第二十八章 落合伝道館に関係せる神癒の実例

柘植不知人

連続せる落合おちあい聖会及び毎日曜日午後に開きつつある神癒会に於いて又個人の要求によりて癒された人々は数え尽くすことは出来ないが、に本人の証詞あかし数種を掲げることにした。

(一)頑固な皮膚病、肋膜炎、腹膜炎、腎臓炎、トラホーム

川田民子

多分私が十二才の時と思います。ひたいぎわに一種の皮膚病(前額ぜんがくより両耳までの髪際けぎわはば二寸ほどの皮膚少しく高くなり白色はくしょく鱗状りんじょう剃脱はくだつし時々掻痒かゆみあり)が起こりまして、如何に治療しても良くなりませんので、皮膚科の大家土肥どい博士に診断を受けましたが病名が分からんので血液試験やら其の他様々な試験の結果対症療法を尽くしましたが何の甲斐かいもありませんでしたが、ひたいの事ですから女の身として思いがたく、あらゆる民間の療法を尽くしました。或いは牛のレンゲ(内臓もしくは肝臓)が良いというので目を閉じて毎日食べました。或いは毒ダミという苦い草をせんじて飲み、或いは草津の温泉には十四五年間も毎夏まいなつに行き、その他行者ぎょうじゃ易者えきしゃ何程どれほど金を巻き上げられた分かりませんでした。人為じんいの限りを尽くしましたが少しもよくなりませんでした。

その上元来がんらい虚弱な方で十九才の時肋膜炎にかかり、続いて腹膜炎となり、腎臓炎も加わり到底癒さるべき望みなく七八年間天を怨み、地をのろって日を送りましたが偶々たまたま柘植つげ先生の高名こうめいを聞き早速先生のもとに参りまして癒されんことを切に願いました。先生は先ず十字架の上に私の罪も病気も移っていることを御話おはなし下され、手をけて祈って下さいました。ところがさしもの難症の皮膚病も其の時全くぬぐうが如く癒されて痕跡もなく、同時に肋膜炎も腹膜炎も何時いつにか消えて仕舞ったので人も我もただ驚くのほかなく感謝の涙にむせびました。

その他私が三才の時火箸ひばしで目を突いたのがもとで視力衰え、トラホームを併発して十数回の手術も其の効なく常に疲れを覚え、大正十四年三月には再発して遂に左眼さがんを失明するに至りましたが、柘植つげ先生に祈って戴きましたところが俄然がぜん癒されて三日目に見えるようになり驚いて神をあがめました。大正十四年十二月には強烈な丹毒たんどくかかり、脳の前額ぜんがく部より後頭部まで犯され、頭から顔面ことごとく腫れ上がり全く人間の顔と思えない程になり、発熱も高く人智じんち人力じんりょくでは全く絶望でしたが、之も手をけて祈って頂きましたところが奇跡的に癒され、コリント後書五章十七節の御言みことばが霊にも肉にも成就して新しくせられ、御血潮おんちしお能力ちからを畏れおののきて感謝しております。

(二)喘息、産褥熱

山本かつ子

私は生来の多病たびょうで六七才の頃百日咳ひゃくにちせきを病みました時から重い喘息ぜんそくかかり、そのために子供の時から二十幾年の間というものは病み通し、医者に掛かり通しという有様ありさまで新聞や雑誌にで居る新薬は如何どんな手段を巡らしても買って飲み、又あらゆる神仏にがんをかけ、或いはしょくを断ち、或いは髪を切って癒されんことを願いましたが病は年毎としごとに重くなる一方で、家は貧しく、悲観ひかんの結果遂に不眠のため医者にもらって置いたモルヒネをめて置いて一度に飲んで自殺をはかり、或いは他の毒薬を飲まんとしたこと三もありました。

