第六章 聖潔を求めて戦う

柘植不知人

汝等もし一心いっしんを以て我を求めなば我に尋ねわん(エレミヤ二十九・十三)

かく救いの喜びに満たされ、翌年よくねん二月十七日まで何事もせず、宿屋の宿料の積もることも意ともせず、教会にで路傍説教をなし、警察署に入ってのちも喜び溢れていたが遂に内部に一種の戦いあるを発見するに至った。それを教会に尋ねたれば、これは当然起こるべきことで救いの喜びに満たされ、二三ヶ月乃至ないし半年はんねんのちには必ず古き人なる罪の性質顕れて罪を犯すものなれば、これは十字架の主イエスと共に古き人の釘づけられていることを信ずるによって潔めらるとの指導を受け、如何いかにもしてこの罪の根を潔められたいと涙を流して十字架を仰ぎ、我も釘づけられたと信ずるも確信なく、事実はこれに反し益々ますます古き性質顕れ、これがため救われて喜び居たる喜びさえも失うに至った。いよいよ光を歩まんとすればするほどかえって醜態を表し、この解決法を誰か導きくれる者なきかと求めたれどもその人を得ず、その当時バックストン師のもとに来る欧米各国の宣教師等は各々学校に於いて聖書講演をなし、教会にて聖別会を開き、聖潔きよめの話は幾度か聞き又学校の講義に或いは祈祷会に或いは有馬ありま修養会又は個人に求めたるも更にその解決のみちを得ず、いよいよ戦いは激烈となり、一時喜んで夢中になっていたが又ぞろ虚言うそを言うようになり針小棒大しんしょうぼうだいの証をなすやら或いは怨み、妬み、或いは反逆の心起こり、外部にはほど顕るるに至らざるも内部の戦いは止む時なく、これがためには狂える者のごとくなって山に川に行って祈り又夜苦痛にえずして自分のももを打ち、或いは奥平野おくひらのを走り回りて夜のくるまで数回に及ぶこともあった。或いはその信仰なきを悲しみ、意志弱きことを嘆き、柱に頭を打ちつけて懲らすこと幾度いくどなるを知らず、又或る時は極端にも湯屋ゆやに行き、死んでいるなら熱くないはずなりとて熱湯に飛び入ったこともある。

又或る時は書き置きをして山に行き、潔められずば帰り来たらずと心を定め、一週間祈り通したこともあった。かくのごとく悶え苦しむも更に何の効顕こうけんなし、遂には自ら計画を立て毎週金曜日の祈祷会毎にただ一つの罪を解決することとした。すれば一ヵ年に五十二の罪を解決することが出来る、あらまし数えて百五十とするも三ヵ年てば潔めらるべしと思いてこれを実行し、悔い改めにつき、懺悔につきて、やわらぎにつきてなすべきことあらば光に示さるままこれを直ちに実行した。しかしてやや良心にとがめらるる罪愆つみとがは殆どなくなったが更に心の内に満足はない。とおる喜びもず平安もない。これと言う戦いは最早もはやなくなったが聖書のことばに照らし、心の実験上じっけんじょう満足のに達せず。

或る時思うたことはもし己に死に切ったなら不安も恐れもなきはずとて惠下山えんげやま墓地に行き、その日埋葬した新しき墓の前に座し深夜に至るまで祈った。ところがその死人が眼前がんぜんに顕れずる心地して一種の不安と恐怖が起こった。これではいまだ死に切りおらずと判断した。今より考うれば滑稽な話であるが当時の戦いの苦痛に狂いまわれるおりとしてこれらの事をわきまえることすら出来なかったのである。又山に入って勝利を得るまでは帰り来たらずと祈り続けたことがしばしばであった。或る時夜半やはんに何とも知れぬ一匹の獣で来たり、身辺に近づきて体をぐがごときこともあった。その時も死に切った者には恐れなきはずなりとつとめて見たが心のうちには恐れと不安ありてなおおのれに生きおることを感じ、悲しむこと屡々しばしばであった。かくする内にやや心に平安を覚え、戦いの苦痛はなくなったが、なおヨハネ伝七章三十七の『我を信ずる者はその腹よりける水川の如く流れづべし』との御言みことばに照らさるるごとに真の聖書的標準に達しおらざることを認めて更に祈り続けた。

その頃将来の使命について示されたことがある。それは『我一箇ひとりの人の国のために石垣を築き、我が前にあたりてその破壊所くずれぐちに立ち我をして之を滅ぼさしめざるべき者を彼等のうちに尋ぬれども得ざるなり』(エゼキエル二十二・三十)との御言みことばより来たもので、この一箇ひとりの人とは一切を神のために献げて尽くす者即ち神の義のために立つ者である。自分はこの人にならねばならぬこと又私がその人を養成することが使命である。これを成し遂げるには如何いかなる方法を取るべきか。一つの問題となったのはこの世の学問をする必要あるや否やである。もしこの使命を遂ぐるに英語ヘブライ語ギリシャ語なども必要であるか、もし必要ありとすれば如何いかにしても実行にかからねばならぬ、もし使命のため必要がなければ自己のためには求めない、この事を確かめるため一週間山に入って祈った。その結果使徒行伝一の八が与えられ、いよいよ必要はない、この使命を果たすにはず上より聖霊を受くるにある、これが第一である。その時連想したことは主イエスの弟子を養成し給うたことであった。主イエスは弟子達にこの能力ちからを受くることを命じ給うた。使徒行伝二章を見ると一たび聖霊に満たされた時にはその口も聖霊に用いられ、国々の言葉を語った。又彼等の語る所には否定することあたわざる能力ちからもあり、説教の順序もあり、ガリラヤの小民しょうみんに一大変化をきたし、福音を伝うるに適した者となったことを示された。ここに於いて自分の取るべき方法は語学の勉強にあらず、この世の方法にあらず、ず聖霊を受くることを第一と定め、爾来じらいただこの一事に向かって突進した。