第五章 直接伝道に召さる

柘植不知人

なんじら我を選ばず我なんじらを選べり。かつなんじらをしてきて実を結ばせその実をたもたしめんがためまたなんじらのすべて我が名によりて父にねがう所の者を彼をしてなんじらにたまわらせんがために我なんじらを立てたり(ヨハネ十五・十六)

元来私はその頃を書いていたので、神戸にてもを書いて生活し、かたわら妹を探すつもりであったが、よく考えて見ると妹が家出をしたことによって私が救われるようになった。かかることでもなければ救われるような者ではなかった、これには大いなる神のおぼし召しがあるに相違ない、私の救わるるためにこの事があったから、私の救いがまっとうせられたら、妹は神が帰してくださると信ぜられたから私は最早もはや直接妹を探すことは止めた。

それでぜん生涯の事は罪であると否とに係わらず、一切を新たにして神に仕えんと決心し、を書くことも止め、神は最善になしてくださると信じ、毎日教会に通い、あかしやら戸外こがい説教などに尽くした。れど何か一つの職を求め、生活の安定を得て神に仕えることは神の導きと信じた。

先に妹を尋ねて三カ所の警察に行き、保護捜索を願い出たが警察の取り扱いのあまりに冷淡であったことを深く感じ、生命財産を保護し、安寧あんねい秩序を保持し、国利こくり民福みんぷくを増進するを以て目的とする行政警察官として国民の信頼するに足らざることを深く感じていた折柄おりがらなれば警察に入って主の道を伝え、彼等を神に導くは何よりの急務なりと認め、兵庫県警察部に出頭し、警務課長に面会を求め、その願意がんいを述べ、かつ我が国警察がともすれば司法警察事務が主となり、行政警察事務が等閑とうかんに付せらるる傾向あるは実になげかわしき現象なり、今や社会百般の事柄、行政警察の働きを要せざるものなし、この大任だいにんまっとうするためには警察官の品位を高めその精神を高潔にするよりほかない、これ私が不肖ふしょうながらも警察官に志願する動機であると語った。その時聖霊に満たされ、救いの喜びに溢れていたため語気強くして勢い、当たるべからざる有様ありさまあたかも狂える者のようであった。それがため彼等は発狂者であろうと思い、騒ぎたち、多くの者集まり来たって私を取り巻いた。この時こそ伝道の好機なりと思い、キリストの死と甦りについて語り、終わってこの大任たいにんになわせられたる行政、司法警察官がその大任たいにんまっとうするにはこの高潔なるキリストの精神と無限の神の御慈愛によるのほか、警察官の資格を養い得る道は他にない、幸いにして私は過去四十年間如何いかにもして道を求むれども得ずして迷い、遂にキリストの救いを受け、多年の宿望しゅくぼうを解決せられ、神の力を全く別人となったからこのあかしをなし、警察官の範を示し、幾分いくぶんにても社会の要求に応じたいつもりで志願した次第であると語った。この時警務課長はその意味を領解りょうかいし、その願書を受け付けて何分なにぶんの通報を待つべしとのことにて、その場を去った。

数日ののち出頭したところが採用規定の順序を経ずして採用せられ、その日より相生橋あいおいばし署に勤務することになった。幸い非番巡査のため精神修養の集会が月二回づつあるので救いのあかしをなしたところが多くのもの悔い改め遂に救いを求むる者七十余人となり、これがため酒を止めるものあり、悪癖を改むる者あり、自然しぜん警察官の風紀一新するに至り、これがため長く警察署にとどまらんことを勧告せられたが更に将来証人あかしびととなるには一先ず学校に入って修養せなければならぬことを日本伝道隊総理バックストン師よりすすめられ、遂に警察を辞して聖書学校に入り、もっぱら修養を始めた。

聖書学校に入ってからも単純な学生でなく各方面の働きをも受け持って随分ずいぶん多忙な日を過ごした。警監ミッションの支部の働きとして各警察を回り裁判所、監獄へも時々伝道に行った。後には大阪とさかいの働きも同様受け持つことになり、同地方に行って一日数回の集会をなし、訪問をなし、十二時過ぎて帰ると市内電車はない、徒歩で帰る、身体は綿わたの如く疲れ果てても、前には罪のためにさえ夜をふかしたことがあるのに主のためにく御用にあずかることを思い、歩きながら心は言うことの出来ぬ感謝にたされること、しばしばであった。

