なんじら我を選ばず我なんじらを選べり。かつなんじらをして往きて実を結ばせその実を存しめんが為またなんじらの凡て我が名によりて父に求う所の者を彼をしてなんじらに賜らせんが為に我なんじらを立てたり(ヨハネ十五・十六)
元来私はその頃書を書いていたので、神戸にても書を書いて生活し、かたわら妹を探すつもりであったが、よく考えて見ると妹が家出をしたことによって私が救われるようになった。かかることでもなければ救われるような者ではなかった、これには大いなる神の思し召しがあるに相違ない、私の救わるる為にこの事があったから、私の救いが完うせられたら、妹は神が帰してくださると信ぜられたから私は最早直接妹を探すことは止めた。
それで前生涯の事は罪であると否とに係わらず、一切を新たにして神に仕えんと決心し、書を書くことも止め、神は最善になしてくださると信じ、毎日教会に通い、証やら戸外説教などに尽くした。然れど何か一つの職を求め、生活の安定を得て神に仕えることは神の導きと信じた。
先に妹を尋ねて三カ所の警察に行き、保護捜索を願い出たが警察の取り扱いのあまりに冷淡であったことを深く感じ、生命財産を保護し、安寧秩序を保持し、国利民福を増進するを以て目的とする行政警察官として国民の信頼するに足らざることを深く感じていた折柄なれば警察に入って主の道を伝え、彼等を神に導くは何よりの急務なりと認め、兵庫県警察部に出頭し、警務課長に面会を求め、その願意を述べ、かつ我が国警察がともすれば司法警察事務が主となり、行政警察事務が等閑に付せらるる傾向あるは実になげかわしき現象なり、今や社会百般の事柄、行政警察の働きを要せざるものなし、この大任を完うするためには警察官の品位を高めその精神を高潔にするより外ない、これ私が不肖ながらも警察官に志願する動機であると語った。その時聖霊に満たされ、救いの喜びに溢れていたため語気強くして勢い、当たるべからざる有様で恰も狂える者のようであった。それが為彼等は発狂者であろうと思い、騒ぎたち、多くの者集まり来たって私を取り巻いた。この時こそ伝道の好機なりと思い、キリストの死と甦りについて語り、終わってこの大任を担わせられたる行政、司法警察官がその大任を完うするにはこの高潔なるキリストの精神と無限の神の御慈愛によるの外、警察官の資格を養い得る道は他にない、幸いにして私は過去四十年間如何にもして道を求むれども得ずして迷い、遂にキリストの救いを受け、多年の宿望を解決せられ、神の力を得全く別人となったからこの証をなし、警察官の範を示し、幾分にても社会の要求に応じたいつもりで志願した次第であると語った。この時警務課長はその意味を領解し、その願書を受け付けて何分の通報を待つべしとのことにて、その場を去った。
数日の後出頭した所が採用規定の順序を経ずして採用せられ、その日より相生橋署に勤務することになった。幸い非番巡査のため精神修養の集会が月二回づつあるので救いの証をなした所が多くのもの悔い改め遂に救いを求むる者七十余人となり、これがため酒を止めるものあり、悪癖を改むる者あり、自然警察官の風紀一新するに至り、これがため長く警察署に止まらんことを勧告せられたが更に将来証人となるには一先ず学校に入って修養せなければならぬことを日本伝道隊総理バックストン師よりすすめられ、遂に警察を辞して聖書学校に入り、専ら修養を始めた。
聖書学校に入ってからも単純な学生でなく各方面の働きをも受け持って随分多忙な日を過ごした。警監ミッションの支部の働きとして各警察を回り裁判所、監獄へも時々伝道に行った。後には大阪と境の働きも同様受け持つことになり、同地方に行って一日数回の集会をなし、訪問をなし、十二時過ぎて帰ると市内電車はない、徒歩で帰る、身体は綿の如く疲れ果てても、前には罪のためにさえ夜をふかしたことがあるのに主のために斯く御用に与り得ることを思い、歩きながら心は言うことの出来ぬ感謝に充たされること、しばしばであった。
