第八章 徹底的聖潔の実験

柘植不知人

我キリストと共に十字架につけられたり、もはやわれ生くるにあらずキリスト我にりて生くるなり(ガラテヤ二・二十)。

一方面に聖霊を求むることに熱中し、日夜間断かんだんなく祈り求め、待ち望む状態に保ちつつあれども、一面に於いて宗教的野心や宗教的計画など相次いで起こる、この両方面の戦いを解決せんとしてガラテヤ書二章二十節に立ちていよいよ己に死に切り、キリストに生きんことを幾度か信じ定めた。れども更に静かに顧みればなおその所に己を発見し、善き行いを自らなして神に仕えんとする傾向あることを心づき、更にガラテヤ書二章二十節を体験せんとして努むること久しといえどもこの御言みことばが体験とならず、さらに己を十字架にけたりと信じ、己にける何ものも見出さざるうちにも肉と情と欲にいて離れおらざることを発見した。例えば己のためにという願いなくとも肉と情と欲にける性質は依然として働きおることを発見した。これをも十字架にけられたりと信じおるにも関わらずなお探らるるときは宗教的立場を世にあらわさんとする、所謂いわゆる世にいて死におらざることを見出した。さらに世に死に、世の我に向かうもまたしかりと信じて立てども、その御言みことば真意しんい心の肉碑にくひに彫り刻まれざるか、生命いのちとなって働き、能力ちからとなってあらわるるに至らず、所謂いわゆる理解にとどまりて、いざ働かんとする時は己の自然あらわるるを認め、いよいよここに至って根気は尽き、精神衰え、如何いかにせば真の実験体得するに至るかに迷うた。かかる戦いのうちにも以前より一貫して働くものはなお自分の熱心を誇り、自分の忠実に高ぶり、おのが義を立て、同労者をさばく心あるを自覚し、これは悪きことと思い、これを棄てたく、離れたく、潔められねばならぬことを知りつつも離れることあたわず、口にはこれを祈れどもその霊性心状しんじょうに於いてはさばく態度の上には少しの変化を認めず、これまた苦痛の頂上に達し、その状態はあたかも吼ゆる獅子のごとく掻き裂かんとする我意あるを認め、パウロの叫びしごとくああ我なやめる人かなと叫ぶのほかなかった。

おりしも自分の属しおる教会内に一つの事件起こり、その解決のため先輩数人と共に山に行って祈り、事件の当局者に対し、忠告を与えることは主のむねならんと信じて祈っている時にたちまち天より光ありて、それは主の為にあらず、愛の動機にもあらず、当局者その人を妬み、これをさばかんとする心より出でたる真相を示され、ここに於いてその事件は全く主の御手にゆだね、我自らの潔められんことを祈ることに定めた。その時他の友を離れ、この時こそおの聖潔きよめを解決せずば再び家に帰らじと心に定め、さらに山奥に入り祈りのうちに待ち望みおる時、今日まで火を受くるに至らざる理由は全く己と戦い来る事毎ことごとに死に切ることを努めず、己が善き者とならんとし、おのが計画を立て、おのが理想を作り、これに自らまらんとするその己の働きが妨げていることを示され、この時俄然がぜん聖霊は十字架を明らかに示し給うて、かの十字架の御姿みすがたはただ神の子が身代わりとなってのろわれ給うたというにとどまらず、かの姿は神の子の姿にあらずして、この生まれながらの堕落性なる肉のかたちとなって我がために再び十字架よりくだり来ることなきため、両手両足は釘づけられ、再び頭の働きは為さぬためいばらの冠はきせられ、再び心臓の鼓動の働かざるためやりにてとどめを刺されあって、己も肉と情と欲も世も全くのろわれ、罰し尽くされ、十字架上には事終わりおることを明らかに示された。

その時今更いまさらごと感涙かんるいむせび、十字架を仰ぎつつ、神を崇め居た時に聖霊はこれを心にめ給うて我キリストと共に十字架につけられたり、もはや我生くるにあらずと確信を与えられた。同時にキリスト我に在りて生くるなりと心の内にキリストを黙示せられ、この確信はいかづちごとく全霊全生ぜんせい全身に響きわたり、多年の戦いはみ、その苦しみは逃げ去り、たちまち喜びと平安に満たされ、その状態はとても筆紙ひっしに表しがたく、手の舞い足の踏む所を知らず、歓喜に溢れつつ山を下った。

先にも述べた如く如何いかにもして聖潔きよめの経験を得んとして御言みことばの上に立ち、これを信じて祈り、ガラテヤ書二の二十の御言みことばは成就せられたりと信じたること幾十回なるを知らず。れどヨハネ伝七章三十七節の如き経験とならず、時には極めて平静になり何の不安もなく戦いもなけれども、心中しんちゅう密かに今一ツ満足の期に達せず、又時には外来の刺激により思いもよらぬほどの古き人の姿あらわれ、又奉仕を為さんとする時何等なんらの力なきことを感ずることあり、兎角とかくその状態一定せず、かくしては祈り又同じ経験に立ち帰るなど一進一退を保つこと長い間であった。

その頃の自分の状態を更にけんするに、御言みことばの光の如く願わんとしても、神の愛を深く感ぜんとする時も、又心よりへりくだらんとするも、其の心中しんちゅう一種の底岩そこいわの如きものあるを感じた。これを砕かんとし、焼き尽くされんことを求めて熱心に祈りつづけたるも取り去られず、自分の霊に於いてもこれを重荷とし、心に於いても苦痛に感じ、何とかしてこの障妨さまたげの取り去られんことを努めたが一向いっこう効果はなかった。

そもそもこの底岩そこいわの如きものは如何いかなる性質のものであるか、御光みひかりもとに考えたるにこれはダビデの言いし如く悪魔の教えに従い、偽りの知識にり、神に対する反逆の態度を取りたる、その型が組織的となり遂に形をなして表れ、本能性の如く働き、みずから罪を構成する所のものであることを悟った。この所謂いわゆるエリコ城を破壊するにはおのが働きにり、おのが力によって為し得べきものにあらず、これぞ御霊の働きによってのみ破壊せられ、又御霊によりて新たなる組織が建設せらるべきものであることを悟った。

本来十字架の救いは父なる神の計画にして、子なる神これを成就し、聖霊なる神これを信ずる者の心に当てめ給うものなれば、この救いを受けんとするには更に人の働きを要せず、むしろ害あるものである。ゆえに絶対に愛なる神の御言に従い、御血おんちを信じて聖霊にゆだね切る時、聖霊自らこれを信ずる者に当てめていんし給うものなることを悟る。これは救いに於いても聖潔きよめにおいても同一である。