波瀾曲折浮沈盛衰定まりなく、悲しみ憂い、煩悶苦痛失望の生涯である。あなたはどの道を歩みおるやと語を次いで語らるる時、私は過去四十年の生涯を顧みてなるほどと始めて手を打ちてその真理を認めた。自分は何故にかくも不幸不運であるか、何故かくも苦労せねばならんのであるか、何故煩悶が絶えぬのであるかと思っていたが、これは当然の事である。過去四十年の生涯は全く罪の生涯であるからその結果を獲り取るは当然なりと認むるに至った。
第三の問題についてこの罪を赦すためには如何なる救いを要するか。罪人を救うには罪なき者が顕れて罪人の身代わりとなり、贖いをなすより外なし。ここに於いて天の父なる神は御独り子イエス・キリストを地上に遣わし、罪を知らざる彼を罪となし、十字架の上に釘け、正義の神は怒りの刃を彼の上に降し、遂にこの贖いを成就し給うた。これは歴史的の事実である。それ故如何なる罪人もこの十字架を仰ぎイエス・キリストを贖い主と信ずる者は立ち所にすべての罪を赦され、神と和らぎ、再び神の子となして受け入れらるのであると説き、更に説教者は今晩救われたいと願う者は前に出でよとすすめらる。
私は説教中すでに信ずる決心になり、説教の終わるのを待っていた位であったから直ちに前に進み出た。後で知ったのであるがその時説教者は使徒三ノ十九節の言を読み第一罪を悔ゆること第二は悔い改めること第三は罪を消さるること即ち主イエス・キリストを信ずることによりて消さるるなり、悔い改めとは神に対する態度の変化で神に背を向けていた者が方向を直すことであると話された。その時私は断然神に従うと決心し神に祈った。祈りというても始めてのことであるから何も分からぬ、人に物でも頼むように言うたのである。最後に説教者の祈られた時感極まりて聴衆の前に大声をあげて泣いた。そして『子よ心安かれ汝の罪赦されたり』との御声により私の罪は直ちに取り去られ、救いの喜びは心に満ち溢れた。更に第二の御声は『彼を受けその名を信ぜし者には権を賜いてこれを神の子となせり』と告げられた。全く罪の赦しと神の子に為ったとの確信に充ち、感涙に咽びつつ立ち上がった。その時私の心に響いた確信は四十年間全く罪のため親も兄弟も財産も名誉も地位も身体も悉く犠牲にして悪魔のために尽くし果たしたのであるから此度は神のために正義のために一切を犠牲にしようと決心した。その時聖書的のことは何も知らぬ献身の何たるかも知らなかったが紀元前と紀元後という風に全く一大転機の時であった。
喜び勇んで宿屋に帰ったがあまりの嬉しさで寝ることも出来ない。布団の上に座し更に過去の生涯と現在の救いについて考えつつ過ごした。それから毎晩教会に行き宿に帰りては食事もせず眠りもせず、思い出すまま過去の罪の悔い改めの処置を始め、数日に亘りて百余の手紙を出した。善いと思っていたことも神の光に照らされて見れば悉く罪であったことを悟り、あらゆる方面に悔い改めた。
身には多少の絹布を纏い、頭は当世風に分けて一見紳士然としていたが、いよいよ罪人の首領であることがわかったから斯かる風をしていることが分に過ぎた偽善者の行為であると思い、翌日直ちに髭を剃り頭を丸刈りに為し、法被の古物を買い求め、之を衣て教会に通うた。一見救われた罪人らしく改めてしまったのである。