第三十一章 各地聖会に顕れたる御行(三)

柘植不知人

山陰聖会

この地方は日本に於ける純福音の開祖ともいうべきバックストン師の永くとどまって祈られた所であるが、その後生命いのちの潮流絶え、魂は涸渇、衰頽すいたいしていた。大正十三年十二月、アクラなる横濱よこはま捨四郎すてしろうけい、四人の青年達と共に境町さかいまちちゃくし、あまねく行軍して聖会の準備をなした。見るからに疲れたる者、重荷を負える者の充ちたる地方であると感じた。柘植つげ先生の聖会は砂漠に川流るとのおん約束の通りで今まで涸渇していた霊界は俄然がぜん復活して驚くべき聖霊の大氾濫となった。初夜にコリント前書一章十八節によって十字架の真理は開かれ、生活に疲れ、病に悩み、罪に苦しんでいた涙の谷は喜びの泉と化した。神癒に於いては子宮癌の癒されたる者あり肺結核の者数人癒されたるあり、最後の日に中風ちゅうふうの病人運ばれ来たった。先生はナザレのイエス・キリストの名によって立ちて歩めと権威あることばを以て命じた時に立ち上がりて一同の驚きとなった。改悔者かいかいしゃ百八十一、献身者五十名もあった。

其の後純福音を慕う群れは無牧の状態にて、ぼう別荘に集まって歌い祈り、小さき使徒時代の群れの如くあった。翌年東京の新年聖会に十数名でここに聖霊に満たされて帰り、更に燃え上がりて遂に伝道館の設立となり、伝道者も遣わされ、その波動が渡村わたりむらに及んだ。小野おの製紙所にて集会中、迫害起こり、棒や石を投げる者あり、唾を吐きかけるあり、暴言を吐くあり、我等はただ忍んで通過した。

次の聖会は大正十四年六月十日より五日間境町さかいまちに開かれた。市中に出した広告は剥ぎ取られ、新聞に出るやら、暗澹あんたんたる雲行きであったが、この力ある福音の声に静められて迫害もんだ。その間に主の愛に励まされて献身者も起こった。

九月二十三日より鳥取市公会堂に聖会を開くに至った。この地は無頓着な地で見込みなしと言う者も多かったが、信仰を以て始めた。大濱おおはまの聖会の時、結核患者の癒されたる者あって待ち望み居り、予想に反して驚くべき盛会となり救わるる者三百名、痔瘻じろう、肺結核、三叉さんしゃ神経痛などの難症者の癒さるるあり、その結果伝道館の設立となった。

大正十五年二月藤村ふじむら師、さかい及び渡村わたりむらにて集会せられたが、その時渡村わたりむらにて行軍の二日目に大迫害起こり、竹槍を持ち来たる者あり、便所に突き落とさるる者あり、桑畑に倒し土足を以て踏みつけて『感謝せよ、感謝せよ』とあざけるあり、楽器や提灯ちょうちんは破られて仕舞った。集会始まるや、土を投げ込む、竹箒たけほうきを以て向かい来たり、ガラス戸は破れ、その破片で負傷したる者も起こった。更に説教中灰玉はいだまを投げ込み会場は灰の煙に満ち、戦場の如くなり、集会は中止のやむなきに至った。この民はなお去らず、牧師を引き出せと叫んでまず、代表者六名を出して藤村師と会見、その間信者は一室に籠もって使徒行伝四章の如く祈った。その結果一先ず引き取った。その後毎週集会を続けていた。覆面して笛、太鼓で妨害し来たったこともあったが、その危険のうちにも守られた。三月十八日十時頃より再び大迫害起こり暴風雨に係わらず、村民は石を投げ、ガラス戸をことごとく破壊し、私は押し入れの中に隠れて三時に至った。一先ず静まったから帰らんとて戸外にいづればなお村民は待ち伏せていた。この迫害は新聞にで全国の注意を引くに至った。

大正十五年十月十三日より三日間三度みたび聖会を開き、大いなる栄光を拝し、七十一名バプテスマを受けた。この火は山陰各地に飛び移り、特に米子よなご松江まつえ、島根半島に多くの主の民は起こって山陰リバイバルを祈りつつある。(折瀧鶴次郎誌)

名古屋聖会

当地聖会は大正十四年十一月二十四日晩より二十六日晩まで三日間七回にわたり基督教青年会館小講堂に於いて開催せられた。何分なにぶん当地にては柘植つげ先生の聖会は始めての事とて、こと僅々きんきん三日間にて十分なる主の聖業みわざを拝する事をるやを危ぶまれたるも、主は多くの兄姉方けいしがたの熱心なる祈りに答え給いて、思いに優る業をなし給いし事は、感謝のほかはない。最初の晩は伝道会にして空気は重かったが、二日目の午前の聖別会より聖霊は著しく働き初め給いて、聴衆の心に流れ渡り、三日目に至って更に著しく聖霊の働き加わり、夜の集会にはコリント前書一章十八節を中心として、十字架の奥義と真理について説教せられ、一同恵みに満たされ最後に先生の講壇より歌い出されたる、ああほめよたたえよ、主エスの血しおはすべてのつみより、われをさえきよむ、の歌に和して、会衆一同合唱し、十字架の御血おんちを崇めて大讃美のうちにこの聖会を終わった。

