第十七章 台湾伝道旅行の土産

柘植不知人

なんじらはわが証人あかしびとなり(イザヤ四十四・八)。

エーチ宣教師

台湾伝道旅行中に宣教師エーチ師に交わることを得て大いなる感化を受けた。師は英人えいじんにしてその家族はカナダに現住げんじゅうせらる。師はカナダにて大学をえ、更に学者として世に立たんとてドイツに留学中、或る熱心なる信者の家庭に寄寓きぐうしている時に感化を受け、更に恵まれてのち日本に宣教師として遣わさる。かく使命を受け、研学けんがくを中止してカナダに帰り、許嫁いいなづけの婦人があったが伝道者として召されたる以上は殉教するのであるから、むしろ結婚せざるほう相方そうほうの幸福なるべしと、遂に破約し、単身日本に渡られた。横浜にちゃくした時所持金八百円ほどあったが任地に着いた以上これも必要なしと思い某教会にことごとく献げ、僅か月給十五円で逓信ていしん省に雇われて自活の道を開き、日本語を学んだ。その後北陸に伝道し、更に大和やまとに転戦し、全く献身的奉仕をなし居らるる内に台湾生蕃せいばん伝道の必要を示され、遂に渡台とたいして各地に転戦し、台湾語及び生蕃せいばん語を学び、今は交通最も不便な東海岸に移り生蕃せいばん伝道のため尽瘁じんすいし居らるる人である。

師は台湾各地を回り、台湾人及び生蕃せいばん中にるには衣食住のみちに鍛錬する必要を感じ、先ず洋食を廃止し、日本食をも求めず、その至る所にて与えらるるままに足れりとして生活の鍛錬をなし、遂に二週間くらい絶食を続けても別に不自由を感ぜずという。時にはパンを食することあれども多くは土産みやげ果物くだものを以て常食としておられる。しかして彼は入浴することなく毎朝未明みめいに起きて冷水を浴びるを以て之に代えておられる。また散髪屋に行くことなく髪は伸びるがままにし余り長くなる時は自分で切り取る。また一定の住家じゅうかを持たず、或いは人の客となり、或いは野に伏し少しの不自由なしという。しかして二三里の道は汽車があっても徒歩する習慣である。身体は痩せ細くして壮健、一見神の人らしき威風いふうおのずから備わっている。我等は初めて接した時からその人の普通人ふつうじんにあらざることを認め、敬虔の念おのずから生じ、かる神の器と共に奉仕の機会を与えられたることは神の深き聖旨みむねのあることと信じ、絶えず彼に教えを乞う態度を取った。

先ず彼は準備祈祷会の司会者として立ち、如何に司導しどうせらるるかを見れば、極めて簡単にして例えば心の貧しき者はさいわいなり天国はその人のものなればなりとの一句を引き、これをおごそかに読み上げ、終わりて、皆さんこの通りに貧しくなっておりますか、なっていれば天国はあなたのものですから感謝せよ、もしなっておらぬならば悔い改めて求めなさいと一ごん語ってのち、数十分間黙して何事も語らない、暫時ざんじにして祈れよと言うが如き司導しどうの仕方である。その語るところ率直簡明なれども、彼の態度そのものが活ける説教となり一同大いに恵まれるに至る。

台南たいなん聖会中は同師自ら主として我等を接待せられたが、彼自ら食品を買い求めて与えられた。食堂に至り見れば極めて少量のパンと鮭の缶詰一個あるのみ、彼は誠心まごころもて、さあ、これを食べよとねんごろに進められたが常に牛飲ぎゅういん馬食ばしょくの我等には飢えを凌ぐに足らず、れどエーチ師は全く食欲に聖別され居り、何等なんら申し訳もせで我等に進めらるると共にただ少量のパンを自分も取って食せらるるが、これおおむね我等の付き合いに食せらるるように身受けた。この態度を見て我等は未だ食欲の聖別に遠きことを深く感じた。