かる苦痛のうち柘植つげ先生の事を聞き、大正十一年八月落合おちあいに行き先生に御目おめにかかり、神と人との前に一切の罪を告白しておん憐れみを求め、柘植つげ先生に手をけて祈って戴きました。その時感謝の涙と共に長年の重い喘息ぜんそくが全く癒されましたのみならず生涯も全く一変し、以来四年間健全にして薬一服飲んだこともなく感謝の日を過ごしております。このほかなお大正十三年産褥熱さんじょくねつかかり、四十日間苦しんだ揚げ句病苦を押して無理に教会に参り、柘植つげ先生に手をけて祈って頂きました其の時全身に能力ちからの加わるるを覚えましたが病は全く癒され、家族の者も驚き、これより大反対の母が熱心な信者となり、姉達も救われ、のち主人も救われ、今は一家こぞって毎日感謝と喜びの日を送っております。

(三)那々條虫、十二指腸虫、夜尿、蓄膿症、痔核

荒谷静子

私の長男一雄かずおだ小学校一年生の頃より不思議な奇病にかかり、転々として名医の診察を求めましたが中々病原がわかりませんでした。それは那々なな條虫さなだむしというエジプトの熱病児の腹中ふくちゅうより発見されたという日本には珍しい虫で其の上に回虫かいちゅう蟯虫ぎょうちゅう十二指腸虫しちょうちゅうとか様々と虫がわいておりました。早速駿河台するがだい杏雲堂きょううんどう病院で有名な博士達の治療を受け、前後三回も入院しましたが那々なな條虫さなだむし如何どうしても除去されませんでした。又長女愛子あいこ次男清彦きよひこ験便けんべんの結果同病どうびょうかかり居ることを発見し、あらん限りの手を尽くし、方法を講じ、随分金も費やしましたが何の甲斐かいもなく、それがため三人共如何いかに注意しても寝小便ねしょうべんをすること数回、特に長男の如きは狂気じみて来るので心痛一方ひとかたならず、人知れず涙にむせんでおりました。

しかるにくすしき摂理の御手は私の友人を通して、大正十一年九月落合おちあい聖会に導かれ、柘植つげ先生の説教の後、子供三人に手をけて祈ってもらいましたところがただ一回で五六年間悩まされた病魔が一に駆逐せられ、それ限り全く癒され、以来就床しゅうしょうぜんにどんなに水を飲んでも一回も寝小便ねしょうべんをしたことなく完全に癒されました。本人達の喜びは申すまでもなく私の喜びはたとえるものなく感謝と讃美に日を送っております。

又大正十三年五月三男三郎さぶろうは椅子が倒れかかり右の肩胛けんこう関節骨折を起こし、素人しろうとにも明らかに曲がっておりましたが主人の反対あるうちに骨折医に行かずしてただ信仰に立ち祈って頂いて癒されました。又その兄にれられて遊びにでて倒れ左の前膊骨ぜんはくこつ骨折を起こした時も柘植つげ先生に祈って頂いて速やかに癒され、その後二階から落ちて足を痛めて立てなくなりましたがその時も日曜日の神癒会にでて癒されました。又私自身も十数年来の蓄膿症ちくのうしょうと二十年来の痔核じかくが祈りによって全く癒され、霊肉とも新たにせられて感謝しております。

(四)脊髄労、脱肛

森下為二郎

私は本年五十一才ですが壮年時代は無病で過ごしましたが大正十一年九月二十日突然背部せぶ痙攣けいれんを覚え、身体に痛みを感じ、段々だんだん増長ぞうちょうして一年後には歩行困難となり、手先しびれ帯を結ぶことも出来なくなり、そのあいだ種々しゅじゅ手を尽くましたが何の甲斐かいもなく遂に三井みつい慈善病院にて脊髄労せきずいろうと断定せられ、熱心に服薬を試みその後駿河台するがだい佐々木ささき病院、浅草あさくさ病院などにて診察を受けましたが同じく脊髄労せきずいろう及び脚気かっけとのことにて治療を受けたるも効果なく、果ては占い八卦はっけ加治かじ祈祷きとう天理教てんりきょうに至るまで迷い回りましたが何等なんらの効なく失望しておりました。

