視よわれアハズの日計りにすすみたる日影を十度しりぞかしめんといいければ乃ちひばかりにすすみたる日影十度しりぞきぬ(イザヤ三十八・八)。
前章に記されたる如く驚くべき神癒の栄光を拝せられ、病後の静養中も教役者を交々招いて指導せられ、魂の解決を求めて来訪する者絶ゆる時なく、又隊全般の事務に個人の通信に忙しく働かれた。その間病後の回復を求め、努めて運動を始められ、時には十丁ほどの道を走り、或いは浴場の板を両手に差し上げて見るなど過激な運動を試みられたこともあった。
七月七日より九日まで熱海にて教役者会を開き一日三回、長き時は三四時間に亘る集会を一人にて有たれた。その猛烈なる活動には驚かぬ者はなかった。そして集会の間、集会後の夜間に個人の応接に多くの時を費やし、気力益々盛んになられたのを見て、一同は喜んだ。霊肉に深き死と甦りの体験をせられた、その証しは重なるメッセージであった。一同の魂に流れ込むが如く極めて自由で又深き霊の御働きを拝した。
十月五日熱海を切り上げて落合に帰り、第二期戦の序幕として第十六回落合聖会を定め、六日より準備祈祷会を始め、多い時は一日四回の集会をなし、祈祷と信仰の霊は驚くべく注がれ、十月十日より十五日まで毎日三回づつの集会を一人で有たれた。この時も聖霊の御働き著しく、幾多の奇跡的神癒の栄光を拝した。
越えて十月三十日東京を出立して関西、山陰地方の聖会旅行の途に登られた。先ず同三十一日より三日間姫路にて聖会、ここにも神の著しき御行は顕れ、奇しき栄光を拝した。十一月三日四日は大阪粉浜にて集会、十一月七日より三日間京都にて聖会を有たれた。更に同十三日より三日間境港にて聖会を有ち、つづいて鳥取、松江、濱田などにて集会を開き著しき御行は顕れた。その後京都に引き返して数日止まり、佐伯氏隠宅にて癒されたる感謝会を開かれたことは記憶に新しいことである。その日も私とトラクトを書く約束であったが急に思い立ちて一人比叡山に登られた。無論ケーブルカーを利用せられたことであろうが可なり長い道を歩行せられたと云う。斯くの如く壮健にせられたことを共に感謝したことであった。
落合に帰られても集会に事務に一日も休息の時はなかった。次の聖会は第十七回落合聖会で除夜会より一月五日まで一日三回の大集会に奮戦せられた。諒闇中であったが落合聖会中最大最高の大聖会であった。この時も烈しき精神病者の即時癒されたるを初めとして幾多の奇跡的神癒の御行顕れ、驚くべき純福音の真理は大河の如くに流れ出で、世界的リバイバルの光景、地上に見ることの出来ない臨在の輝き、変貌山の栄光であった。最後に直接伝道に献身する者の起立を求めたら百七十五名あった。
病後余りに過激な働きをつづけて来たので自然疲労を覚え、二月十四日出立、別府に当分静養し、九州地方の働きをもなして落合第十八回聖会を開く予定にして彼の地に向かわれた。十五日大阪出帆の船を待ち、半日関西地方の教役者と旅館の二階で幸いなる懇談の時があった。カルバリ山上にてサタンの頭は砕かれている光景を異象に示された。今己が時の幾何もなきを知って全世界の上に胴体のみ煽動しているが、頭のない蛇である。十字架を仰げば全き勝利はすでに成っている。ここに於いて奇跡の行わるるも当然であると語られて別れた。出帆に臨みて佐伯先生は手早くテープを買い求められ、各色の色賑やかに長く引っ張って別れを惜しんだ。何だか遠洋航海の如き仰々しさであったが天国への抜錨帰国となった。
すでに熱海の時に召さるべき筈であって、万々癒ゆべきものでない重態であったが、太陽の入るを延ばし給うた神は弟子等を更に堅うして置かねばならぬ必要があってこの一年を延ばし、夜も昼も絶えず涙を流して、益ある事は残す所なく宣べ伝えられた。この間は恰も主イエスの甦りの四十日間の御働きの如くに思われている。
幾多の事業を中途にして去られたが、残念この上もないことの一つは著述の方面である。序文にもあるようにペンテコステの指導書を書く願いを有っておられたこと、詩篇全巻の講解説教集を出すこと及び十字架中心の真理とも云うべき書物を書く予定があった。特に十字架中心の真理は最も重き期待を有っておられたのであった。何となれば全生涯に味わった十字架の体験はとても言い尽くされぬ深遠、洪大なものであったからである。十字架は旧天旧地の終わり、新天新地の玄関である。十字架によって解かれざるものなく、十字架によって満たされざるものなし。ああ十字架なる哉、十字架なる哉と叫ばれたことがあった。