そして師の生涯はくの如き聖別せられた人であるが何ほどの荷物を持って旅行せらるるかを見んとて同労者の一人、同師の宿泊し居らるるしつに行き見れば、只一個の小さきカバンがあったのみにして他に何ものも見なかった。彼の衣服は古ぼけた洋服を着けたるのみにして、他に着替え一枚をも持たず、その衣食住に超越せられ居る生活を見て大いに教えらるる所があった。

目下もっか彼は台湾のとう海岸の最も交通不便な所に至り、生蕃せいばん人伝道に努め居らる。彼の無害な聖徒の姿は生蕃人にも認められ、今や彼は如何なる生蕃人の間にも出入りし、又時には彼等と寝食を共にして居らるという、そもそも蕃人ばんじんは人の首を取ることを名誉とし、よほど馴れたる蕃人も共に寝食する間に発作的に人を切り殺すことあり。例え今まで親密にしていても何時いつ凶行を敢えてするか計りがたい。れど師はその生蕃人の家に休みて少しの不安なく、最もくつろぎて安眠すると語られている。師の信仰如何に徹底せるかを見て我等の信仰なお薄弱なるを示された。そしてエーチ師の名声総督府の人々にも知られ、同師巡回の時は如何なる高位高官も同師を宿めることを光栄としている。しかして師は如何なる所に宿やどるともおおむねその家の食事をなさず、又湯にも入らず、何の手数もかけず、その家の祝福を祈って去るという、これが万人の歓迎する所以ゆえんである。

二、呉鳳

嘉義かぎを去る東方三里の所に呉鳳ごほう神社がある。これは呉鳳という人をまつったのであるが、呉鳳氏は元支那政府台湾をりょうした頃その役人として来たり、阿里あり山族さんぞく生蕃せいばん人との通訳を務めた人である。この蕃人ばんじんには一年に一回人の首を取って祭礼をする習慣があって必ず毎年まいねん誰かの首を取る例があった。呉鳳はその悪習慣をめさすため戦死者の首二十二あるを好機とし、彼等にさとして人の首を取るはよろしからず、この二十二の首を持ち行き、毎年まいねん一つづつ出して祭を済ませよと言った所が、ほとんど猛獣に等しき彼等蕃人ばんじんは常に愛せられ居た呉鳳のことばことごとく受け入れて之に従い生首なまくびを取ることを中止した。ところが二十二年ののち如何どうしても首がなくては祭礼が出来ぬから是非とも首を取らしてくれと呉鳳に迫った。

余りの強情により止むなく、呉鳳は之を許して言うよう。らば明日何時なんじ頃役所の前を赤い頭巾ずきんかむって通り来る者あればそれを待ち受けて殺せよと言い渡した。血に渇いた彼等は喜びて翌日示されたる時間に待ち構え居る所へ果たして赤頭巾ずきんの人通りかりたればその首をねた。そして頭巾を取り見れば何ぞはからん、恩人呉鳳その人であった。さすがの蕃人ばんじんもこれを見て大いに悔い爾来じらい阿里山族ありさんぞくは全く人の首を取ることを止めたという。我等は嘉義かぎ伝道を終わってこの神社を訪ねてその由来を聞き、一人の賢人の徳によりてすら左右をわきまえざる蕃人ばんじんをしてこのわざわいを絶たしむるに至ったことを思えば、ましてや我等神の子の殉教の血によって救われたる者として再び罪を犯すことあたわざるは当然なることを教えられた。

三、リバイバルの祈祷

屏東へいとうのリバイバルの起こった原因は呉牧師夫婦が十六年間祈り続けられた結果であったことをあとにて知った。又台南たいなんの奉仕中驚くべき栄光を拝し特に日本キリスト教会にくも多くの求道者起こりたるは、同教会員山崎夫婦四年八ヶ月間毎朝未明に教会にでて祈り続けられたということである。

淡水たんすい女学校のリバイバルの起こりたるは同校生徒のうちに一人の恵まれたる者ありて長く同校内のリバイバルを求めて熱心に祈っていたという。

それらによって考えれば、一人の聖徒祈り続けるときリバイバルの起こること間違いなしとの信仰を新たにせられた。