ちなみに佐伯さえき先生は京都よりわざわざ来名らいめいせられ、二十六日午後の神癒会及び夜の伝道会に臨んで、神癒に関する証詞あかしをせられ、聴衆を励まされた。

二十五、六両日の神癒会に出席して神癒を求められたる兄姉けいしは五十名内外にして、両夜りょうやの伝道会に於いて決心カードに記名せられし者三十一名であった。

に神癒の聖業みわざ確然かくぜんたるものを挙ぐ。

宮内みやうち静枝しずえ(十一歳)中耳炎にて両耳の鼓膜破れ、医師に見放されたる程なりしも、完全に癒された。

横井よこいつまえ(二十六歳)喉頭こうとう結核にて重態、医師より既に死の宣告を受けられた程なりしも、神癒の信仰を与えられ、聖会の終わりには会場にて床の上に座し拍手して主を讃美せられた。その後今年こんねん一月落合おちあい聖会に出席せられ、更に恵みに進まれしも、去る五月十六日主は聖国みくにに召し給うた。

宮内みやうち多津子たづこ(三十二歳)極度のヒステリーにて夜は安眠出来ず悩みおられしも、この聖会にて霊肉全く新たにせられた。

波田野はたのさく(四十五歳)腹部に一種の塊ありしも(病名不明)神癒によりて跡形あとかたもなく除去せられた。

吉原よしはら栄四郎えいしろうけい(五十歳前後)面中めんちゅうにて二回の神癒会に出席神癒を求められ、聖会後誰しも一見して心付く程度に癒された。(内藤郁蔵誌)

飯田聖会

この地は不思議なる魂の要求あって多くの純福音の器も送られたが、大正八年柘植つげ先生を送られ、驚くべき栄光を拝した。いわゆる大正八九年のリバイバルはこの地より破れ始め、のち東京に移ったのであった。久しく渇きて求めつつ在った魂の深き欲求は先生によって初めて満足した。以来他の人を要せざるに至り、度々たびたび聖会を開いて先生を煩わした。

その後純福音を慕える群れは魂に傷手いたでを負い、霊的飢饉に遭遇し、遂に大正十三年二月、教会教派に係わらず、町の空き家を用いて聖会を開いた。その時傷手いたでを負える魂は雲霞うんかの如く押しかけ来たり、物凄き光景を呈し、多くの救わるる者、癒さるる者起こり、先天性右足うそく関節脱臼だっきゅうで不具者になっていた人の足が直ちに癒されて人々の驚きとなった。この聖会の時より百五十二人猛然立ち上がって、新しき群れをなしここに伝道館の建設となった。

次に同年七月聖会開かれ、更に信仰は堅うせられ、安達あだち世殷つぎただけいは六年間病床に呻吟しんぎんしていたが一度の祈りによって癒された。これを見て家族も救われ、大いなるキリストの聖名みなは崇められた。十月には姫城きじょうホテルに於いて大々的伝道集会を開き、四大問題をかかげて、盛んに行軍し町と近村きんそんの人々に大いなる感動を与え、町の人々は『町を覆す者来たれり』と評したという。

越えて大正十四年一月すでに新会堂建築せられて献堂式と共に新年聖会を開き、『我を仰ぎ望め、らば救われん』とのことばは驚くべく働きて、一同の信仰は新たにせられ、リバイバルの光景となった。十四年七月、更に聖会を開いた。その時バプテスマを受くる者九十七名、救わるる者、癒さるる者飯田いいだ及び近村きんそんに多く起こり、その結果山吹やまふき飯沼いいぬま松尾まつお江戸町えどまちに集会を開くに至った。その後中澤なかさわ伊奈町いなまち遠山とおやまなどにも群れ起こり、その他上下じょうげ伊那郡いなぐん各地に飛び火して燃えつつある。特に教育者の方面に大いなる感動を与え、教育者にして救わるる者ますます増加しつつあるは喜ばしき現象である。(藤村壮七誌)

千代聖会(信州下伊那郡)

柘植つげ先生の千代ちよ聖会は大正十四年三月九日より三日間、米川よねがわ一里喜多いちりきたに於いて開かれ、始めの一じつの予定であったが、集まる者実に三百余にして驚くべき神の御行みわざを拝し、予定は変更せられた。集まる者日増しに増加し、家の内外に充ち、床を踏み抜くという状態であった。当地の如き至って信仰心なき、眠れる村民の目を醒まし求道者百十二人をいだし、中には八十歳の老人にして三十五年来の金光こんこう教信者なりし者が断然偶像を棄てて、主を信ずるに至りたるなど実に著しき神の働きであった。

この山間の僻地へきちに神の貴きおん僕を遣わし、事を始め給うた神はそのままになし給わず、直ちに伝道館の建設となり、肺病、肋膜炎、子宮癌など不治の病者は癒されことにらい患者の禿頭とくとうに黒い髪を生じ散髪をなすに至りたるなど人々の驚きとなった。(小島千代吉誌)