そのほか救護院に働きに行った。これは市の設けたものでいわゆる行き倒れを入るる行旅こうりょ病院であるが、実に惨状を極めている。一室に四人位入れ、麦飯むぎめしと便器を与えてある。それを食らうが食うまいが顧みるのではない。彼等は南京虫なんきんむしのみしらみに苦しめられている。そこに行き、二三人の為に祈って帰ると二三日は自分の気息いきが臭くなっている。かかる世の不幸者ふこうものに福音を伝えることは神の聖旨みむねであると信じてった。彼等は飛び立つように受け入れるかと思えば中々なかなかそうでない。彼等は世には同情も涙も愛もない、うまいこと言うて来ても騙されぬようにしていればいとのみ考えている。愛の話をしても受け付けるものでない。たまたま病苦のため求むる者があった。救われた者があって親兄弟の方に通知しても返事もない。少数ながら救われた者で召された者のため我等の手で葬式を出したものもあった。

それは白痴の妹によって得た経験に基づいたものであるが、そこに哀れな女の発狂者があった。常に裸体らたいでいる。私は常に近づいて眠っている時に枕許まくらもとにて祈りめた時は静かに神の愛を語った。たびかさなる内に『私の魂はエス様が捕らえていて下さるから天国へ行ける』と自ら言うようになった。

今一つはらい病者で手も足もない。全く体は崩れて仕舞しまって何処どこに向かって話をしていか分からぬような者であったが、度々たびたびねんごろに話している内に福音を受け入れて嬉しいことを表すような様子が見え、私の行くことを待っているようになった。

その救護院に関係して日曜学校を仏教の方でやっていた、その可哀想かわいそうな様を見て何の目的で日曜学校をやるかと尋ねたら、救霊が目的であると言う。それでは救霊の目的が達しられているかと言えばいなと答えられた。それでは私に任せては如何どうかと言うたら、遂に任せらるることになった。私は先ず偶像の前に幕を張って神の臨在を祈り求めて、第一回を開いた時大いなる勝利であった。かかる世の棄てられた者は子供でも荒れすさみ、愛も同情も感ずるものでない。忍耐してやっている内に荒田あらた小学校に展覧会があって子供の作品を集めた時、彼等は神様のことのみ書いたものであった。これで彼等のうちには大変化が起こっていることを知った。院主いんしゅも共鳴するようになったが事業の関係上信ずることが出来ぬことを遺憾に思うと言うていた。

今一つは荒田あらた町の自宅に日曜学校を始めた。特に子供の教会を開いて大人と同様に御言みことばを打ち込んだ。ところが智識は幼稚でも魂の要求は大人も同様であって救いを受け、又成長するものであることを知って、だんだん子供が恵まれ、大人の人々がこの祈り会に来てめぐまれるようになった。

もう一つのことは私が警察や裁判所に行く関係上不良少年を数人預かって養育した。そのうちには相当の教育を受けて善良の人となった者もあったが、中々なかなか取り扱いは困難なものである。彼等は努めて我等に従う立場を取らない。何時いつでも罪を犯しるよう、反逆の出来るよう構えている。例えば教会に行かんかと言えば誰が行かぬと言うたかとねる。

しかしながらそれらの特殊の働きを通して教えられたことは人間の方が如何いかに荒れすさんでいても、破壊されていても又は幼稚であっても魂の要求は同一のもので聖霊の働き給う時は救われるものであることを経験し、将来の伝道の助けとなった。

私としては前にも述べた如く罪のためにさえなんにもかも犠牲にして働いたのだから、今度は主のため身も魂も献げて奉仕さしていただくことが喜びであるから赤心まごころを尽くして従った。ところが多くの人々が私のもとに集まり、月曜会と称する自由な祈り会が起こり、恵まれるようになった。ところがサタンの妬みしんじょうせらる者起こり、あらゆる圧迫を加えられ、私は常に割の悪い立場にのみ置かれるようになった。夜中やちゅう病人のあったときとか、死人のあったときとか、人の好まぬことは私に命ぜられるようになった。私はかくして十字架の道を歩むことを実験し、高い恩恵めぐみに追いられる手段となったから、誠に幸いなことであった。