しかるに大正十三年の春長女の婦人病が柘植つげ先生の御祈祷おいのりによって癒されたるを見て驚き、早速落合おちあい伝道館に参り、同先生に手をいて祈ってもらいましたところが驚くべきことには翌朝よくちょう何気なにげなくのみを捕らえたのでこれまで自由のかなかった指頭しとうに力の加わったことがわかり、身体各部の機能も再び恢復かいふくし来たったことに心付こころづき、神癒の著しき効顕こうけんに驚きました。それのみならず長年便通の時苦しみました脱肛だっこうも同時に全く癒され、健康は以前に勝り毎日感謝の生涯を送っております。

(五)急性中耳炎

梶原志津野

大正十三年十二月三十一日のことですが、二三日前より風邪ふうじゃ気味きみで不快を感じておりましたが突然右の耳が痛み出し漸次ぜんじひどくなり、付近の耳鼻科の医者にもらいましたところが急性中耳炎ちゅうじえんとのことで絶対安静を命ぜられ、横臥おうがしておりましたが痛みは益々ますます激しく静かに歩む足音も響いてえ難く感じました。その時私はだ神を知りませんでしたが神癒については著しき実例を見ておりましたから柘植つげ先生に御祈おいのりを願うように従兄いとこに頼みました。なおも痛みは烈しく熱も四十度近くありましたが、その日急に激痛が消え去り湿布しっぷも取って眠って仕舞いました。後で聞けばその痛みが取れた時は丁度先生に祈って戴いた時と同時刻であったので驚きました。

翌朝よくちょう目が醒めた時は全く痛みも無くなり、気分も清々すがすがしくなっておりました。まだ病後のことで両親も心配し、外出を許されませんでしたが開かれていた落合おちあい聖会にいて車に乗って出席し、モ一度先生に祈って戴いたら帰りの時は歩いて帰れるようになりました。医者も意外の経過に驚きましたが決して全くなおったというのでない外出してはならぬ、注意せないとつんぼになるからと申されましたが冬の寒空さむぞら小石川こいしがわから落合おちあいまでなりの道を徒歩で毎日朝も晩も通いましたがそれり全く癒されました。ただ神様のくすしき御行みわざを驚き感謝しております。

(六)らい病

山本喜代一

私の病気に気付きましたのは顔面の知覚異常から健康に疑いを起こしたのが初めでその時は十五才の春でした。一人ひそかに憂いつつ三年は事無ことなく過ぎ学校を卒業しました。けれどもその喜びは僅か数十日にして私の身は世にも悲しむべき天刑病の宣告を受けました。それは掛けていた眼鏡めがねに脱落した眉毛の着いているのを発見したことでありました。私は今更のように驚き悲しみました、遠からず私は浅ましい姿となって世から棄てられねばならないことに定まったのです。やむなく福田ふくた秋水しゅうすい氏の高価な売薬ばいやくを服用することにしました。努力も希望も愛も私にはことごとく空しくなりました。一日いちじつ千秋せんしゅうの憂いを一人の慈母じぼにさえ明かし得ぬ身の悲しさ。私はやがて来たらんとする運命の秋をうれえて名を思秋ししゅうえました。

二年は過ぎて大正十二年の五月不思議な導きを得、初めて柘植つげ先生の落合おちあい聖会に寄せられました。私は救われました。昔も今も変わらぬ神は十字架の故に私をお癒し下さいました。私は健康体にせられたのです。そしてエス様が私の健康の保証人となって下さいました。お恵みがなかったら今頃如何いかになっておったことでしょう。思えば此の身の今く在ることが不思議です。八年前の悲しかった思い出は今は恵みと変わり、現世のみならず永遠の幸いに至らしめるいとぐちとなったのでした。『エス様に頼りなば憂いも悩みも喜びとならん』の讃美歌を衷心ちゅうしんから歌う事が出来ます。今は教会に近く宿が与えられ業務に従いつつ聖堂に登り、幸いな信仰生活をしております。明かし得ぬ悩みを抱いて暗きに嘆く兄弟姉妹の皆福音の恩恵めぐみよくせられんことを祈りつつおります。