第十二章 大正九年の転戦

柘植不知人

これらの者家にはいりしに多くの人々また来たり集まりければ食する暇もなかりき(マルコ三・二十)。

大正九年度も除夜会より新年聖会に連続して巡回を始め、東北、北海道、北陸、東海道、中国及び九州等内地一般を巡回し、この一年間の巡回里程りてい汽車に乗ったマイル数は一万四千余マイルに達し、自宅(粉濱こはま)に帰ったというよりも立ち寄ったことが二回あったのみであった。かく一年中に日に相次いで奉仕し、至る所にリバイバルの栄光を拝した。うちにも三月東京リバイバル大会にては我が国未曾有みぞうともいうべきほどのさかえを拝し、この時初めて従来あった集会の型は破れ、聖霊に満たされて手をつものあり、舞い踊るものあり、真に全国より集まれる聴衆嬰児おさなごの如くなって神をめたたえ、最高の恩恵めぐみを受けし者、全国各地に散らされたため、全国の霊界を一新せしめ、これによって多くの人々飢え渇きを起こし、各地の要求は更に切実になって来た。

同年五月神戸リバイバル大会に於いても同じく栄光を拝し、集まれる会衆は金銀のみならず所有せる贅沢品を神に献げ、女は嫁入りの時の衣服指輪など、男は礼服などを持ち来たるものありて、全くリバイバルの光景となった。更に七月北海道巡回の際、札幌に於いては特に多くの病者癒され、又十字架の贖いの奥義開かれたためリバイバルの光景となった。

同年八月有馬ありま修養会に於いても不治の病ととなえられし者を始め多くの病者びょうしゃ癒され、神の栄光を拝した。同年九月銚子ちょうし修養会に於いてもこれまた前年と同じく聖霊の働き著しく、癒さるる者、恵まるる者多く起こり、ことにこの年の御行みわざは教役者を始め一同の者、喜びの霊に満たされ、一人居て喜び、会えば喜び、祈れば喜び、集会にでては喜び、その修養会は喜びの修養会として人々に記憶せられている。

不治の眼病癒さる

同年九月九州二日市ふつかいち修養会に於いても多くの病者びょうしゃ癒され、一同恵みを受けて喜びに満たされた。そのうちに眼病にて盲目となった妻をてる兄弟があった。その姉妹は福岡医科大学に於いて二ヵ年治療を受けたが効なく、全く不治のものと諦め居た時であったから、私の神癒の真理をき、それなら私の妻も必ず癒さるはずなりと彼ず信じ、翌日私が博多メソジスト教会に立ち寄り居る時、午前五時頃その妻の手を引き来たって之を癒してくれと言う。この兄姉けいしはすでに神を知れる者にして神がく取り扱い給うは深き聖旨みこころのあるを悟り、ず癒しを求むるに先だち夫妻とも神の前にとがめる所あらばこれを悔い改めよと勧めたるに、それぞれ悔い改めて癒されんことを祈り、その兄弟は今より箱崎はこざき松原まつばらに行き、妻の眼が開くまで祈るから先生もまた眼の開くまで祈りれと言うて立ち去った。私はそのあとにて姉妹のために癒しを祈った所が癒されたりとの確信私の心にも与えられ、姉妹も同じく信仰に立った。その信仰与えられたる以上留め置く必要なければ、人を附けて帰宅せしめた。私は十一時六分に博多駅を出発せんとて駅にずれば、その姉妹もでおられ、又その兄弟も走り来たり、先ほど私は松原まつばらにて祈りおる時妻の眼はもはや開いたと信じたゆえに、その実際を見んとて教会に帰り見れば、妻は癒されて帰り、先生は御出立ごしゅったつとのことでここに駆け付けたる次第、ともかく汽車中にて話さんと香椎かしい駅までの切符を買い整え、妻に切符を与えた時、姉妹はその切符を手にするや『これは香椎かしいまでです』と明らかにその字を読むに至り、驚きながら乗車し、彼等は喜びに満たされ、感謝に溢れ語り合うほどに香椎かしいもはや過ぎんとすれば福間ふくままで切符を買い足したるもなお話は尽きず、更に小倉こくらまで切符を求め、車中喜び語り、なお話は尽きざるも同駅にて彼等と別れた。その兄弟の話によれば、二日市ふつかいちに於いて私が神癒の話をなし、十字架の贖いを説き、神に於いてはあたわざることなしと極言したるをき、兄弟の心にはもし自分の妻が癒されればよし、癒されざる時は私をして再びかる証をなさしめざるため私を打ち殺すべしと思ったほどであった。誠に神の前に畏れ多きことであったと悔い改め、将来は献身して神に仕えんと告白せられた。その姉妹はその後裁縫なども自由になし、針の穴をも通すに至ったという。