その外救護院に働きに行った。之は市の設けたものでいわゆる行き倒れを入るる行旅病院であるが、実に惨状を極めている。一室に四人位入れ、麦飯と便器を与えてある。それを食らうが食うまいが顧みるのではない。彼等は南京虫、蚤、虱に苦しめられている。そこに行き、二三人の為に祈って帰ると二三日は自分の気息が臭くなっている。かかる世の不幸者に福音を伝えることは神の聖旨であると信じて行った。彼等は飛び立つように受け入れるかと思えば中々そうでない。彼等は世には同情も涙も愛もない、うまいこと言うて来ても騙されぬようにしていれば可いとのみ考えている。愛の話をしても受け付けるものでない。たまたま病苦のため求むる者があった。救われた者があって親兄弟の方に通知しても返事もない。少数ながら救われた者で召された者のため我等の手で葬式を出したものもあった。
それは白痴の妹によって得た経験に基づいたものであるが、そこに哀れな女の発狂者があった。常に裸体でいる。私は常に近づいて眠っている時に枕許にて祈り醒めた時は静かに神の愛を語った。度重なる内に『私の魂はエス様が捕らえていて下さるから天国へ行ける』と自ら言うようになった。
今一つはらい病者で手も足もない。全く体は崩れて仕舞って何処に向かって話をして可いか分からぬような者であったが、度々懇ろに話している内に福音を受け入れて嬉しいことを表すような様子が見え、私の行くことを待っているようになった。
その救護院に関係して日曜学校を仏教の方でやっていた、その可哀想な様を見て何の目的で日曜学校をやるかと尋ねたら、救霊が目的であると言う。それでは救霊の目的が達しられているかと言えば否と答えられた。それでは私に任せては如何かと言うたら、遂に任せらるることになった。私は先ず偶像の前に幕を張って神の臨在を祈り求めて、第一回を開いた時大いなる勝利であった。かかる世の棄てられた者は子供でも荒れすさみ、愛も同情も感ずるものでない。忍耐してやっている内に荒田小学校に展覧会があって子供の作品を集めた時、彼等は神様のことのみ書いたものであった。これで彼等の中には大変化が起こっていることを知った。院主も共鳴するようになったが事業の関係上信ずることが出来ぬことを遺憾に思うと言うていた。
今一つは荒田町の自宅に日曜学校を始めた。特に子供の教会を開いて大人と同様に御言を打ち込んだ。所が智識は幼稚でも魂の要求は大人も同様であって救いを受け、又成長するものであることを知って、だんだん子供が恵まれ、大人の人々がこの祈り会に来て恩まれるようになった。
もう一つのことは私が警察や裁判所に行く関係上不良少年を数人預かって養育した。その中には相当の教育を受けて善良の人となった者もあったが、中々取り扱いは困難なものである。彼等は努めて我等に従う立場を取らない。何時でも罪を犯し得るよう、反逆の出来るよう構えている。例えば教会に行かんかと言えば誰が行かぬと言うたかと捏ねる。
しかしながらそれらの特殊の働きを通して教えられたことは人間の方が如何に荒れすさんでいても、破壊されていても又は幼稚であっても魂の要求は同一のもので聖霊の働き給う時は救われるものであることを経験し、将来の伝道の助けとなった。
私としては前にも述べた如く罪のためにさえ何にもかも犠牲にして働いたのだから、今度は主のため身も魂も献げて奉仕さして戴くことが喜びであるから赤心を尽くして従った。所が多くの人々が私の許に集まり、月曜会と称する自由な祈り会が起こり、恵まれるようになった。所がサタンの妬み心に乗せらる者起こり、あらゆる圧迫を加えられ、私は常に割の悪い立場にのみ置かれるようになった。夜中病人のあったときとか、死人のあったときとか、人の好まぬことは私に命ぜられるようになった。私はかくして十字架の道を歩むことを実験し、高い恩恵に追い遣られる手段となったから、誠に幸いなことであった。